試合開始を数時間先に控えたラークススタジアムに、初めてのアルバイトにやって来たリュミエチカ(jz0358)は──。
「きぼうをーひーめてーいざゆーけーあーさのーたたーきこめーばっくすくりーいんー」
‥‥歌っていた。
「いいわ、次は道倉さんのを‥‥」
「何やってるの? 鈴音ちゃん」
熱心になにかを教え込んでいる様子の六道 鈴音(
ja4192)に、菊開 すみれ(
ja6392)が背中から話しかけた。
「プロ野球の試合は始めて、って言うから‥‥とりあえず基礎からってことで。選手の応援歌です。ちなみに今のはゆっきー」
もしかして全員分覚えさせるつもりだろうか。
「ところで、着替えてきたけど‥‥どう似合う? 可愛い?」
売り子の服装に着替えてきたすみれはポーズを取って見せた。
上半身はラークスのものではないが、野球のユニフォームのようなトップスに帽子。長い髪はポニーテールにしてまとめている。下はショートパンツだ。
「すっごいかわいいです! すみれさん!」
鈴音は歓声を上げつつ、その艶めかしいく露出した太股や、存在感のある胸元をみる。
(くっ、セクシー路線とは‥‥!)
鈴音の方が学年が上なのに、醸し出す空気が微妙に違うのは何故だろうか。
「うんうん、よく似合ってるよね、可愛いよ」
砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)が自然な空気で誉めた。
「しかし‥‥ここもすでに暑いけど、スタンドへ出たらもっと暑そうね。皆、特に女の子、熱中症とか十分注意するんだよ?」
「そろそろ開場時間だ。俺たちも準備しようぜ」
天険 突破(
jb0947)が言った。
「リュミエチカはお茶だな」
突破は突っ立ったままのリュミエチカに、お茶のペットボトルにポットと紙コップが満載された箱を「しっかり持てよ」と手渡した。
「売り子の服、似合ってるじゃないか」
「‥‥トッパも、似合ってる」
「お、そうか?」
思いがけず誉め返されて、突破はニッと笑った。
「お金の授受は‥‥さっき一緒に練習したし、大丈夫だよな」
こく、と頷くリュミエチカ。
「お茶は弁当売った後が狙い目だからな。買った弁当食べてる人と目を合わせるのがコツだぜ」
しかし突破がそう言うと、サングラスをかけたままの彼女の瞳が不安げに動く気配がした。
「‥‥目、合わせないと、ダメ?」
リュミエチカは他人と目を合わせることを極端に避けるのだ。
「あら、そんなことないわ」
華澄・エルシャン・ジョーカー(
jb6365)がふわりとそこへ近寄ってきた。
「接客中はお客様の顔は見た方がいいけど、見るのは‥‥鼻の上の方」
華澄はリュミエチカの正面に回り、自分の顔を示す。
「目と目の間を見てると上がらないのよ。これならどう?」
リュミエチカはしばらく体を硬直させた後で、「‥‥たぶん、できる」と言った。
「何かあったら、声をかけてね」
「僕が弁当担当だから、リュミエチカちゃん、一緒に行こうか。彼も言っていたけど、弁当とお茶ってセットで売り易いでしょ」
ジェンティアンは、突破のことを示しながら声をかけた。
球場から支給された通話用のインカムを各自装着する。
「これで売れ筋の場所を情報交換したりするんだな、了解」
「ヘルプの要望とかも出来るよね。チカちゃんも頼ってくれていいのよ?」
ビールサーバーを背負ったすみれがウインクしてみせる。リュミエチカは神妙な顔つきで頷いた。
●
(キャー! ラークススタジアムの空気ー!)
一川 七海(
jb9532)は、スタンドからグラウンドを一望して、心の中で歓声を上げた。
(っと、今はスタッフとして働くんだった‥‥)
当然、彼女もビール満載のサーバーを背負っているのである。自分を叱咤しつつも、(あぁ、でもあのマウンドで投げてみたいなあ‥‥)とちょっと名残惜しげに見てしまう七海、ポジションは投手。
「暑い! これってマジでマジでやばくない!?」
太陽光の熱烈な歓迎っぷりに、すみれが悲鳴を上げた。
「汗で日焼け止めがすぐ流れてしまいそう‥‥」
華澄もサンバイザー越しに空を見上げるその横を、リュミエチカはすたすた先に行く。そんな彼女を見て、華澄は(私もバイトらしいバイトって、したことないんだわ)と思い返した。
「よし! 真夏らしく学生らしく、元気にキビキビ働こう!」
気合いを入れて、スタンドへと小走りに出て行った。
「人、少ない」
「まだ開場したばかりだからね」
グラウンドは、今は練習時間。選手たちの活気ある声もよく届いてくる。
「お弁当とお茶、いかがですかー」
外野席の一角で、ジェンティアンが張りのある声で呼びかけると、早速離れたところで手が上がった。気合いの入った応援団の方々だ。リュミエチカは「‥‥かー」と烏の鳴き声みたいな語尾だけで、彼の後ろをとことこついて行く。
「ありがとうございます。お茶もいかがですか?」
いきなり入った大量購入の注文を捌きながら、輝く営業スマイルで追加アピール。常温のペットボトルも三本売れた。
「あり、が、と‥‥う?」
リュミエチカは小銭を落とさないように手元を見るのでいっぱいいっぱいで、残念ながら突破や華澄の助言を実行する余裕はなかった。
「最初だからね。慣れるまではアピールは僕がやるよ」
まず一仕事を終えて、ジェンティアンはリュミエチカを振り返った。
「でもさっきみたいに、小声でも良いから売り文句言って慣れようか。全くのゼロから呼びかけ始めるよりも声でると思うよ」
「お茶、イカですかー」
「‥‥そうそう」
いかが、だけどね。と優しく諭してやってから、次の集団を求めて移動する。
弁当販売の勝負どころは、試合開始前から始まっている。
ジェンティアンはリュミエチカをカルガモの子供の如くくっつかせながら、売り上げを伸ばしていくのだった。
●
「ビールいかーっすかー、イカじゃなくてビールでーす」
試合が始まり、突破は先に攻撃が始まるビジター側のスタンドで販売を開始した。併売のおつまみはピーナツだった。
(夏らしくていい‥‥っちゃいいが、暑いなー)
観戦のお客さんも、とにかく水分を欲し‥‥というならアルコールじゃない方がいいはずなんだけどそれはそれ。売店で買ってきた分があっても早々に飲み干してしまい、追加補充に手が上がる。早速大忙しだった。
グラウンドでは始まるなり荒れ模様、ラークス先発が二者連続四球の立ち上がりでいきなりビジター側は大盛り上がり。
(ああっ、ちょっと何やってるのよ!)
鈴音はその様子に地団駄を踏む思いだったが、今は仕事中。
「ビールいかがですかーっ!」
スタンドに向け元気よく声を上げると、数歩も行かないうちに呼び止められた。
「一つね」
「ありがとうございます!」
通路脇に屈み込むと早速紙コップを取り上げて、ビールの抽出を開始。
「いや、今日はあちらさんは悪そうだねえ」
おじさんはすでに一杯空けているらしく、上機嫌でそう言った。‥‥そう、鈴音も今はビジター側にいるのだ。
「こういうときは早めと先制して‥‥おっ、打った!」
「えっ!?」
スタンド中が一気に沸いた。思わず目をやると、打球はセカンドゴロ‥‥のはずが、直前でバウンドが変わって野手のグラブをはじいた!
「あーっ、どうしたのよ、芝丘さん!」
思わず選手の名を叫ぶ鈴音。
「ん?」
「はっ‥‥! び、ビール、お待たせしました!」
慌てて仕事に戻る鈴音であった。
*
「美味しいアイスクリームはいかかですかぁー!」
華澄が提げているのはアイスの詰まったクーラーボックス。事前の発声練習も功を奏して、初めての仕事でもしっかり声がでている。
「アイス! ちょーだい!」
小学生くらいの兄妹が、通路を歩く華澄に突撃してきた。華澄は膝を曲げて、ボックスを開けてみせる。
「はい、どれがいいかな?」
夢中になって選んでいる子供たちをほほえましく見ていると、装着したインカムからコールがあった。
『来て‥‥えっと‥‥』
「リュミエチカさん?」
華澄が急ぎ駆けつけると、三組分くらいの家族連れが一斉に彼女へ手を挙げた。
「アイス、欲しいって」
リュミエチカは、全く出番がない熱いお茶が入ったポットを撫でていた。
何か困ったことがあったのかと思った華澄はその様子に安堵しながらも、相次ぐオーダーに頑張って対応するのだった。
「よく売れたみたいだね」
波が去ったのを見計らって、ジェンティアンが声をかけた。
「ほとんど空になってしまいました‥‥一度補充に戻らないと」華澄は自分のクーラーボックスをまじまじ見た後で、リュミエチカへ目をやった。「教えてくれて、ありがとう。リュミエチカさん」
「ん‥‥ん」
リュミエチカはジェンティアンの方をちらと見たが、彼はにこにこしているだけだった。
「私も、お茶を探している人がいたら呼ぶから。頑張ってね」
言い残して、華澄は控え室へと一旦戻っていった。
「お疲れ様ー。リュミエチカちゃん、お仕事大丈夫?」
入れ替わるようにして、七海が後ろから声を掛けてきた。
「ちゃんと水分取らなきゃね。はい、ジェンくんも」
「ああ、ありがと」
二人に差し入れのスポーツドリンクを渡して、小休憩。
七海は今まさに試合が行われているマウンドを見つめ、呟く。
「獅号了(jz0252)投手もかつてはここで闘っていたのねぇ‥‥」
「リョー?」
珍しくリュミエチカが食いついた。
「そうよ、ラークスのエースだったんだから。知らない?」
「リョーは、知ってる」
なんだか変な返答だ。
「じゃあ、またあとでね。そうだ、売り上げがよかったらお姉さんとキャッチボールしましょうよ!」
「‥‥する」
「本当? 頑張ろうね!」
七海は階段を軽快に上っていき、リュミエチカもまた仕事を再開した。
●
「鈴音ちゃん、そっちも補充にきたの?」
「すみれさん、お疲れ様!」
控え室で、ビールサーバーを空にした二人が一緒になった。
「本当、よく売れますね。これは体力勝負だわ‥‥」
「汗拭いてあげるね‥‥髪も乱れちゃってる」
すみれがハンカチを取り出して、鈴音の汗を優しく拭き取ってやる。ついでに髪の毛も手櫛で整えて、「よし完璧!」
「ありがとうございます、すみれさん!」
鈴音は両手を広げてすみれとハグをした。ぼよん。
「あー、ごめん。私、汗で服までびしょびしょだったよ」
勢いよく押し返されながら、鈴音は言った。
「美少女だけにっ!!」
*
「ビールいかーっすかー」
突破の声がやけに青空に響いていく。
*
(‥‥今のカットインなんだったのかしら)
すみれが首を傾げる間に、鈴音は何事もなかったかのようにビールサーバーを背負い込んだ。
「勝負? はこれからよ。お互い頑張ろう!」
すみれがスタンドへ戻ってくると、お客さんのほうから声を掛けられた。
「お姉ちゃんが出てくるの、待ってたんだよ」
「あら‥‥ありがとうございます」
赤ら顔のおじさんは上機嫌。
「どうせなら色っぽいお姉ちゃんから買った方が、ビールもうめえしな! 終わったら飲みに行かない?」
「ここは子供に夢を与える場所だから、時間と場所をわきまえて下さいねー」
愛らしい笑顔にちょっとだけ迫力を添えて。もちろんビールはちゃんと売りました。
(うーん、あの人は‥‥「さっきの売り子さんの足がエロかった」‥‥きっとすみれちゃんのことね)
七海は読唇術を使ってビールを飲みたそうなお客さんを捜していたが、中々ピンポイントでのどが渇いたと口走る人は見あたらない。
「やっぱり、地道な声かけが一番かな!」
試合はラークスが劣勢で終盤戦へ向かっていた。
「願掛けでお酒を我慢するんじゃなく、飲んで騒いで自分をストレスから解放しましょー! ビールいかがですかー!」
ちょっと元気のないラークス側スタンドで、七海は声を張り上げる。
「ストライクレス! 略してストレス! ビールを飲んで三振を防ぎましょー!」
勢いに乗った軽妙な売り文句が、割とお客さんをその気にさせる。
「よし、そこまで言うなら買っちゃおう!」
「ありがとうございます! 次はヒットですよ!」
‥‥なんて言っていたら、本当にヒットが出た。
「よし、こっちもビール!」
追撃の勢いをつけようと、七海に注文が集まり始める。そしてそれに呼応するように、ラークス反撃のチャンス!
(芝丘さんー! 男を見せてー!)
鈴音も注文を捌きながら、グラウンドをちらちら注目。今はラークス側スタンドにいるので、思わず声が出ちゃっても大丈夫!
そしてスタンドの盛り上がりは──。
芝丘の打球が痛烈に一塁線を破っていった瞬間、一気に爆発した!
お客さんは大歓声。七海はなぜか握手を求められまくった。鈴音はお客さんと思わずハイタッチした。
「お、リュミエチカは一人でやってるのか」
突破は盛り上がるスタンドの中でリュミエチカを見つけた。
「うん。ジェンが、もう大丈夫だから頑張れって」
今日一日で、なんとか人の鼻‥‥いや口元くらいは見られるようになってきていた。
「それなら、応援疲れで声が枯れてそうな人、狙ってみてくれ」
「わかった」
リュミエチカが去っていくと、突破はビールサーバーを背負い直す。
「さて、俺もここからは出ずっぱりで売っていくかな‥‥ビールいかーっすかー!」
沸き上がる応援にかき消されないよう、突破も声を張り上げるのだった。
●
「お疲れさまでした!」
仕事が跳ねて、皆で控え室。
「沢山売れたし、ラークスも逆転勝ちだしで、良かったね、チカちゃん!」
すみれがリュミエチカに肩を寄せ、応援歌を口ずさむと、リュミエチカは条件反射的に声を合わせた。
「さすがに、ビールの売り上げはすごかったみたいだね」
ジェンティアンが言った。今日の天候と試合展開も相まって、ビールは記録的な売り上げだったらしい。
「ま、チームプレイってやつだよな」
と、突破。常時連絡を取り合ってフォローしあったことで、チャンスロスをだいぶ防げた部分もあった。
「私はやりきったわよ、潮崎さん‥‥」
白い灰になっている鈴音だけでなく、全員くたくただった。
「リュミエチカさんも、ありがとう」
「チカは、あんまり、売れなかった」
華澄がお礼を言うとリュミエチカは顔を逸らしたが、華澄は続けた。
「でも、いっぱい助けてもらったもの」
「そう、かな‥‥」
「初めてにしては上出来じゃないかな」
とジェンティアンも言った。
「よし、着替えたら皆でアイス食べに行こーよ」
と、すみれ。「労働の後にはご褒美ってのがお約束なんだよ、チカちゃん」
「それなら‥‥」
華澄が取り出した箱を開けると、そこには人数分のアイスが収まっていた。
「皆さんと一緒に食べようと思って」
「お、気が利くじゃん」
さっそく突破が手を伸ばし、他のものも続く。
「リュミエチカちゃん、どれにする?」
七海が問いかけると、リュミエチカは彼女をじっと見上げて──聞いた。
「‥‥キャッチボールは?」
肩の力を抜いて、七海は微笑んだ。
「これ食べたら、ね!」