◆雨露に揺れるはうつろいの花
雨。
天から滴る雫。その意味を、イメージを、どう受け止め捉えるかは十人十色、千差万別。
恵みの雨か、悲しみの雨か。
少なくともヤナギ・エリューナク(
ja0006)にとっては後者だ。
実父への不信感、家を飛び出して孤独になった日。力に目覚め、命あるものを切り裂く感触を知った日。
ヤナギの嫌な思い出に、雨空はいつだって付きまとっていた。だからこそ否応なく記憶を引きずり出す雨は嫌いだ。
分厚い灰色の空を仰ぎ、弱くない雨を一身に受ける。赤い髪も、トレードマークともいえる衣装も雨に濡れて、身体に張り付く。
そんな彼の姿を見て、迎えに来たセレス・ダリエ(
ja0189)は不安に駆られた。
「――なぁ、セレス……セレスは雨の日、好き……か?」
傘の下、不安気に自分を見上げるセレスに、弱々しい声で問う。彼の睫毛から滴り落ちる雫は、泣かない彼の代りに泣いているようで。
(知らない……。私の、知らないヤナギさん)
濡れる金色の双眸。悲しさを滲ませた愛しい顔。このままだと彼が消えてしまいそうだと錯覚するほど儚げで――。きゅっと締め付けられた胸を押さえる代わりに、持っていた傘の柄を握りしめる。
「雨の日……天気は、如何とも思った事が無いです」
彼にとっては特別な天気。けれど、彼女にとってはどうでもいい天気。
「そっか……俺は、嫌いだ」
ヤナギはセレスから視線を外して、紫陽花を見やる。
雨季に咲く、移ろいの花は絶えず咲き誇っていた。「移り気」と「浮気」という花言葉を持つ花は、ヤナギにとって家族を思い出す花なのかもしれない。
セレスはそっとヤナギへ傘を傾けた。
「私は……私が、ヤナギさんの傘になります」
雨など好きにならなくていいのだ。ただ、傍にいてくれればそれだけでいい。止まぬ雨はない。けれどこの雨が終わってしまえば、彼が消えてしまうかもしれない。それだけが怖かった。
「俺、お前を抱いている限り、好きになれるかもしンねーとも思う」
嫌な思い出を塗り替えるように、愛しい思い出を紡いで積み重ねて。そうすればいつかきっと、雨を好きになれる日も来るのではないだろうか。
それは希望なのかもしれない。そんな希望になると言った恋人にヤナギはそっと手を伸ばし、セレスはそんなヤナギの手を受け入れた。
そこにある確かなぬくもりを、傘と同じように共有して。
――カランコロン
雨音に混ざるは軽快な下駄の音。響かせるは紫陽花通りを歩く神楽坂葵(
jb1639)だ。
青紫の生地に黒い揚羽蝶が舞う浴衣を身に纏い、長く艶やかな漆黒の髪を軽く結い上げる。毛先はゆらりゆらりと空気の流れに遊ばれて。
同じ青紫の地に白い花びら散らす和傘をくるりと回してみれば、滴る雨露が紫陽花にも降り注ぐ。
細い指先が紫陽花に伸び、雨露を拭うように優しく花を撫でる。普段のクールな雰囲気は和らぎ、花を愛でる表情も優しく柔らかい、けれど物悲しさを滲ませたものになっていた。
(愛してる。と簡単に言えたら……少しは変われるのかねぇ?)
触れる紫陽花。花言葉の一つは「強い愛情」
言葉にできぬ愛の強さは、はたしてどのぐらいのものか。
「どうしました? 華を愛でる貴女も美しいですが、珍しい表情をしていますね」
そんな彼女を見つけたのは、気紛れに外出していた黒華龍(
jb4577)だ。
葵が返事を返す前に、流れるような動作で揺れる黒髪を掬い口付ける。
「どうもしない。ただ紫陽花が綺麗だっただけだ」
「私にはアオイのほうが美しく見える。その浴衣も似合っていますよ」
「それはどうも」
おや? と華龍は首を傾げた。いつもより葵の対応が柔らかい。それをいいことに自分の傘を下げ、するりと蛇のように和傘に潜り込み、帯に覆われた腰に手を回そうと試みた。
その怪しい動きはすぐに軽い拳で制される。華龍も予想はしていた。手の平で受け止めて和傘から抜け出す。
「いい加減にしろ。此処は外で、他にも人がいるだろうが」
駆けて行く学校帰りの小学生。確かに、場所はそぐわない。
「おっと、確かに……。見られながらは嫌いですか?」
「趣味ではないことだけは確かだ」
「それは残念。……おや? 手が冷えてしまっている。困りました……蛇である私の指では温めるには心もとない。――よろしければ、温まりにいきませんか?」
受け止めた拳をとほどいてみると、雨露に触れていたせいか冷えていた。
この先に贔屓にしている湯屋があるのだと、解いた指を蛇のように絡めて誘いをかけてみる。
温まるだけならばと了承した葵の手を引いて、華龍は歩き出した。
――本当は手よりも、貴女の心を温める術が欲しい。
言葉にしなかった想いは吐息と共に、雨香に溶けて消えていく。
フリルの付いた漆黒の傘は雨粒を弾き、滴り落ちる。
ぱらぱら、ぱたぱた。落ちた雫は下へ下へ。眼下の通りで咲き乱れる紫陽花に降る雨水と混ざった。
紫陽花通り、カフェに一番近い電柱に、人影がある。
「静かなティータイムもよろしいですが、偶には音楽を楽しむのも良いですの」
雨が奏でる音楽を聴きながら、紅鬼姫(
ja0444)は電柱の上で優雅に、誰にも邪魔をされることはないティータイムを楽しんでいる。
持参した紅茶の香りが傘の下で広がり、傘から流れる水のカーテンが香りを閉じ込めた。傘の中だけは、鬼姫が纏う赤と黒のゴスパンと相まって別世界のよう。カップに口を付け、味を舌で感じれば至福の時間。
カフェから断続的に漏れ聞こえる音楽も自然の音楽と調和し、二重奏となって鬼姫を楽しませる。
「愛情、憎悪、歓喜、絶望、殺戮の舞台で踊る操り人形……」
音楽に合わせて口ずさむのは詩ではなく、ただの言の葉にすぎないのかもしれない。
謳いながら、鮮血のカーマインの双眸は水のカーテンの向こう、駆け抜けていく子供たちを写す。
「虚構の現し世に映す『想い』は……ただ、光のみを望む、ですの」
雨季は忌み嫌われることが多い。けれど、まったく降らないのも困りもの。
「雨は、恵み……」
だから好きだなぁ。と浪風威鈴(
ja8371)は生命力を感じさせる常盤色の瞳を煌かせていた。
もともと狩人の家系で育ったためか、自然に対する考え方は一般人より寛容。身を屈めて紫陽花の葉を這う蝸牛を凝視する。
「毎日は困るけど、たまに降るのはいいことだよね」
身を屈めた妻に大きめの傘を傾けて、浪風悠人(
ja3452)は微笑む。
そして、紫陽花に手を伸ばしてその花びらを撫でながら自然を感じる。悠人もまた、山間部暮らしが長かったため、雨季にちゃんと雨が降ることは喜ばしいのだ。
「紫陽花の色って変わるんだよ」
「そう、なの?」
雨や土壌のpHによって咲く花の色が変わる事、酸性が強ければ青・アルカリ性が強ければ赤になる傾向がある事、理由は土壌のアルミニウムがイオンとして溶け根から吸収されて花が化学変化を起こすという事……。自分が知り得る紫陽花の知識を悠人は披露していく。
けれど、威鈴は首を傾げるばかりだ。
「取り敢えず、紫陽花は……何でも出来る……って事?」
科学用語がわかりにくいのだろう。必死に理解しようと頭を悩ませる。そんな威鈴に悠人は苦笑した。
オーバーヒートする前にふるふると頭を振って思考を整理する。そしてふと悠人の肩が濡れていることに気付いた。常に威鈴が濡れないようにと気を配っているからだろう。
「風邪、ひいちゃうよ……?」
心配そうに見つめる威鈴に、悠人は和みながらも「水も滴るイイ男だよ」と宥める。自分よりも、威鈴が風邪をひいてしまう方が心配なのだ。
「あぁ、でも心配してくれるなら――」
それでも、と納得がいかないらしい威鈴の肩に触れて抱き寄せる。
「くっついていれば温かいし、濡れないし、一石二鳥だと思うんだ」
最初こそわたわたとしていた威鈴だが、触れたぬくもりに安心したのだろう。大人しくなってゆるりと目を閉じる。すると、雨音の間に悠人の心音を聞き取って自然と頬がゆるんだ。
「……紫陽花の花言葉、知っているかい?」
「わから、ない」
紫陽花は花の色を変える特徴から、いいイメージを持たれないことが多い。けれど、紫陽花の本質はそれだけではない。
小さな花が一つ一つ寄り添って、大きな花になる。それは絆と繋がりの象徴。
「――家族団欒、だよ」
いつまでも、こうして寄り添い合えることを祈った。
◆花びら、蕩ける
ピアノの旋律と、雨音と蛙の泣き声。大きすぎず、かといって小さすぎずの微妙な音量で調整されている三重奏は、バイト中の鐘田将太郎(
ja0114)の眠気を誘う。
「雨降ってんのに客来るのかねえ……」
店内は雨のせいか客は少ない。カウンターを掃除する手はのんびりと、愚痴めいた呟きを零す口は直後に込み上げてきた欠伸を噛み殺して。
元々店の雰囲気は少し馴染めないとも感じていた。堅苦しい場所は得意ではない。
一度手を止めて窓を見やる。窓を伝い落ちる雨水のカーテンの向こうに、ぼやけた紫陽花を見る。
「……たまにはいいモンだな」
四季折々の日本ならではの景色。降り続けるのは困りものであれど、たまに眺めるぐらいならば楽しめる。
そうこう考えている内に、客の来店を知らせるベルが響いた。
「いらっしゃいませ!」
すぐにだらけモードを切り替え、接客モードで挨拶。そして入り口に顔を向けると目を瞬かせる。
そこにいたのは浪風夫妻。悠人とは面識があるが、ここで遭遇したのは偶然だ。
(奥さん連れか。仲のいいことで……)
羨ましいと内心でぼやきつつ、案内ついでに挨拶しようと仲良さ気な夫婦の元へ歩み寄った。
てるてるぼーず、しろぼーず、あーした天気にしてくーださーい。
店の軒下、雰囲気作りでお手製てるてる坊主を吊るしていたバイト中の黒百合(
ja0422)の前を、二人の子供が歌いながら通り過ぎて行った。
「あれ、続きの歌詞はなにかしらかねぇ?」
誰にともなく問うても答えは返ってこず。子供たちが背負うランドセルが見えなくなるまで思案した後に作業を続行する。今度は歌いながら。
「晴れにしてくれないなら首をちょん切るぞォ〜♪」
適当に続きの歌詞を歌ってみるが、だいたいあっていたりする。
丁度カフェに入ろうとしていた長田・E・勇太(
jb9116)は、ぎょっと軒下を見上げた。
ぶっそうな歌詞と、それを歌う正統派ヴィクトリア風メイド服を身に纏った美少女に驚きが隠せない。
黒百合は勇太の視線に気付いてまた作業の手を止める。金色の瞳と、赤の瞳がかち合う。
一瞬の間を置いて黒百合は笑顔になった。
「きゃはァ、いらっしゃいませ御主人様ァ〜♪」
「ここメイドカフェだったのネ!?」
もちろん、そんなわけはない。
ノリノリの黒百合に、勇太は戸惑いながらも店内に通される。
絶えずピアノの旋律が流れ続ける店内に、木造の落ち着いた建物を見ると、実は黒百合のメイド服はしっくりと馴染んでいたり。
黒百合の接客は真面目でテキパキしており、スムーズに開いてる席へ通されメニューが置かれる。あまり迷うことなくホットコーヒーとホットドックを注文。そして事前にコーヒーの淹れ方を学んでいた黒百合の手際の良さも文句のつけようがなかった。
「ごゆっくりィ〜」
カウンター奥へと消えて行った黒百合を見届けて、勇太はコーヒーに口を付ける。
慣れ親しんだ味が少し冷えていた体を内側から温め、やっと一息ついた心地がした。
「……レイニーか、水不足はなさそそうネ」
食べ応えばっちりの手作りソーセージを挟んだホットドックを頬張りながら、勇太は窓の外に目を向けた。
天から降り注ぐ雨に嫌な記憶を呼び覚まされてコーヒーよりも苦いものが込み上げてくる。
(ババアに買われた日も、確かレイニーだったネ……)
それは幼き日の記憶。泥棒をしようとした女性に、記憶が吹っ飛ぶレベルの手酷い返り討ちを喰らってしまったあげくに、お買い上げされてしまった腹立たしい日のことだ。
どうして骨休めに来たのに気分が沈んでしまうのか。
遠い目になる勇太に構わず、時はゆっくりと過ぎていく――。
紫陽花通りを歩いていたら、ふと甘いものが食べたくなってしまう。そんな七北田常長(
jc1348)の欲求を叶えるように、道の最中にカフェはあった。
これは神のお告げか。いつも寂しい財布の中身をちらり確認し、大丈夫そうだと確信してから扉を開いた。出迎えるのは店員の声とピアノの音色と、甘い香り。
「ぱふぇ! 俺ぱっふぇ食べてぇでさー!」
元気のいい子供の声に、常長の視線は声の方へ。そこには、和の装いに身を包む2人組がいた。
「紫苑サンはぱふぇですかぃ。ハイカラなもん頼みますねぇ」
百目鬼揺籠(
jb8361)と秋野=桜蓮・紫苑(
jb8416)だ。
揺籠は、常長行きつけの帽子屋の店員。偶然の出会いに嬉しい気持ちになるが、それほど親しい間柄ではない。そして初対面となる紫苑もいることから声をかけるのは躊躇われた。けれど、楽しそうな雰囲気に惹かれ近寄れば、声をかけるより先に揺籠が常長に気付く。
「おや、七北田サンじゃないですかぃ。奇遇ですねぃ」
「ど、どうも……こんな所で会えるとは思わなかったべさ」
誰だ? という目でじっと常長を見ている紫苑に、揺籠は「バイト先の店で知り合った」と説明。常長には紫苑のことを「可愛い妹分」と紹介した。
互いに礼儀正しく「はじめまして」の会釈をすれば、揺籠は常長にメニューを手渡し、席に着くよう促す。自然な流れで席に着いてから相席になったことに気付く。
「オラ……邪魔じゃねぇんだべか?」
嬉しく思いつつも、申し訳なさもある。けれどそんな常長の心配は杞憂で、二人は笑っている。
「まさか。袖振り合うも多生の縁と言いまさぁ。学園への歓迎に一つ奢りますぜ、好きなの選びなせぇ」
「兄さんの友達なら大歓迎でさぁ!」
奢りは申し訳ないと思えども、二人の優しさに心が温かくなる。言葉に甘えて一番安価なセットメニューを選ぶ。
紫苑はバニラアイスと薔薇の花びらが飾られた、花の香り漂うゼリーが詰まった大きなパフェを。
揺籠はほんのり塩味の桜餡を乗せた、桜葉に包まれた串団子を。
常長は小さめのヒマワリの花が添えられた、オレンジピールが香る爽やかなロールケーキ。
互いの頼んだものを交換しつつ、談笑にも花を咲かせる。始終緊張気味の常長はあまり自分からは喋れなかったものの、仲の良い二人の会話を聞きつつの楽しい時間となった。
雨というものは、人の行動をも制限するときがある。
それは物理的に、あるいは精神的にも――。
「せっかくのお休みも、雨だとお買い物に行く気も失せるわねぇ……」
Erie Schwagerin(
ja9642)はガラスの向こうの陰鬱な空を見て、頬杖を突いたまま拗ねるように零す。
「けれど、それも自然の摂理。まったく降らないのも困りものよ」
対面にいるエルネスタ・ミルドレッド(
jb6035)は、ガラス製の茶器に淹れたローズティーをカップに注ぎながら妹であるエリーを宥める。
「でも今日じゃなくてもいいじゃない?」
この天気だと買い物しても、持って帰るのも大変なうえ服も汚れてしまうかもしれない。
貴重な姉とゆっくりできる時間なのだから少しは空気を読んでくれても……と思ってしまうのは無理もないことだ。手渡されたローズティーに薔薇の形の砂糖を入れてくるくるとかき混ぜる。
(こうしてゆっくり話が出来るから、私としては嬉しいのだけれど)
エリーはそうではないのだろうか?
辛く拭えない過去を思い出しては、茨のように心を絡め取る罪悪感が棘となってエルネスタを責め立てる。ほんのり甘く、ほんのり苦いローズティーに口を付けて、文句を言いつつも楽しげに話すエリーに安堵した。
過去のことは仕方のないことだ。過去があって、こうして姉妹で過ごせる時間があるのだ。エリーとしては割り切っていて、エルネスタを姉だと慕っている。それが彼女にとっては後ろめたい。
「ちょっと〜、聞いてるぅ?」
考え事をしていたら反応がおざなりになってしまったようだ。「何を?」と素直に問えば、エルネスタの服を示される。
「だからぁ、修学旅行でせっかくパリ行ったのにぃ、何で買った服着ないのよぉ」
この天気だからか、それとも気軽に切るのには躊躇いがあるのか。本音はエルネスタのみぞ知る。やんわり謝って宥めて、結局このままでは着ることはないのもエリーにはわかっていた。
「今度、無理矢理着せるからね」
むー、と拗ねてみせてから、悪戯っ子のように笑って見せる。
「……お手柔らかに、ね」
その笑顔がローズティーに入れた砂糖のように、エルネスタの後ろめたさを溶かしていった。
依頼の帰り道。アスハ・A・R(
ja8432)が雨宿りがてらカフェに寄ったのは偶然だ。
けれど、その雨宿り先でまさかアルバイト中の妻に遭遇するなんて誰が思うだろうか。
そして妻であるメフィス・ロットハール(
ja7041)もまた、アルバイト中に夫と遭遇するなど予想していなかっただろう。アスハにとっては嬉しい誤算だった。
「似合っているぞ」
本格的なメイド服を身に纏う妻をすごく良い笑顔で褒め称え、アスハは席に着く。
「……どうもありがとうございます。ご注文をどうぞ」
例え相手は夫でも、客は客。メフィスは努めて平静に笑顔で応対している。
渡されたメニューとしばし睨めっこしたアスハは、真面目な顔で伝票を持つメフィスを見上げた。
「そうだな……メフィスで」
「追い出すよ?」
「冗談だ。……そうだな、コーヒーとメフィスのおススメ、かな」
「かしこまりました」
メフィスは意気揚々とカウンターの向こうに行ってしまった。じーっと目で追っていたら気付かれて目線だけで叱られる。しかたなしに、アスハは窓へと視線を写す。けれどガラス窓にメフィスが写っているので意味はない。
隙を見てはカメラでバイト中のメフィスを隠し撮る。
(……雨、結構強いな)
来た時よりも雨の勢いが増しているのはガラス越しでも明らか。これでは帰り道が不安になる。
そんな心配をよそに彼女は楽しそうに接客をしている。
ほどなく注文したものが出来上がって、アスハの前に運ばれてきた。
「お待たせいたしました。コーヒーとレアチーズケーキです」
メフィスおすすめのレアチーズケーキは薔薇のジャムが添えられている。ジャムはメフィスが作るのを手伝った自信作。
促されるままに一口食べれば、薔薇独特のクセと香りがレアチーズでマイルドになる。「すごく美味しいよ」と素直に褒めると、メフィスは嬉しそうに頬を染めた。
「あ、そうだ……メフィス、今日は何時に終わる?」
「え、あと一時間ぐらいだったと思うけど」
唐突な質問に、メフィスは首を傾げる。終わりの時間なんて聞いてどうするのだろうと言いたげだ。
「終わるまで待ってるから、一緒に帰らない?」
この雨なら一緒に帰った方が心配ない。
そんなアスハの思いやりを感じ取って、メフィスは早く残された業務を片付けるべく嬉しそうにカウンターへと戻って行った。
穏やかな時間は、戦いで疲れた心を少なからず癒す。
(はじめて入るカフェだけど、なかなかいい雰囲気のお店ね)
雨宿りに立ち寄ったエルム(
ja6475)は、運ばれた紅茶を一口飲んでほっと息をつく。
「コレ、かわいいな……」
ふと目に付いた瓶を取ってみれば、色とりどりの花の形をした砂糖菓子がころころと瓶の中で転がった。蓋を開ければほんのり甘い香り。
紅茶には入れないけれど、と指先で一つつまんでみる。取ったのは薄ピンクのダリアの花。
口に入れてみれば、花びらからほろほろと口の中で溶けていく。甘すぎずしつこすぎず。軽い飴のような食感だ。けれど砂糖の塊には変わりなく。食べたぶんは運動して消費しなければと、内心で決意した。
紅茶で口直しをし、具だくさんのサンドイッチを食べながら外に目を向ける。ガラスと雨と紫陽花の向こう。小学生たちが歩いて行く様子が見える。
無邪気に雨を楽しむ様子を見ると微笑ましくなり、鮮やかな翡翠の瞳を穏やかに細めた。
「梅雨が終わったらもう夏かぁ……」
雨も降り続けるのはイヤだけれど、熱いのも辛い。
今年は例年より涼しい夏であるといい。そんな小さな願いは雨の音に消えた。
強くなる雨に煙る景色。霧と水の向こう、揺れる紫陽花は雨を受け止める。
淡い青色のブルースターを模した砂糖は、淹れたてのミルクティーの中で花を散らす。その控えめな甘さは、赤い薔薇とローズジャムが添えられたレアチーズケーキの甘さを引き立てた。
「ん、お茶もお菓子も美味しい♪」
天宮葉月(
jb7258)は頬をほころばせ、幸せそうに噛みしめる。
対面に座る黒羽風香(
jc1325)が注文したのは、紅茶とザッハトルテ。ハイビスカスとオレンジを混ぜたソースが添えられた、一風変わった一品。
「やっぱりこの甘さあってのザッハトルテですね。まったく、兄さんに作らせると甘さ控えめにするんですから」
「でも、彼らしいね」
二人して、此処にはいない共通の男を思う。葉月にとっての幼馴染で恋人。風香にとっての義兄で恋人。幼馴染二人で共有する、愛情。
お茶を楽しみ、ファッションやお菓子作りの話題に花を咲かせる。けれどやはり終着点は?彼?の話になってしまう。
葉月が知る彼、風香が知る彼。同じ恋人という立場だけれど、見える一面はまた違ってくる。
自分が見えない彼の一面を知る度に、それを知っている互いが羨ましく思うし、嫉妬もしてしまう。
そして背中を支え合う幼馴染と、守られるべき義妹。その立場の差も、恋人という関係に織り込まれてしまう。故に、愛情の与えられ方は各々でまた違うのだろう。
けれど、それが葉月と風香の仲を引き裂く要因にはならない。長い時を過ごした幼馴染という二人の絆も、また強固なものだから。
不意にBGMとなっていたピアノの旋律が途切れた。どうやら、音楽機器の不調らしい。ずっと流れていただけに、少し物悲しい。
ふと葉月の目が、店の一角に置かれているピアノに向いた。それは時折行われる生演奏用を兼ねたインテリアだ。
「そういえば風香ちゃん、実家ではよく弾いてたよね。久しぶりに聞きたいな」
思いつきも交えた葉月の提案に、風香は目を瞬かせる。
「ピアノ、ですか? ……お店の人が許してくれたら、ですね」
苦笑しつつも、葉月の要望を叶えようかと困っている店員に交渉しに行く。その提案は機器を直そうと奮闘していた店員たちにとってはありがたく、あっさりと許可が下りた。
風香はピアノの前に座り、調律を確認するために少しだけ音を鳴らし、音楽を奏で始める。華奢な指で奏でられるその音楽は――。
木の香りと、甘い菓子と紅茶の香りが漂う店内。
誰かが演奏するピアノの音色と、ガラス越しに耳に届く雨音にも耳を傾ける。その音色を楽しんで、オリガ・メルツァロヴァ(
jb7706)は紅茶のカップに口を付けた。
相席するのは、紫陽花通りで出会ったノル・オルタンシア(
ja9638)。彼女は人形のディーを隣へ座らせて紫陽花と雨音に魅入られていた。
「オリガさんは雨、好き……です? 私は、屋内で聞く……雨音、が……とても好き、です」
しとしと、ぽちょぽちょ、ざあざあ。
雨を表現するオノマトペを口ずさんで、ノルはこてんと首を傾けた。
「ええ、日本は擬音に溢れているわね。色んな表現があって、面白いと思うの。此処に来てから、前よりも好きになったとは思うわ」
「表現……沢山、日本は水が、好き……です」
因みに擬音だけでなく、雨の種類を表す言葉だけでも百を軽く超える。ほんの些細な違いにも名前を変える、日本人の言葉に対する繊細な感性には舌を巻くばかりだ。
「それに、食への拘りも凄いの……」
テーブルの上、花に彩られたケーキスタンドには軽食のサンドイッチだけでなく、ケーキ、クッキー、マカロンが所狭しと並べられていた。それだけでなく、紅茶に使われる角砂糖は花を模した砂糖菓子に変えられている。
「こんなところにも趣向を凝らしているのね。すてきなの」
瓶に入った花の砂糖菓子をしげしげと眺めて、オリガは大きな瞳を控えめに輝かせた。
もちろん、目の前のケーキも忘れない。オリガが取ったのは、夏の花がふんだんに使用されたエディブルフラワーのショートケーキだ。砂糖漬けにされた花の、優しい甘さが食欲を刺激する。
「この……マカロン、とっても……美味しい、です。……オリガさん、も……どう、ぞ……です」
ノルが取ったのは、青薔薇を模したクリームが付いたラムネ味のマカロン。近づいてくる夏らしい色合いだ。オリガに勧めつつ、ディーの前にも小皿にマカロンを乗せて置く。ノルだけでなく、ディーもうっすら満足そうに微笑んでいるのは気のせいだろうか。
オリガもノルにケーキを勧めつつ、マカロンを一口。爽やかな甘さが雨上がりの空を連想させる。
図書館で過ごすばかりでなく、こんな日もいいものだと床に届かぬ足を揺らしながら目を細めた。
あまやかな香りは、食欲を刺激する。
下校途中だったRobin redbreast(
jb2203)もそんな甘い香りに惹かれた一人。まっすぐ帰る必要もないことを思い出してカフェに入ったのだ。
店員に案内されたはいいものの、店内の雰囲気は慣れておらず、どう振る舞っていいのかもわからなかった。
渡されたメニュー。デザートの種類もよくわからない。ほんの少し居心地が悪いまま、周囲を見渡す。
「えと……あれ、食べたい」
なんという名前の食べ物なのか、甘いのか辛いのか。それすらわからないまま周囲の客が食べていたものを示す。
運ばれてきたのは、花を使ったババロアだ。
白いバニラヨーグルトの層に、パンジーのエディブルフラワーが入った透明な層が乗った見た目にも華やかなもの。手の平サイズのそれは、光を受けてキラキラしていた。
ついてきたスプーンで食べるものだと理解し、掬い上げて一口。滑らかなバニラヨーグルトと、砂糖漬けにされたパンジーの甘さ、ほんのりレモン風味のゼリーが程よく調和して美味だ。
「ん……美味しい」
ゆっくり味わいながら、外の雨音に耳を傾ける。
娯楽が許されなかった籠の鳥にとって、クラッシックよりも自然の雨音のほうが安心するのだろう。
◆雫に写す愛の形
雨の日は心細さも募る。
灰色の薄暗い世界に、雨で煙る視界も美森あやか(
jb1451)の不安を煽るものでしかない。
電車が雨で送れていると最愛の夫からのメール。その後すぐに届いた帰宅予定時刻を記したメールで、それほど心配することではないとわかっている。けれど、心配よりも心細さが勝った。
家事を済ませてしまった為、心細さを紛らわすものはない。いても立ってもいられず、傘を持ってレインブーツを履いて駅へと向かい出したのだ。
改札口前に夫である美森仁也(
jb2552)の姿を見つけて、苛まれていた心細さは消えうせる。代わりに、安堵感が胸を満たす。あやかにとってはこの瞬間が大好きだったりする。
「迎えに来たのかい?家で待っていれば良いのに」
「待っているだけだと落ち着かなかったから」
と言う妻の心理を、仁也は知っている。雨の日は心細くなるのか、仁也の傍に寄って来る事が多いのだ。今もきっと心細かったからここまで来たのだろう。
「俺の傘に一緒に入らないか? こちらの方が広いし二人なら十分入れるよ」
相合傘を提案したのは、この方が二人の距離が広がらないからだ。あやかは素直に仁也の傘に入り、帰路につく。帰り道は人を避けて紫陽花通りを歩く。
「メールに添付されていた紫陽花も綺麗だったけれど、こっちも綺麗よね」
紫陽花に魅入って、あやかの歩くペースはゆるやか。仁也は歩調をあやかに合わせる。
「紫陽花を眺めたいならあっちにカフェがあるけど?」
示した先は、甘い香り漂うカフェ。雨音の間に聞こえるクラッシックは、外の時間までもゆるやかなものに感じさせる。
確かに惹かれるものはあるけど、あやかは「ううん、早く帰ろう」と仁也の服の袖を引く。
「外出するなら晴れの日が良い」
その言葉に「そうだな」と頷きつつ、仁也自身も早く帰りたい気持ちがあって、無理に勧めることはない。あやかは雨の音そのものが、あまり好きではないのだろうか。
そんなことを考えながら、引き寄せるように肩を抱いて、
「――夜は雨の音が気にならないようにするからね」
と耳元で囁いてみる。
雨音が心細さを感じさせるなら、気にならなくて済むような愛で満たせばいいのだから――。
お茶を満喫し、常長とカフェの前で別れた揺籠は紫苑と共に帰路につく。
「雨はあんまり好きじゃねぇですが、こうして紫陽花見てみると悪くねぇ」
風情ある番傘の下、真新しいレインコートと長靴で雨を満喫している紫苑を見て目を細める。
紫苑はわざわざ水溜りの水を跳ね、紫陽花に隠れた蝸牛や蛙を嬉々として揺籠に見せてくっつけては窘める。目につくものすべてに興味をころころ移す様子は、七色に色を変える紫陽花のよう。
「雨あめふれふれ、蛇の目でおむかえ? おかーさんは迎えに来てくれやせんけど、兄さんきてくれる?」
きらきらと見上げるは、か弱き鳥を連想させる金糸雀の金。それを受け止めるは、夕暮れの太陽ともとれるあたたかな金色の双眸。
揺籠は何も言わず手を差し出す。紫苑はにんまり笑顔でその手を取り、軽く揺らしながら歌う。
ゆらりゆらり。
幼子をあやすように、揺籠の手のぬくもりが寂しがり屋の鬼の心を優しく解きほぐしていく――。
これは、雨の日に綴る日常の一幕。
雨降れば晴れが訪れるように、悲しみの後には等しく太陽が世界を照らすもの。
止まない雨も悲しみも、この世にはないと信じて――。