●封都の西
幅広の国道が緩やかなカーブを描き、目前に広がっていた。人影も車も見当たらない。雨に飢えた道路脇の雑草が、力なくただ揺れている。
八辻 鴉坤(
ja7362)は小型バスのハンドルを握り、前を見つめた。
「静かだ……。敵だけじゃなく、もし一般人がいても見逃さないようにしないと……」
その背後から、仁科 皓一郎(
ja8777)が顔をのぞかせる。
「仁科さん、何か?」
「いや、ちっと白虎見物に…荘厳なまでの美しさ、とまで言われたら、真っ先に拝まずにゃいられねぇだろ?」
皓一郎は道路の前方に見えてきた山肌を見つめた。
目的のサーバントは、白い虎。結界から逃げてくる物を襲うという。
そこで敢えて結界内に乗り込み、サーバントが現れるという国道へ。バスは救出作戦を終えて、京都市内から脱出してきた……という風を装っている。
だが多くの敵が跋扈する結界内に乗り込むということは、相応のリスクを伴う。結果事前に一戦交えることとなり、数人が傷を負った。
バスの屋根の上で、渡したロープに雀原 麦子(
ja1553)が捕まり周囲を警戒する。シャツは所々が裂け、血の染みが広がっていた。
「雀原さん、くれぐれも無理は禁物だよ!」
中山律紀(jz0021)が窓から顔を覗かせた。麦子の傷は既に癒えているが、囮として危険な立場であることに変わりはない。
「可愛い男の子にまた癒されるのなら、それも一興よん♪」
麦子のウィンクに、律紀はちょっと困ったような顔をする。日頃姉に振り回されているせいか、元気なお姉さんのペースにはつい飲まれてしまいがちのようだ。
「まさに行きはよいよい、帰りは――といったところですね」
牧野 穂鳥(
ja2029)が硬い表情で窓外を見つめた。顔をひっこめた律紀に、生真面目に声をかける。
「中山さんはかなり危険な位置に立つことになりますが……よろしくお願いします」
澄んだ光を湛えた印象的な瞳が、強く訴えてくる。強火力として期待されるダァトの穂鳥を、律紀は守り抜く役割だ。
「やれるだけのことはやらせてもらうから。牧野さんも無理のない程度で頑張ってくれよ」
その時、バス内に鴉坤の声が響いた。
「……来た。急停車の衝撃に備えて!」
皓一郎が阻霊符を取り出す。腹の底に響くような吠え声に、窓ガラスが震えた。
山を駆け下りていく白い影は、国道沿いの建物の陰に潜むラグナ・グラウシード(
ja3538)からもよく見えた。
「ほう、翼を持つ白き虎……地上に叩き落としてやろう、無様な骸にして!よろしく頼むぞ、諸葛殿!」
「落ちんなよ、ラグナ?」
後部座席にラグナが乗ったことを確認し、諸葛 翔(
ja0352)がスロットルを全開にする。バイクは弾丸のように路面に飛び出した。
翼を広げた白い虎を、翔は微かな畏敬の念を持って見つめる。
「まさか、白虎と闘う事になるとは……な」
白い虎には特別な思い入れがある。例えそれが創られし物だとしても、だ。
その翔の真っ直ぐな輝きを宿す瞳に反して、背後のラグナの眼は死んでいた。
(く……男とバイクの二人乗り、か)
この緊急時にも彼の心はコンプレックスから離れられない。
(いや依頼だから仕方ないじゃないか、別に女子に合法的にしがみつけるとかそういうことを期待したわけじゃ……)
そこでラグナの脳裏に、打ち合わせの際の光景がよみがえる。
それでなくとも男の多いメンバーの中で、お姫様を護るナイト役は律紀に決まった。穂鳥と見つめ合う(と、ラグナは勝手に解釈している)律紀。『しっかり穂鳥ちゃんのエスコートお願いね♪』と麦子から頼りにされる(と、ラグナは勝手に解釈している)律紀。
「……ぐぬぬ」
悔しげな声が漏れ出た。ラグナの気持ちなど知る由もない翔は、熱くバイクを走らせる。
「いいか、このまま突っ込むぞ!」
白虎はもう国道の間近まで迫っていた。つい先程まで山の中を駆けていたにもかかわらず、だ。情報通り、いやそれ以上のスピード。阻霊符により木々をすり抜けることができなくとも、翼を広げ跳躍する虎は速かった。
翔は合図と共にバイクを乗り捨て、虎の目前に滑らせる。
敵は感知能力と運動能力に優れている上に、射程の長い攻撃手段を持っているという。バスに乗る仲間が攻撃可能な範囲に展開するまで、耐久力に優れる翔とラグナが敵を引きつけ、長射程の攻撃をさせない算段だ。
「リア充と天魔に正義の鉄槌を喰らわせんッ!!逃がさんぞッ、リア充ッ!」
男とタンデムの屈辱も、天魔故。自分以外の男がいい目を見るのも、天魔のせい。八つ当たりとしか思えない怒りが光となって、大剣に宿る。
駆け出すと共に繰り出された斬撃が、身を翻した白虎の後脚を掠める。虎は牙を剥き出しに、ラグナを睨んだ。
「私を見ろッ、汚らわしき天魔の獣よ!」
ラグナの全身から金色の光が立ち上る。シャイニング非モテオーラ。その悲しい力が、白虎の気を一層害した。
「あまり離れるなよ、ラグナ」
刺突か、火焔魔法か。効果的な攻撃方法を見極めようと、翔は握り締めたジャマダハルに力を籠め、風のように素早く突き出す。一方で、虎の意識を一身に集めるラグナのカバーにも気を配らねばならない。
その時、白虎は二人からやや距離を置くため飛び退る。しなやかな身体を僅かに地に沈めると同時に、白い翼が水平に空を切った。
●歪の翼
「あれが前兆か」
影野 恭弥(
ja0018)はバスを降りるタイミングを計りながら、虎の所作を見つめていた。
攻撃に移る動作と、移動する動作は違うはずだ。前兆を把握できれば早めに対処が可能になる。
「よし行くぞ」
一斉にバスを降りる撃退士達。
「白虎って、ばかでかい猫って感じだな。うん、可愛いなぁ」
うっとりほんわりと、cicero・catfield(
ja6953)が思わず呟いた。猫好きの性だろうか。だが、到底なついてくれる相手とは思えず、見とれている暇もない。白虎が次の動きに移る前に、それぞれの持ち場につかねばならない。
虎の翼が放ったのは、空を切り裂く衝撃波だった。耳を劈くような音が襲いかかる。それをラグナは、大剣を構え真正面から受け止めた。銀色の光が一瞬きらめき、ぱっと散る。
「はんッ!貴様の攻撃など、私のいのちには届かんわッ!」
頬を一筋流れる血を拭いもせず、大見栄を切るラグナ。
言葉の意味を理解するのかどうか、虎は第二波の体勢をとった。その背はバスから降りた一同に向けられている。
「我が手は審判を得る 我が敵に裁きを下し これを倒すであろう 父と子と聖霊の御名において」
ciceroはロザリオに祈りを捧げる。つい先刻まで愛玩動物を見るかのようだったその眼には、今や強敵を前にした愉悦が宿る。
「主よ、我に力を与えたまえ」
アウルを籠めた銃弾が、銀色の銃身から放たれた。射程距離限界からの攻撃だったが、狙い過たず虎の背に着弾。千切れた白い羽根が宙に舞う。
道路脇の草むらを駆け抜け、恭弥は虎の脇に回り込んだ。身を伏せると、意識を集中する。金の瞳が帯びる光が強くなり、左目はまるで炎が噴き出すように輝いた。
「さて、上手くいくか」
静かな声で独り言。その声に呼応するように、じわり、と黒い靄が恭弥の身体を覆い始めた。白銀の髪も、構えた銀色の銃も、侵食してゆく黒。それは常に飄々とした風情の彼の内に潜む、破壊の衝動が具現化したように。覚醒する「禁忌ノ闇」、飲み込まれれば先に待つのは狂気。意思の力で飼い慣らし、闇の力をもって天界の眷属を撃つ。
黒い弾丸が、白い翼の付け根を抉った。それだけを見届けると、小さく息をつき恭弥はすぐさまその場を離れる。狙いやすい位置ではあるが、二度目を成功させるほど敵も甘くはないだろう。
胴に流れる血に白い毛皮を汚され、虎は怒りに燃えて振り返る。翼は移動時の体位制御と攻撃手段としては大事だが、傷がついても虎の生命自体が危機に至る訳ではない。
白虎は逞しい四肢を踏ん張ると、空に向かって咆哮をあげる。その声は山々にこだまし、地を震わせ、撃退達の足を路面に縫い付けた。続けて駆け出すと、広げた翼が唸り、衝撃波が撃退士達を襲う。
「覚悟の上とはいえ……実際に使われると辛ぇな」
最前列に立ち、楯を装着した腕で身を庇い、皓一郎が呟く。
「……にしても、噂に違わねぇ優雅さだ、来たかいがあったぜ」
一歩も前に進めない、この状況すら楽しんでいる。目の前の白虎は、躍動感に溢れ、美しかった。
少し離れた場所で構えた楯に身を隠す鴉坤は、相手の強さを推し量る。
「敵の力量を見極め、潔く引くのも必要だが……でもやはり、これを放置していては危険か……」
そう思った矢先、穂鳥がすっくと立ち上がる。その前では姿勢を低くした律紀が楯を構える。
二人には咆哮の効果が及んでいなかったのだ。
「地の獣には地を駆ける為の脚があればいい。翼など、不要です。……歪な」
作られた存在。あってはならぬ物。穂鳥は眼前のサーバントの翼に強い違和感を感じていた。
魔法書を取り出し、狙いを定める。射程距離はギリギリ一杯。
「いかに京の守護たる聖なる獣の名と姿を借りようと、命に仇なすものであるならば。狩ります」
生じた炎塊が樹木のように立ち上り、火焔が突き進む。白虎の背、翼の付け根に吸い込まれたそれは、あたかも濃赤の大輪の椿が咲くように。照り返す炎に白虎の身体が一瞬赤く染まる。
サーバントが、これまでとは明らかに異なる呻き声を上げた。片翼が力を失い、地を擦る。
「炎が……効いているのか!」
翔はそれを見て、獲物をすぐさまジャマダハルから召炎霊符に持ち替える。その場から動けないなら、尚好都合だ。
「真空の刃を纏いし炎にて……焼き裂けろ!」
アウルを籠めた霊符が火球となって飛んで行く。それは白虎の後脚を傷つけるのみだった。虎は、己にとって最も危険と看做した相手――穂鳥に向かう。
律紀は穂鳥の前で楯を構え、足を踏ん張った。穂鳥は衝撃波に備え、マジックシールドを展開する。
「攻撃中は僅かの時間、意識が的に集中するはず!その隙を狙え!」
鴉坤が檄を飛ばす。
いち早く白虎の呪縛から抜け出した麦子が、大剣を構え、一撃に賭けて闘気を溜める。
冥魔の気を持つ阿修羅の強い一撃には、大きな効果が期待できるだろう。だがその分、反撃を食らえばただでは済まない。
「完全ではないかもしれない。でも俺が防ぐから……だから前だけを見て」
鴉坤が楯の陰で『アウルの衣』を使った。麦子を護るように、柔らかな光が広がる。アストラルヴァンガードではあるが、癒しの力よりも誰かを守る力を選んだ。鴉坤はいざとなれば、自分が傷ついても仲間を守ることを選ぶだろう。
「ありがと♪食らったら大人しく引くわよん」
言うが早いか、放たれた矢のように麦子が跳び出した。
「たとえ神の名を冠してようと、人の営みを邪魔するんなら叩き斬るわよ!」
律紀の楯に牙を立てる白虎の太い首筋に、大太刀が食い込む。
その激痛に振り払われた前脚が、太刀を引く刹那に麦子を打った。己の身体の軋む音が聞こえる。吹き飛ばされた麦子はどうにか起き上がると、仲間の方へと転がり込む。
首から鮮血を噴き出しながらもそれを追う白虎。
白銀に輝いていた身体は流れ続ける血に染まり、そこにあるのはただ、手負いの獣の持つ凶悪さ。追い詰められた必死の形相からは天の眷属としての荘厳さは既に失われていた。
だがその分、必死で振るう力はより強くなったようだった。眼を爛爛と輝かせ、今なお闘う意志を漲らせる。
「多少無茶しても、隙、作ってやれるとイイんだが…まァ可能なら、か」
皓一郎はタウントを使い、麦子の前に躍り出た。
「ほら、こっちだ!」
猛り狂うその顎に、楯ごと身体をぶつける。生臭い息がかかる距離で、虎の爪が皓一郎を八つ裂きにせんともがいた。
「よし、貰った」
虎の注意が皓一郎に向いたその隙を逃さず、即座に恭弥が銃を構える。その身は再び黒く染まり、必殺の魔弾が味方の肩越しに右眼を貫いた。
皓一郎を突き放し、虎は身を捩る。
●白と赤と、そして黒
魔法書から放たれた焔が、虎の身体に赤い花を舞い散らせる。穂鳥は軽く眉を潜めた。
「まだ、倒れませんか」
受けたダメージは相当なものになっているはずだ。だが流石に守護神の名を冠するサーバント、これだけの集中攻撃にもいまだ耐えている。
「中山君、君は下がって雀原さんを!」
鴉坤は『ブレスシールド』で己を強化すると、律紀の前に回り込んだ。
「わかった!」
律紀が麦子の傷口に手をかざすが、結界内の交戦で律紀の癒しの力はかなり消耗している。完治には至らないが、麦子はどうにか身体を起こす。
「私としたことが、ドジっちゃったわね」
痛みを笑顔で取り繕い、麦子は敢えて軽い口調で言って見せた。
虎の背後で、身動きできぬままそれを見つめるラグナ。拡大解釈に過ぎるというものだが、それが彼の強さの源なのだから皮肉である。地に縫い付けられた足が軽くなると、見せつけられた光景に怒りのパワーは増大し、振るう大剣の切先は鋭くなる。
「うおおおおお食らえ、『リア充獄殺剣』!!」
恨み妬み憎しみ怒り……あらゆる負の感情が、虎の背中に突き刺さる。咄嗟に虎は太い後脚で、ラグナを蹴り飛ばした。さしもの彼も、一瞬息が止まる。
「大丈夫か!」
翔が駆け寄りラグナの深い傷を癒してくれたが、その行為に心の傷は一層深くなる。
(男に……癒されるのは嫌だ……!)
さしもの虎も、ここに来て不利を悟ったようだった。
脱出の為か反撃の為か、己が血で濡れる路面に足を踏ん張り、咆哮を上げる。だが既に声の力は弱まり、辛うじて天の眷属としての矜持を維持するのみ。
「これで止めだ!」
呪縛を逃れたciceroが目にもとまらぬ速さで銃を構え、渾身の一弾。残された片眼が流血に覆われる。
「お返しさせて貰うわよ!」
視界を奪われた虎には、麦子の大太刀を避けきることは叶わなかった。
どさり。
巨大な虎は全身を赤黒く染め、地に倒れた。
「虎の躍動感あるしなやかな姿は綺麗だけど……」
既に守護神でも何でもなく、ただの横たわる遺骸。くたりと広がる翼は、もはや哀れですらある。
それを確認した麦子が、脇腹を押さえ、大太刀を支えに身体を起こす。
「安易に翼を付けるの蛇足みたくでどうかしら?」
「でも白虎はな……着ぐるみとか欲しくなるな」
麦子を支えてやりながら、翔がどこまで本気か判らないことを言った。着てどうするの?と、麦子が笑い飛ばす。
ようやく全員を、安堵の気配が包み込んだ。
ラグナは翔を睨んでいた視線を外し、東の空を振り返った。いつかはあの彼方、結界に覆われた街をも取り返す。今はその決意に満ちて。
空には、いつの間にか黒雲が立ち込めていた。はるかな遠雷。夕立の気配を風が運び、鳥が飛び立つ。
暗雲は濃く、稲妻を孕み、とぐろを巻く龍のように封都の空を覆い尽くしていた。
<了>