●
約束の時間より少し早く現れたのは、六道 琴音(
jb3515)だった。
「少しお話、いいでしょうか」
大八木 梨香を見る琴音は真剣そのものだ。
「私達は小青を学園に来るように説得しました。それは池永真弓さんについて、身の安全を保証すると約束したようなモノだと思っています」
梨香は黙ったままで、目線で先を促す。
「だから、学園に所属していないからという理由で、真弓さんの事を小青に話さないでいるのは、アンフェアな気がします」
琴音は真っ直ぐ梨香を見据える。
「アンフェア、ですか。学園が小青さんに意地悪する理由は?」
梨香は小さく息を吐いた。
「誤解があるなら説明が必要ですね」
●
梨香は別室に全員を集めた。小青はメールで用事を頼んだので少し遅れて来るという。
「先に私の知っていることをお話しすべきだと思いましたので」
堕天使である真弓は、監視と、万一危険が及んだ際に捜索するため、発信機の携帯が義務付けられている。
少し前、その発信機を届けるという名目で、学園生達は小青と共に京都の池永真弓の家を訪れた。
彼らの調査やその他の状況から、池永邸の隣家に小規模なゲートがあると推測された。
だが本格的な調査を開始するより先にザインエルが現れ、真弓の発信機は沈黙した。
大規模作戦の後やっと再調査が可能になったときには、池永邸は無人で、ゲートも消えていたのだ。
「命を奪う気なら連れ去る理由がありません。また、天使達が発信機を”壊すべき物”と思うでしょうか?」
……人界を知る存在が天界にいて、真意はわからないが真弓をまだ生かしておくつもりである。状況からはそう推測された。
「それと小青さんには、真弓さんが無事だということはわかるそうです。使徒と天使の間には、そういう繋がりがあるようですね」
梨香の表情が僅かに和らいだ。
ならば不確定な情報で小青を混乱させるのは好ましくない。学園はそう考えたのだ。
「小青さんは私達……」
そこで梨香が小田切 翠蓮(
jb2728)を見た。翠蓮は僅かに目を細めて微笑む。
「の、ほとんどよりも、長く生きています。経験や考え方は、見た目通りの子供ではありません」
小青は人界を、天界を裏切り、多くの人を傷つけた。
また刃を振るえば、誰かを傷つけるだろう。
だから『撃退士』になることと同意義の『久遠ヶ原学園への所属』を躊躇っているという。
●
梨香は改めて一同を見渡す。
「名前の件も先に話し合ったほうがいいのであれば、今のうちにどうぞ」
琴音はまだどこか納得できないものを感じていた。
名前のことに触れ、それが明確になる。
「私には安易な選択のように思えます」
きっぱりと言い切る。
「確かに小青さんはこれまで多くの人を傷つけたかもしれません。でも、自分のしてきたことに向きあわなくてはならないんです」
名前を変え、過去を捨てる。琴音にはそれは逃避とみえた。
「そんな逃げの姿勢でどうするんですか」
月居 愁也(
ja6837)が、傍らの夜来野 遥久(
ja6843)をちらりと見た。
頷く親友に促されるように、愁也が口を開く。
「名前を変えて、楽になれるならそれでいいと思うよ。でも『小青』って名前は、真弓さんからの最初のギフトだよな。大切なものなら、手放してほしくはない……って俺は思う」
小野友真(
ja6901)も眉を寄せたまま唸った。
「俺もめっちゃ考えたんやけど。字面可愛いし、すごいあってるし、俺らにとっては名前も含めて、そのまんまが小青なんかなって」
友真が言葉を切る。
「……上手いこと言えへんけど。読み方変えてみるとか、元の字を使うとか。見方をちょっと変えるだけで、自分も変われるんやないかなって。無理に変えんでも、でも変えてもええ……」
明るい色の髪をくしゃくしゃかき回す。
「あー、えっとつまり、小青の意見を一番にしたいんや!」
「私も友真殿の意見に賛成ですね」
遥久が友真を応援するように言った。
こんなやりとりを、九十九(
ja1149)は黙って聞いていた。
九十九自身は、悪魔や天使がいる学園のこと、使徒も少々珍しい存在にすぎないと思う。
依頼を受けた理由も使徒が自身と『同郷』らしいということだけで、それほど深い思い入れもなかったが、話を聞く限り小青は結構真面目で真っ直ぐな性格のようだ。
(似合いの名前をつけたってことかねぇ)
九十九が口を開いた。
「小青。『白蛇伝』の主人公・白素貞の従者の名前さねぇ」
人間の男と恋に落ちた白素貞を、高名な僧侶が滅ぼそうとする。白素貞の従者の小青は、主を救わんと必死の思いで僧侶に立ち向かう。
「まあ、日本じゃ滅多にないみたいだけど。国によっては改名自体『良くある事』さねぇ」
本名以外の名で呼び合うことが普通という国もある、と九十九は付け加えた。
翠蓮も無言で思案する。
(小青殿にとってのクー・シー殿とは『主』以上の――『母親』とも言える存在なのやも知れぬの)
愁也の言う通り、親が子につける名は、人生最初の贈り物でもある。
小青は余りにも相応しい名を与えられたため、生き方を縛られているのかもしれない。
「名前を変えた所で過去を消せる訳ではなかろう。だが、新たな一歩を踏み出す切掛けに出来るやもしれぬでな」
翠蓮がそう言うと、櫟 諏訪(
ja1215)がちらりと時計を見上げた。
「とにかく小青さんが本当はどうしたいのか、今日は少しでも教えてもらえたらいいですねー?」
重い空気を追い払うように、諏訪が穏やかに皆を促した。
●
遥久が窓を開けた。カーテンを揺らして初夏の爽やかな風が吹き抜ける。
「虫干しを兼ねて、ですね」
まずは書架ごとに中身を取り出し、蔵書リストと照合。別の棚の本はとりあえず脇に。本に傷みがないかチェックして、棚に戻す。これが作業の流れだ。
「書物は好きじゃが、さて、未経験の儂でも役に立つかのう……?」
ひとまず、翠蓮は本を運びだす。
「あの、すみません」
不意に頭の上から声がかかり、見上げると梨香が物言いたげに翠蓮を見ていた。
棚の隙間に落ちた本に、あと少し梨香の手が届かない。
「あれを取ればいいのじゃな? お安い御用じゃ」
翠蓮は長い腕を伸ばして、本を救出した。
「梨香ちゃん学園生活どうよー、謳歌してる? あ、それも貸して」
友真が積み上げた本を軽々と持ち上げた。
「なあ、女子ちゃん達ってどんな本好きなん?」
「それを私に聞きますか……」
梨香はひきつった笑いを向けた。
「や、ほら! もっとかる〜い感じで、な? 今日は俺が、肩の力の抜き方を教えt……」
じーっ。
梨香ではなく、その後方から友真を見つめる遥久の視線に気づき、友真は言葉を呑み込んだ。
「いや、あれやで。やるべきことはやった上でのほらそれがアレで!」
作業台では愁也がどんよりと曇った目で座っていた。
「……図書館ってさあ、眠くなる魔法でもかかってんのかね」
実は友真も欠伸を噛み殺していた。
「この気温、静かな雰囲気。LvMAXのスリープミスト感あるで」
ふたりは眠気と戦いながら、本のチェックを始めた。
そうまでして頑張ったのは……。
「普段手に取らない本も多いですし、興味深いですね」
などと、遥久が愁也と友真に輝く笑顔を向けるからである。
「あ、うん、キョーミ深いよな!」
「すいません、今なんかすっごい、聖なる刻印いただきました!」
思わず座り直したときだった。
「お前達、驚くほど書物が似合わんな」
ふたりは同時に振り向いた。
コンビニの袋を提げた小青が、あきれ顔で立っていた。
「久しぶりですねー? 元気でしたかー?」
諏訪がいつも以上に穏やかな笑顔で声をかける。
「うん。元気だ。――ああ大八木、これ」
「すみません、助かります」
小青は梨香に袋を渡す。中身は飲み物のペットボトルだ。
――買い物ができるんだ。
それだけのことで、これまで見守って来た者達は安堵する。
「小青さん、今日はよろしくお願いしますね」
琴音が声をかけると、小青は頷いて本の山を興味深そうに眺めた。
「私にできることはあるか」
琴音と並んで座り、チェックに加わる。
どんな本を読むのかと問えば、まだ新聞を読むにも苦労するので、図鑑などを眺めるのが好きだ、と言った。
元の棚に戻す作業は、長身の翠蓮と遥久が担当していた。
「儂は小田切翠蓮と云う。宜しくのう」
その顔を小青はじっと見つめた。
「……古そうだな」
「くくっ、わかるかえ? おんしより古いかもしれぬぞ」
翠蓮は冗談めかして笑った。
小青が運んできた本を受け取り、遥久が尋ねる。
「多少はこちらの生活に慣れましたか」
「ああ。あるじ殿のほうが、私よりも大変そうだ」
主殿とは、取り敢えず主従となった堕天使のことである。
「そういえば一緒に住んでいらっしゃるのでしたね」
暫く取りとめもない会話を交わした後に、遥久がふと呟いた。
「……学園に来たことを、後悔してはいませんか」
小青が遥久の横顔を見つめた。
生きて欲しいと願った。
その為には呼び寄せるしかなかった。
それが小青にとっての『幸せ』なのか、今でも確証はもてないでいる。
「お前はもう少し気楽でいいと思うぞ。あいつ程でなくとも」
小青はそう言って、踵を返す。
「……色々と気苦労が絶えないものですから」
遥久が思わず苦笑を漏らした。
「へっくし!」
愁也がくしゃみしている。
「埃がー! お、そろそろ昼か。なあ、いい季節だし、昼飯は外で食おうぜ!」
小青が「ほらな」とばかり軽く肩をすくめた。
●
遅咲きの八重桜が見える場所で、弁当を開く。
「前に約束した花見だぜ! 間に合ってよかったな」
愁也がうきうきと敷物を広げた。
本当はもうひとり、居て欲しかった。だが、今は口にしない。
「皆さん良かったらどうぞですよー?」
諏訪が重箱に詰めたおかずとおにぎりをすすめる。人間だった頃の小青の好物である月餅も。
「お前さー、ちゃんとメシ食ってるか?」
愁也が取り皿におかずをとりわけ、小青に渡す。
「食べる必要がないんだ」
「でも味はわかんだろ? 旨そうだなと思う物だけでも食えよ。食事ってのはそういうもんだ」
困ったような顔で皿に手を伸ばす小青が、一瞬驚いて身構える。
よく見れば、三毛猫が一匹、足元を通り抜けたのだ。
「猫……?」
「ライム、てぇ名前さね」
九十九が手を伸ばすと、ライムはすぐに駆け寄り膝に飛び乗る。
「よくなついているな」
「実はあっちが本体だそうですよー?」
「えっ!」
諏訪のどこまで本気かわからない口ぶりに、小青はまじまじとライムを見つめる。
一息ついた頃、九十九が二胡を静かに奏で始めた。
「懐かしい音色だ」
「弾いてみるかねぃ」
「あ、いや。弾けないんだ」
小青はしばらく楽に耳を傾け、それからぽつぽつと自分のことを語り始めた。
物心ついた頃から芝居の一座の下働きをしていた。
夏も冬も、誰かのつま弾く音曲が流れていた。
「でも嫌いじゃなかった。音楽も、芝居も」
きいきい声で怒鳴る役者が、ひとたび舞台に上がると絶世の美女となる。
だが小青の前に現れた天使クー・シーは、役者などとは比べようもなく美しく、畏怖すら感じさせた。
天使によって使徒として天界に。それからの小青は幸せだった。
「夢のようだった。腹は減らないし、凍えることも無かった。なにより、クー・シー様のお傍にいるのが嬉しかったんだ」
だからクー・シーの堕天を信じたくなかった。
主はきっと「誰か」に囚われたのだと。
主が天界に戻りさえすれば、全ては元通りになるのだと……。
「あの頃に帰りたいのだ。むろんそれが叶わないことも知っている。だからどうすればいいのかわからない」
目を閉じる。
二胡の音は物悲しく響き、初めて主と出会ったあの大地を翔る乾いた風を思い出させた。
翠蓮は煙管片手に、空に向かって煙を吐く。
「小青殿、おんしはこの世界で何を為したい? 望みは何ぞ?」
小背は首を横に振った。
「例えばじゃ。大切な存在の為に戦う、強くなる為に戦う……それは間違っていると思うかえ?」
「間違っていないと思っていた。だが今はわからない」
「だが『命は“二番目”』であるからの」
翠蓮は微笑を収める。
「自分の中で命に代えてもと思う何かがあらば、それを求めるもよいのではないか?」
小青は暫く黙りこんでいた。
見上げれば若葉の狭間で八重桜が重く揺れている。
「私は幸せだった。幸せということを知った。それはクー・シー様に与えられたものだ。だから私は、あの方の幸せを望む」
再び正面を見る小青の目に、迷いはなかった。
「大事な方が幸せではないなら、自分も幸せであるはずがない」
二胡は小青を励ますように響く。
遥久はわずかに目を伏せた。
クー・シーが池永真弓として堕天したのは、それが彼女にとって幸せだったからだろう。
楽しいことばかりではなかったはずだ。
それでも真弓は自分の道を選んだ。
自分達に託した言葉は――「使徒を頼む」。
どの道ずっと一緒にはいられないと、真弓は知っていたのだろう。
拾った子が自分の手を離れても生きられるようにと――真弓もまた、小青の幸せを願っている。
友真が紙コップのコーラを小青の目の前に突き出す。
「飲み物はいけるんやろ? 水でもええんやけど、やっぱ美味しいほうがええしな!」
「ありがt……ぶふぉあっ!?」
「あ、炭酸あかんか!?」
たくさん話を聞きたいと思っていた。
何がしたいのか教えてくれたら、手助けしようと思っていた。
ただ笑って欲しいから。
けれど……。
「俺、なんも知らんかったんやな」
好きなモノも。昔のことも。
「それはお互い様だ」
涙をにじませ、それでも小青はコーラを口に含む。
諏訪がおてふきを差し出した。
「何というか、色々なことが漠然とし過ぎているのですかねー?」
自由がなかった頃は何も考えられなかっただろう。
そして天使の傍では、何も考えずにいられた。
今、好きに生きろと言われても、世界は小青の手に余る。
「足元と、これからの歩く先を見るために。学校に所属するのもいいかもしれませんよー?」
戦うだけが撃退士ではない。
こうして理解しようと歩み寄る学園生もいるかもしれない。
愁也が小青の顔を覗き込んだ。
「あのさ。俺は『自分が自分の生きたいように生きること』が幸せだと思ってんだ」
水が流れるように、風が吹くように。心の赴くままに生きる。
「そのためならいくらでも助ける。手を貸す。一緒に考える……大事な友達だからな!」
ニッと笑い、小青の頭を軽くぽんと叩いた。
「小青殿、我々はいつでも貴女の隣にいますよ」
遥久は名前に力を籠める。
琴音が小青の背中にそっと手を当てた。――いつかのように。
「皆、応援しています。でも歩くのは自分の足です」
「……わかった。もう少しだけ考える時間をくれないか」
今少し、『小青』として。
微かな温もりの先を探るように、使徒は目を閉じた。
<了>