●逃げちゃだめだ
その日はとてもいいお天気だった。秋の気配を漂わせる澄んだ青空が広がる。
調理室の窓から空を見上げ、青田は米を研ぐ手を止めた。その背後に、日谷 月彦(
ja5877)がさり気なく忍び寄る。
「……手が止まってないか?」
「うわあああああ!やってる、やってるってば!!」
頬に当たる冷たい刃物の感触に、青田は悲鳴を上げた。こいつ、ついさっきまで廊下に居なかったか?トイレに行くふりをして暫くサボろうと思ったところを、笑顔で拘束してきた奴のはず。
「私は調理を手伝わせて頂きます。宜しく御願いしますね、青田さん」
或瀬院 由真(
ja1687)の微笑みは、その中でまさに地獄に仏と見えた。うん、由真は確かに元は仏系だが今は巫女だったりするのだが。
「青田先輩手先が器用なんすよね、期待してますよぅ?」
用意しておいた材料をチェックしながら、アイナ・アナスタシア(
ja0347)も笑顔を向ける。
たまねぎ、魚介類、彩り用のコリアンダー。香りづけのためにガラムマサラも持参した。ほんの少しで本格カレーにぐっと近くなる。
「さ〜て、美味しいカレーを作りましょうか♪まずはえびちゃんといかちゃん裸にして〜。傷付けないように優しく脱がすのよ〜♪」
なんだか非常に誤解を招く表現で、ビール片手に雀原 麦子(
ja1553)が青田に作業を促した。いつでもどこでも缶ビール持参、『私の身体にはビールが流れてます』という有り様である。
「勉強した方が、手っ取り早いと思うんですけど」
清清 清(
ja3434)が小声で呟いた。それはその通りなのである。だがそれが理解できる者は、そもそも留年スレスレ等という事態に陥らない。
「皮が剥けたらイカは胴を輪切り、ゲソは細切れに。アサリは綺麗に洗ってくださいね」
皆にがっちりと周囲を囲まれ、青田は作業に取り掛かった。
「えびは面倒ですけど、こうしてちゃんと背腸を取って。臭みが抜けておいしくなるんですよ」
メフィス・エナ(
ja7041)が実演してみせる。
「え、こう?おおっにゅるっと出たー!」
初めての作業だが、手先が器用というだけあって、やり方さえ教えればのみこみは早い。
作成するのは、冷やしシーフードカレーと鯖カレー。……おそらく青田がレポートに書いた内容はそんな難しいものではないだろうが、別にレポート通りに再現しろと言われた訳でもない。
「そもそも家庭科ならまだしも、それ以外でカレーのレシピを書く意味が分かりません。まぁ、どうでもいいですが」
清がもっともなツッコミを入れ、ふっと溜息をつくと、後で使うスープの準備に取り掛かる。剥き終えたえびの殻を集め、水に入れる。沸騰したらアサリを投入して殻が開くのを待つ。丁寧に灰汁をすくい、黙々と作業を進めていく。
「じゃあお魚はこちらに預かります」
青田が初めてにしては上手く捌いた鯖を、由真が受け取る。代わりに洗い終え、皮をむいた野菜を笑顔で積み上げた。
「次はこちらをお願いしますね」
笑顔だが、結構スパルタだ。そこで青田が音を上げた。
「ご……ごめん、ちょっと休憩させて……!飲み物買ってきたい!!」
魚介類の下拵えで、なけなしの精神力を消耗したらしい。
集中力が続かないのは予想のうちなので、一時休憩となった。いそいそと出て行くその背後を、そっと月彦が追った。
「あーあやってらんないぜ……もうこの分の単位諦めようかなあ」
笑顔の可愛い女の子にがっちり周囲を固められ、普段ならやに下がるシチュエーションだが、普段から努力という才能に欠ける青田には洒落にならない事態である。正直なところ、この時点で少なくとも1ヶ月分の真摯さを使いきったという具合だ。コーヒー缶を手に、木陰のベンチでぐったりしている。
「……あそこまでやったら、カレーでき上がるんじゃね?暫くどこかで時間つぶすかな」
缶を捨てると、青田の足は元の調理室とは別方向を向く。
その瞬間、青田の眼に地面が迫ってきた。身体が動かず、息もできない。
「んが……!」
「どこに行くんだ、え?」
笑顔の月彦が、がっちりと青田の身体を押さえこみ、関節技で自由を奪う。
「ろ……ロープ、ロープ!」
何とか動く片手で地面を叩き、青田は観念した。
「……仏の顔も三度まで。覚えておけ」
月彦は低い声で青田の耳元に囁いた。三度目で既に仏じゃない、という点は敢えて突っ込まないでおこう。
由真はその間にも手を休めず、作業中だ。キッチンペーパーを敷いたバットに並べた鯖に、満遍なく塩を振る。
「こういうのは、手間隙を惜しまずにっと」
「鯖カレーというのは作ったことないんですよね。どんな味なのか楽しみです」
メフィスが興味深々の様子で、作業を手伝う。
しばらく置くと余分な水分が出て身が締まる。キッチンペーパーでしっかり拭き取れば鯖の下拵えは完了だ。
「これでよし、と。後は、カレーのスパイスを加えれば臭みが無くなりますよ」
「あれ、そういえば青田さん遅いですね。そろそろ煮込みの時間なのに」
メフィスが顔を上げると、大柄な月彦に連行されるようにして青田が戻ってきた。
観念し包丁を取り上げた青田に、アイナが笑顔で玉ねぎを渡す。……大量に。
レストランで修業する見習い君の風情で、涙を流し玉ねぎをみじん切りにする青田。
「飴色に炒めた玉ねぎはルーにコクを与える……てね」
アイナの監視の下、大量の玉ねぎが飴色になるまで、ひたすら木杓子を動かし続ける青田。
どう考えても最初から勉強を頑張るべきだった。そう思ったが時すでに遅し。
漸くOKが出た所に、下妻笹緒(
ja0544)が資料を広げた。青田の虚ろな眼は資料よりも笹緒の顔に向けられる。
(あれ?俺幻覚見てんのかな……なんで……パンダが制服着てるんだろう……)
そんな彼の心境などお構いなしに、笹緒は力説する。
「センスが無いのにオリジナルを追求しようとするから無理が出る。まずは玄人の模倣から入るべきなのだ」
資料は笹緒がインターネットを駆使し、図書館に籠り収集した、冷やしシーフードカレーと鯖カレーのプロの盛り付け例である。
美的センスなど一朝一夕で磨かれるようなものでないのは百も承知。壊滅的なセンスの持ち主というからには、それを今更どうこうしようなどとは土台無理な相談なのだ。ならば、お手本を真似すれば良い。
「いいか、この写真を見れば判るだろう。美味い料理はまず見た目からして美味そうなのだ!」
ジャイアントパンダに大迫力でビジュアル論を説かれ、青田は機械的にうんうんと頷く。
というわけで、盛り付けに使われている美しい野菜の準備である。洗い終えて水切りしてある人参を取り上げると、見よう見まねで切り始めた。
氷月 はくあ(
ja0811)は傍について、青田を応援する。
「おぉっ、器用だっ……次は星とかどう!?あ、でもこれは軽く火を通して、荷崩れしないように最後に入れますねっ」
はくあにおだてられ、包丁を必死で操る青田。
清が用意していたスープに麦子がワインで蒸し焼きにした魚介類を入れ、煮立った所にアイナがカレー粉と香辛料を入れる。
「シーフードカレーは邪道という人もいるけど、美味しければ勝ちよ♪」
麦子が鍋を見張りつつ、新たな缶ビールを取り出した。
はくあがそっと手を伸ばし、小皿にカレーを移し味をみる。
「むぐむぐ……むー、ちょっと弱い?」
「え、そう?じゃあちょっと塩入れてみて」
「え……私がやるんですか?カレーが動き出したら困りますっ!ごめんなさい!!」
どう塩を加えればそんな事態になるのか。麦子は追求するのも無駄な気がしたので、自分で適当に塩を追加する。
「さて、何か手伝える事はありますか?」
周りを見渡す由真に、メフィスが声をかけた。
「煮込んでいる間に、盛り付け用の野菜の準備をしておきましょう」
カレーとは別の器に、彩りよく生野菜やトッピング用の焼野菜を盛りつける。
そこに星杜 焔(
ja5378)が顔をのぞかせた。
「調子はどう〜?」
スタンプラリーの拠点を下見して戻ってきたのだ。それぞれ商店街の関係者が陣取っている為、拠点にはその友人知人が固まりやすい。若い男性が座っている所には若者の集団が、おばさんが担当する所にはおばさんがお喋りの花を咲かせているのだ。
一口にカレーといっても、年齢層によっては好まれない種類の物もある。焔はポイントによって配るカレーを決めておくことを提案した。
「うん、おいしいね〜」
差し出された少量のカレーを味見し、シーフードカレーはおばさん達に配ることにする。
「女の人には、自分で作らない物を食べたい人が多いからね〜」
焔は手元の用紙に、計画を書きこんだ。
●楽しくカレー作り
(追試ですか……楽しい学園にのめりこめすぎるのも問題ですね)
レイラ(
ja0365)は赤井の姿を見て、その美的センスの欠落ぶりを理解した。身につけている物一つ一つ自体はおかしくはない。だが全体のバランス……配色といいデザインといい、とにかく組み合わせが壊滅的だったのだ。
(先輩のピンチですね。きちんとお手伝いして差し上げましょう)
追試という事態に伴う空気を払拭すべく、敢えて明るい声と笑顔を向ける。
「今日は宜しくお願いしますね、赤井先輩。一緒に頑張りましょう」
「あ、ああ。こちらこそヨロシク」
赤井は一体これから何をさせられるのかと、びくびくしている。意外と小心者のようだ。
だがそれも仕方がないのかもしれない。
「美味しい、美味しいカレーを作りましょうねェ……あはァ♪」
綺麗に洗って消毒した包丁の輝きを覗き込み、黒百合(
ja0422)が楽しそうに呟く様は、ちょっとカレー作りとは言い難い雰囲気を漂わせているのだ。
どっちかというとその包丁で、『今からちょっとディアボロ狩って来る』という方が似合っている。
少し離れたテーブルでは、黒葛 琉(
ja3453)が何やら作業中だ。憂いを含んだ青い瞳で真剣に手元を見つめ、時折落ちかかる琥珀色の髪を長い指でかき上げる。
何をしているのかといえば、一心に明るい黄色の防水紙を、同じ大きさに折り畳んでいるのだ。一見カレー作りに無関係なようだが、これはこれで大事な作業なのである。
「おいしいビーフカレーとカレーパンを作るぞ!」
「……ん、わかった」
「カレーならうちに任せてええけぇ!」
若杉 英斗(
ja4230)が右手を上げると、機嶋 結(
ja0725)と水城 秋桜(
ja7979)がそれぞれのテンションで応じる。
「皆で頑張って……美味しいカレーを作りましょうね……」
冬樹 巽(
ja8798)がエプロンを身につけながら言った。
(カレーですか……作ったことはありますが…本格的なものはないですね……)
黙々と三角巾で頭を覆う。準備万端である。
(百人前作るのは大変ですが…美味しいカレーを召し上がっていただきたいので頑張ります……)
ちょっと物憂げな眼で三角巾の位置を直してる様子は、赤井にはどこかお母さんを思わせた。……本当はお兄さんなのだが。
「材料、切って行きますね」
今まで全く存在に気づいていなかった高虎 寧(
ja0416)の声がすぐ傍で聞こえて、赤井は怯えたように身構える。包丁を握って気配を消すのはやめてくれ!そう言いかけて、今日は手伝ってもらっている身だと言葉を飲み込む。なんだかんだで赤井は結構、気を使うタイプのようだった。
(しかしこいつら、本当に大丈夫なのか!?)
だが隣の島から青田の絶叫が聞こえて来て、赤井はまたも身を固くする。
(隣よりはマシそうだな、がんばるしかないか)
寧の隣で包丁を取り上げた。
ジャガイモ、ニンジン、アスパラガス、ズッキーニ。見た目も鮮やかな夏野菜が居並ぶ。
眼鏡の奥の眠そうな目の与える印象に反し、寧の包丁さばきは見事な物だった。
黒百合は米を水につける。給水時間を考えると、急いで研がなければならない。3班で分けてもざっと30人分。『妖怪あずきとぎ』もびっくりの手さばきで、黒百合は全ての米を研ぎ終えた。
「これで米は大丈夫ねェ……材料の方はどうかしらぁ」
「材料を切るのは……お任せください……」
ジャガイモから目を離さず、抑揚のない声で巽が答えた。無駄な皮をほとんど出さない、見事な作業ぶり。
「赤井さん、ちょっとその包丁の持ち方危ないですよ」
「え、そうかな?こんな感じ?」
英斗の指導に、赤井は素直に従っている。あまり包丁を扱いなれていないので、少し危なっかしい。だがこれは彼の追試なので、作業全般に関わらせなければならないのだ。
寧と巽に比べれば時間も完成度も及ばないが、それでも赤井は頑張った。一口大に切られた野菜と肉がようやく揃う。
黒百合が鍋に入れ脂身を溶かす。牛肉を入れると香ばしい匂いが立ち上がった。そこにワインを入れて軽く炒め、旨みを封じ込める。
ここからカレー作成開始だ。
「誰もが食べやすい、馴染みのあるほっとするような味が目標だな」
市販のルゥを何種類か並べて、英斗が腕組みする。そこに赤井が口を挟んだ。
「これと、これ。それからこれを使うと美味いよ」
周囲の意外な視線に、ちょっと赤井は得意そうに言った。
「実家で包丁はあんまり使ってなかったけど、味付けは良く任されたんだ」
「ええっと、強力粉、薄力粉、ドライイーストに砂糖・塩。それから牛乳、バター、水、卵っと」
秋桜が材料を並べて点検する。料理の基本だ。こちらはカレーパンを作成する準備だ。
「カレーパンって焼いて作るものもあるんだってね。揚げて作るやつは、カレードーナツとも言われているらしいよ」
八辻 鴉坤(
ja7362)が丁寧に、肘近くまで手を洗っている。
「……焼く方にすればよかった」
結の呟きに、鴉坤は思わず笑ってしまう。
「まあ一般的には、油で揚げる方だと思うよね」
鴉坤は手早く材料を合わせてこね、纏まると台に叩きつけた。それを繰り返し、丸めると発酵の為に程良く温めたオーブンへ。
その間に結は挽肉と野菜を炒めスープストックで煮て、ドライカレーのルゥを仕上げる。秋桜が様子を見て、粘度調整のジャガイモを追加。少し味見しすると泣かんばかりのリアクションで叫ぶ。
「か・ん・ぺ・き!」
結のクールさと好対照だ。秋桜はお金が無くカレー類(?)で凌いだ日々を思い出す。
(伊達に365日中172日をカレーで過ごしてないけぇ!役にたったけぇ……あの苦労も無駄じゃなかった……!)
後の193日の食生活に対する疑問は残るが、とりあえず今は置いておく。
生地が程良く膨らむ頃には、ルゥも扱いやすい温度に冷めていた。小さく丸めた生地を手分けして延ばすと、ルゥを包んで形を整える。
「いくつかは当たりじゃけぇ♪」
一部はとろけるチーズを入れた、チーズカレーパンである。綺麗な仕上がりの為のとき卵を表面に塗って二次発酵。膨らむのを待つ間に、粉の散った周囲を手早く綺麗に片づける。
頃合いを見て鴉坤がパン生地を取り出した。
「……この時期に……油は、暑いですね」
煮えたぎる油にパン生地を入れ、結は少しげんなりとした口調だ。一応空調は効いているのだが、見た目が暑い。それでも頑張って、次々と揚げてはバットに取り上げていく。
少し多めで大変だが、足りないよりはいい。
「おー、機嶋さんのカレーパンおいしそうですね。ちょっと味見…」
そこへ英斗が来て、できたてアツアツのカレーパンを素早く奪い去る。
「うまい!」
満面の笑み。恨めしげなジト目で英斗を見上げるが、悪い気はしない。
「機嶋さんもどう?」
差し出された半分を受け取り、暫しの迷いの後齧りついた。
「ん……良い出来かな」
琉の涼やかな青い瞳が、すぐ傍から結を見つめる。手にしているのは、先程まで折り続けていた黄色い紙。でき上がったカレーパンを包むための包装紙だったのだ。
ほかほかのカレーパンを包み続ける琉の形の良い唇から、言葉がこぼれる。
「俺も1つ食いたい……腹減った」
気持ちは分かるが、色々残念である。
その間にもビーフカレーがぐつぐつと良い音を立てる。
「あははァ…美味しくなれェ、美味しくなれェ…なんてねェ…♪」
黒百合がつきっきりで鍋をかきまわす。溶ける野菜は後で入れるので、とりあえず今は只管煮込む。カレーを作ってるようには見えない姿に、またも赤井は引き気味になるが、それでも自分の担当の鍋を一生懸命かきまわした。頃合いを見て小皿に取って、皆に回す。OKが出た。少し自信がつく。
レイラがご飯を載せたお皿を持って近づいた。
「赤井先輩、折角のおいしいカレーですもの。盛り付けも頑張ってみましょう」
レイラに言われた通り、少量ずつ具が偏らないようにカレーをかける。中々悪くない。
(あれ……もしかして俺って、やればできる子?)
そもそもカレーがどうの以前の問題でこの事態を招いた訳なのだが。
頑張って課題をクリアするのは、結構いいかもしれない……赤井は少しだけ、前向きになったようだ。
●頑張れぶきっちょさん
鳳 静矢(
ja3856)は、借りたトラックを専門学校の建物玄関に横付けした。調理室へ入ると、3つの島からそれぞれ異なる叫び声が聞こえる。
「初めから課題を真面目にやれば良い物を……」
至極もっともな呟きと共に、自分が手助けする女子学生のいる島へ近付く。
グラン(
ja1111)が、天使の微笑みと共に緑谷に声をかけていた。
「真夏にカレー、定番といえば定番ですね。緑谷さんの追試っぽいのは微妙ですが、此れも何かの縁でしょう。微力ながらお力添えいたしましょう」
久遠ヶ原には美形が多い。多くて見慣れてるとはいえ、真正面から美男子に微笑まれると緑谷とて年頃の女子、少なくとも恥はかきたくないという動機が芽生える。
「は、はいっ!よろしくお願いしますっ」
つい先日、同級生にヘッドロックをかましたとは思えないしおらしさだ。
そこにもう一人の美形枠、神楽坂 紫苑(
ja0526)が声をかける。長い髪を束ねた姿は、凛凛しくもどこか色気がある。
「2種類のカレー作りだろ?量も多いな。気合入れて作らないとやばく無いか?」
緑谷に作らせるのは、夏野菜のカレーと豆入りキーマカレーである。どちらも緑谷は未経験だ。紫苑が気遣う。
「手伝うけど、焦るなよ?失敗しやすくなるぞ」
「が、がんばります!」
なんかもう頑張る方向が明後日な感じになってきた緑谷に、森浦 萌々佳(
ja0835)がレシピを書いたメモを手渡した。
「味付けはシンプルに。メンバーに上手な人が多そうなので、あたしも習うぐらいの気持ちで参加してますので、がんばりましょうねー」
本当は萌々佳は一通りの料理はできる。だが緑谷を前向きにさせなければならない。
「料理は得意中の得意、お手伝いはお任せあれ!」
ソリテア(
ja4139)が張り切って、エプロンをきりりと締めた。
調理室を一回りした焔も加わった。早速全員が手分けして、下準備に取り掛かる。
紫苑が丁寧に、だが素早く野菜を洗って行く。
ソリテアと萌々佳が脇につき、危なっかしい緑谷の包丁さばきを見守った。まずは玉ねぎのみじん切りを用意するのだが、緑谷のみじん切りは乱切り(?)である。根気よく指導しつつも、全部任せていては流石に時間がいくらあっても足りない。紫苑が必要分のほとんどを先に用意する。
(余り急がせて指を落とされても困るしな……まあ、ヒールはあるけど)
アストラルヴァンガード、なんて便利。
その間に焔はサフランライスを炊飯器にしかけ、圧力鍋に香味野菜と鶏がらを入れ、夏野菜カレーの煮込みベースを用意する。
漸く玉ねぎを切り終えた緑谷は緊張でフラフラになっているが、休むわけにはいかない。
煮込み時間が必要な夏野菜のカレーにまず取りかかる。萌々佳が用意したレシピ通りに、切り終えた材料を焔が用意したスープに入れていく。
グランがそのおぼつかない手元を見ながら、緊張しないよう気を配りつつ話しかける。
「普段はどんなふうに料理を作ってるんですか?」
「え、ええと……適当、かな?自分しか食べないし、お腹がいっぱいになれば良いって感じ」
緑谷、目の前の作業に気を取られ素で答えてしまう。
「ふむ……分量をきちんと守ることは大事ですよ。今回みたいにね。まずはそこから始めてみてはどうです?」
課題クリアだけでなく、今後の緑谷の料理についてまで改善を試みるグランであった。
アドバイスを受け、何とか夏野菜のカレーが完成する。
「こっちは任せておいて〜」
焔が最後の調整をかって出る。煮込みながら様子を見て、必要な調味料で味を整える。
鍋をかきまぜていると、焔の意識は過去へと向かう。懐かしい家族の想い出。子供の頃に失った家庭の象徴は、最後にみんなで食べたカレーの味。
だから、拘りたい。それが我儘だと判っていても。
サフランライスが炊きあがった。バイト先の癖で、極めて自然な動作で盛りつける。
焔はその瞬間、背後に不穏な気配を感じる。
「つまみ食いは許しませんよ〜」
ほほえむ萌々佳の迫力は半端でなかった。焔は一気に現実に引き戻される。
さて緑谷にとっては、今直面する現実が全てである。次は豆のキーマカレーだ。
「これ、必要なら。みんなを唸らせるようなおいしいカレー、お願いします」
ソリテアが持参したスパイスをテーブルに並べる。市販のルゥに混ぜれば一層味に深みが出るはずだ。
早速緑谷が、クミンを火にかける。香味野菜と玉ねぎを炒め、続いて挽肉を入れる。だんだん緑谷の手つきも、安定しつつあった。
その後もレシピを忠実に守り、決まった分量を決まったタイミングで投入。大豆の水煮とレーズンを入れ、煮込んだ所で仕上げのスパイス。
「わあ……できた……!」
緑谷が感激の声を上げる。曲がりなりにも自分で作り上げた、それなりに凝った料理。
少量ずつを回して味見。
「キーマカレーは豆の分、もう少し濃くても良いかな?」
静矢の提案で、塩で味を調え暫く煮詰めて豆入りキーマカレーが完成する。
「では次は、綺麗に飾り付ける準備をしましょう」
しっとり馴染んだメイド服姿の氷雨 静(
ja4221)が、洗ったパプリカと南瓜の皮を用意する。
特殊なナイフを器用に操ると、南瓜の緑の皮にはオレンジ色の花模様が浮かび上がる。あっという間にカレールゥを入れる容器が出来上がった。
「わあ、すごい……!」
「これはカービングというんですよ。綺麗でしょう」
会話しながらも静の手は止まることなく、赤いパプリカは葉っぱになる。そのまま食べられる飾りだ。
「流石にカービングをいきなりは難しいでしょうから、緑谷さんはこれを使って素敵な盛り付けをお願いします」
緑谷の眼にほっとした色が宿る。玉ねぎのみじん切りでグロッキー気味の身としては、これをやれと言われたら、ごめんなさいして逃げるしかないと思ったのだ。
「こういう手もありますよ」
ソリテアが笑いながら、クッキーの抜き型を見せた。簡単に抜ける花型やハート型もありなのだ。
「緑谷さん、ちょっとこっちお願いするのですよー☆」
鳳 優希(
ja3762)が緑谷を呼んだ。一緒に下見して用意しておいた、食器やクロスを持ってきてある。できた料理を一食分用意して、盛り付けの見本を作るのだ。
優希が丸型のお皿に御飯をひっくり返して乗せ、鮮やかな緑のパセリを散らす。
「装飾のアイデアお願いします!私はこういうのも面白いと思うんですけど」
丸くご飯が乗ったお皿の周りに、ソリテアが夏野菜カレーを注ぎ入れる。カレーの海に浮かんだご飯の浮島だ。キーマカレーは逆に、ご飯の上からかけてご飯を埋めてしまう。
「どうです?びっくりしました?」
「あはは、面白ーい!でもご飯がないぞーって苦情が来るかも?」
緑谷がやっと、普段の笑顔を取り戻す。
●おいしいカレーができました
「よし、そろそろ時間だ。運ぶぞ」
静矢が緑谷達の作ったカレーの鍋を運び出す。
「あ、手伝うよ。そっちも持って行っていい?」
鴉坤が重そうな鍋を選んで、持ち上げた。
運び出されるカレーパンを見届けると、結の目つきが変わる。
「後は任せました。では」
誰に任せたのかはよく判らないが、素晴らしい瞬発力で調理室を出る。
(…食費浮かせたいし、満腹にしたい!!)
事前に拠点のチェックは済ませてある。暑い作業に耐えたのだから、これぐらいの役得はあって然るべきだ!結の姿は風のように、商店街へと駆け抜けていった。
トラックの荷台には、焔の用意した拠点ごとの配布計画に基づいて、降ろす順番を考えて鍋を載せていく。静矢は鍋がひっくり返らないように慎重に固定する。
鴉坤は何度も往復し、順に鍋を静矢に預ける。
「これも頼む」
紫苑が冷蔵庫に入れていたフルーツポンチの入れ物を手渡した。
昼時の商店街には多くの人が集まっていた。ほとんどはお客さんだが、スタンプラリーの拠点には関係者がカレーの到着を待ちかねている。
「お、来た来た!嬉しいね〜」
「学生さんたちも一緒に食べて行きなよ」
各拠点では笑顔の人々。静矢はカレーの鍋と一緒に、カセットコンロを運び込む。暫くは大丈夫だろうが、冷めてしまった場合に温め直せるようにだ。
女性が集まっている別の拠点では、優希と緑谷が休憩所になっている店舗に女性好みのセッティングを用意する。作業台にテーブルクロスをかけ、ランチョンマットにコースターを置き、小さな花瓶に可愛い花。配色はカレーが映えるように計算した。ここにカレーのお皿を置けば、ちょっとしたカフェのようだ。
ソリテアが次々とカレーをよそっていく。歓声を上げる人々を見ていると、昔自分に料理を手ほどきしてくれた大事な姉を思い出す。
記憶の中でいつでも会える姉。そう、自分はいつだって一人じゃない。それに教えてくれた料理は、沢山の人を笑顔にしてくれる。
「なかなか盛況のようだね。ご苦労だった」
聞いたことのあるよく通る声に、学生達は振り向いた。残暑厳しい中、相変わらず白いスーツのジュリアン・白川(jz0089)がそこに居た。
「ジュリちゃん先生、こっちこっち」
麦子が白川を呼んだ。商店街の一角の休憩所に、案内する。
「先生の分はここに用意してあるからねん♪」
「ほう、それはわざわざ有難う。ではいただこうか」
直後に麦子逃亡。
カレーに手をつけた白川は、添えられたメモに気が付く。
『ジュリちゃん先生に熱い思いを込めて』
ふっと笑みを浮かべ、添えられたプチトマトを優雅に口に入れる。
「……!!」
思わず口元を押さえたハンカチが、赤く染まる。血ではなく、プチトマトに仕込まれた濃縮ハバネロだ。まあある意味、血の方がましだったかもしれないが。
「先生、大丈夫ですか!?」
レイラが白川の尋常でない様子に気づき、よく冷えたラッシーを手渡す。
無言で続けさまに飲み干し、漸く人心地ついた白川は、額を押さえる。
「助かったよレイラ君、有難う」
そこでようやく添えられていたメモの裏側に、白川は気づいた。
『ゲート支配領域内における行動制限について
この位な感じで行動に支障が出るものと考察します』
上手いこと言ったつもりか!?メモを握り締める白川に、声をかける者がいた。
「「「あの〜……」」」
青田、赤井、緑谷の3人だ。雁首そろえて出頭という雰囲気である。
「努力の大切さ、判って貰えたかな」
3人は同時に何度も頷く。満足そうに白川が微笑んだ。
「そうか、ではもうひと頑張りするとしよう。私はその為に出向いたのだからね」
「たかがカレー作りであっても、とことんまで突き詰めると面白いことが分かってもらえれば良し。学ぶということは本来そういうものなのだからな」
笹緒がカレーを食べながら言った。どうやってかは、気にしてはいけない。
「皆、お疲れさん。あ〜食べる元気あるか?」
紫苑がよそったカレーに付け合わせをトッピングして配っている。
「勿論。大盛りでお願いします」
結が皿を差し出した。ちなみに既に2週目である。
「疲れたときには甘いものだからな。良かったらフルーツポンチも持って行け」
どういう訳か、口では面倒だと言いながらいつもこの調子で動きまわっている紫苑なのだった。
一通りのカレーを食べ終え、外のベンチに腰かけるはくあは満足そうだ。後はフルーツポンチで完全制覇。
「えっ味見ですよ、味見!」
小さな体のどこに入るのかは、気にしてはいけない。
琉が漸くありついたカレーパンや各種カレー、レイラに貰ったラッシーを堪能したところで、商店街の一角に気がついた。
「あれ、何やってるんだ?」
休憩所では、何やら熱弁を振るう白川の前で、青田、赤井、緑谷の3人が魂が抜けたように座っている。
「特別補講だそうです。努力の大切さを理解したところで、レポート再提出の為に」
淡々と鴉坤が説明する。
「あら〜じゃあこれいらないですかね〜」
萌々佳がひらひらと紙を振る。緑谷の為に試食者に聞きこんできた、カレー改善点・良かった点のレポートだ。
「まあ元々の課題の回答ではないですしね〜。これはこれで緑谷さんのためにはなるでしょう〜」
「えっ。課題にカレーの作り方を書けば、白川は点数くれるんじゃなかったのか」
そんな訳ないだろう。鴉坤の眼が言っている。
やっぱりどうにも残念な琉であった。
<了>