学園島に雨が降っている。
すでに日も落ち、中心部から島の外周に向かうにつれて建物の灯りは減り、所々の街灯だけが寂しく道を照らす。その光さえ、絶えず針のように光っては落ちる雨粒に遮られ、普段より狭い範囲にしか届いていない。
交差点をレインコートの小さな影が通りすぎようとする。交通整理をしていた若い男がその顔を見て──ぎょっとした。
なにやら仰々しいゴーグルで顔を隠していたからだ。
「ちょ、ちょっと君」
あわてて声をかけた。
「どこへ行くの? この先は今、天魔が出ているから──」
「ああ、すみません」
小さな影はレインコートのフードをはずし、ゴーグル‥‥ナイトビジョンをとった。
びっくりするほど顔立ちの整った美少女が現れて、男を見上げた。
「急いでいたものですから‥‥」
「あ、ああ。そうなの」
美少女は雨粒をはじかんばかりの輝く笑顔を向ける。
「お仕事、ご苦労様です。‥‥それじゃ」
「ああ‥‥気をつけてね」
男は呆然として、雨の中に舞い降りた美少女を見送った。
「‥‥さて。変なところで足止めを食ったな。急がないと」
美少女‥‥もとい、鴉乃宮 歌音(
ja0427)はナイトビジョンを着けなおし、先を急いだ。
●
「このビル、今誰も使ってないのかな」
目的地であるコンビニの右隣、雑居ビルの屋上に龍崎海(
ja0565)が降り立った。
生命探知を使ってみたが、反応はない。
「入り口は──さすがに鍵がかかってるか」
着替えを入れておこうかと思ったのだが。せめても、ドアの庇が影を作れる場所に荷物を置いておく。ずぶ濡れにはならないだろう‥‥風が強くならなければ。
「急いできたけど、今、どんな状況かな?」
張られたフェンスの側まで寄って、コンビニの方をのぞき込む。
ビュウ、と思いの外強い風が吹き上げてきて、彼もまた光纏してナイトビジョンで視界を覆った。
*
コンビニ前の駐車場では、報告にあったとおり二体のワニが翼を広げて飛び回っている。ハッピーストア久遠ヶ原支店は、今いろんな意味で風前の灯だった。
「なんでワニなんだろうな‥‥」
敵の姿を直接視界に収めて、向坂 玲治(
ja6214)がぽつり。
「あんだけでかけりゃさぞ立派なサイフがたくさん作れるだろうな」
余裕のある様子で軽口をたたきながら、周囲を観察する。
「店前はともかく、街灯が少ないから結構暗いな‥‥一応、灯りは持ってきたが」
携帯用のランタンをガシャリと取り出したが、さて、どれほど効果があるだろうか。
「視界が悪いですねぇ」
エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)は今はひとり傘を差し、雨粒を避けている。
「どこかに、敵が隠れていたりしないでしょうね」
コンビニの方に目を凝らすが、敵の姿はやはり二体だけである。
「ハート、周囲の警戒を」
召喚獣を喚び寄せ、空へ放った。
敵に近づくと、風が強く吹き付けてきた。
「っ‥‥。急に強くなってきましたね」
玲治の隣で、雫(
ja1894)がなびく髪を押さえつけた。
彼女も魔装によるゴーグルで目を覆い、雨が目に入らないようにしてはいたが、このように強く吹き付けてくると一瞬とはいえ視界が遮られる。
エイルズレトラが傘を畳んだ。
「こんな日は外に出ず、家の中でゆっくりしていたいのですが‥‥」
光纏をする‥‥彼の頭部を風雨から守るのは、少々時季はずれのパンプキン・ヘッドだ。
「行きましょう」
*
一体のワニがこちらに気づいた。滑空するようにして高度を下げつつこちらに向き直ると、口を開けて光の弾を撃ちだしてきた。
光弾はメンバーたちのかなり手前で地面を穿った。玲治は雨粒に混じって飛んできた破片をやり過ごすと、点灯したランタンを駐車場の隅に一つ置いた。視界を広げるにはもうひとつだが、戦場の目印くらいにはなるだろう。
「そら、ボヤボヤしてるとサイフにしちまうぞ」
敵に向かってタウントしつつ、正面から接敵を試みる。雫は左から回り込み、エイルズレトラは右へ。そこに階段でもあるかのように、空へ向かって駆け上がる(彼の飛翔の技だ!)。
そんな三人を一目散に追い抜く影一つ。光弾を避けつつワニをも通り越し、お店の前に敢然と立ちはだかった。
雨での戦闘を想定してか、水着着用。たわわに実ったGカップが走る度にゆさゆさと揺れる。そしてその顔は──雨対策の深編笠によってやり過ぎなほどしっかり隠されていた。
手には尺八、もとい釘バットを持ち、今にも一曲、いや一発かまさんとばかり。
おめでとう。(怪しさでは)お前がナンバーワンだ。
「出番はありました」
歌音 テンペスト(
jb5186)は、深編笠の中で感慨深く呟いた。四ヶ月振りのコンビニ依頼である。
「あ、その声はテン子ちゃんか」
気づいた店長、入り口越しに。
「今日夜勤とか、どう? 欠員があるんだけど」
と呼びかけた。
「そう、あたしはバイト店員・テン子(愛称)。でもその話はまた後で」
今の彼女は撃退士。空舞うワニを倒すためにやってきたのだ。
「正直売り上げはどうでもいい‥‥モブ子センパイとあたしの愛の巣を壊されるわけにはいかないッ!」
ストレイシオンを喚び出した。
「お前たちは完全に包囲されているッ‥‥! おとなしく前足を挙げて投降しろ!」
歌音の無茶な要求を、当然ワニは無視した。追い風に乗って包囲から抜け出すと、上空でくるりと一回転。
歌音が相手の行動を察して慌てて盾を構えたところに、吐き出された光弾がぶつかってはじけた。防御結界の効果もあって衝撃はかなり和らいだが、それでも余波が店のガラスを揺らす。
ワニがあざ笑うかのように啼いた──その瞬間。雨を切り裂くように輝く鎖が飛来し、ワニをがんじがらめにした。が、ワニはあっさりとアウルの鎖を引き裂いてしまった。
「抵抗は結構高いのかな」
雑居ビルの屋上から降りてきた海はそのまま空中にとどまり、槍を構えた。これで五人。
さらに、低い位置にいたもう一体に向け、遠距離から矢が射かけられた。
「空を飛ぶワニ。字面で見ればメルヘンだが、現実は危険極まりないな」
レインコートにナイトビジョン、もう一人の歌音が距離をとった場所で弓を構えている。これで全員だ。
「で、何しに来たのだろうね。廃棄予定の弁当でも漁りに来たのか?」
●
「不自然だな」
相変わらず距離をとってワニを狙撃していた歌音──レインコートの方だ──は、ここまでの戦況をそう評した。
敵は動きがすばしっこくなかなか攻撃が当たらない。それだけなら単に「嫌らしい相手」というだけなのだが、問題は現場に吹き荒れる風だ。
今、エイルズレトラがワニを追い越し、風上を取った。束縛を狙ったカードの束は躱されてしまったが、問題はその後。あたかもワニを支援するかのように風向きが変わり、あっという間にエイルズレトラは風下に追いやられることに。
(風向きがこうコロコロ変わるものか?)
風を背中に浴びたワニは勢いを増し、エイルズレトラに襲いかかる。彼もまた培ってきた身のこなしで攻撃を躱したが、これでは互いに決め手を欠いてしまう。
(ワニが風を操っているのか、別のナニカがいるのか──)
歌音は『通信士E』のイメージによって戦域を見通すことを試みる。だが──怪しいものは見つからなかった。となれば、狙撃を続けるほかない。
*
ワニは絶好調、風に乗るばかりか調子に乗っている。
空中で海の攻撃を躱した一体は高度を下げて突撃。地上にいる玲治と雫をすれ違いざま、爪で切り裂く。
「ちっ‥‥どうなってやがる、この風は」
玲治は忌々しげに呟いた。タウントもそれほど効果がないようで、ともかくも。
「風上から風下を狙う‥‥ひたすらそう動いているみたいですね」
「ああ。だが相手が風上に動いているんじゃない。風が勝手に変わってるんだ」
雫の分析には同意しつつ、全く撃退士に味方しようとしない自然に向かって文句を言った。
「‥‥この風が敵の生み出しているものか、利用しているだけなのかは知りませんが」
雫は少し違う見方をする。
「常に風上から襲撃されれば対応の一つ位は思い付きます」
「考えがあるんだな」
「‥‥初心者ナイトウォーカーには、少々厄介な相手ですが」
「防御は気にすんな、こっちが引き受ける」
やりたいようにやれ、と言う玲治に、雫は目礼をした。もっとも、互いにゴーグルをしているから見えないだろうが。
二体のワニがこちらを向いた。──風向きが変わる。
一体が光弾を吐き出してきた。玲治が庇護の翼を広げ、雫を守る。雫の元には風と、雨が吹き付けてきた。
視界がほんの一瞬、ぼやける。だが彼女は揺らがなかった。
(‥‥来るはずです)
そして、来た。
もう一体が目にも留まらぬ早さで空を滑り降りてくる、その瞬間を待っていたのだ。
「‥‥!」
鉤爪が彼女の柔肌を切り裂こうとするまさにそのとき、暗闇が生まれて敵を包んだ。爪は再び玲治が阻み、後方への突破は暗闇が阻む。数瞬の後、ワニは方向感覚を失ったかのように、真上へと飛び上がった。
「チャンス!」
店の前で防衛に徹していたテン子こと歌音はここぞとばかりに気合いを込めて。
「今こそ喰らえ、真空ハイメガ粒子全米が泣いた歌音砲(仮)!」
長い技名も噛まずに言えた。
段ボールバズーカから放たれた歌音砲(仮)がワニの頭部をもろに捉えた。
ワニの背後へエイルズレトラが回り込み、再びカードを操る。無数のカードがそれこそ風に乗ったようにワニの体に張り付いた。
「今のうちに落としてしまおう」
海が槍を手に追撃をかけ、仲間も続いた。
五人が一体のワニを叩く間、もう一人の歌音は別の場所を見ていた。
もう一体のワニはまだ健在だが、そうではない。
(一定のリズムで変わる風‥‥やはり不自然だ)
もう一度‥‥風向きが変わる、そのタイミングを狙って『通信士E』のイメージを幻視し、索敵する。
歌音は矢をつがえた。
「『目標捕捉』」
狙いはワニではない。コンビニの屋根の上、はねる雨粒で薄く霧のようになっている場所。
彼の放った矢は、そこに潜んでいた意志を持つ雲を撃ち抜き、霧散させたのだ。
*
「風が‥‥」
「止んだ、な」
それまでコンビニ周辺で吹き荒れていた風が、歌音の一撃を境にぴたりと止んだ。
雨は衰えずに降り続いているが、もう撃退士の顔面目掛けて吹き付けてくることもない。
「やはり、ほかに隠れている敵がいましたか」
エイルズレトラが満足げに頷いた。「さあ、残りを片づけてしまいましょう」
残った一体のワニはその言葉に抗議するかのように一声啼いて、より上空へと飛び上がった。眼下へ向けて光弾を続けざまに吐き出す。
海はそのうちの一発を魔具で受けはじくと、そのまま高度を上げて接近した。槍の穂先がワニの翼を薙いだが、相手はそれで墜落することはなく、自らの意志で高度を下げた。
「来ますよ」
「任せろ」
ワニが急降下してくる。風を失った分、高度差で威力を稼ぐ算段だ。口を開けているが光弾は見えない。
「噛み千切ろうってのか‥‥やれるもんならやってみろ」
玲治が敵を待ち受ける。歌音(水着)がストレイシオンに指示をした。
ワニは駐車場に激突する直前に向きを変え、玲治に突っ込む。彼はそれを真っ正面から受け止めた。勢いに押され一歩、後ずさる。
だが玲治は口の端に浮かべていた不敵な笑みを消さなかった。
「爬虫類がコンビニ使おうとするんじゃねぇっての」
ワニの口の中で、右腕が光を放つ。ボンと大きな音がして、敵の頭が派手に爆ぜた。
「──っと。これで終わりだな!」
●
「周辺を探ってみたけど、もう敵の気配はないみたいだよ」
「こちらも同意見。索敵の結果、物陰を含めて敵影はなし」
雨が降り止まない中、海と歌音(雨着)はさらに偵察を行ったが、新たな問題は発見されなかった。
「しかし、島の防衛能力にかかる案件だ。学園に対応を諮ったほうがいいな」
「いやあ、あれ自体は多分、よくいる雑魚天魔だよ」
歌音が考え込んでいるところへ、店長がそんなことを言った。
「ここ、なんでかよく襲われるからね‥‥空き地を整備してからはなかったんだけど」
そもそも学園島自体、未だに消失していないゲートを抱えているのだ。今回の敵もおそらくはそこから出てきたのだろう。
「あのー‥‥」
店長の元へ、雫がやってきた。ちなみに彼女たちの負傷は、戦闘後に海がきれいに回復してしまった。働き者である。
「できれば、着替える場所を貸していただきたいのですが‥‥」
とはいえ、傷は治っても雨に濡れた体を乾かすことは出来ない。レインコートを着ていなかった雫は、髪も服もぐっしょりと水を吸っていた。
「ああ、バックヤードを使ってくれていいよ。モブ子、案内してあげて」
「はい」
「俺も出来れば着替えたいな」
治療を終えた海も濡れた服の先を摘みながら言った。しかし残念ながら、用意してきた着替え入りバッグは水を吸ってしまったようだ。
「お店の制服とか、借りられないかな」
「ああ、いいとも‥‥君も着替えるかい?」
もう一人、エイルズレトラにも声をかけたが、彼は店に避難するでもなく雨に当たり続けていた。
「一度ずぶ濡れになってしまえば、案外平気なものですねえ」
むしろちょっと楽しそうであった。
*
「もし、ガラスを割られていたら雨宿りも出来ませんでしたね」
雫が言った。濡れた髪を拭いて着替え、ホットのお茶をすすってようやく人心地ついた気持ちになる。
「おでんがなかったのはちょっと残念でしたが」
「俺はこっちで良かったけどな」
玲治は缶入りのしるこをすすっていた。
「やっぱりおでんくらいないとダメかな‥‥」
店長がちょっと落ち込んでいる。レジが狭くて店内調理の商品が置けないのも、この店が繁盛しない理由の一つかもしれない。
「まあまあ。レンジがあれば暖かいお弁当は提供できますし」
バイト店員・テン子が人数分のお弁当を買って奢るという太っ腹なところを見せていた。
「あ、そうだテン子ちゃん。この後のシフトだけど‥‥」
そう言おうとしたところへ、バックヤードからモブ子が出てきた。コンビニの制服から普段着になっている。
「私は時間なので、これで失礼します」
「モブ子センパイ!」
テン子の目の色が変わった。
「悪い奴らも倒したから安心して夜の街に消えましょう」
「はあ」
「これぞまさしく雨降って地固まる‥‥! あたしたちの熱は雨さえも焦がすの」
「はあ」
「というわけで! お先に失礼しますまた明日ぁぁあーっ!」
テン子はモブ子を抱き抱えるようにして雨の先へと消えていった。ところでこれちゃんと合意の上なんですかね。
「この後のシフト‥‥」
取り残された店長は呆然と呟き、撃退士たちのほうを見た。
「あ、意外とおいしいですね、お弁当」
「‥‥俺、もう帰ったほうがいいのかな」
借り物の制服を着ている海を謎の悪寒が襲ったが、それはまた別の話である。