薄曇りの午後。繁華街からは外れ、住宅の並びもか細い街の際の辺りを、撃退士たちは二手に分かれ警戒していた。
「老婆のヴァニタスね‥‥」
向坂 玲治(
ja6214)は資料を思い返しつつ口にしたが。彼は相手と対面したことはない。
「なんで一緒のつくったんかな、お袋料理が恋しかったんやろか?」
軽い調子で合わせたのは蛇蝎神 黒龍(
jb3200)。
「煮物とか」
「さぁな。今さらまた出てきたことに意図はあるはずだが‥‥」
「皆さん、──」
二人のやりとりを、木嶋香里(
jb7748)が押しとどめた。唇に人差し指を当て、静かにするよう促す。
「生命探知に反応がありました。人間大のものが、二つ」
「二つ?」
小声で告げると、黒龍が怪訝な顔をした。
「そこの陰です」
香里はアパートの角を示す。玲治が先頭に立ち、足音を殺して慎重に接近し‥‥一気に飛び出す。そこでは──
「うわ!」
「な‥‥何よ、あんたたち」
若い男女が物陰で重なり合っていた。
「‥‥避難警報、聞いとらんのかいな」
黒龍がげんなりとして言った。
*
「一般人がそこかしこに残っているな」
周囲を警戒しながら、戒 龍雲(
jb6175)が呟いた。
「避難指示だけじゃ危機感が薄いのかもな。とはいえ、放っておくわけにはいかないんだが」
君田 夢野(
ja0561)は肩をすくめた。コンビニ袋をぶら提げて通りを歩く一般人を見つけて声を張り上げる。
「そこの人! 天魔が人をさらってるんだ! 早く屋内に隠れて!」
「とにかく隠れててくれればいいのだけれどな‥‥」
亀山 絳輝(
ja2258)も不安げな様子で言った。今ここに天魔が出てきたら、混乱は避けられないだろう。
学園が予測した天魔の出現情報は位置だけで、時刻はない。とはいえ不特定の一般人をさらうのが目的なら、深夜ということはないだろう。
「老婆の正体、いったい何なのだろうな」
龍雲は興味深そうに口にしたが、夢野も絳輝も、答えることはしない。重苦しい空気を感じて龍雲も口を閉ざした。
しばらくはそれぞれ周囲を警戒しつつ、出歩いている人を見つけては避難誘導する、ということを続けた。
*
「さて、どこに現れるやら‥‥」
龍雲は道の先に目を凝らした。住宅が切れるとその先には、ぶどうの果樹園が広がっている。
「あまり離れないすぎないでくれよ!」
五十メートルほど離れて周囲を警戒している夢野が声を上げた。いざ目標が現れたときにはすぐ集まれる距離を保っておきたい。
「分かっている‥‥」
口の中で答えながら、龍雲はなおもそこを見ていた。違和感──いや、予感というものだろうか。
ぶどうの樹は網に覆い隠されている。その脇からすい、と人影が現れた。
老婆だ。
絳輝が阻霊符を発動していたから、天魔といえど無音では動けない。あまりに静かだったのは、その落ち着いた所作故か。
「あなたは──」
思わず近づこうとした龍雲を遮るように、夢野の声が響いた。
「そいつだ!」
駆けよりざま和弓・鳳翔を構え、牽制の矢を放つ。矢は外れたが、老婆は風切り音に怯むこともなく、微笑みをたたえたまま、右手に身長より長さのある薙刀を振り出した。
「なるほど、こいつが小野椿(jz0221)か」
龍雲は一旦後退しつつ、周囲に一般人が残っていないかを探る。ここまで避難を促してきたおかげか、目に入る範囲にそれらしき姿はない。
だが──。
「‥‥わぁあああ!」
龍雲たちが警戒していたのとは通りを挟んで向かいになる南側から、逼迫した声が迫ってくる。次にはわき道から一般人と思しき小太りの男が飛び出してきた。後方からは、小さな球体が追いかけてきている。
球体の一面に不意にぽっかりと黒い穴が空き、そこからどうやってしまっていたのかと思うほどの、無数の触手が湧き出してきた。触手は悲鳴を上げる男の足に、腕に、首に絡まり付き、あっという間に拘束してしまう。
舌打ちした龍雲は男を救い出そうと身を翻すが、彼が追いつくよりも早く、男と球体の間で集まった黒焔が剣となり、触手を斬り付けた。男と球体を追いかけて現れた黒龍の剣林弾雨だ。
触手はその一撃では切れなかったが、球体の動きは止まる。その隙に盾を構えた香里が追いついた。香里はスパイクのついた盾を思い切り振り上げると、傷ついた触手にたたきつける。ぶちぶちと音を立てて、触手は千切れた。
「大丈夫ですか!?」
男を絡め取っていた触手は球体から離れると途端に力を失い、急速に萎んで最後は腐り落ちるようにして男を解放した。香里はそのまま駆け寄って男を救け起こすと、球体をキッと睨んだ。
「一般の方を連れ去らせるわけにはいきません!」
「早いとこ移動させちまわないと面倒そうだな」
玲治もその間に追いついてきた。今の騒ぎでようやく避難指示の真実味を知ったらしい一般人が、南側にはまだいくらか残っていそうだ。
椿らしき老婆の周囲に、気づけばさらに数個の球体が浮かんでいる。玲治はそちらを見やると不敵に笑った。
「野郎に触手なんざ誰も喜ばない画面だろうが、贅沢言ってられねぇ状況だな」
指をくいと内側に曲げ、これ見よがしに挑発する。まったく表情のない球体にどれほど効果があったかは不明だが、間近にいた個体が玲治に向かって触手を吐きだしてきた。
「‥‥っ、と」
玲治の関節に触手が絡む。だが彼は撃退士、されるがままになってやる義理もない。力を入れて引っ張ると、触手はあえなく千切れて腐り落ちた。
玲治は無理に反撃はせず、敵を引きつけるようにして後退していく。
「このまま連れて行く!」
この先のマンション予定地──広い更地なら、一般人の被害を気にせず戦える。間近の一体は玲治を追ってきた。
「驚いたな‥‥そっくりじゃないか」
絳輝は老婆の姿を捉え、そう口にした。
その立ち姿は、サングラスの奥に刻まれた彼女の記憶と比べても全く違わない。
「あいつも中々に未練がましいな‥‥写真でも残してたのか、いいなくれないかな」
呆れたようなその口調に、戸惑いは見られない。
「意志疎通には返事をよこさんね」
黒龍が合流しながら言った。「一言もしゃべらんし、敢えて返事をしないって可能性もあるんかな?」
「何言ってやがる」
だが、夢野がその疑問を一刀に伏した。
「小野椿は──死んだ。俺がこの手で二度目の死を与えたんだ」
ヴァニタスとの最後の戦いと、その死の記憶は、夢野の中にはっきりと残されている。血塗れだが、甘美なあの記憶。
人から忘れられた土地で、積み上げられた無数の死。彼女の死は、その中の欠けてはいけない一つであるはずだ。
「あれが本物の──そんなことはあるはずがない。あっちゃいけないんだ」
「そうだな」
傍らで、絳輝が静かに頷いている。
「そっくりだけど‥‥それだけだ」
「そか」黒龍はあっさり引いた。もとより彼とて、本人だと思ったわけではない。そうでないことを確認するために、意志疎通を使ったのだ。
「きみらがそう言うなら、そうなんやろな」
「来いよ。こっちだ」
夢野が魔法剣を引き抜いた。シャンと旋律が鳴り響き、それに合わせて敵を呼ぶ。そして玲治と同じように後退を始めた。
椿を模した天魔が、するすると夢野を追ってきた。球体たちはそれに引っ張られるようにしてついてくる。龍雲と香里は一般人が進路に入ってこないように目を配りながら、誘導を補助する。
だが、玲治が敷地内に入り、夢野も差し掛かろうとしたところで、突如球体のひとつが進路を変えた。
「‥‥あそこに!」
香里が叫ぶ。わき道に入ってすぐの所に、女性が一人無造作に座り込んでいたのだ。腰が抜けでもしたのか、球体が迫ってきてもその場から動かない。触手の間合いに入ってしまう──。
「任せろ!」
触手が伸ばされるより先に、絳輝が横から球体に飛びかかった。球体は矛先を絳輝に変えて触手を伸ばした。
しかし彼女を拘束することは出来ない。
「このっ、抵抗するな!」
絳輝は球体を抱え込むようにし、紋章の光を直接照射した。
「こいつは私が引き受けた!」
その言葉に残りの味方は頷き、敷地内に入っていく。椿の姿をした天魔は、それを追いかけていった。
*
「これで戦いやすくなったな」
玲治が言った。敷地内に一般人の姿はない。
「そろそろ反撃といこうか」
屈み込み、地面に手を突く。すると影の中から無数の腕が吹き上がり、範囲内にいた触手を持つ球体を二体、拘束した。
「ええ具合や!」
すかさず黒龍がねらい定める。黒焔の剣は今度が球体そのものを切り刻んだ。
小野椿──を模した天魔は、現れたときと同じ微笑みをたたえて、無言で薙刀を構えて、奥にいる夢野へ向かってきていた。
横合いから、龍雲が飛び込む。巻布の力で全身にアウルをみなぎらせ、接近戦を試みた。牽制の拳を入れてから、薙ぎ払うように蹴りを見舞う。
相手は白壁を生み出してそれを受け止めた。乾いた感触にはじかれる。相手の動きは止まらない。
老婆は薙刀をひらめかせ、反撃の刃を龍雲の肩に。
「ぐっ」
鮮血が散る。さらに続けての動きは、老婆が先手をとった。
龍雲の命を刈り取ることだけを目的とした、無機質な刃の煌めきが彼の胴を薙ぐ。刃が彼の体を抜ける直前──龍雲の右手が強引にそれを押さえ込んだ。
「うおおっ!」
右手を支点として、相手の首を狙って蹴りを放つ。今度ははっきりとした手応えがあり、老婆の体が揺らめき止まった。
その瞬間を好機として、それまで後方支援だった夢野が一気に距離を詰める。和弓をしまい込み大剣をその手に顕すと、すぐさまその刀身に白と紅の光を纏わせる。
かける慈悲など何もない。破壊の旋律を乗せた刃で、老婆の体を逆袈裟に斬り上げた。
老婆は声もなく、崩れ落ちた。
「治療します、じっとしてください‥‥」
その間に回復の準備を整えた香里が龍雲に近づき、より傷の重い腹部を癒した。
夢野は、膝を突いた天魔を見下ろした。
「なぁ、紛い物。あの双子の名を言ってみろよ」
感情を抑えた声で、問う。老婆は答えない。
「淹れていた茶の銘柄を言ってみろよ」
老婆は答えない。
「俺達が出会った街の名を言ってみろよ」
老婆は答えな
「──どうしたフェイク、何とか言えよ! でなければ小野椿のガワなど被ってくれるなディアボロ風情がッ!!」
激昂した夢野は大剣を振り上げた。この期に及んでなお微笑みをたたえたままでいる偽りの老婆を、骨まで砕いてやろうと──。
「おい、後ろだ!」
敷地に駆け込んできた絳輝が叫んだ瞬間。
夢野の後ろに回り込んだ球体が触手を吹き出した。
夢野は絡め取られ、動きを封じ込まれる。そしてそれを待っていたかのように、老婆が再び動き出した。手にしたままだった薙刀をひらめかせ、夢野に逆袈裟の傷を付け返すと、それまでの静かな所作とは一転、跳ねるようにして起きあがる。
「まずい!」
龍雲が飛び込み再び動きを止めようとするが、払うようにして放たれた蹴りを老婆はぐにゃりと体をひねらせ躱した。薙刀の刃に、黒い光が集まってきていた。
「くっ‥‥この」
夢野はまだ身動きがとれない。老婆は微笑みを張り付かせたまま、夢野の心臓に向けて強烈な突きを放った。
「‥‥間一髪、だな」
その突きを受け止めたのは、玲治だった。
「しかし、急に動きが変わりやがった」
防がれたとみるや飛びすさり、再び薙刀を構えた老婆を油断なくみる。夢野の一撃は着物の奥を深く切り裂いており、深手になっているのは間違いない。
「追いつめられて、本性を現したか?」
その間に、黒龍と香里が球体を攻撃して夢野を解放した。
「あれは確かに人形や。怒ってみせるのももったいないで」
黒龍は無表情に言った。
「素体となったお人は、使徒に成り果てても成し遂げたい願いがあった。その熱を持った<ヒト>やったはずや。でもあれにはない。ただのモノにすぎへん‥‥」
ただのテキストに、情を感じるべくもない。
黒龍は夢野を残し敵の元へ向かった。突如人間離れた敏捷性と攻撃性を見せ始めた老婆へ近づく。まだ残っていた球体を切り刻みざま、流れるような剣撃で老婆をも切り裂いた。
老婆は薙刀を振り上げ振り回し、四方八方を斬り付け抵抗を見せた。面影こそ椿だが、その動きにもはや椿らしさは微塵もない。
薙刀の切っ先が黒龍を捉え、布を割くかのようにたやすく彼の肉を裂く。追撃を防ごうと、玲治が彼の前に立つ。だが、それは来なかった。
老婆の背中で光がはじけ、前のめりに倒れさせたからだ。
「椿さんは‥‥私の腕の中で、死んだんだ」
聖女のシンボルをその手に掲げ、絳輝はゆっくりと言った。
老婆のディアボロが起きあがろうとする。絳輝はすかさずシンボルから光線を放ち、敵を穿った。
仲間たちが追撃にかかる。ディアボロが動かなくなるまで、絳輝もそこに加わった。
●
「どうやら、終わったか」
ディアボロだったモノを一瞥して、玲治が言った。
「私は、一般の方で怪我をされた方がいないか、みてきますね!」
今日の所は、一般人が連れ去られることもなかったはずだ。香里は安心したように微笑んで、敷地の外へ向かっていこうとする。
「さて‥‥」
「どうした‥‥まだ、何かあるのか」
だがなお辺りを見回す黒龍の様子に、龍雲が尋ねた。
「そこや」
黒龍の示した先で、ぼんやりとしていた空気が急激に冷えて固まるような感覚がした。するとそこには、一匹の巨大な狼。
「やっぱりおったか‥‥」
見つけたというよりは、向こうから姿を見せたのだろう。ブラックウルフ・ヴィアは無言で撃退士を見据えている。
黒龍は優しく笑みを浮かべ、言った。
「獣の眼だけで、僕らを推し量ろうとしても無駄やで。胸の内にあるものは、臓物に眠りし牙は、獣には見えん」
「あいつの所に戻ったら伝えろ」
塞がりきっていない傷口を押さえながら、夢野。
「俺達の逆鱗に触れるつもりだったなら見事だ、ってな。喜べよ、もうお前の首を叩き斬ることに躊躇は無いぜ」
「情に揺さぶりをかけるのは定石だ‥‥悪趣味には、違いないが」
絳輝は、ぽつりと呟くように言った。夢野とは違い、ぎらつくような怒りは見せない。
「でもな、私は‥‥」
(一度自分の腕の中で死んだモノが、返ってこないことなんて‥‥死にたい程、知っているさ)
ヴィアに戦闘の意思はないらしく、撃退士達の言葉を聞くと踵を返す。
「己の身体で、受け入れてみんと分からんよ? 下らん遊びするより‥‥なぁ」
黒龍はそう呼びかけ、仰々しい礼をした。
「待ってるで?」
狼は長い尻尾を揺らめかせ、姿を消した。
●
「なんだ、あっさり斃されたものだな‥‥ふふ」
薄暗い部屋の中に声が響いた。
「どうだ、ヴィア。面白いだろう。撃退士というものは」
狼の鼻面をぽんと叩く。
「さて、次はどうするか? 全く彼らのことを考えるのは飽きる暇もこないな」
赤銅の悪魔、レガ(jz0135)はそう言って、少年のように笑うのだった。