●声
久遠ヶ原学園大学部の研究室棟に、桜井・L・瑞穂(
ja0027)の靴音が響く。傲然と、と言っていいほどに堂々とした足取り、真っ直ぐ延びた背中。余り足を踏み入れることのない場所でも、その足取りには微塵の躊躇も感じられない。
目指す部屋の扉をノック。それは想像以上に人となりを物語る。速度、強さ、ドアを前に立ち音を響かせるまでの間。たった2〜3回の戸を打つ音で、中の者は外に立つ人物を判別できるほどだ。
「失礼いたします」
入室を促すジュリアン・白川(jz0089)の声に、瑞穂はドアを開けた。
用向きは勿論、課題の提出。何事にも他の後塵を拝することをよしとしない瑞穂としては、主席という目標の為にも可能な限り課題には取り組みたいところであった。ましてや、今回の課題については思うところがある。
「課題の提出に伺いましたわ」
用紙を差し出す。
「御苦労様。目を通す間、少し待ってもらえるかな」
簡潔に記された事件の概要、顛末。時系列に沿った敵の行動。レポートの体裁として申し分のないそれに白川が目を落とす。
その落ちつかぬ間にも動じる気配もなく、瑞穂は悠然と椅子に掛ける。
いついかなる時も冷静に、堂々と。彼女が幼い頃から教え込まれた帝王学の第一歩だ。
今回の課題――『私の遭遇した天魔について』が提示された時、瑞穂が最初に思い出したのは巨大な蜂のディアボロだった。
まだ学園に来て間もない頃の依頼である。便宜上女王蜂型ディアボロと呼ばれたそれはとある養蜂場に出現し、作業員を食らい、事業資産である巣箱とミツバチを蹂躙したのだ。
経営者は取り乱しながらも、悲憤に駆られていた。
一般人にとって、敵うはずもない強く残虐な敵。すぐ傍で無残な姿を晒す人々。それでも尚、彼は撃退士達と共に戦おうとしていた……。
「成程、よく纏まっているね。資料として申し分ないよ」
白川が顔を上げた。
「実はそちらは『参考資料』になりますの。もし宜しければ、別途用意した物を添えておきたいのですが」
瑞穂の青い瞳が挑むように目前の教師を見つめた。
「別途、というと?」
「この天魔を課題に選んだのは、主観的な理由からですわ。資料としては役立たないかもしれませんけれど、何故これが私にとって一番印象的なのか。その補足が無いと今回の課題は完成しないと思いましたの」
白川がほんの僅か、口角を上げる。
「成程、確かにそれは興味深いね。宜しい伺おう」
「有難うございます」
瑞穂の心に深く刻み込まれた実戦の記憶は、一つ二つではない。だがこの女王蜂は、彼女にとって最も憎むべき敵であった。
瑞穂はしっかりとしたヴィジョンを持って学園に来ている。家業を継ぐ経営者として立つこと。そして撃退士としても貢献すること。
経営者にとって、事業施設は生命線であり聖域だ。そして従業員は事業にとって大切な宝であり、守らねばならない家族も同然。あのとき無力ながらも敵に挑もうとしていた養蜂場主の気持ちは、瑞穂には痛いほど理解できた。
「聖域を土足で踏み躙ったことは、断じて許せませんでしたの」
かなうならば、己の手で敵を討ち、大事なものを取り戻したい。
撃退士としての能力を持つ自分にはそれができる。だから分身として。依頼主の怒りをも乗せ矢を叩き込んだ。
経営者としても、戦士としても。可能な限り自らの手で護れるものを護りたいという信念。
それは自らが全てを担うという矜持。道程は平坦であろうはずもない。
……だが。
「わたくしが目指すのは遥か頂きですもの。相応の努力は惜しまず、揺ぎ無き覚悟がありますわ」
瑞穂の凛とした良く通る声が、高らかに宣言した。
-----
フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)は課題用紙を前に、腕組みする。
「印象深い天魔……ふむ、あ奴がおったな」
かつて対峙したヴァニタスを思い起こし、その口元がさも可笑しそうに綻んだ。
あれは自らを『王』と称した。
フィオナにとって天魔は全て、『人間の領分に土足で踏み込んできた不埒者』である。そのヴァニタスすら例に漏れず、無礼者共の尖兵に過ぎないという認識だ。
だが、その性質はフィオナには興味深いものだった。
騎士の家に生を受け、卑怯や卑屈とは最も縁遠い人格を培ってきたフィオナにとって、悪魔の力を借りて『生まれながらの王』を名乗る彼のヴァニタスは滑稽にすら見えた。
人の王たらんとするならば、人として生きねば意味がない。借り物の力を誇るなど、笑止千万。
その経緯を書き記し、所感を添えて持参した。
「とまあ、こんなところだな。転機や切欠とは違うが、我は人であらねばいかんと再認識した邂逅であった」
レポートを読み終え、フィオナの口頭による説明を受けた白川は、笑いを堪えるような表情になる。
「一応学園の戦闘記録は一通り目を通しているつもりだったがね。君の目を通してみると、また違った切り口で実に面白い」
そこで白川が問うた。
「ひとついいかね。もしもこのヴァニタスにもう一度出会えたら、君はどうする?」
「出来ればもう一度……今度は酒でも酌み交わしながら語り合いたいものだが」
『酒を酌み交わす』という言葉に、白川が思わず学生簿に目を落とす。十八歳……まあ日本出身でない彼女である。そこは流すことにしたようだ。
フィオナはほとんど不遜と言っていい態度で教師に対峙する。別に眼の前の白川に思うところがある訳ではない。彼女はいつでも誰に対しても、心で膝を折ることはない。
「次は武によって語り合う以外に無いであろうことが残念ではある」
結局のところ、いくら言葉を交わそうが互いに相容れぬことは明白である。正に『価値観が違う』相手なのだ。出来ることなら、この手で引導を渡してやりたいものだ。それが、奴と同じく王の星の下に生まれた者の理というもの。
この感覚を理解できるものはそうはいないであろう、とフィオナは思う。『武士の情』や『騎士道』というものとは違う。道ではない、理なのだから。
その心を知ってか知らずか。白川の表情が、ほんの少しの意地悪さを滲ませた。
「武によって、か。相手はヴァニタスなのだろう?力づくで説得は可能かと思うかね」
フィオナが首を振る。だがそれは決して諦めや、気弱さからではない。
「残念だが、我自身の力がまだまだ足りぬ」
冷静な分析だ。剣の道を志してこの方、満たされたことなどない。そこに奢りや虚勢が潜む余地はないだろう。
「どの道今、奴を屠れたとしても一層の力を欲する事は変わらぬ。天魔は奴だけではない」
「力、か……。どうすれば手に入ると思うかね」
肉体を突き破ろうとするが如く、全身から迸るエネルギー。身の中に宿る貪欲で獰猛な獣。
それを纏ったフィオナの声が、力強く室内に響く。
「奴が一度失い、悪魔との契約で得た仮初めの命を喰らい、糧とする。我が力とする為に」
威風堂々。その翠玉の瞳には一点の曇りもなく、騎士としての矜持を湛えていた。
●相
「とうもろこし型ディアボロ?」
白川が怪訝そうな顔で、瑠璃堂 藍(
ja0632)のレポートを示した。
「はい。レポートにも書きましたが、姿はとうもろこしそのものです。
生命探知に反応せず、とうもろこし限定で高い擬態能力を持ちますが目的は不明。
結果として、戦闘能力はさほど高くもなく。擬態からの不意打ちがほぼ唯一の能力だったようです」
藍の口調が淡々とクールである程、その妙なディアボロの説明は冗談のようだった。
だが勿論冗談ではない。試験がかかっている以前に、藍はこのようなところでネタに走る性格ではないのだ。
そいつを放った悪魔は一体何をしたかったのか……白川はそう言いたげに首を振り、額に手をやった。
実際に対戦した藍自身、戦いの場に居ても理解不能であった。
なぜこのようなディアボロが発生するのか。とうもろこし畑を荒らすためだけに、とうもろこし状になったのだろうか。そこにどんな意味があるのか。
だがその問い自体が無意味である。事件は解決し、それを作った悪魔に直接問うことも叶わないことだからだ。
そこで白川は話題を変える。
「このレポートによると、学園に来るまでに天魔との遭遇経験はなし。最初の戦闘は京都のゲート事件か。あれが最初とは、なかなかハードな経験だったことだろうね」
「実はその時のことは、緊張のせいか、どのような天魔と戦ったのかほとんど記憶していないのです」
本当のことを言うと、最初に目にした『天魔』は、学園内をスチャラカ駆けまわる、堕天した先生や学生だった。が、戦っていないのでこれは除外。
戦闘に於いての遭遇となると、京都での大規模な作戦に参加したのが初の体験だった。
辛うじて覚えているのは、ディメンションサークルを抜け目にした光景。仲間たちと駆け抜ける戦場に溢れるのは、敵・敵・敵。前衛芸術家が巨大なカンバスに描き殴ったような、異形の物達が跳梁跋扈する空間。攻撃を避け、攻撃を叩き込む、その繰り返し。ふと気がつけば、仲間と共に学園に戻っていた。
非日常の極み。その中で敵の姿一つ一つを認識することは難しいだろう。
「ですので、一番印象に残ったのはとうもろこし型ディアボロということになります」
話が戻ってしまった。まあ確かに、そんな物と出くわしたら忘れられない経験になりそうだ。
だが彼女にとって、本当に印象に残ったのはディアボロの姿そのものではなかった。
事件の後、藍は依頼主であるトウモロコシ畑の所有者がブログを綴っていることを知る。
そこにあった言葉が、心に深く刻みこまれた。
依頼主は自分達撃退士の活躍に、心からの謝意を述べていたのだ。そして彼の仕事をもって、撃退士達が力強く戦えるように応援しようと……。
「本心を言えば、私は、天魔が憎いわけでも、撃退士に憧れがあるわけでもありません。まして、今回のようなディアボロであっても、好んで戦いたいとは思わないのです。が……」
藍は一言一言を選ぶように、言葉を続ける。
「それでも、私は彼の平穏を守れたことは誇りに思うのです」
戦うこと自体に好ましい気持ちはない。
だが、誰かの平穏を守るために私にできることがあるなら……それはきっと、私が戦うための理由になるのだと。
「天魔による危険から、一人でも多くの人を守りたい。その為に、これからも自分を鍛えたいと思います」
静かな決意。その真っ直ぐな瞳に、迷いはなかった。
-----
ペンを置き、佐竹 顕理(
ja0843)は息をつく。
とらえどころのない教師の出した曖昧な課題ではあるが、受けた以上は生真面目な性質であるが故、課題には全身全霊で取り組むのだ。
静かにレポート用紙に向かうと、自然と眼の前に浮かぶ十代半ばとおぼしき少女の面影。その瞳も靡く髪も、今そこにあるようだった。
だがそれは人ではない。彼女は自分を『死の天使』と名乗った。
天使との邂逅は、血煙りの中。幾人もの撃退士達が傷を負い倒れていた。顕理達は彼らの救援要請により現場に赴いたのだ。
少女の姿の天使は古めかしい言葉で話し、人間を睥睨した。だが、会話を厭わなかった。
その中で天使はどういう訳か、負傷者に応急処置をしたいという申し出を許した。
彼女は問うた。何故、強者に刃向うのかと。強者には逆らわず従うべきではないかと。
仲間達がそれぞれの考えを述べる中、顕理は『名誉』の概念について語った。
その言葉に耳を傾け、理解はできないが興味はある、と言った。
そして負傷者を手当てする自分達に、本気で殺すつもりはなかったが力の加減が判らなかったとも。
顕理は少なからず衝撃を受けた。
彼女に殺意が無い事は既に明白だったが、何より彼女は人間を侮り、己の力を誇示する事を楽しみ、一方で知りたい欲求を持ち、笑いもした。
天使とは、なんと人間と似ているのだろう。勿論個体差はあるだろう。人間にも冷酷で感情を持たない者もいれば、感情の起伏の激しい者もいる。
しかしその点も含め、顕理は人間と天使の類似を強く感じた。
レポートを提出すると、白川はざっと目を通し軽く片眉を動かした。
「着眼点は面白いが、少し危険な考えではあるね」
人間と天使との相似点。そこに考えが行き過ぎると、人は親和性を見出してしまう。だがそれが人の勝手な解釈であった場合、感情に基づく接触は悲劇を生むことだろう。
白川の感情を排した瞳が、無言で顕理を見据える。先を促しているのだ。
「人間の歴史は、未知の存在に対する疑心の歴史であり、後にその認識が誤りであった事を知る歴史でもあります」
顕理は臆することなく、自分の考えを述べる。歴史研究をライフワークとする、彼らしい切り口だ。
彼は『主張無くして信頼無し』という、事なかれ主義とは対極に位置する立場をとる。相手が教師であろうと、それは変わらない。例え一時を和やかに誤魔化したとしても、本当の考えを覆い隠したままでは信頼を得ることはできないだろう。
「私は人間と天使の間に直ちに友好関係が築かれ得ると推測するものではなく、暴力に対する抵抗を厭うものでも無いのです」
撃退士として力を得た以上、弱い人々を守る使命を担ったのだと顕理は考える。決して臆病風に吹かれてのことではないのだ。それでも。
「しかし同時に、争いの中でも冷静に相手を観察し。可能であれば理解による争いの収束を図りたいというのが僕の考えです」
組み合わせた両手に顎を預け、白川が顕理を見上げた。
「私も『可能であれば』そう望みたいところだ。その天使の記憶は、君自身が解釈を加えることなく持ち続けてくれたまえ」
含みのある言葉に無言で一礼し、顕理は部屋を後にした。
●掌
伊達眼鏡の位置を直し、ヴィンセント・マイヤー(
ja0055)は白川の前に立つ。レポートを書きあげた掌からは、どこか懐かしい硝煙の臭いが漂う気がした。
最も印象深い天魔の記憶といえば、最初の遭遇に尽きる。
その頃のヴィンセントはまだ撃退士の能力に目覚めておらず、金で雇われた普通の傭兵だった。
あのときの任務は要人警護。対象の住居を警護する日々は、時折現れる然程害にもならない賊を相手する程度の、概ね『平和』な生活だった。
始まりは、不審者の接近。どこから如何なる交通手段で来たのかは分からない。
発せられた警告を無視して接近してきたそれに、仲間が発砲した。
だが、その弾丸は全てすり抜ける。幽霊でも相手にしたかのように。
奇妙に感じつつ接近した仲間は……相手の腕の一振りで、首を落とされた。
人ならばどんな相手であろうと、対処できた。でなければ傭兵として生きていくことなどできはしない。だが初めて遭遇した天魔は、都市伝説の類にしか思えなかった。
……こんなモノが存在するのか。
援軍を要請しようと上層部に連絡を入れる。もしもの時は相対応するようになっていたからだ。
答えは『十分だけ護衛対象を守りきれ』だった。数秒で人の首を掻き切る相手に、十分。
振り返ってみれば、よくぞ凌いだというべきだろう。
「化け物には銃弾は効かないみたいだな。それと奴が、人間を選んで攻撃しているのは間違いないだろう。識別方法が判らないのが厄介だな……」
その間にも侵入者は分厚い鉄格子の門をすり抜け、敷地内に入り込んだ。早い。見る間に警護の数人が、辺りを朱に染めて躯と化す。
監視カメラの映像は、まるでSF映画のようだった。それほどに現実離れしていた。
「警護対象を一番奥の部屋へ。俺に考えがある」
敵が来るルートを推測し、各部屋に遠隔操作が可能な発火装置を仕掛ける。時間がない。
相手は何もかもすり抜ける。壁の向こうから対象をどうやって探しているのか?一番可能性が高いのは熱探知だろう。体温に近い温度の湯を注いだ袋をダミーとして用意する。
準備を終えて、ヴィンセント達傭兵が持ち場へ散った頃には建物の上階まで敵が迫っていた。
これ程までに不利な状況に追い込まれながら、彼は奇妙な高揚感を感じていた。計略によって謎の怪物の裏をかく事を、自分は楽しんでいる。それは新たな発見だった。
監視室に控え映像を睨む。壁をすり抜けて現れた奴がダミーに接近する。その瞬間、上がる炎。
だが敵は微塵もダメージを受けた様子がない。ダミーを引き裂くと、すぐさま次の部屋へと突き進む。
二室、三室。次々と火焔に包まれる部屋の中を、敵は面白くもなさそうに突き進む。
もうダミーの部屋はない。その時漸く約束の時間が経過した。今までと同じように壁を抜けようとした敵が、壁に遮られてぶつかる。そう、今にして思えばあれは阻霊符が効果を表した瞬間だったのだ。壁を破壊して進もうとする敵を駆けつけた撃退士達に任せ、ヴィンセント達は要人を脱出させることに成功した。
「この一件以来、私はより策略、計略偏重の戦い方をするようになりました。……つまり、これが今の私を作ったとも言えるでしょう」
あのときの肌がチリチリするような感覚。力押しでは味わえない高揚感。掌に発火装置の感触が生々しく蘇る。
「それにしても無茶をしたものだね。よくぞ生き残ったものだ」
ヴィンセントの言葉に、白川が頷く。
「尤も、今後も我々は未知の敵に、知恵と計略で挑まねばならぬこともあるのだろうな」
かつての君が対処したように。
そう言った白川の視線は、レポートをすり抜けたどこか彼方を見るようだった。
-----
白川の前に立った南雲 輝瑠(
ja1738)は、黙ってレポートを差し出した。
別に相手が嫌いなわけではない。普段から余り口数の多くない性質なのだ。
課題を前に、輝瑠は過去の自分と対峙せざるを得なかった。
「ふむ……切欠はやはりあの時の出来事だな」
彼が久遠ヶ原に来る前、まだ中学生だった頃。赤い大きな翼に黒い体を持った人型の天魔が突然現れ、彼と彼の大事な人々を襲った。
今も記憶にこびりつく、その天魔の姿。風を切る翼の禍々しい音。奴は人を屠るその瞬間、さも嬉しそうな笑みすら浮かべていた。
圧倒的な力の前になす術もなく、彼の大事な物が次々と壊れてゆく。彼の喜び。幸せ。優しい温もり。
目前で繰り広げられる惨劇を、彼はただ見ていた。……それ以外に一体何ができただろう。
倒れ息絶えた屍を前に、彼の中にようやく『怒り』が湧きおこった。余りに現実離れした脅威に曝されると、人は怒ることすら忘れるのだという。
身を焦がす怒りに我を忘れて……輝瑠のアウルが発動した。
だが、それだけだ。
戦う術を知らない子供はがむしゃらに天魔に飛びかかり、結局かすり傷一つ負わせることもできず、返り討ちにされて転がった。寧ろ相手が止めを刺さずにいたことの方が奇跡に近かったと言えるだろう。
彼は重傷を負ったが助け出され、病院のベッドの上で目覚めた。
そこで彼は知ったのだ。自分ひとりだけが生き残った。生き残ってしまった、ということを。
……誰も、守れなかった。
何も出来なかった自分が、力の無かった自分が憎かった。
悲しくて、苦しくて、心を閉じた。
そうすることでしか、自分を守ることができなかったからだ。
その悲憤を心に秘めた日々の中で、あるとき彼は偶然久遠ヶ原学園の事を知る。
この学園で力を身に付ければ、今度こそ大切な人達を守れるんじゃないか。それは暗雲を切り裂く微かな希望だった。
「だから俺は此処に来て己の力を磨き続けている。そしてそれが俺の戦う理由だ」
短い言葉が力強く響く。彼の黒い双眸は今、迷うことなくしっかりと前を見つめていた。
あのときの何もできない自分のままではない。夜の眠りを妨げる紅い翼の天魔の悪夢は、既に断ち切った。
恐れを知らぬ者は強いと言うが、それは違う。それは彼我の事を知らない無謀さを示しているのだ。
本当の恐怖に打ちひしがれ、そこから立ちあがった者だけが本当の強さを手に入れる。まるで焼けた鉄が幾度も打たれることで、強靭な刃となるように。
「……貴重な経験を報告してくれて有難う。これは有効に使わせていただくよ」
黙祷するように軽く目を伏せた白川が、静かに言った。
その手にある輝瑠のレポートは、最後にこの言葉で締めくくられていた。
『全ては大切なものを守る為に』
この掌で、全て守って見せる。刻みつけられた記憶は、もう彼を脅かすことはなく。
ただ、雄々しく敵に立ち向かう原動力としてのみ存在する。
-----
祈るように組み合わせた両掌。麻生 遊夜(
ja1838)が肘をついた机には、レポート用紙があった。
(気持ちの整理はついている……もう、終わったことだ)
それでも記憶という名の傷が、鋭く胸を刺す。
これまでに数多くの天魔に出遭ってきた遊夜が、最も強く心を揺さぶられる存在の記憶。
初めに現れたのは、崩れかけた人の姿をしたグールの集団だった。そいつは突然遊夜の一家に襲いかかった。家族を守ろうと壁となって立ち塞がった父は、遊夜の目の前で息絶えた。
次に現れた狼型のサーヴァントの姿を、遊夜は一瞬の輝きと、口に広がる血の味と共に思い出す。
体長二メートル程もある巨大なリーダーと、それにつき従う小ぶりの三頭。そいつがグールに飛びかかり頭を噛み砕いたときは、救い主が現れたと思ったのだ。狼の毛並みまではっきりと覚えている。
だがそれは完全な間違いだった。新たに現れたグールの集団と先を争うように、狼どもは遊夜の母に、周囲の人間に襲いかかったのだ。
せめて妹だけは逃がしてやりたかった。最後まで凛々しく立ち塞がった父のように、壁になって守り抜くつもりだった。
だが振り下ろした一太刀すら、文字通り手が届かなかった。
腹に傷を受け、口から大量の血が流れ出る。……ここで死ぬのか。
諦めの感情が湧きあがった時、本当の救いが来た。連絡を受け撃退士達がようやく駆けつけたのだ。
朦朧とする意識の中、自分達がどう足掻いても傷一つ付けられなかったグールや狼たちが、次々と倒されていく。
……あの力が俺にもあれば!
皮肉なことに、その願いは全てが終わった後に実現することになる。
せめて妹だけでも守りたかった。深い慟哭は血よりも苦く、彼の心と体を苛んだ。
後に知らされた事実は、遊夜を一層苦しめることとなった。
彼からすべてを奪ったあの事件が、天魔の縄張りをめぐる『小競り合い』であったこと。それが彼以外の、周りの人間の命を全て奪ったこと。そして既に仇は討伐されたこと……。
過去に何もできなかっただけでなく、仇をとることすら自分には叶わないのだ。
この熱く燃える掌は、拳は、一体どうすればいい?
「……まあこんなとこであるやな」
記憶を記録に残す作業は、あまり愉快な作業とは言い難かった。それでも何とか纏め上げる。
今の遊夜は、無力感に打ちひしがれていた昔の彼ではない。
失った物を取り戻せないのなら、これから失わなければいい。今手の届くところにある、愛しい存在。彼は、自分にとって大切なものをこの手で守り切ると決めたのだ。
天使であろうと悪魔であろうと。いや例え人であっても、害意あるものには容赦はしないだろう。
書き上げたレポートを、遊夜は白川に手渡す。
「先生の研究に役立つことを、願っています」
そう言う遊夜の顔には、苦笑いが浮かんでいた。眼の前のどこか胡散臭い男が、この課題を何に使うのか今一つ分からなかった。学者というのはどうにも不思議な人種だ。
「有難う。有効に活用させていただくよ」
涼しい顔でレポートを受け取ると、白川は大切そうにファイルに仕舞いこんだ。
●硝、そして生
ノックの音に、白川が答える。
「入りたまえ」
ドアを開けて入ってきたのは機嶋 結(
ja0725)だった。
他人が絶対入らない状況で面会させて欲しいと事前に依頼されている。元々一人ずつ受け取る物だったのでそれは構わない。だが陶製の人形のように白く滑らかな結の頬は固く引き締まり、ただならぬ気配を漂わせていた。
「先日の試験依頼ぶりですね……先生」
固い声でそう言うと、正面の窓を見て僅かに眉をひそめる。
「眩しいかね?」
結が小さく頷いたので、白川は立ってブラインドを操った。
提出されたレポートを受け取り、椅子を勧める。目を落とし、ざっと斜め読みする。
その間、結は宙に向かって語り始める。透き通る固い声は、キラキラ光って、壊れやすく脆い硝子の硬質。
「天魔とは京都でギメル・ツァダイを見かけたり、久遠ヶ原学園へ来てからも教師のはぐれ悪魔とすれ違ったりします。はぐれでも……悪魔を見る度に頭に血が上ります」
訥々と言葉と紡ぐ結だったが、『悪魔』という単語に強い嫌悪が宿る。彼女の全てを奪った最悪の悪魔が、脳内すべてを支配するのだ。
それは三年前の事。蛇の悪魔が現れ、結の父や母、家族全てを奪い去った。
父は家族の為に最後まで抵抗し、母は幼い結を身を呈して庇った。
だが無力な人間のささやかな抵抗など、悪魔の前には無意味だった。
「その時私はまだアウルが発現していませんでした。なので、父母だけでなく私の身体も……」
言葉が途切れたことで、白川が顔を上げる。衣擦れの音と共に、結の制服の上着が滑り落ちた。
「いたぶるのに飽きたのか、悪魔はボロボロの私を放置して消え去りました」
下着姿の少女は、己の義手の接合部を教師の目の前に晒す。
「その後は遠い親戚に身柄を預けられ、色んな事をしました。戦闘訓練も……その他の事も」
他人の記憶に土足で踏み込もうとする悪趣味な相手。咎めるように挑戦するように、視線が据えられる。
だが白川は眉すら動かすことなく、普段通りの口調で言った。
「今のところ課題に視覚データは必要ない。服を着たまえ」
椅子にかかる上着を、僅かに顎を動かして指し示す。興味も不快感もない表情だった。
「それで君は、特に悪魔を憎んでいる訳だね」
「病院のベッドの上で私は誓いました。……全ての悪魔に、この手の刀で父や母と同じく死を与えると」
これは試験。ならば説得力も必要だろう。
自分の身に何が起こったのか、何故自分が悪魔を憎むのか。
だが服を身に付けながら、結は吐き気に襲われる。色を失った唇を噛み締め、何とか耐えた。
教官室を辞した後、結は自室のベッドで身体を休める。
「試験が上手くいくと……いいのですけれど」
気分が悪くなる……思い出したく、なかったのに。昔の事を想いだすだけでもこうなるのは、悪魔の所為だ。寒気と吐き気に己が身を抱く。
「パパ、ママ」
唇から洩れる言葉は、年相応のもの。せめて夢の中で、逢いたいよ……。
結はひとり瞼を閉じた。
-----
白川は教官室の窓辺に立ち、外を眺めていた。
真夏の勢いには及ばないものの、まだ充分に強い日差しが校舎を白く輝かせている。
そこにいつものヴィジョンが訪れる。
白い校舎は炎と血で赤く染め上げられ、空を舞う天魔の翼が地上に黒い影を落とす。
女王のように凛とした先輩学生は、校舎の壁に叩きつけられて息絶えた。
大切な物を守るために強くなるのだと言っていた下級生は、戦斧で頭部を砕かれた。
荒れ狂う嵐にも似た天魔の猛攻に、多くの仲間が散って行った。
軽い眩暈。眉間を指で摘み、白川は目を閉じる。
何故多くの仲間が死んだのか。簡単だ。自分達が何も知らず、弱かったからだ。
机上に視線を移すと、八人分のレポートがそこにある。
敵の種類、出現パターン、行動。
そして高らかに理想を唱う声。心に留めた天魔の相(すがた)。掌から零れ落ちたもの、受け止めたもの。壊れやすくとも、熱を加えれば何度でも蘇るだろう硝子の心。
レポートの抱えた内容は分類され、データベースに蓄積されて行く。
知識は力だ。多くの撃退士達の戦いの記録は、後に続く物達を勝利に導くだろう。
……生き残ったことへの贖罪?そんな殊勝なことではない。
自分達は勝たねばならないのだ。勝利とは生き残ること、生き続けること。例え泥まみれになっても、格好悪くはいずり回っても。
記憶という名の刻印を背中に負い、矜持を胸に秘め。
それでも生ける人は、前進を止めない。
<了>