◆ひかりあふれる世界で
早朝まで降り続いていた雪は止み、灰色に淀んだ空は嘘のように晴れ渡っていた。
――からん、ころん。
噴水広場へと繋がる、桜の花びらが覆うコンクリ―トの緩やかな坂道。
桜並木を過ぎ去る風の音に混じって、ゆるやかな下駄の音が響く。
一定のリズムでゆっくりと下駄を鳴らすのは、淡い藤の着物に濃い菖蒲色の袴を纏った深森木葉(
jb1711)だ。
強い北風が吹くと、融けかけた雪解け水の雫と共に桜が舞う。着物の袖がはためき、艶やかな長い黒髪が風に弄ばれては花びらとともに踊った。
鋭い冷たさに、木葉はその小さな身を震わせる。
「せっかくの花見なのに花冷えですねぇ……」
寒いと両腕で自分を抱きしめて、身を小さくしながらも歩くのは止めない。この寒さでさえ、目の前に広がる光景を見られるのであればそれほど苦とは感じなかったからだ。
少し歩いた先に見つけたベンチに座り、桜の下から空を見上げる。大きな紫の瞳は、青い空を背景に雪化粧が施された桜の花を写し込む。雪と濡れた桜が反射してキラキラと宝石のように輝くさまが、木葉の瞳にも投影されて煌いた。
「花七日 雪の衣に 身を包み 共に舞い散る 儚げな夢」
一句読んでほっと息をつくと影が差した。見上げれば、木葉とは違う紫の双眸を持った背の高い女性が――木嶋香里(
jb7748)が立っていた。
黄緑色の着物の上を、高い位置で結った黒髪が滑る。
「素敵な詩ですね。……お隣、いいでしょうか?」
「ど、どうぞ」
唐突な申し出に、木葉は固い声で応じる。
和装姿、黒髪に紫の瞳。傍から見れば姉妹のようにも取れるだろう二人は桜を見上げた。また北風が吹きこんで、二人は同時に身を震わせる。
ふと、香里は手持ちの包みを開き始める。中には緑茶を入れた魔法瓶と、タッパーに入ったみたらし団子が入っていた。手作りらしき団子に、木葉は目を輝かせる。
「……よろしければ、食べますか?」
「え、いいんですか?」
「えぇ、せっかくですし」
これも何かの縁だろう。
お菓子を好む木葉は喜んでお団子を頬張った。
「美味しいのですぅ〜。やはりお菓子は最高ですねぇ〜」
「お口に合ったならよかったです」
美味しそうに食べる木葉に微笑んで、香里は紙コップに注いだお茶に口を付ける。
また風が吹き、湿った花びらが二人の美しい黒髪を髪飾りのように彩った。
春は恋の季節とも云う。
「桜に寄り添う雪……本当に不思議な光景ですね」
「本当に。雪桜の桜吹雪、とっても綺麗だ」
すぐに散ってしまう桜の花を優しく包む雪。その様子が本当に恋をしているよう。まるで――。
(背中を押されているみたいだ……)
藤井雪彦(
jb4731)はそんな雪桜と、思い人である駿河 紗雪(
ja7147)をマルーンの瞳に写す。
さわさわと風に吹かれる桜が散り、紗雪の金に限りなく近い茶髪が散る桜と共に揺れ、雪彦は目が離せないとばかりに魅入る。
「お日様が反射して雪がキラキラしてて、桜がより一層綺麗に見えますね。こういうの相乗効果? というのですよね」
水滴が雪彦の頬に落ちて伝う。冷たいそれは自分への激励のようにも感じられた。
ぐっと拳を握りしめ決意を固める雪彦の横で、紗雪はきょとりと首を傾げて萌木色の双眸を瞬かせた。
(不思議といえば。心なしか雪君の口数が少ない気がします)
何かあったのだろうか? そんな疑問を抱きつつ、記念に写真でも。と一本の桜の下で足を止める。そのタイミングで雪彦はうるさく暴れる自分の心臓を押さえ、彼女の名前を力強く呼んだ。
「――紗雪ちゃん」
「なんでしょう?」
いつもより真剣な視線と声音に紗雪は思わず姿勢を正した。雪彦の緊張が伝わったからかもしれない。
互いの瞳が重なって、しばしの沈黙。
雪彦は深く息を吸って口を開く。景色の後押しを受け、言葉にしたい気持ちを吐息に乗せる。
「ずっと、君の隣に居させて欲しい……ボクの、恋人になってくれませんか?」
たくさんの女性に甘い言葉をかけてきた。けれど、目の前の彼女には軽々しい言葉は言えず、言いたくもない。本当の恋をしたらこれほど違うものなのか。今、雪彦の心音は最高潮に達していた。
「雪君、それは…私が好き、ということでしょうか?」
返答は頷き一つで十分だった。
告げられた言葉がじんわりと、雪が解けるように紗雪の胸に染み込み、嬉しさがこみ上げる。高揚した思いは桜の花びらより濃く頬を色づけ、溢れそうなたくさんの思いは紗雪の瞳を潤ませて、涙の代りに言葉を零す。
「私でも、雪君を幸せにすることが出来るなら――喜んで」
望んでいた返答。繋がった気持ち。
雪彦は人生で一番かもしれない幸福感を分け合うように、微笑んだ紗雪の唇に自分の唇を重ねた。
風が吹き、雪桜が光を乱反射して降りそそぐ。
思いを繋げた二人を祝福するかのように。
◆風の冷たさに勝るぬくもりを
噴水広場を過ぎると、山道は急に険しくなる。
果てのない階段と坂道を延々と登り切って、ようやっと見える景色はまた格別だろう。
溢れる自然と動物の気配に、話を弾ませていた和泉早記(
ja8918)だったが、山頂にたどり着いた時には息を切らしていた。
「さて、何が居る、のか、な」
「サキ、大丈夫か?」
ぜーはーと乱れた息を整える早記に、冬中引篭生活のリハビリだと引っ張り出されたアカル(
jb3264)は問う。けれど早記は若草色の双眸を輝かせたまま楽しげに辺りを見回しているせいか聴こえてない。その足取りは軽く、珍しい景色、冬と春に息づく命の気配に興奮気味のようだ。
「そんなにきょろきょろして……他人と目が合ったらどうするんだ」
興奮気味の早記を軽く咎めるが、周囲の人の気配にびくびくとしつつでは威厳の欠片もなかった。
早記は雪桜の美しさに夢中で、感嘆の声をあげてデジカメを構えている。とりあえずとばかりに一枚撮影。
「桜……木の下に凍死体が埋まっているという、人界の噂か」
「木の下? 確か、薄羽かげろうの死骸の話でしたか」
「いや、虫の死骸も怖いな……」
まるで肝試しにも来ているかのようなアカルを尻目に、早記は人気のない場所へと進む。
木々の合間に雪を駆ける野ウサギたちを見つけた早記は、観察がてら慎重に撮影を開始する。そんな早記を、アカルは観察していた。
「アカルさん、あの、お願いが」
一頻り景色や動物たちを観察し、撮影した早記はふと思いついたように背後についていたアカルに声をかける。
それはヒリュウを召喚してほしいとの願いだった。
早記の頼みを断ることなどできないアカルは、渋々と周囲を確認してヒリュウを召喚する。早記もまたケセランを召喚して二体を遊ばせはじめた。
その様子を、夢中になって写真に収めていく。
「もしかして僕は……ヒリュウのオマケか」
友人のそんな態度に、アカルはほんの少しだけ虚しくなった。
白とピンクの二匹は、配色的にも雪桜を連想させる。さらには人慣れしていた野ウサギも寄ってきて、一緒に写真に収めることが出来て、更には少しだけ触ることも出来た早記はご満悦。
「うん、降って来てくれて、よかった」
「そうだな」
楽しそうな早記に、偶には外も悪くないと思い直す。ただし人がいない場合に限り。
山頂の静かな広場には、カップルが目立つ。
この雪のせいで、山頂までの道を登るのを懸念した一般人も多いのだろう。人も少なく、絶好のデートスポットと化していた。
「恋音、足元に気を付けてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
袋井雅人(
jb1469)と月乃宮恋音(
jb1221)もまた、そんなカップルたちの中の一組だ。
展望台で景色を眺め、外に出てきたところだ。
豊満なバストのせいで足元がおぼつかない恋音の手を取り、雅人は紳士的にエスコートしていく。目指すは弁当を広げるのに手ごろな場所だ。雅人は歩きつつも辺りを見回し、ふさわしい場所を探す。
つい視線が、ゆさゆさと揺れる恋人の胸に視線がいってしまうのは男の性だ。
「あ、雅人さん。あそこはどうでしょう?」
そんな雅人の邪な視線も露知らず。恋音は一本の桜の木の根元を指差した。
丁度日当たりもよく、桜の幹が風上側になっている為に幹が壁になり、風よけにもなる。
二人は即決してシートと恋音の手作り弁当を広げて、楽しいランチタイムだ。
定番のおにぎりに、唐揚げ、卵焼きをはじめとして二人分には多すぎるかもしれない量の弁当が並ぶ。
「うんうん。やっぱり恋音の作る料理は美味しいです」
「そう言っていただけて、嬉しいです」
「恋音の愛情も、美味しさの秘密なんでしょうね」
定番の「あーん」で食べさせてもらったこともあってか、雅人は上機嫌だ。対して褒められ続けている恋音は顔を真っ赤にしながらも嬉しそうにしている。
いちゃつきながらある程度胃が満たされたところで一息。のんびりと桜を眺めてお茶を飲む。
「雪桜、本当に綺麗ですね。今日限りの恋物語なのが勿体ないくらいです」
長く伸ばした前髪から覗く黒い瞳は、きらきらと恋する乙女のように輝いている。
そんな恋音の横顔を見て微笑み、雅人はその肩を抱き寄せて頬にキスをした。突然のスキンシップに、元々赤らんでいた顔がさらに真っ赤になる。まるでサクランボのようだ。
「雪と桜の恋模様。確かに綺麗ですが、僕は恋音のほうがもっと綺麗だと思います。それに、僕は雪みたいに融けたりしないですしね」
照れる恋音に寄り添って、くすくすと雅人は笑う。
自分が雪でなくてよかった。もし自分が雪でできていたら、腕の中の恋音の熱であっという間に溶けていただろうから。
日向から桜を眺めると、明るい陽光を弾く水と桜が煌いて、たくさんの宝石が風に揺られているようにも感じてしまう。
そんな季節の重なりが生んだ幻想的な光景に、黒羽風香(
jc1325)は感嘆の声を上げる。
「梅と雪の組み合わせはよくあるが、桜と雪は珍しいな。梅と違った趣がある」
風香の膝に頭を乗せて景色に目を細めるのは、義兄であり恋人でもある黒羽拓海(
jb7256)だ。元より自らが誘ったのもあり、風香が喜んでいる所を見て微笑んでいる様子。
なかなか会えずに離れていたぶん、愛しい恋人が喜べば充分満足な結果だ。今日ばかりは好きにさせようと、頭を撫でたいがための膝枕にも素直に応じていた。本当は、ほんの少し眩しいがそれにも目をつむる。
「雪の良く降る時期と、桜の開花時間が噛みあうことはなかなかないですからね。……不思議な感覚です」
「そう何度も見られるものじゃない。今のうちに堪能しないとな」
「そうですね」
義兄の髪を梳くように撫でつつ、風香は感謝と共に微笑む。だが、ふと戸惑ったように眉を下げた。
「でも、拓海。この景色を一緒に見る相手は、あの人でなく私でよかったんでしょうか」
義兄にはもう一人恋人がいる。自分も彼女を慕っているが、その人を差し置いてこの場にいることにためらいがあった。
「……どうして私を連れてきたんですか?」
少し聞くのはためらわれた。けれど聞いておかなければあの人にも悪い気がしたのだ。
拓海は目を瞬かせると、ふっと柔らかく笑って膝枕されたまま手を伸ばし、頬に触れた。
「アイツとはこの間、梅を見に行ったんだ」
それだけではない。それ以外にも色々な所に行った。たくさんの思い出を残してきた。
けれど実家に帰らなければ会えない風香とは、そう言った思い出も少ない。きっと寂しい思いもしてきただろう。だからこそ、連れてきたのだ。
「まあ、今までの埋め合わせと編入祝いみたいなものだ。だから、気にせずに楽しむといい」
そう言って大きな手が頬を撫でる感覚は、とても安心する。気にするなといった言葉に、素直に甘えることにしよう。
「……ありがとうございます、兄さん」
風香は頬を包む手に自分の手を重ねて、擦り寄る。
その手のあたたかさは、春の日差しより心地よかった。
人間の三大欲求の内の一つ、食欲。これが満たされると、次に主張してくるのが睡眠欲だ。
シャルル・ブルームフィールド(
jc1224)は仕事で徹夜明けのまま、幼馴染である木嶋藍(
jb8679)に連れられて此処にいる。ちなみに、同行の承諾条件は甘いだし巻き卵。
それなりに厚着で来たが、徹夜明けの身体は思った以上に寒さに弱いようだ。
首に巻いたマフラーを口元を隠すように引き上げて欠伸をかみ殺す。日の射すベンチは睡眠欲求を的確に刺激してきた。
そんな寒さに震える幼馴染とは対照的に、藍は雪桜の作る幻想的な景色をぼんやり眺めていた。
雪の積もった桜は、光の加減によっては真っ白に見えなくもない。それが融けない雪に見えて、深い藍色の瞳でぼーっと見てると奇妙な安堵感が胸を満たした。
本当は一人で雪を見るのが怖い。でも、雪桜は見たかった。だからこそ、シャルルに甘えたのかもしれない。
しばらくそうしていたら、唐突にくしゃみが出る。そうして思い出した。お弁当を作るのに夢中で、薄着のままでて来てしまったことに。
「天気がいいけど雪が積もってるんだ、風邪ひく気か。女が体を冷やすもんじゃない」
「あ、お弁当を作るのに夢中だったの」
「まったく……」
シャルは呆れたようにため息をつき、自分が包まっていたブランケットに藍を招き入れた。元々子供体温な藍の体はあたたかく、シャルの眠気をさらに刺激する結果となる。
「ありがとう、シャル」
「あぁ」
厚着していたシャルルの体はあたたかく、藍も再びぼんやりと雪桜を眺めながら体重を預ける。
「雪桜、すごく綺麗だね」
「……そうだな」
藍の言葉にシャルルはそっけなく答えた。
彼としては綺麗なものは好きだ。けれどそれ以上に、藍の方が気になってしまう。
それは藍が寂しい思いをしていないかという危惧からだ。
だが、安心しきったように微睡みはじめた藍を見て、杞憂だったことを悟る。それに安堵して、シャルルもゆるゆると瞼を落して、微睡む。
雪桜に見守られ、夢の世界に浸る二人はどんな夢を持たのか。
春の日差しのようにあたたかい夢であるといい。
そして後日、何故かシャルルだけ風邪気味になったことに「解せない」とぼやいたそうな――。
何も、景色を頼むのは友人同士に家族連れや、カップルばかりでもない。
一人静かに楽しむ者たちだってたくさんいる。
「It’s freezing!」
藤谷健司(
jb9147)もその一人だ。
滅多に見ることができない雪桜の景色を前に、カメラを持つ手にも力が入る。
「これは、腕が鳴るぜ」
さっそくとばかりに、綺麗に撮れそうな場所から一枚。レンズ越しに臨む雪桜にテンションが上がり、勢いを乗せて続けて数枚。シャッターを切る音は風と混ざった。
だが、実際に取れた写真をデータで確認すると、健司は深紅の瞳を険しくした。雪に光が反射して上手くいかなかったのだ。
「むずかしいな」
試行錯誤しつつカメラを構え、苦戦しつつもシャッターを切り続ける。その様子は彼自身の容姿も相まって、さながら激戦地ど真ん中の戦場カメラマンのような雰囲気だ。
だが諦めるという選択肢はない。
この景色を、東北に住む家族へ送り届ける為。
降り続く桜吹雪と雪解けの雫。言葉下手な自分が「心配するな」伝える為の、その一枚を。
一頻り撮り続け、ようやく満足したのか。ベンチに座り、持参したポットコーヒーを口に一息。
「……これがいいか」
景色を切り取った画面の一枚。
それは、落ちてきた雪解けの雫に偶然映っていた、青空と雪桜だった。
◆春風と冬風に乗せて巡る想い
展望台からは、山の景色だけでなく麓の町を見下ろせる。
ぐるり360度。好きな場所から景色を楽しむことが出来るのだ。
季節外れの雪が桜と手を取って生み出した景色。
雨の雫では違う、雪が弾く陽光だからこその光の乱反射が作る、輝く光景。
「なんとも幻想的な光景ですねぇ……」
夜桜奏音(
jc0588)はうっとりと感嘆の声を漏らす。
景色の眩しさに少し目を細め、手にしたカメラを構えた。
「季節外れの雪によるたった1日限りの雪と桜の調和による雪桜。短さゆえの儚さと美しさによるこの幻想的な景色は感慨深いです」
そして、またいつみられるかもわからない。
だからこそ写真を撮って思い出にと。本物に勝ることはないのかもしれないが、この恋物語をほんの少しでも形に。
レンズ越しに揺れる雪桜と光。
明るく眩しいその世界を収めて、奏音はシャッターを切った。
だが、それだけじゃない。
仄かな桜の香りと、水の匂い。風の冷たさに、陽光のあたたかさ。見えるもの、感じるもの全てを心にも刻んでいこう。
そんな彼女の頬を花びら混じりの風が一撫でし、黒い髪を弄んでは過ぎ去っていった。
桜を見て感じるのは、春のぬくもりばかりではない。
瞬く間の期間を咲いて、時には一週間と待たずに花弁を散らしていくその様は、まるで――。
「……命の様だ」
鈴木悠司(
ja0226)の作った微笑みから零れる、自嘲めいた呟き。
青空を写したような、けれど澄んでいると云うには淀みに陰る悠司の蒼い双眸は、この展望台からいったい「何処」を見つめているのだろう。
傍らで桜を見つめていたロジー・ビィ(
jb6232)は、翡翠色の瞳を切なげに伏せた。
「ご迷惑でしたか?」
花見に誘ったのはロジーだ。悠司と花見を楽しみたいと思う半分、もう半分は悠司自身の為に。
思いつめているような彼に、いつもと違う角度から「何か」を見せることで、別のものが見えてくるのではないかと。
「ううん。そんなことないよ」
そう笑う彼はやはり心の底からの微笑みを見せてくれなくて。痛む胸に知らぬふりをして、ロジーは雪桜とその向こうの町へ視線を戻した。
「ロジーさんは、桜、好き?」
「えぇ」
問われた言葉に頷くロジーへ、悠司は「俺は、今は嫌い、かな」と悲しげに零す。直に散ってしまう命だからと。
悲しげに揺れる翡翠色に気付かなかった訳ではない。けれど、彼女にとって自分は何なのだろうと悠司は考える。しかし、わからない。
悠司の瞳に映るロジーは天魔ではない「本物の」天使のようで。彼女ならば、赦してくれるだろうか。と、錯覚してしまう。
赦しは要らない。要らないけれども……抱いた錯覚は消えることはなく。
「――悠司は、桜みたいですね」
「そっか……そうかも知れない」
早く……散ってしまいたい。と呟かれた言葉にやはり聞かない振りをして、ロジーは微笑む。
「私は、今だけ雪になりたいかもしれませんわ」
花を咲かせながらも、雪を被っても凛と立つ桜。
儚くて……何処か危うげで……大切で。そんな桜(彼)を優しく包みこめる。そんな雪のように、今だけは。
ほんの少し、寄り添うように距離を狭める。風に揺れる雪写しの銀髪が、さらりと悠司に触れた。
(私は、悠司の何かになれないでしょうか……)
彼がどこを見ていようが関係ない。
彼がどんな表情を浮かべていようと変わらない。
ロジーという一人の天使が、悠司という青年を愛したこの事実だけは、絶対に変わることはないのだから。
◆舞い散る桜吹雪は月下に煌いて
太陽が沈み、月が顔を出せば。雪桜はまた違った景色へと変わった。
今宵は満月。偶然にも重なった月齢は、この幻想的な世界を冴え冴えとした光で彩る。
展望台から臨む月と雪桜と、街が灯す夜のネオンは闇に浮かび上がってはちかちかと瞬いて。
展望台の硬い床を踏む足取りは軽く、薄ら青みがあるしなやかな黒髪は、樒和紗(
jb6970)の高揚感を表すようにふわふわと揺れている。
「和紗、桜見るとうきうきするよね」
そう指摘したのは、和紗のはとこである砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)だ。
普段は落ち着きがあり、そう簡単に隙を見せない和紗がこうも無防備に浮かれている。それが竜胆にとっては、可愛くもあり微笑ましくもあるが、不思議だった。
何故かと理由を問えば、和紗は照れ臭そうにはにかみながら答える。
「桜は、家の庭になかったですから。 外で初めて見た時とても綺麗で、春ってこんなに綺麗な色なんだと……感動、しました」
病弱で、床に伏すことが多かった幼少期。そんな体で見ることができたのは、垣間見る庭の四季だけだった。外に出て初めて桜を見たときには感動したのだという。
鮮烈に存在感を示してくるのに、その実は淡くて儚くて。そんな桜が、好きなのだと。
「なるほど。可愛いじゃない」
目を細めて語った和紗の頭を、ニヤニヤと笑みを浮かべた竜胆が撫でる。だがすげなく無言で払われてしまった。
「やだ、和紗ちゃん冷たい。……でも好きなら見られてよかったね。雪桜」
冷たくされても可愛いなぁ。と込み上げる笑いを押し殺して竜胆は素直に喜び、和紗もまた、はとこの言葉に頷いた。
しばし眺めた後「絵でも描いたら?」と勧めようとして、すでに画材を広げてスケッチする気満々のはとこに、今度は苦笑。
(流石……荷物は画材だったか)
すぐにスケッチに夢中になった和紗に、竜胆は自らの上着を華奢な肩にそっとかける。
竜胆兄が寒い。
そう言いたげな視線で見上げられるが「冷えるから着てなさい。脱ぐのは許さない」と竜胆も譲らない。
それは集中すると他に気が回らなくなってしまう和紗に対する気遣いだ。
竜胆が引く気がないと和紗は諦め、けれど上着のぬくもりと共に感じる優しさにひっそりと笑みを浮かべた。
夜に煌めく雪桜。そして、スケッチブックに描き残される思い出と。
そんな二つの桜を見ることができた竜胆も、柔らかく微笑んだ。
桜に、雪化粧。
冴え冴えとした月光は鋭く、けれど穏やかな優しさを持って雪桜を照らす。
秘めた美しさと優しさ、そして雪にも動じず凛として。
(……セレスみてェだな)
ベンチに座ったヤナギ・エリューナク(
ja0006)は、隣でぼんやりと雪桜を眺めているセレス・ダリエ(
ja0189)の横顔と、雪桜を見比べては美しさというものを感じていた。
「桜、綺麗……」
「そうだな。綺麗だ」
お前も、あるいはお前のほうが、なんて甘い言葉は紡げぬままに。
しばし眺めていると、セレスはふと思いついたように鞄から魔法瓶を取り出した。
「紅茶……淹れて来たんです」
「お。紅茶か。セレス、すっかり紅茶党だな」
カップに、あたたかい紅茶が注がれる。ふんわりと、紅茶の香りが二人を包んだ。手渡されて、一口。少しばかり冷えていた体がじんわりとあたたかくなる。
「ヤナギさんが淹れるモノには及びませんけれど……」
「いや、旨い。この紅茶に比べれば、俺の淹れる紅茶なんてメじゃねーよ」
ヤナギはきっぱりと言い切った。それは、セレスがヤナギの為だけに淹れた紅茶だとわかっていたから。料理の隠し味が、作り手の想いであるように。それは紅茶だろうが変わることはない。
だが、セレスはいったい、ヤナギの何を思ってこの紅茶を入れたのだろうか?
「……そのヘアピン、似合ってるな。よかった」
問えぬまま、贈り物に目を向けて微笑む。
明るめの茶髪に付いたヘアピンは、月明りを反射して煌く。セレスは指先でそっとピンに触れて、表情を作ることなく静かに口を開いた。
「ヤナギさんは今、大切な人は居ますか……?」
唐突な問いかけだ。ヤナギは驚いてまじまじとセレスの顔を見る。セレスも、今日初めて真っ直ぐにヤナギの瞳を見据えている。
ぽっかり浮かぶ満月のようなヤナギの金の双眸。対するセレスの水色の瞳は、月を写す水面のように。
「そうだな……居るって言ったら?」
挑発めいた言葉。それに対しても、セレスは表情を崩さない。ヤナギの瞳を綺麗だと思いながら、想いを唇で紡ぎあげる。
「私は……ヤナギさんのことが、多分……好きです」
ぽつりぽつり。零れた言葉は紅茶にも籠められていたのだろう。例え、ヤナギが自分のことをどう思っていたとしても、この気持ちは変わらない。
静かな、けれど真摯な告白を受け、ヤナギもセレスに手を伸ばす。
「俺はな……セレス。お前のことが……好き、だ」
ゆっくりと返された言の葉と抱き寄せる腕のぬくもりにセレスは微笑んだ。緩やかに弧を描いた唇に、ヤナギは自分の唇をそっと重ねる。
紅茶の香りと、体に染みついたタバコの甘さと苦さを混ぜ合わせて――。
夕食代わりの弁当は、栄養面や見た目の彩りも考え抜かれた春らしい、花見にふさわしい弁当だ。
普段は食べることそのものにそれほどの関心を持っていなかった葉月琴音(
jb8471)だったが、今日ばかりは珍しく、進んで箸を動かしていた。
それは片思いの相手である円城寺遥(
jc0540)の作った弁当だからなのかもしれない。
「美味しい……」
普段は愛用のひよこが描かれたスケッチブックで筆談をする琴音だが、今回は自分の口で感想を小さく述べた。
それは、自分の気持ちを伝えるための前段階だったのかもしれない。
告白と、思い出作り。そのために勇気を振り絞って誘ったのだ。けれど、なかなか告げる機会は巡ってこない。無表情のままどうしたものかと、円城寺の弁当を黙々と咀嚼している。
一方、誘われた側である円城寺は、そんな手のかかる後輩の想いもまったく知らず。「たまにはこういうのも悪くないかもな」と雪桜の合間に見える満月を眺めていた。
何の進展のないまま夕食は進み、琴音が実家から持ってきたおはぎや団子を食べる。そこでもあたたかい緑茶を用意する円城寺に、琴音は何も切り出せないまま。
そんな中、一際強い風が過ぎ去った。雪混じりの水滴と、花びらと。冷たい風を受けて、琴音は身を震わせた。
「……仕方ないな。貸してやるよ」
見かねた円城寺は、学ランの上着を琴音の肩にかける。
本当に手間のかかる後輩だと。円城寺なりの優しさなのだろう。冷えた身体がぬくもりに包まれる感覚。
それに後押しされたのか、学ランを掛けただけで離れていく円城寺のシャツの袖に手を伸ばす。
「どうした?」
くいっと控えめに引かれた感覚に、円城寺は視線を琴音に写す。
言わなければ。
この機会を逃したら駄目だと、赤い髪を弄ぶ風が笑った気がする。
やっとの思いで喉の奥から必死に絞り出した、二文字の言葉。
それはあまりにも小さく、か細く。
風に流されたかもしれない言の葉だった。
ぽたりぽたりと桜から滴り落ちる雪解け水。
雪化粧は剥がれかけ、夜明けを待たずに水へと還って別れを告げるのだろう。
「雪は花を浄めて消えるけど月と星に照らされて輝き、花は雪を消えるまで抱く。互いに散るまで名残を惜しむのね」
詩を口ずさむように、華澄・エルシャン・ジョーカー(
jb6365)は目の前の景色を臨む。その身に纏うのは、ラベンダーの生地に桜を咲かせた着物だ。
別れ惜しむ涙を受ける緋色の和傘は、涙を振り払うようにくるりと回って。
「普段出会わないけれど、出会ってみればとても……いいものだ」
雪桜も華澄、どっちも綺麗だとしみじみしながら、九鬼龍磨(
jb8028)は朗らかに微笑んで、華澄の隣に立つ。
闇に映える彼女の装いとは対照的に、夜闇に溶け込む藍色に雪を散らした着物を纏う龍磨。二人が寄り添う姿は雪桜。
「幸せそう」
たとえ一時の逢瀬だとしても。
けれど、自分たちはこの夜が終わっても、親友としてともにいることができる。それはとても幸せなことだ。
「いつも支えてくれてありがとうね」
「どういたしまして。 これからも支えるよ。大事な、親友だもの」
ひまわりのように、龍磨は笑う。華澄も射干玉の瞳を細めて微笑み返した。
「私と空の散歩はいかが? 桜月夜今宵逢う人みな美しき……よ」
「傘、僕が持つよ。お任せあれお嬢様」
ふわりと浮かび上がる華澄の体。淡い桜纏いしその手に、龍磨も「なんちゃって」とおどけながら傘を受けとり、反対の手で自らの手を重ねる。
二人揃って展望台から飛び立つと、星月夜に照らされる雪桜が見下ろせた。
「うひゃあ、絶景なり! 最っ高だねぇー♪」
「ほら花が舞うわ!綺麗よ」
キラキラと月光を弾く様が、泉の水面のようにも思える。一際強い風が吹き、桜が揺れれば波紋のように。
ザザァ……と風に舞い上げられた花弁と雫が二人を包んだ。
「『冴返る 澄んだ夜空に 華ひとつ』…どうかな?」
華澄の負担を心配して、時折小天使の翼を使用しながら龍磨は詩を贈る。
「素敵ね」
くすくすと返し詩をと考え始める華澄に、「にはは」と龍磨は楽しみだとばかりに傘を回した。
繋がれた手に、二人の絆。
それはとけることなく、満月に照らされて。
静かな山頂とは対照的に、中腹の噴水広場は夜になっても騒がしかった。
「今年も春、やな」
連なった提灯の光に照らされる夜桜に、亀山淳紅(
ja2261)はだいぶ雪化粧が落ちた桜を眺める。
濡れた花弁は、雪の名残を残して提灯のあたたかみのある光を透かす。これもまた趣があっていい。
特に誰かと行動している訳でもなく、なんとなく人の集団の合間を見回っている。ボランティア感覚だ。
ヘッドホンから流れる数多の桜ソングを聞きながら、この国においての桜の愛されぐあいを感じる。
(桜っちゅうんは何でか人気よな)
日本の国花であるからか、丁度日本では移り変わりの時期に咲く花だからか、はたまた散る様が、咲き誇る様が人の心にうつりやすいからか。
耳に流れる音楽。曲と曲の合間の空白に、別の音楽が流れ込んできた。
見ると、簡易カラオケセットを配置して、宴会をしている楽しげな集団がいるではないか。
楽しそうに歌い、盛り上がるグループの様子に、淳紅の心も踊る。
混ぜてもらおう。
そう思った時にはすでに声をかけていた。彼らは淳紅を快く受け入れてくれた。
淳紅のカウンターテナーの優しい歌声に、酒と絡めて酔いしれる。その歌声に惹かれて、また別の集団が混ざってきたりと、歌の輪は広がっていった。
一期一会。
雪桜と歌が結んだ縁は、春の思い出として申し分なかっただろう。