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陽光を照り返す雪はただ眩しく、空は抜けるように青かった。
御伽 炯々(
ja1693)は目を細めて、無人のゲレンデに目をやる。
「……どうせなら遊びにきたかったけどなー……とも言ってられないか」
本来なら賑やかな笑い声に満ちていたはずだが、今人影は全く見当たらない。
「緊急対応がしっかりなされていたのが不幸中の幸いか……」
巌瀬 紘司(
ja0207)が呟く。
依頼人は精神状態においても知っている情報についても、今回の情報源になりえない。そこで先に到着している現地警察を通して、状況を確認した。
ホテルの宿泊客は既に脱出した。これは宿泊客リストを元に照合したので、間違いない。
「これ以外は、ホテルでも把握しきれないだろうな」
紘司が眉を寄せる。
炯々は鋭い光を目に宿し、己の拳で掌を叩く。
「それでも助けを求める人がいるなら、全員助けにゃなるまいて。それもなるべく急いで」
内心の不安を隠し、マーシー(
jb2391)が普段通りのゆったりした口調で呟く。
「無事に事件が解決したら、無料宿泊券とか欲しいですねぇ」
……思わぬ形で戻った故郷。静かな気合が入る。
ホテルの玄関で別れ、事前に打ち合わせた通りの持ち場へ。
「さて、乙女の敵はどこかな?」
宮本明音(
ja5435)は地下に降りる階段へと急ぐ。
涙を流しながらこちらに駆け寄ろうとして、警察官に押しとどめられていた依頼人。何としてでも無事に婚約者を助け出して、もう一度逢わせてあげたい。
(もちろんこれ以上被害を出さないことも含めて、だけどね)
とにかく皆、無事であってほしい。
救急車の手配を確認し、ヤナギ・エリューナク(
ja0006)も後を追う。
「確実に要救助者が居ることが判ってるのは、地下1階か。俺はそっちに回るとしますか……っと」
そこには確実に、二体の敵がいる。そしてそこに居ないかもしれない敵も何処かに……。
(何せ、蜥蜴だからな……壁に張り付いて何処でも行きやがる。全く厄介なヤロー共だゼ)
油断なく天井や壁を見回し、階段を下りる。
(犠牲者が出ていなければ一番いいけど)
そう願いながらも、現実が非情であることを各務 与一(
jb2342)は知っている。
万が一、既に犠牲者が出ていたとして。一人でも多く助け出す為に、落ちついて行動すること。
「俺たちに出来る事する。それが被害を抑える事に繋がるはずだからね。行こう、浮」
微笑みかけられた各務 浮舟(
jb2343)は判っている、というように強く頷く。
浮舟がイヤホンマイクに呼び掛けると、すぐに階下の撃退士が応答した。
合流すると待ちかねたように、相手が抑えた声で状況を説明する。
「この廊下の左手がレストランで、右が会議室だ。仲間は二名がレストラン、三名が会議室に入ったまま。ついさっきまで物音がしていたんだが、今どうなっているのか判らない」
「判りました。ではここで避難の誘導をお願いします」
相手はベテランのアストラルヴァンガードだ。中の様子が判明するまで温存しておいた方がいい。
頷き合うと、二か所のドアに分かれて中を伺う。
●
奥居一彦は、目前の光景を何処か他人事のように見つめていた。
噴き出した血が自分の半身を赤く染め上げたが、それはあまりに現実離れしていた。
何よりも彼の意識を捉えていたのは、今まで絶対的強者と思っていた相手が、あっさりこの世に別れを告げたこと。
誰かの悲鳴も、怒鳴り声も、机や椅子が倒れる物音も、どうでもよかった。
ただ赤い飛沫の向こう、ギラリと光る目だけを見つめていた。
そいつは喧噪の中、悠々と控室へと消えた。
そのずんぐりした奇妙な生き物に気付いたのは、おそらくこの部屋では彼だけだったろう……。
●
「どうだ。何か判ったか?」
フロントの前の空間で、炯々は油断なく弓を構える。
その奥のモニタールームでは、マーシーが館内を監視するカメラの映像を睨んでいる。
「もうちょっと待ってくださいねぇ、警戒はお願いしますよぉ。こう……上を向いたらいた、とかシャレにならないですし」
天魔とて映像には残る。館内案内図と見比べつつ、各階の映像を確認しているのだ。
「エレベーターは地下二階に下りたままのようですねー。中には何もいません。会議室にはカメラは……ないんですねぇ、なるほど。それで二体が廊下に映ったのを、確認したということですか」
悪気はないのだが、のんびりした風に聞こえるマーシーの口調に、炯々が焦燥感を露わにする。
「こうしてる間に被害が広がってるかも知れないんだぜ。他のフロアにも誰か取り残されてるかもしれない、もう行くぜ!」
「あ、待ってください」
モニターに一瞬、過る影。
ひとつは地下一階の、エレベーターホールに。そしてもう一つは……。
「行きましょう、御伽さん。ちょっと面倒なことになりそうですよぉ」
マーシーは黒いコートの裾を翻し、モニタールームから駆け出すと、ヘッドセットに呼びかけた。
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仲間と別れた佐藤 七佳(
ja0030)は単独で地下二階へと降り立つ。
(地下二階……駐車場や各種倉庫、機械室なんかがあるのよね)
館内見取り図は頭に入れた。事前に予測した通り、余り一般人が長居はしないフロアである。
冷たいコンクリートが、弱い明かりに照らされていた。
七佳はナイトビジョンをセットする。明かりを使っては、こちらが目立ちすぎてしまう。
用心深く防火扉を閉め、歩みを進める。
一歩ごとに、頭上や、柱の影に注意を向ける。駐車車両に近寄る度に、中を確認する。
(居なければ、それでいい)
自分の鼓動の音がコンクリートの壁に響くのではないかと思う程、激しい。
先刻マーシーから入った情報によると、どうやら敵の一体がこのフロアに潜んでいそうだ。
見つけなければ。
そう思う気持ちの一方で、ほんの少しだけ、見つからなければいい、とも思ってしまう。
(天魔は、人を狩る。人も動物を殺し、食べる。それは行為としては同じはずなのに、どうして悪となるのでしょう……)
七佳には悪と断じること自体が、ヒトの傲慢さの表れとすら思えた。一方で。
(魔も己が狩られる立場となった場合、どう思うのでしょうか……)
そんな七佳の思索は、背後の微かな音に霧散する。
どこか自信なげだった表情が一変すると、猛進。
光の翼のように光纏が収束し、一気に物音のした方へと距離を詰める。
その瞬間、空を切る音。咄嗟に眼前に構えた腕に、鋭い痛みが走る。
それでもパイルバンカーの腕を思い切り叩き込む。
――グギャッ!
奇妙な悲鳴が、冷たく木霊した。
どさり、とコンクリートの床に落ちたのは、巨大なトカゲ。蛇のように閉じた口から舌が出入りしている。それが不意に伸びたかと思うと、七佳の左脚を捉えた。
トカゲが舌を巻き込むスピードより早く、七佳は突進し最接近。インラインスケートが、火を噴くように床を滑る。
「私達が絶対に正しいとは思えないけれど……沢山の人を見殺しにはできない!」
宙に浮かんだ多重魔法陣が、光の軌跡を描いてトカゲに向かう。敵は至近距離から身を翻し、長い尾で七佳を打つ。
互いに相反するカオスレートに属する存在であるがゆえの、死闘。
それだけに、手加減はできなかった。
気がつくと七佳は、動かなくなったトカゲを見下ろしていた。
七佳自身も傷だらけだったが、どこか空虚な気持ちで冷たい床に膝をつく。
勝利の喜びは、七佳の中になかった。
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ヤナギがさっとドアを開き、会議室に滑り込む。
「待たせたな、助けに来たぜ」
室内には血の匂いが立ち込めていた。ほんの一瞬、ヤナギが眉をひそめる。
スーツ姿の男たちが血濡れた床でへたり込んでいた。
彼らを守って三人の撃退士が、大トカゲに対峙している。三人とも全身ボロボロである。大人数の要救助者を背後にして、敵の攻撃を避けることができないのだ。
新たな人影に、座り込んでいた連中が口々にわめきだす。
「た、助けてくれ! 早くここから連れ出してくれ!」
「あの化け物を、早く何とかしろ!」
「手前ェら、助かりたきゃ静かにしてろっ!」
叱りつけながらも、ヤナギは警備の撃退士達の前に出る。
明音が持参した救急箱を一番近い所に居た人物に押し付けた。
「あとは私達に任せて。避難誘導をお願いします」
紘司が『シールド』スキルを展開し、十字槍を構え、退路を確保する。
「さあ、こちらへ」
与一が手招きした。会議室の凄惨さに、犠牲者の無念さに、胸が痛む。
「すまない、有難う! レストランの方に仲間がいるんだがどうなった?」
「そちらは私達が確認します」
浮舟が頷くと、警備の撃退士達は被害者たちを誘導して階段を上がって行った。
大トカゲの視線がヤナギ、明音、紘司を順に捉える。
攻撃力を増加する『龍舌蘭』を使う為に意識を集中し、動きを止めた明音に、太い尾で襲い掛かった。
「おっと、お前の相手はこっちだぜ!」
ヤナギが素早く相手の鼻先に銃弾を撃ち込み、牽制。すると長い舌が、ヤナギの腕を巻き取り、引き倒す。
「トカゲ如きがペロるなんて一億年速いっ!!」
白と黒の双蛇が巻きついた明音の杖から紫電が奔る。
「女の子ぺロッてたら、まじ許さないところだけど! 助けを待つおっさんしかいなかったから、余計腹立つ!」
基本的に会議してるのはおっさんなので、これは仕方ない。
抗議した訳ではないだろうが、トカゲは巨体をくねらせ、尾を振りまわす。
「くそ、意外とすばしっこい野郎だぜ」
ヤナギが影手裏剣を放つ。だがほとんどが跳ね返された。
「ちっ、予想通り背中は固いか……」
僅かに身を沈め、ヤナギは迅雷の力を籠めて飛び出す。トカゲの顎を蹴りあげ、その喉元を鉤爪で引き裂いた。
「これで止めだ」
紘司の槍が、口を開いたトカゲの喉元まで貫く。
それを確認した明音は注意深く部屋を見回し、隅にうずくまる人影を認める。
「もしかして……奥居一彦、さん?」
若い男が、うつろな目を向けた。
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「あまり銃は好きじゃないんだけど、我が儘を言っていられる状況じゃないからね」
その名の通り、与一が好むのは本来弓だが、取り回しを考えると銃の方が勝手がいい。
黒い拳銃を構えてレストランのドアを開けると、厨房を背に、二人の撃退士がトカゲと睨み合っているところだった。
「久遠ヶ原学園の撃退士です。応援に参りました」
浮舟の凛とした声が響く。与一は、そんな浮舟を気遣う。
「浮、目の前の敵に集中するんだよ」
浮舟は笑顔を見せる。落ちついていて、怯えた様子はない。
「わかったわ、一。でも私はカメレオンの方が好きかな……援護お願い!」
気合を籠め、『乾坤網』で身を守り、浮舟は飛び出す。
背後から近寄る気配に、トカゲが身を捻る。浮舟は尻尾に叩きつけられ、床に転がる。
「扇は射抜く方が得意だけどね、こういう使い方も嫌いじゃないんだよ」
与一は白銀鉄扇を取り出し、躍り出る。
至近距離から叩き込むと、長い舌が繰り出され、与一の脚を絡め取り引き摺った。
「一を放しなさい!」
浮舟の双刀が閃き、トカゲの尾に幾筋もの傷をつける。
痛みと怒りに目を光らせ、トカゲは滅茶苦茶に尻尾を振りまわし暴れた。
「援護する!」
警備の撃退士達がそれぞれ駆け寄ってくる。
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パルチザンを手に、炯々はそっとエレベーターホールを窺う。
(一番厄介なのが、こっちに来たか)
反対側から覗きこむマーシーが、頷く。
地下一階の映像に残っていたのは、ずんぐりした体の『何か』だった。
(大きさから見たら、一番弱そうなんだがな。だからこそ怪しい……)
エレベーターの前に立ち、炯々は息を整える。やおらパルチザンをドアの隙間に捻じ込むと、力任せに開いた。
マーシーは縦孔の虚に向かって、オートマチックを油断なく構える。
「……いないですねぇ」
その時だった。
暗い孔から生臭い風が吹き上げ、二人の足元に何かが現れた。
何か、を確認するまでもない。
炯々が鋭く槍を繰り出し、マーシーが銃弾を撃ち込む。
だがそいつは連撃を潜り抜け、素早く天井に張り付いた。
部屋の明かりに照らされたその姿に、炯々とマーシーは嫌悪感を抱く。
ずんぐりした爬虫類の身体に、人間の小さな顔がくっついたグロテスクな姿。
「悪いですが、風穴開けます」
マーシーを包む銀色の光が僅かに輝きを増し、閉じていない方の銀の瞳が冷徹な光を宿す。
『凡人の弾丸』が奇妙な敵に叩き込まれる。
「外すワケがないでしょう。すっとろいですよ」
だが確かにそこに居た、と思った瞬間に、思わぬ素早さで落下。
どさりと落ちた床の上で、そいつが顔を上げた。
――笑っている。
「なんとまあ、手下は皆やられたようだの。――の、お怒りが恐ろしいことよ」
耳障りな声が言っている意味が、判る。炯々はその意味をおよそ理解した。
こいつは単なるディアボロではない。となると……。
「お前がボスか。だったらお前で最後だな!」
言うが早いか踏み込んだ……その瞬間。
「ぐは……ッ!?」
「な……ッ!!」
炯々とマーシーの身体を、無数の刃が切り裂く。
思わず膝をつく二人を悠々と眺め、奇妙な生き物はまた笑った。
「貴様らの首を持ち帰って、御機嫌が直ればよいがの。それでは済まんわな」
「……ちっ。逃がすとでも?」
エレベーターの縦孔に戻る背に、マーシーの銃弾。
だがそいつはするり、と暗い穴に消えた。
「……そちらはどうだ? もう外? ……だったらいいんだ」
炯々がマイクを切った。
「逃げられちまったな。……あれってやっぱ、アレなんだろうな」
「ヴァニタス、でしょうかねぇ」
マーシーがゆっくりと立ち上がった。
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ロビーに集合した満身創痍の仲間の姿に、紘司は口元を引き締めた。
「全員完治という訳にはいかないが」
怪我の程度を確認し、癒しの光で治療して行く。
それでも最初の被害者以外、全員を救出できたのだ。
「おかげで助かった、有難う」
警備会社の撃退士達が、学生達を労った。
血を洗い流した顔を拭きながら、奥居一彦が静かなロビーに戻って来る。
明音はその様子を注意深く観察する。どこか、他の被害者と違うような気がしたからだ。
「大村さんに早く無事な姿を見せてあげてくださいね。彼女、奥居さんを心配して、まだディアボロがいるかもしれないロビーで真っ先に助けを求めたそうですよ?」
一彦は、ほんの少し目を見開く。
浮舟が外から戻って来る。
警察や警備の撃退士に、最近のディアボロの出没状況について聞いて来たのだ。
だが元々巨大ゲートの近い滋賀県では、冥魔の関わる事件が多い。ある意味、彼らは慣れていた。
それでも。
(……考え過ぎなのかな?)
マーシーと炯々が遭遇した、ヴァニタスらしき敵。
ただ人間を屠る為ならば、もっと違う動きをしたのではないか……?
何かぞわりとした感触が背筋を撫でる。
それは、寒さの為だけではないようだった。
<了>