●
晴れ渡る青い空、水平線に盛り上がる白い雲。
完璧なまでの夏の海だった。
「皆さん、今日は宜しくお願い致します」
撃退署員の四方が丁寧に挨拶し、背後の集団を紹介した。海上保安庁の職員と、四方の同僚が数名である。
小田切ルビィ(
ja0841)は早速デジカメを取り出し、ウェットスーツ姿の一団に撮影の許可を求めた。
「あっ……」
思わず呻く中山律紀(jz0021)に鐘田将太郎(
ja0114)が尋ねる。
「どうした、中山?」
「あ、いやちょっと……ははは」
ルビィが所属するのはエクストリーム新聞部。ちゃんと取材を念頭に置いて行動しているルビィを見て、律紀は自分も一応新聞同好会の一員であることを思い出したのだ。
(しまった……取材のことすっかり忘れてた……)
言い訳すると、律紀は舞鶴に幾度も出動している。それは全て悪魔勢力と戦う為だった。なのでこの場所は取材との関連付けができていないのである。
それでもせめて、向こうの部員さんに挨拶でもさせて貰おう。そう思い、画像を確認しているルビィに声をかけた。
「どうも、中山の弟です。良い写真が取れましたか?」
ルビィは快くデジカメの画像を見せてくれた。
「ああ。本物の“海猿”って奴は、やっぱ格好良いぜ」
「格好良いですね! いや、カメラマンのテクもすごいと思います」
お世辞ではない。多少は律紀も写真をかじっているので、よくわかるのだ。
「そうか? ま、良い相棒もいるしな」
愛用のカメラを手に、ルビィがニヤリと笑って見せる。
広い砂浜には訓練の対象地域を示す目印の旗が立ててあった。
「ここの水道を使っていいんだな」
鴉乃宮 歌音(
ja0427)は小柄な身体に背負った大量の荷物を、流し場の近くの平地に下ろす。
恐らくこの砂浜も普段なら、海水浴客がごった返し、沢山の出店も出ているのだろう。
だがコンクリートの土台にテント小屋の名残のような物幾つかだけが放置されている現状は、何もないよりも却ってうら寂しく感じられる。
少し険しい顔で、巌瀬 紘司(
ja0207)は辺りを眺めた。
(まだ復興には遠いか……)
ずっとこの土地を解放する為に闘ってきた。そして仲間と共に悪魔ゲートを破壊した。
それでも人の日常はまだ戻らない。
(アフターケアも必要ということだな)
紘司は軽く息を吐き、すぐに気を取り直す。
「手伝おう」
声をかけると、歌音が顔を上げた。
「ああ、ではこちらの支柱を頼む」
「分かった」
余計な事を言わない同士が、手際良く黙々と休憩所を整える作業を進める。
「先にこれ洗って来るからな」
地堂 光(
jb4992)が大鍋を幾つか重ねて運ぶのに、北條 茉祐子(
jb9584)も慌てて後を追う。
「あの、お手伝いします」
鍋や食器類を洗いながら、茉祐子が遠慮がちに話す。
「私、こういう訓練って大事だと思います」
公的機関に所属する職員にも一般人もいれば撃退士もいる。撃退士だって万能ではない。互いの能力を補完し、海での事件に備える訓練には大いに意義があると思うのだ。
「でも私は、大したお役には立てそうもありませんから……せめて休憩所のお手伝いを頑張ろうと思います」
黙々と手を動かし続ける光。だが少し気詰まりな間の後、不意に口を開いた。
「役に立てないってことはないだろ。訓練で体力消耗した連中のフォローも大事な仕事だ」
ちょっとぶっきらぼうだが温かい言葉だった。
「そうですね……がんばります」
茉祐子がほっとしたように微笑んだ。
訓練計画のおさらいの後、それぞれが配置につく。
「うん、日ごろの訓練や心構えが、いざというときに役に立つんだよな」
若杉 英斗(
ja4230)はキリリと顔を引き締め、海を眺める。
「俺も精いっぱい協力しよう」
そこに背後から声がかかり、英斗が振り向いた。
「要救助担当の方は、念のためにこちらのライフジャケットを使用してください!」
海上保安庁の女性職員がオレンジ色の救命具を配っていた。そこには赤いラベルに白抜きで『要救助者』とでかでかと書いてある。
「俺にも一つお願いします」
「どうぞ。付け方は判りますか?」
にっこり笑いながら職員が世話をしてくれる。広報だろうか、なかなかの美人である。
「服着たまんまの方が良いのか? それとも水着?」
ルビィが確認すると、遭難者にはどちらもいるので任せるとのことだった。
「成程ね。じゃあ俺は『沖の方まで流されて溺れかけている一般人』ってことにすっかね」
ルビィは服の上から救命具を身につけた。
「窮屈ねえ。仕方がないけど」
不満そうな口ぶりのエルナ ヴァーレ(
ja8327)が、Tシャツの上から救命具をつけた。
Tシャツの下こそビキニだが、普段のスタイルが結構セクシーな衣装なので、却って露出が減っているぐらいである。
「まあいいわ。じゃあちょっと頑張ってこようかしら、うふふ……」
エルナは意味ありげに微笑み、砂浜を横目に見た。どう見ても訓練より何か別の目的がある雰囲気だ。
エルナの視線の先では、律紀が身震いしていた。
「なんだろ、これ……」
「大丈夫か? 風邪気味なら無理するんじゃないぞ」
将太郎が気遣ってくれるが、どうも風邪とは違う。
「そういうんじゃないんですけど、なんか嫌な予感が」
「おいおい、珍しいな。お前がそういう縁起でもないこと言うなんて」
笑いながらぐしゃぐしゃと律紀の髪をひっかきまわす。
「でもそれ位の本気で取り組まないとな」
イツキ(
jc0383)は端正な顔を引き締め、海を睨むように見つめていた。
「まあな。俺達応援担当は特に気合入れていくとするか」
将太郎が頷くが、イツキの脳内では別の考えが渦巻いていた。
(万が一にもそんなことがあってはならん。だが、もしもだ。もし妹が溺れたりした時には……、何時でも助けに駆けつけねばならん!!)
イツキにとって最も優先すべきは最愛の妹の身の安全である。
眉間の皺がぐっと深くなった。
(いや、妹は泳げる。当然だ、俺の妹なのだからな!)
脳内ひとり会議はどんどんヒートアップ。
(が、然し! いつ何時、何があるか分からん! それが人生という物だ。だが安心しろ、その時には……その時には、お兄ちゃん何があっても駆けつけるぞぉおおおおお!!)
ざっぱーん。
打ち寄せる波に誓うイツキだった。
メイシャ(
ja0011)は渡されたオレンジ色の物体をしげしげと眺める。
「……そうだな、いつ何が起きるか分からん」
何やら思いついたようにブツブツと呟くメイシャに、クリエムヒルト(
ja0294)が小首を傾げた。
「メイシャちゃんどうしたの〜?」
「いや、訓練はしておくに越したことはない。微力ながら私も助力しようと思ってな。……ところでクリエム、眼鏡は大丈夫なのか?」
「え〜?」
四苦八苦しながらライフジャケットを身につけるクリエムヒルトだったが、眼鏡をかけたままである。
「うんー、眼鏡が無いと困るからね〜。あはは、何にも見えなくなるからなー、溺れるより大変だよー」
「いやそうではなくてだな……」
「有難うね、メイシャちゃん〜。うん、海水に浸からないように気をつけるよ〜!」
だったら外してどこかに保管した方がいいのではないか。
メイシャはそう言いたかったが、クリエムヒルトの鉄壁天然ボケが遮断し、意図が伝わらない。
(流れぬように祈るしかないな……)
いきなり不安になるメイシャである。というか、不安しか見えない。
「ええと、ディアボロ役の方はどこにいらっしゃいますかー?」
黄色いゼッケンを抱えた大八木 梨香(jz0061) が叫んでいる。
「ん、こっちだよ〜♪」
柔らかく笑いながら、ジェラルド&ブラックパレード(
ja9284)が軽く手を振る。その目は何やら得体の知れない光を湛えていたが……。
「ああ、すみません。ご面倒ですけど、これを身につけていただきたいそうです」
蛍光色の黄色いゼッケンに黒々と『襲撃者』の文字。
普段通りの七分袖の黒いシャツ姿で、如月 千織(
jb1803)が軽く肩をすくめる。
「訓練とはいえ、こんなにあからさまなのもどうかと思いますけどね」
「ですね……。ただ万が一、本当の天魔が現れた時に対応が難しくなるからだそうです」
「成程。そういうことなら了解だ」
龍崎海(
ja0565)が頷き、手早くゼッケンを身につけた。
「んじゃ時間まで、ちょっと準備して来るね☆ またあとで〜♪」
ジェラルドは悪戯小僧のような笑顔で、岩場へと向かう。
●
救命具を身につけ、天草 園果(
jb9766)は長い長い黒髪を邪魔にならないようにきちんと纏める。
「これで大丈夫でしょうか……?」
ヴァンサン・D・バルニエール(
jb9933)は不安そうに自分を見る金の瞳を優しく見つめ返した。
「くれぐれも無理はしないでください、天草さん」
「は、はい」
園果はライフジャケットの紐を締め直すふりをして、何となく目を逸らしてしまった。
先輩と一緒の海。そう思うと、胸が高鳴る。だが園果はその気持ちを振り払うように軽く自分の頬を叩く。
(まずはお仕事をしっかりこなしてからですね)
自分に言い聞かせ、先に立って波打ち際へと向かった。
ヴァンサンにとって、普段大人しい園果がこのような訓練に参加すると言いだしたことは驚きだった。と同時に心配にもなる。そこでさり気なく園果を見守ることにしたのだ。
(私の目の前で怪我などさせる訳にはいかないしな)
ヴァンサンは園果に少し遅れて、海に入って行く。
「ごめんごめん、遅れた!!」
キュリアン・ジョイス(
jb9214)が走って来た。
「えっと人が足りないのはどっちかな?」
黄色いゼッケンとオレンジのライフジャケットを見比べた後、後者を手にする。
「よし、じゃあ溺れ役は任せとけ!」
照れ笑いのような誤魔化し笑いのような表情で海へ。
(取り敢えず午前はしっかりやらないとな! ゆ、夕方になったら……)
少し熱くなった頬を冷やすように、キュリアンはざぶんと潜る。
それぞれ思惑はあれど、任された仕事はこなすのが撃退士だ。午後からの自由時間を楽しみに、まずは任務に専念する。
水着姿のユウ(
jb5639)はゴムボートを用意し、砂浜に置いた。ふと気がついて、エルレーン・バルハザード(
ja0889)に声をかけてみる。
「途中までご一緒しますか?」
「わあい、ありがとう! いっしょにこぐね!」
エルレーンはゴムボートを海に向かって押し出してすぐに乗り込んだ。
「救助くんれんかあ、こうゆうのすごい大事だよね」
真面目な顔でオールを操るエルレーンに、ユウも頷く。
「舞鶴市が平和を取り戻したことをしっかりPRして、観光客に戻って貰わなければいけませんしね」
海は太陽の光を照り返し、キラキラと輝いている。
元々近畿地方では、海水浴客には水のきれいな日本海側の人気が高い。
だが目に入る砂浜にはほとんど人影がない。
「こんなに素敵な海なのに勿体ないです。微力ですが、何とか力になれるように全力を尽くさないとですね」
「うん! わたしもいっしょうけんめぇ、がんばろっと」
\└(^o^└ )┘/
その瞬間目の前に現れたモノに、ユウは一瞬絶句する。
何故かエルレーンは『変化の術』で謎の生き物に変身していたのだ。
((((┌(┌ ^o^)┐┌(┌ ^o^)┐┌(┌ ^o^)┐
└(^o^└ )┘└(^o^└ )┘└(^o^└ )┘))))
楽しそうにゴムボートの上を走りまわる、白くてもちもちしたナニカ。
一応『要救助者』と書かれた赤いラベルはくっついている。だがしかし。
「エルレーンさん……?」
何故その姿に。尋ねるより早く、エルレーンだったナニカは短い手をぶんぶんと振った。
「あっ、ここまでありがとうねー! それじゃさっそくいってみよー!」
ざぶん。
「大丈夫でしょうか……」
色んな意味で。
ユウは、波の上を駆けて行く謎の物体をただ見送るしかなかった。
英斗は泳いで沖に出た。足がまだ届く辺りで泳ぐのをやめ、周囲を見渡す。近くには泳いでいる人影はなく、沖には白い船が二隻見えた。船体に書かれた文字から見て、海上保安庁の船らしい。
そのとき、船がサイレンを鳴らして訓練の開始を告げる。
「お、始まったな」
英斗はとりあえずその場で仰向けに浮かんでみた。ライフジャケットが少し邪魔だったが、この姿勢が一番楽だ。
救助担当の人が来るまで、ぼんやりと青い空を見ていることにする。
(……どうせなら、きれいでカワイイひとに救助されたいなぁ)
ちょっと待て。さっき見たはずだが、一般人の救助担当はガチムチの『海猿』お兄さんたちだ。
(あー……しまった。襲撃担当の人と打ち合わせしておけばよかったんだ)
そうすれば英斗は完全に要救助者だ。相手が撃退士ならワンチャンありである。
(もしかして……もしかしてだよ)
閉じた瞼の裏に英斗を覗き込む心配そうな顔が浮かぶ。うるんだような大きな瞳が印象的な美少女だ。英斗の耳には、彼女の心配そうな声もはっきり聞こえる。
『しっかりして、英斗君!』
(可愛い声だな……)
そこに襲いかかる凶悪なディアボロ。だが彼女は動じることなく、ディアボロと英斗の間に両手を広げて立ち塞がるではないか。
『ここからは行かせないわっ! 英斗君は私が守るっ!!』
(そうそう、これがきっかけになって……うおっ、いいね!)
幸せそうな微笑を浮かべて、英斗は一人波間に漂う。いかん、何だか走馬灯の様だ。
だが美しい幻想は、思わぬ声で遮られた。
「キャーリツキクーンタスケテー」
すぐ傍で浮かんでいるのはエルナだ。誰が助けに来るんだと突っ込みたくなるような、見事な棒読みである。
「リツキクンーコノママジャシンジャウワー」
ひどい棒読みなのだが、どういう訳かよく響く奇跡の声。
英斗とエルナの身長は余り変わらない。つまり、英斗の足がつくということは、エルナも立てるはずなのだ。
(どうするんだろう、中山君)
首を向けると、何か悟りを開いたかのような無表情の律紀が見えた。
浜辺の応援担当にもその声はよく聞こえていた。
「呼んでるな」
「デスネ……」
将太郎が気の毒そうに律紀を見る。
イツキは真面目な顔のままで、海を見つめていた。
「訓練とは言え、なかなか真に迫っている者も居るのだな」
「何だって……?」
冗談を言っているようには見えないイツキの様子に、将太郎が首を傾げる。
だがイツキの脳内では、やっぱり別の光景が広がっていた。
(戦闘で怪我をしたうえで更に戦闘が続くとなると、かなり消耗しそうだな)
最悪の場合、命にもかかわる。
(嗚呼! もしもお前がそんなことになったら……お兄ちゃんは心配だぞ! いや、然し! 頑張ると決めた妹を見守ると決めたのだ! 頑張れ妹よ……!!)
脳内ひとり会議終了。イツキはたった今、同行者に気付いたような顔をする。
「ああ、そうか、応援も確りせねばな。この場合は助けに行くのか?」
「デスネ……」
「ほらよ」
「アリガトウゴザイマス」
律紀は将太郎から浮輪を受け取り、乾いた笑いを浮かべた。
(どう見てもネタでも無視はできない性格だろうしな)
将太郎思った通り、律紀は浮輪を片手にざぶざぶと海に入って行く。
エルナが両手を上げて派手に水面をかき乱し、ニヤリと笑った。
英斗の眼にもそれは見えた。そして英斗は、再び目を閉じた。
(あれは俺が思っている美少女とは違う生き物なんだ……!)
恐ろしい現実と美しい幻想。英斗は後者に賭けることにしたらしい。
律紀がエルナの前に浮輪を差し出した。
「大丈夫ですか、エルナさん。これに掴まってください」
充分な距離は取っている。溺れる者は藁をも掴むというのは事実だ。だから救助者がしがみつかれて共倒れにならないようにするのは鉄則である。
勿論、それは相手が本当に溺れている場合だ。そしてエルナの場合はそうではない。
「律紀君……かかったわね!!」
海坊主ならぬ海の魔女。
白い二本の腕が海面から伸び、浮輪を一切無視して律紀に絡みつく。
「おーっほっほ、水難救助では救助者が暴れて逆に危険になることもあるのよー!!」
「いやだからそれは分かってるからッ!」
「海の怖さを心の底から思い知るがいいわ!!」
もう海の妖怪である。いつの間にか背後に回って抱きつき、足でがっちり相手を抑え込む。
(年上女性に密着されて、健康な男子ならば冷静でいられようか。いや、そんなはずはない! さあどうするの、律紀君!!)
――これが陸地ならエルナの思惑通りになっただろう。
「もう、本当に危ないですから。ちゃんと救助されてください……っ!!」
突然律紀がエルナを背負ったまま、身体を前に折ったのだ。
「ぎゃあああああ!?」
不意を突かれ流石のエルナも慌てて力を抜いてしまった。
そのまま律紀の背中から吹っ飛び、飛んだ先は……
ゴッ
「うわあああああ、若杉さん、すみません!!!!」
ぷか〜りと浮かぶ男女二人。
そこに大騒ぎを心配して、将太郎がやってきた。
「大丈夫か、中山!」
「あ、鐘田さん! 俺は大丈夫です、けど……」
大丈夫じゃない二人がここに。
将太郎は溜息をつき、持ってきた浮輪をひっかける。
「全く、人騒がせな連中だな」
巻き添えを喰らった英斗は、不本意にも美少女どころか、男に救助されることとなる。意識を失っていたのはある意味幸せだったかもしれない。
「魔女に勝つなんて、やるようになった……わね」
エルナは最後にそう呟き、がくりと浮輪に倒れ伏した。
海岸で出迎えたイツキは眩暈を感じた。
(妹が、最愛の妹がこのような姿になったら、お兄ちゃんは……!!)
「さてどうするかね? 二人とも息はあるが」
「そうですね……応急手当、必要かなあ」
休憩所に向かいながら将太郎と律紀が言いあっていると、イツキが真剣な表情で近付いて来た。
「頼む、応急手当ての方法を! 是非、伝授して頂きたい!」
「え。あ、はい」
まあ覚えておいて損はない技術だが。
シスコン兄に、他で役立てる気があるのかどうかが問題である。
●
クリエムヒルトは海面にぷかぷか浮かびながら、浜へ引きずられて行くエルナと英斗を見送った。
「なんだか海難救助訓練って、結構大変なんだね〜」
感心したように呟くのに、メイシャが眉間に皺を寄せた。
「あれは少し違うような気もするが」
まあそれでも、溺れている人間が何をするか判らないのは本当だ。
「よし、我々も実践的な訓練にしよう」
メイシャはカッと目を見開いて両手を上げる。
「足がッ! 動かないぞ!!」
「メイシャちゃんー! 大丈夫!?」
おろおろするクリエムヒルトに、小声でメイシャが落ちつくように声をかける。
「大丈夫だ、これは足が攣ったという設定の演技なのだ」
クリエムヒルトはほっと息をついた。
「なあんだ〜びっくりしたよー。よーし、私も頑張ろうっと」
そこまで言った直後、クリエムヒルトが小さな叫び声を上げた。
「きゃあっ!?」
「うむ、中々の演技だなクリエム」
「違うのー! 嗚呼ー大事な眼鏡が〜!!」
良く見ると、クリエムヒルトの顔からトレードマークの眼鏡が消えていた。
「だから置いてくればよかったのだ。落ちついて、そのまま浮かんでいると良い」
そう言うとメイシャは息を吸い込み、勢いをつけて潜る。幸い、眼鏡はすぐ足もとに転がっていた。
(良かった、余り深い場所でなかったのも幸いしたな)
海底の眼鏡を拾い上げ、浮上する。
「ほら、もうなくさないように気をつけると良い……ッ!?」
「わあ〜ありがと、メイシャちゃん〜! 流されちゃったら如何しようかと思ったよ〜」
クリエムヒルトはのほほんと両手を差し出す。
だが眼鏡を握ったまま、メイシャはばしゃばしゃと水を跳ねあげている。
「メイシャちゃん、すごいね〜迫真の演技だね〜」
「…………!!!!」
本当に足が攣ったのだ。
このときのメイシャの危険な状態にクリエムヒルトが気付いたのは、それから暫く経ってからで。
「きゃああああメイシャちゃん〜!?」
その声に黒い大きなゴムボートが近付き、海保の救助担当員がメイシャを引き上げてくれた。
「いやあ、すごい演技ですね。一瞬焦りましたよ」
「ははは、何の、これしき……!!」
元々色の白いメイシャの顔から完全に血の気が引いていた。
救助担当は続いて、すぐ近くで助けを求める声を耳にする。
「たす、け……!!」
ルビィはボートが近づくタイミングを見計っていたのだ。
(普通こーゆー時ってのは意識失って脱力するか、暴れるかのどっちかだよな?)
そう考えて、暴れる方にしたらしい。
わざと大げさに水を跳ね飛ばし、助けを求めてみる。
「今助けるから、まずはこれに掴まってください!」
流石慣れている。すぐに浮輪が投げ込まれ、ほとんど波しぶきも立てない程静かに別の担当者が水に入る。
(流石だぜ。よし、じゃあ本気で行くか!)
ルビィは慌てて浮輪を掴もうとして、弾き飛ばしたふりをする。そして更に暴れる。
背後から近づいた職員が腕を回し、浮輪を握らせた。
「もう大丈夫ですよ。しかし久遠ヶ原の学生さんは、流石に元……気で……」
救助の職員はそこまで言って、異様な視線に思わず身震いする。
┌(┌ ^p^)┐「……ホモォ……」
何やら嬉しそうに二人を眺めているのは、エルレーンの変化した謎の物体。
……どうやら餌を与えてしまったようだ。
「ごふっ」
流石の『海猿』も、この展開は予想外だったらしい。どんな事態にも冷静な行動を取れるよう訓練を受けているはずなのだが……。
「おいおい。この程度でダウンしてくれるなよ……!」
硬直している職員を、ルビィの方がボートに押しやる羽目になる。久遠ヶ原では日常茶飯事なせいか、こちらは動揺していないようだ。
そこでエルレーンははっと我に帰り、今日の仕事を思いだした。
「いけない、おしごとしなきゃ。たすけてぇーたすけてぇー」
すごい棒読みで、短い手足をばたばたさせる。
エルレーンは真面目に、動物を助けることだってあるだろうという考えである。
だが、救助担当は困惑している。
もしエルレーンが『要救助者』の赤いラベルをつけていなかったら、撃退署員を呼んで模擬弾を撃ち込んでもらっていたかもしれない。
「一応、要救助者なんだよな……?」
恐る恐る海に入り、謎の物体を掴む。感触は、ふにゅん。もちもち。
「うひゃあっ!?」
これが地上なら、ひょっとしたら癒し効果もあるかもしれないが……反射的に投げてしまった。
「きゃああああ!?」
ばしゃーん!
びっくりした拍子に、エルレーンの変化の術は解け、ワンピースの水着姿になる。
「ああ、びっくりした! す、すみません、大丈夫ですか?」
「うぐぐ……これはやだったのにぃ」
スレンダーな肢体は充分可愛いのだが、そこは色々と気になる乙女心。
かっこいいお兄さんにボートに引き上げられながら、エルレーンは自分の寂しい胸元を呪うのだった。
●
ババババババ。
白い波を立てて、ジェットバイクが突っ込んでくる。
『ハッハー♪ どんどん沈めちゃおうねー♪』
スパンコール煌めく、身体にぴったりした黒い衣装はジェラルドだ。七色のスカーフが風に翻る。
設定:なんかすごく強いディアボロジェラ夫
なんでディアボロがジェットバイクに乗っているのか。
だが本人はそんなことはお構いなしに、実に楽しそうに小さなゴムボートに接近。
「きゃああ、助けてえ!」
ユウは普通の人っぽい精いっぱいの悲鳴を上げた。ディアボロが怖くて海に飛び込んだという流れである。ボートに掴まり顔と手だけを波の上に出して、助けを待つ。
『撃退士、出動願います』
要請を受けて、撃退署の黒いゴムボートが近付き、『ジェラ夫』とユウの間に割り込んだ。
「ああ、もうだめ……」
「しっかりしてください!!」
撃退署のボートを盾に、海保の担当者がぐったりとしたユウを引き上げる。
何だかようやく訓練らしくなってきた感がある。
「しかし……学生さん達、随分楽しそうだな」
模擬銃を構え、撃退署員の四方が苦笑いを浮かべた。
幾度か舞鶴市に出動してくれた久遠ヶ原の学生は、皆一生懸命に戦ってくれていた。だからこんな姿を目にした事がなかったのだ。
「よし、ではこちらも真剣にお相手しようか」
同僚に声を掛け、『ジェラ夫』に狙いを定める。その時、不意に日光が遮られた。
「何っ!」
上空を横切る影の正体は、翼を広げた海だ。
(すぐ近くに海上保安庁の職員もいる、撃退士なら多少妨害しても大丈夫だろう)
上空から位置関係を確認した上で、『幻影の鎖』で四方の動きを阻むべく接近する。
だが射程範囲に接近するより先に四方が模擬銃で攻撃してきた。こういう訓練は普段から行っているのか、足場の悪い小舟の上にも関わらず狙いは正確だ。
「成程、では目的を変えよう」
海は『星の輝き』で目晦ましを謀ると距離を取り、ゴムボートとは離れた場所へ。
「…………」
そこにはキュリアンがぷかぷか浮かんでいた。
「彼は大丈夫なのか」
海が少し心配するぐらい、一見死んでいるかのような見事な浮きっぷりである。
そもそもディアボロが命じられて人を攫うことはよくあることだ。念のための確認を兼ねて、海はキュリアンに向かって舞い降りると、抱きかかえた。
「息はあるな。安心したよ」
キュリアンは黙って片手を上げ、ピースサイン。
そこに撃退署員の模擬弾が飛んでくる。キュリアンを抱えている分、海の回避能力が制限される。
「集中して落とすぞ! 余り上空に上がると要救助者が危険だ、急げ!」
声を掛け合う撃退署員だったが、不意にひやりとした声が耳を掠めた。千織である。
海に気を取られている間に、船に乗り込んでいたのだ。
「聞こえませんか? 彼等が呼ぶ声が……」
さも楽しそうにくすくす笑う声。
千織のスキル、幻影の青い人形が居並ぶ姿に、撃退署員の背筋に悪寒が走る。
(ディアボロ役なんてそうそう経験できませんしね。精々、無害なスキルで楽しませていただくとしましょう)
無害か? そうなのか?
「しっかりしろ、田中!」
四方が同僚を叱咤する。どうやら四方にはスキルの影響がなかったようだ。
「くっ……!」
田中は歯を食いしばり、身体を動かそうとするが上手くいかない。その必死の形相に、千織がきょとんとした顔になり、さも意外そうに首を傾げた。
「あれ? ほんとにかかったんですか?」
お前がかけたんだろう! 田中の目がそう言っていた。
散々な目に合っている撃退署員たちにさらなる試練が。
「きゃー、ディアボロー、助けてくださいー」
園果が波にもまれながら、助けを求めていたのだ。……ものすごい棒読みで。
(……我ながら酷い棒読みですね。私に演技の才能は無いみたいです)
内心ちょっと恥ずかしい様な気もする園果だが、今回は訓練だ。要救助者と分かればそれでいいのである。たぶん、きっと。
見る見る接近して来るのは、『ジェラ夫』のモーターボート。千織と海の対応で手いっぱいで、撃退署員は防ぎきれない。
『ははっ、そんな力で誰かを守ろうなど……滑稽だね♪』
ジェラルドの長い髪が風にあおられ、秀麗な顔立ちを壮絶に彩る。
(相手は撃退士だしね☆ これ位でないと緊張感もないよ♪)
赤紫の光を纏う腕を振るい『【HT】Hit That』でスタンを狙う。
「え、ちょっと待ってください……?」
園果の表情がひきつる。そんな話聞いてないぞ状態だ。だがノリノリのジェラルドは高笑いを響かせる。
『弱者は悪だ! 無能は沈むが良い!』
「彼女に害を与える者は私が許しません」
ごごごご。
そんな効果音が聞こえるかのような真剣そのものの表情で、ヴァンサンがジェラルドを睨みつけた。しかもいつの間にか闇の翼を顕現し、上空に居る。
『イイね、相手してあげるよ♪』
ジェラルドは軽くウィンク。元より本気で戦うつもりはないのだが。
バリバリバリ。派手な光の応酬に、海面が照り映える。
ジェラルドが纏っていた派手なスカーフが、ふわりと海に落ちた。
『アハハ♪ やられちゃったねー♪ ……実戦なら、何人を助けられたかな?☆』
守る力がある者にしか、大事な物は守れない。
ならばどんなものからも守り抜く強い意志を持ち、普段から力を磨くこと。それが力を持って生まれた者の責任だ。
(なんてね? ま、訓練と言えど……リアルに……そして楽しくやらないとね♪)
にこにことさも楽しそうに、ジェラルドはただ笑うのだ。
●
紘司は果物を剥く手を休めて顔を上げた。
「派手にやっているな……」
浜の休憩所からでも、楽しそう……もとい、真剣な訓練の様子は何となく把握できた。
「そろそろ終了時間ですね」
「うん、そのようだな」
「!?」
いつも冷静な紘司が僅かに目を見開く。さっきから何だか暑い、いや熱い? ……と思ってはいたが。その暑さの中、歌音が怪しいバンダナ覆面姿で、只管大鍋に湯を沸かし続けているのだ。
反対側では光も鍋をかきまわしている。
「体力消耗した連中も多いだろう。塩分が摂れて体も温まるってもんだ」
鍋の中身を少しお椀に移し、光は自分ですする。
「うん、大丈夫だ。味見も仕事の内だからな」
どうやら出来は満足のいくものだったらしい。豚汁の芳しい香りがテントから流れていく。
別のテントにはシートが広げられ、『救護所』の張り紙が揺れていた。
「あの、ご気分は如何ですか……? 寒くありません?」
茉祐子が心配そうに声をかけたのは、横になった救助済みの面々である。
「あー、大丈夫よお……」
エルナが額に氷の入ったビニール袋を乗せて、手を振る。大判のバスタオルはふわふわで、冷えた身体を程よく温めてくれている。
「若杉先輩、大丈夫ですか?」
正座で覗き込む梨香に、英斗はばっと目を見開くと起き上がり、キリリと表情を引き締める。
「大八木さん、お疲れ様っ! 何が大丈夫なのかな!!」
「あ、いえ、お元気そうなら何よりです」
曖昧に笑う梨香。まあ目が覚めている(二重の意味で)なら問題ないだろう。
茉祐子はメイシャとクリエムヒルトの様子も確認し、それぞれを気遣う。
「コーヒーや紅茶は暖かい物も冷たい物もありますからおっしゃってくださいね。お腹がはすいていませんか?」
差し出す容れ物にはいっぱいの手作りクッキーと、並んだおはぎ。
「おはぎは祖母から教わったんです。あんまり上手にできなかったのですけど……」
はにかんだように茉祐子が笑う。だがすぐに食べやすいように、小さめに作られたおはぎはちょっといびつなところも含めて何だか暖かい。
「では折角なので、遠慮なく頂きます」
英斗がさっそく手を伸ばす。
訓練が終了し、海からみんなが引き上げて来た。さすがに疲れた顔である。
休憩所担当はここからが忙しい。
「ほら、ここに座って。良かったらこれも食え。この後遊ぶ時間もあるんだ、元気がカラじゃもったいねぇぜ?」
光はお盆に乗せた豚汁の椀を、次々と渡して行く。
「ドリンク類も用意してある。ここに置いておく」
紘司は声をかけながら、氷と飲み物を詰めた大きなクーラーボックスの蓋を開ける。
そこでふと、見知った顔に気付いて、紘司はペットボトルを数本抱えて近付いて行った。
「その節はお世話になりました。良かったら皆さんもどうぞ」
「おや、これは……お久しぶりです」
四方が笑顔を向けた。幾度も顔を合わせて来た紘司が初めて見る、心からの笑顔だ。
並んで腰かけ、何となく海を見る。高く昇りつつある太陽の光に、波は眩しく輝いていた。
「お陰さまで、かなり落ち着いています。ご協力ありがとうございました」
「いえ。此方としても、大変に世話になったことには変わりありません。……改めて、御礼申し上げたい」
向き直り、飽くまでも気真面目に軽く頭を下げる紘司に、四方が目を細めた。
「どうですか。舞鶴の海は美しいでしょう? ……皆さんに平和な舞鶴を見てもらえて、本当に良かったと思います」
もしかすると四方が今回の訓練に学園生を誘ったのは、それが目的だったのかも知れない。
「本来の活気を取り戻した姿を見ることができたのが、今回の何よりの報酬です」
紘司は静かに頷いた。
「ちょっと失礼」
近付いてきたルビィが軽く会釈する。
「もし良ければ、折角の機会なんで皆さんにインタビューでも、って」
「はは、じゃあ海保の方も呼んだ方がいいでしょうかね」
四方が気軽に応じた。ルビィは軽妙に話題を引き出して行く。
「……四方さんはうちの卒業生じゃないのか!」
「うん、別口ですね」
暫く静かに会話を聞いていた海が、思わず腰を上げる。
「ではどこで訓練されたのですか」
「私の場合は、親戚に神主がいましてね……」
「神主、ですか」
外部の撃退士にじっくり話を聞く機会は余りない。海保の職員も加わり、次第に人の輪が大きくなっていった。
「それにしてもさっきは本当に気を失ってるかと思いましたよ。中々の名演技でした」
「えっ、もしかして驚かせてしまったのでしょうか」
ユウが目を見開いた。
「いやいや、リアルで良かったですよ。実際……」
茉祐子は紙コップに入れたお茶を配りながら、興味深そうに話に聞き入る。
驚く声、笑い声。様々な雑談がとりとめなくかわされた。
後日ルビィの手により、この内容が写真と併せて校内新聞として発表されることとなる。
輪に加わる海保の職員の目の前に、小鉢が差し出された。
「これは無償提供だから遠慮なく食せ」
「え……」
小柄で長い髪、大きな瞳。それ以外は麦わら帽子と覆面バンダナで見えない。
小鉢の中にはそうめんがたゆたっている。
怪しい。物凄く怪しい。
「薬味もある。青葱だ、好きなだけ入れると良い」
今、日本各地で出没しているという謎の素麺振る舞い集団ぽいが、正体は歌音である。
「遠慮するな」
何故か通りすがりの宅配便のお兄さんまで引きとめて、素麺を食べさせている。
ちょうどお昼時なので、結構有難いかもしれない。見た目さえ怪しくなければだが……。
●
多少の疲れがあるとはいえ、自由時間をもらって何もしないのは余りにもったいない。
とはいえ。
「さっきまでさんざん海につかっていたから、あんまり泳ぎたいという気分じゃないな……」
素麺をすすりながら、英斗はぼんやりと海を見つめる。
「お疲れですのね」
隣に座って同じく素麺をすするのは、長いウェーブの金髪をふわりと垂らしたお人形のような少女である。
「え、ああ、ちょっと疲れてますね。暫くのんびりさせて貰おう」
英斗はそう答えながら、しばし考える。
(こんな女の子いたかな……? まあいいか。観光客かもしれないし)
ちゅるん。
素麺をすすり終え、先程の悪魔と打って変わった姿の千織が手を合わせる。
「ごちそうさまですの」
「良ければまだあるぞ」
相手の所属も容姿も全く気にしない歌音が、淡々と素麺を茹で続ける。
空になった鍋を綺麗に片づけ、光はうんと伸びをした。
「さて、と。この後はどうするか」
訓練が終わるまでずっと浜辺にいたので、泳いでみたい気もする。
何より海の幸に興味があった。
「少し見てみるか」
ふと見ると、海が学園指定水着に着替え、軽く準備運動をしているのに気づいた。
「今から泳ぐのか」
海が頷いた。
「訓練の間は襲撃側だったから結局泳いでないんだ。折角海に来たから、ちょっと泳ぎたくなって」
「俺と同じだな。ここは食える魚はいるかな」
海は少し考え込むような表情になる。
「どうだろう。漁港だが内海に居るかどうかは分からないな。船の往来も多いそうだから」
「よし、探してみるか」
光は銛を手に海に入って行く。
その沖を白い生き物が滑っていった。
Ξ┌(┌ ^o^)┐
エルレーンが変化の術と水上歩行を使っている。楽しそうで何よりである。
「クリエム、久々に遊ぶのも良いかもしれんな」
足が攣ったのも無事治り、メイシャが元気を取り戻したようだ。
「まってました〜!」
クリエムヒルトがぱちぱちと手を叩く。
「メイシャちゃんといっしょに、スイカ割りしたかったんだ〜。おっきなスイカもちゃんと用意したんだよー」
メイシャがひくっと口元を引き釣らせる。
「いやまあ、何をするかは見当がついたが。それにしても何処からそんな大きな西瓜を……」
「えへへ。偉いでしょ〜! 私が先に割る係りするね〜」
眼鏡をはずして、クリエムヒルトがもたもたと目隠しする。
「何、クリエムが西瓜を割るのか? よし、では私が誘導しよう」
にこにこ笑いながらメイシャが棒を握らせた。
「では二回だけ回すからな、転ばないように気をつけるのだぞ。それ、いーち、にーい……」
この二人の微笑ましいやり取りを見て、危険を感知するのが撃退士である。
素麺の鉢や果物やおはぎやペットボトルを握り締めたまま、一斉に立ち上がると、波が引いて行くように逃げ出した。
それに気付かず、手を離して数歩距離を取るメイシャ。
「よし、ではゆけ、クリエム!」
「……うわぁーふらふらするぅ……何にも見えないよ〜」
棒を手に、よろよろと歩きだすクリエムヒルト。メイシャは面白そうに方向を指示する。
「そう……もっと右……違う、そっちは左だ!」
「この辺かなー? ん? もう一寸こっちなの〜?」
クリエムヒルトはだんだんわからなくなってきた。
(うーんよくわからないなあ。取り合えず、メイシャちゃんの声のする方に行けば良いかなー?)
頼りなくふらふらと歩くクリエムヒルトの爪先が、明確な意思を持って方向を定めた。
「そう、あと一歩前進して……って……」
ようやくここでメイシャにも危険が迫っていることが分かった。だが、僅かに遅かったのだ。
「いっくよぉ〜!」
「だぁぁっ! それは西瓜じゃない! 私だ……っ!!」
真剣白刃取りの形で棒を受け止めるメイシャの雄姿に、拍手が沸き起こる。
「あれー? スイカどこ?」
目隠しを外し、クリエムヒルトはきょろきょろとあたりを見回す。
「スイカ割りはもういい、普通に切って食べるのがよかろう」
メイシャが手を捻り、棒をクリエムヒルトの手から奪い返した。
仲良し二人の楽しそうな(?)様子に、イツキは少し笑ってしまった。
(海遊び、か。いいものだ)
ハードな日々を送る撃退士だからこそ、息抜きも盛大になる。
折角なら妹も一緒にここに呼んで楽しませてやりたかった。
(今度誘ってみるとしよう)
その方が余計な虫もつかず、兄も心穏やかに過ごせるはずである。
「鐘田さん、折角だから泳ぎませんか?」
律紀の誘いに、将太郎が意味ありげにニヤリと笑った。
「いいけど。中山、俺がプレゼントしたアレ持ってきてるよなぁ?」
「アレ……ですか。えっとー……鐘田さんは?」
「俺? 勿論、白いのを持って来たぜ」
アレとは二月十四日にやり取りする物。そう、ふんどしである!
「も、持ってきてますよ、勿論」
ちなみに律紀が貰ったのは赤である。海での訓練に来てくれないかと誘った時点で、予想はしていた。だが……。
「でも、ええと……使うんですか?」
「当り前だろう? お揃いで泳ぐぞ!」
将太郎が勢いよく律紀の背中を叩く。
そこに背後から、不機嫌そうな女の声が聞こえた。
「なあに? 夏の海だっていうのに、男同士でいちゃいちゃしちゃって」
エルナが口を尖らせている。さっきの事を根に持っているのかもしれない。
「まあいいわ。あたいは夏の海を満喫するわよ!」
言うや否やTシャツをまくりあげた。
「「えっ……」」
勢いの良い脱ぎっぷりに、男二人の方がたじろぐ。現れたのは眩しい肢体にきわどいビキニ姿。
「何よお、海に来たら水着に決まって……」
にやり。
エルナはようやく気付いた。
「はは〜ん……もしかしてビジュアル的なモノだったのかしらん?」
白い指がつつ〜っと律紀の頬を撫でる。
「いや、はは……」
エルナの目に危険な光が宿ったと見るや、律紀はヘッドロックを決められていた。
「ぎゃああああああ」
「そうと分かれば改めて泳ぐわよ、律紀君!!」
エルナは問答無用で律紀を海に叩きこむ。
「ふっふっふ、いい訓練になるわよお。夏の思い出が増えたわね?」
密着MAXで耳元に囁く、これぞ魔女。
「勘弁してクダサイ……」
浜辺に残された将太郎は内心ホッとしていた。
(よかった、ホントは俺もふんどしは恥ずかしい……)
将太郎は暖かく弟分を見守っていた。一応、頃合いを見て助けに行くつもりもなくはない。
賑やかな声が響く中、園果は不安そうにあたりを見回す。
暫くして、休憩所の近くで所在なげに海を見つめるヴァンサンを見つけた。もうウェットスーツに着替えている。園果はほっとしたように微笑み、ゆっくりと近づいた。
「ヴァン先輩、お待たせしました」
「ああ、いや……」
ふと顔を上げ、ヴァンサンは僅かに目を見張る。
少し自信なげな園果の表情はいつも通りだが、フリルのついたワンピース水着は初めて見る。
「えっと……、似合いますか?」
可愛い。とてもよく似合う。見違えた。
そんな言葉が幾つも浮かんでくるが、上手く言葉が出てこない。
代わりに小さく頷くと、浮輪を渡して海へと誘う。
足がつかなくなった辺りで、ヴァンサンは園果の浮輪を軽く押して泳ぎ始めた。
「あの、さっきは有難うございました」
天魔(役)に襲われたところを、必死の形相で助けに来てくれたヴァンサンはとても頼もしかった。それはどんな言葉よりも、園果の心に強くヴァンサンの気持ちを伝える。
海と空の間に、二人きり。園果の声が真近に聞こえる。
かけがえのない時間。できればこのまま永遠に……。
「楽しいですね、先輩」
浮輪に腕を乗せ、あどけなく微笑む園果。ヴァンサンは答えにかえて、その腕に自分の腕を重ねた。
力強い夏の太陽も少しずつ西に傾き、風の向きが変わる。
「そろそろ撤収だな」
持参した素麺を全て茹で終え、歌音は大きな鍋を流し場へ運んで行く。
「余ったおやつは、良かったらお持ちくださいね」
茉祐子はそう言って、バスタオルやシートをたたみ始めた。
紘司は黙々とテントを片付けている。
「巌瀬さん、そっち手伝います!」
律紀が駆けより、鉄柱の金具を外していく。
「巌瀬さん、少しは泳いだりしたんですか?」
「いや、……ああでも、充分楽しんだよ」
紘司の口元に笑みが浮かぶ。その言葉は嘘ではない。
「なら良かったです。……もう心配ないですよね」
「ああ、そうだな」
短い会話。思うことは同じだった。
少し離れた岩場には、キュリアンと鏡月 紫苑(
jb5558)の姿があった。
「鏡月さん、足元に気をつけて」
任務ではあるが初めての一緒の海水浴、気持ちは初めてのデートでもある。
ぎこちなく差し伸べた手に紫苑がつかまる。
「ほらここ。ここからの眺めがナイスなんだ」
キュリアンが指さす彼方には大きな夕日が沈んで行く。
広い空と海がオレンジに染まり、点在する島が影絵のように見える。
「一緒に見られて良かった」
今日の思い出はきっと忘れないだろう。
そして思い出の光景が、これからもずっと平和な美しい姿でここにあるように。
願いの結晶のように、薄闇の迫る空に一番星が輝いていた。
<了>