まだまだ冬の寒さが残る二月下旬、茨城ラークスの本拠地にファンたちが集まった。
そろそろオープン戦も始まるという時期に少々季節はずれだが──。
『本日は獅号&茨城ラークス大壮行会にお越しいただきありがとうございます』
スピーカーから、張りのある女性の声で案内が流れている。その通り、今日は壮行会という名のファンイベントなのだった。
『野球教室の参加希望は入場口側のカウンターにて受付中です。獅号選手の打撃投手イベントは──』
「はい、受付完了です。グラウンドへどうぞ」
甲賀 ロコン(
ja7930)は野球教室の受付に立っていた。ラークスのスタッフ衣装に身を包んだ彼女は、少々長い前髪が表情を覆い隠しているほかは周りのスタッフと何の差異もない。
(人出は多すぎず少なすぎず、いい特訓になりそうですね)
黙々と人の列を捌きながら、ロコンはひとまず満足していた。キャンプ地に残っているラークスの選手も多いので、秋口に開催されるイベントほどの客数ではない。
後はロコンがこの環境にうまく溶け込むだけであった。
球場前広場の入り口付近では、妖々夢・彩桜(
jc1195)が久遠ヶ原のジャージ姿で立っている。
彩桜はスケッチブックを手にしている。開かれたページには、球場の地図が描き込まれていた。もちろん、今日のイベント内容に合わせたものだ。
「えーっと‥‥トイレはどこですか?」
彩桜はスケッチブックの一箇所を指で示して教えた。
「ファンクラブの入会受付ってやってます?」
彩桜は頷き、ファンクラブカウンターの場所を指さした。
詰まるところ、彩桜は会場案内の役であった。
彼は勤勉に客の案内をこなしていたが、一言も口を聞かない。
「とりあえず腹ごしらえしようと思うんだけど、オススメの屋台とかあるかな?」
でっぷりしたお腹を抱えた男性に聞かれると、彩桜は空いていた手でメモ帳を取り出した。
「久遠ヶ原からも特別出店が出ているのである。おすすめである。」
「なんで筆談?」
相手に驚かれても、彩桜は何食わぬ顔で「楽しむがよいぞ。」と男性を送り出すのだった。
広場には定番のものからちょっとした変わりネタまで、様々な屋台が建ち並んでいる。多くはこれからのシーズン中、球場にきたファンの舌を楽しませてくれるものだ。
「はいっいらっしゃいませ! 本日限りの特別出店はこちらですよー!」
久遠ヶ原の生徒も何名か屋台を出していた。袋井 雅人(
jb1469)が大声で呼び込んでいる。
「幕の内弁当、お一つですねぇ‥‥ありがとうございますぅ‥‥」
同じ屋台の中で、月乃宮 恋音(
jb1221)はせっせと弁当を包んでいた。彼女が仕込んだ手づくりお弁当はなかなかに好評を博している。
「カレー弁当、だって」
ユニフォーム姿の女性客が目を留めたのは、ご飯とルーが別容器になっているお弁当だ。
「トッピングも各種、ございますよぉ‥‥」
「そういえば、前に久遠ヶ原のコラボイベントがあったときも、カレー味のお弁当だったよね」
女性客がそんなことをいったので、恋音は少々驚いた。
「おぉ‥‥よく覚えていらっしゃいますねぇ‥‥」
「久遠ヶ原って、カレーが名物なのかしら」
せっかくだから、と年季の入った女性ファンはカレー弁当を買っていった。
「さあさあ、てづくりお弁当におにぎりお味噌汁! 味はどれも折り紙付き! 売り切れる前に是非どうぞ!」
雅人の呼び込みは絶好調だ。といって呼び込みだけ、というわけでもなく、彼は彼で大鍋をかき混ぜながらの声掛けである。
「それなあに?」
「よくぞ聞いてくれました! これはこうして‥‥」
雅人は大鍋の中身をカップに注ぎ。バゲットといくつかの野菜等が入ったカップとセットにして、客に差し出す。
「これは私のオリジナルメニュー、チーズフォンデュです! チーズが熱いうちにどうぞ!」
「屋台でチーズフォンデュなんてあるのね‥‥」
客は驚きながらも雅人からカップを受け取った。
「あ、でもちゃんとチーズフォンデュだわ」
「ありがとうございます!」
雅人は笑顔で客に礼を言った。
「むむ、隣はなかなか盛況やな‥‥せやけど負けへんで!」
雅人と恋音の隣の屋台で、黒神 未来(
jb9907)は蒸気を上げる鉄板に立ち向かっていた。
「イベント屋台といったらこれやろ。うちのは本場仕込みや、美味しいで!」
未来の屋台メニューは大阪のソウルフード、たこ焼きであった。
ちなみにたこ焼き器はリースではなく自前である。大阪出身なのだからたこ焼き器を持っていても何ら不思議ではないはずだ? ないはずだ。
「ほい、一丁上がり! 熱いうちに食べてや!」
ひょいひょいと慣れた手つきで焼き上げたたこ焼きをパックに詰めてゆく。その手際と威勢の良さに客も自然と群がっていた。
「いらっしゃいませ、ですの」
橋場・R・アトリアーナ(
ja1403)も屋台を開いていた。
彼女の屋台は暖かい紅茶に各種ソフトドリンク、加えてサンドイッチなどの軽食が中心である。
(喫茶店員の実績が活かせるとは思ってなかったのですの)
思わぬ所でスキルが活用できたことに満足げなアトリアーナ。
「これだけちょっと値段がちがうんだねえ」
「それは、数量限定の特別商品ですの」
アトリアーナはこく、と頷いた。
「お肉は茨城のブランド和牛サーロインを使った、その名もラークステーキサンドですの。その値段でも利益などありはしませんの」
「なっ‥‥和牛サーロインだと!?」
その言葉に一部の肉好きグルメたちがざわつき、ラークステーキサンドは飛ぶように売れていった。
●
球場のバックスクリーン内部にある放送施設で、六道 鈴音(
ja4192)はやや緊張した面もちでマイクの前に腰掛けていた。
「間もなく、野球教室の開始時間となります。参加予定の方はグラウンドに集合してください。受付を済ませていない方は──」
先ほどから場内に流れているアナウンスは、実は彼女の声であった。
「よう、お疲れさん」
マイクを切って一息ついた鈴音に、獅号 了(jz0252)が声をかけた。
「まさか場内アナウンスを頼まれるとは思わなかったわ」
「今日のイベントは俺の主催なんでな。スタッフも最小限なんだ。手伝ってくれて助かったよ」
「確かに格安で手伝う、とは言ったけど‥‥」
イベント費用を安くあげるために、と手伝いを申し出たところ、あれよあれよとここへ連れてこられた鈴音であった。「ま、ちょっと楽しいからいいか」
「ここから先は、グラウンドでの司会進行だ。よろしく頼む」
鈴音が零すと、獅号はハンディマイクを差し出した。
「今の調子でな」
人前に立っての進行となるとまた違うんじゃないの? ‥‥と思わなくもなかったが。
「人がいないんだから仕方ないわね‥‥やってみるか」
鈴音はマイクを手に取った。
*
獅号が鈴音と一緒にグラウンドに降りてくる。
と、見知った顔をみかけた。
「よう、お前ら、来てたんだな」
参加者に混じって、恒河沙 那由汰(
jb6459)と東條 雅也(
jb9625)が並んで立っている。
那由汰はユニフォーム姿の獅号を眺め回す。
「あー‥‥おめぇ野球選手だったんだよな‥‥囚われのお姫様だったからな、あんま実感わかねぇな」
「そっちはさっさと忘れてくれると助かるな」
獅号は若干困り顔で言った。
「で、二人とも参加するのか?」
「まあ折角来たしな‥‥野球なんかやったことねぇけど」
「俺は、冷やかしです‥‥冗談です」
雅也はそう言って笑うと、端末を取り出す。
「まぁ、見送りと、壮行会の様子を撮影に来ました。スマホですけどね」
「お、撮影係がいたぞ」
すると、外から声がかかった。
「もちろん、許可は取るつもりですが‥‥」
振り返ると、捕手の道倉が立っていた。
「いちいち許可を取らなくても大丈夫さ。はいこれ」
道倉は雅也にがっしりした一眼レフのデジタルカメラを手渡した。
「え‥‥」
「上手く撮れたら球団のHPなんかでも掲載するらしいから、よろしくな」
言うだけ言ってさっさと離れていった。。
「リュミエチカに見せるため‥‥だったんだけど」
「ああ、チカにか」
渡されたカメラを手に呆然としている雅也が呟くと、獅号が近づいた。
「それなら、写真はプリントしてそっちへ送らせるさ。悪いな」
「いえ‥‥本当は、彼女も連れてきたらよかったのかもしれませんが」
この冬から学園の保護下に入ったばかりの悪魔の少女は、今日は部屋でお留守番である。獅号は頭を掻いた。
「あー‥‥俺もさすがにバタバタしてて声を掛けられなかったからな。あいつ、そっちで騒ぎ起こしたりしてないか?」
「それは大丈夫ですよ。さすがに‥‥」
雅也の返答に獅号が安堵するのを見て、那由汰が混ぜっ返す。
「気になるんならちゃんと連絡とれよな、ったく‥‥」
「わかってるって。さあ、もう始めようぜ!」
どうもこの件では優位に立てないと思ったのか、獅号は少々強引に話を打ち切って、マイクを持つ鈴音を促したのだった。
●
彩桜は相変わらず、球場の外で案内中。
「野球教室開催中。途中参加も可能なのである。」
‥‥と、スケッチブックには書かれていた。
『打撃、投球、守備に別れて指導を行いますので、希望するコーチ‥‥役の選手の所に分かれてください! あっ、初心者の人はまとめてやるからね!』
鈴音の声がスピーカーを通してグラウンドに拡散される。
打撃コーチは浅野、投手コーチは獅号、守備コーチは芝丘が担当だ。
「初心者の方はこちらへどうぞ」
さっきまで受付を担当していたロコンがいつの間にか参加者の整理を行っている。
那由汰は野球を知ってはいるがやったことがないので、彼女の案内に従って初心者教室へ。道倉が担当だった。
「まあ、気楽にやろう。思い切りバットを振るのはストレス発散にもなるからな」
*
初心者組が打撃練習をすることになった。ただし、投手が投げるのではなく、近場からトスされたボールを打つ、いわゆるティーバッティングである。
「球拾いはスタッフがやってくれるからな、好きなだけ飛ばしていいぞ」
道倉はそう言って笑う。外野のあたりにロコンが立っていて、ぺこりと頭を下げた。
「よし、次だ」
呼ばれた那由汰は、けだるそうに打席に入ってゆったりと構える。とりあえず、あんまり楽しそうな雰囲気ではない。
だが道倉がトスを上げるとタイミングを合わせてスイングし、センター方向へきれいなヒット性の打球を飛ばした。
「お、上手いじゃないか」
道倉が感心したように言う。その後も何球か続けてトスが上がり、そのたびに糸を引くようなライナー性のあたりが飛んだ。
「まあ、こんなもんか」
「体も締まってるし、本当に初心者か? 少年野球も?」
道倉が近寄ってきて、不思議そうに体を見た。
「平安時代に野球なんてねぇだろ?」
「‥‥へいあん?」
那由汰の言わんとすることが分からず、道倉はきょとんとする。
「ま、バットを振るのも鞭を振るのも大してかわんねぇだろ」
「む、ムチ?」
「あん? 変な意味にとるんじゃねえよ!」
道倉が目を白黒させた。一般人が鞭を扱う機会ってあんまりありませんから‥‥。
*
グラウンドでイベントが始まっているので、球場前広場はいくらか閑散としている。「とはいえなかなかお客さんは途切れないものですねー」
チーズの大鍋をかき回しながら、雅人が言った。
「そうですねぇ‥‥屋台目当てで来る方というのも、やはり多少はいらっしゃるのではないでしょうかぁ‥‥?」
客の注文をこなしながら、恋音が答える。
「商売繁盛なのはありがたいですけど、こういっそ閑散としてしまっても、それはそれで恋音と二人きりになれるのでありがたいのですがね!」
「う‥‥それはぁ‥‥私も‥‥そうですがぁ‥‥」
雅人がさらりとのろけると、恋音は顔を赤くして俯いた。
「いつの間にか、隣の屋台は人がいなくなってますし‥‥」
気がつけばたこ焼き屋台がもぬけの殻になっていた。
「野球教室開始のアナウンスを聞いて、『もうそないな時間か、急がな!』と言っていたのは覚えていますねぇ‥‥」
*
「で、お前は屋台やってたんじゃねえのか」
「折角の機会やからな。うちのピッチング、獅号さんに見てもらいたいわ」
たこ焼き屋台の主、未来は野球教室が始まるとさっさと店じまいして参加していたのだった。
「ちゅーわけでこれ、差し入れな。熱いうちに食べてや!」
たこ焼きひとパック、獅号にプレゼント。
左投げ用のグローブを嵌めた未来が足を上げ、投球フォームを披露する。ひゅ、と風を切る音が微かになった。
「へえ、うまいじゃないか」
「お、ホンマか?」
「ああ、生地がふわふわだし、タコは大きいしな」
「そうやろ、何しろ本場仕込みやからな──ってたこ焼きの話ちゃうわ!」
※もちろん技術指導もこの後きっちり行いました。
*
(やっぱり、野球をしている時の方が獅号選手は生き生きしてるな)
渡されたカメラのシャッターを切りながら、雅也はそんな印象を抱いた。
(リュミエチカにこの写真を見せたら、なんと言うだろう。自分もこの輪に入りたい、と思ってくれるだろうか‥‥)
この世界にある沢山の楽しいことを、未だ無垢な少女が少しでも多く知り、また知りたいと思ってくれるように。そう願いながら、雅也はまたファインダーを覗き込んだ。
●
球場前広場がまた騒がしくなってきた。
ふらりとやってきた人に向け、彩桜がメモ帳にさらさらと書き付ける。
「ただいま、選手が広場で交流中である。」
‥‥だ、そうである。
「芝丘さん、今日は娘さん来てないんですか? ラークス焼き、おごりますよ」
「残念だが、今日は留守番だ。ラークス焼きは、俺がおごるよ」
球場スイーツの定番、ラークス焼き(要は球団ロゴの焼き印が押された今川焼きのようなもの)の屋台を前にしての芝丘の提案に、鈴音を含むファンから歓声が上がった。
「屋台でチーズフォンデュって‥‥また斬新だな」
恋音と雅人の屋台の前には、道倉がいた。
「和風がお好みの方は、私の恋人、恋音が用意したおにぎりやお味噌汁をどうぞ!」
「袋井先輩、わざわざ言わなくても‥‥いえ、間違っては、いないのですがぁ‥‥」
35歳にして独り身の道倉にはなかなか身に染みるやりとりである。
「まあそれはいいとして。おにぎりはいいな。俺はそっちをもらおう」
「ありがとうございますぅ‥‥具はどれがよろしいでしょうかぁ‥‥?」
気を取り直した恋音が具材の一覧を見せる。鮭、梅、おかかの定番から肉みそや豚キムチといったちょっと変わりネタまでいろいろ用意してあった。
「いろいろ選べるのはいいな‥‥。観戦しながら食えるし、普段からあっていいと思うんだが‥‥よし、鮭と肉みそにしよう」
「そうですねぇ‥‥お味噌汁も、紙コップに注げば持ち運びもできますし‥‥いいと思いますねぇ‥‥」
恋音からおにぎりを受け取った道倉は、早速一口かぶりつく。
「ん、美味い。そうだなあ、担当に掛け合ってみるか」
「おぉ‥‥よろしくおねがいしますねぇ‥‥」
道倉がおにぎりと味噌汁を通年メニューにできないか真剣に考えている先で、浅野はアトリアーナの屋台の方へ押し掛けていた。
「なんか、数量限定の超美味いサンドイッチがあるって聞いたんだけど!」
どうやら、ラークステーキサンドが評判を呼んでいたらしい。しかし、アトリアーナは申し訳なさそうに首を振った。
「残念ですが、もう売り切れてしまいましたの」
「ガーン‥‥!」
がっくり肩を落とす浅野に、ちょっとだけ後ろめたさを覚えるアトリアーナ。実はもうあとひとパックだけキープしてあるのだが‥‥。
(それを渡してしまうわけにはいきませんのですの)
「お詫びに紅茶をサービスしますの」
せめても、温かい紅茶を浅野に差し出すのであった。
●
(なかなか良い感じですね)
ロコンは修行の成果を振り返りつつ、次の仕事の準備をしていた。
(メイド忍者として、決して目立つことなく仕事をこなす‥‥ギリギリの境界線を見極めるために、ここからは処理速度を上げていくことにしましょう)
ロコンは考えをまとめると、スタンド販売用の荷台を抱えて立ち上がった。
*
グラウンドでは獅号がマウンドに上がり、参加者を相手に打撃投手を演じていた。ほとんどストレートのみでも一般人には簡単に打てるわけはなく、参加者は前に飛ばせば喜んでいる。いざ打席に立つと怖くてバットを振れない、というものも中にはいた。
もちろん、撃退士はそんなことはない。というわけで。
『ここからは、久遠ヶ原の撃退士と獅号選手による一打席真剣勝負です!』
鈴音のアナウンスがこだました。ファンはみなスタンドに席を取っての観戦モードになる。
「お飲物はいかがでしょうかー」
ロコンがその合間を縫って歩いていた。
まずは那由汰が打席に立った。相変わらずやる気のなさそうな姿勢ではあるが、視線はしっかりと獅号の投球を注視している。
初球は、外角低めにコントロールされた直球。
那由汰は悠然と見送ると、一度打席をはずし、マイクを持つ鈴音を呼んだ。
「どうしたんです?」
鈴音からマイクを受け取ると、獅号に向けて言う。
「まさか初心者相手に変化球なんて姑息な真似しねぇよな?」
直球勝負で来い──というあからさまな挑発に場内が沸き、獅号は苦笑した。
「撃退士を初心者扱いするのは非常に抵抗があるが、まあいい」
続く二球目、要求通りのストレート。ただしコースは内角低めのボールゾーンにきた。那由汰は手を出したが、少々窮屈なバッティングになって、ファール。
「ストライクゾーンの見極めは、さすがに初心者には難しいよな‥‥ま、これで2ストライクだ」
「ちっ‥‥」
那由汰はバットを構え直す。
直球なら打ち返す自信はあった。確かにきわどいところに来たらストライクかどうかなんてことは分からないが──。
(要は、どこへ来ようが打てばいいんだろ)
獅号が振りかぶる。先ほどまでとまるでぶれがないフォームだ。
放たれたのは、やはり直球。真ん中高めにきたボールにタイミングを合わせ、バットを叩きつけると、軽い手応え。
木製バットから快音が響き、弾き返された打球がセンター方向へ──抜けるかと思われたとき、体ごと投げ出すように差し出された獅号のグラブに収まった。
ピッチャーライナーだ。
「あーっ、惜しい!」
思わずマイクに乗った鈴音の声は、場内のほぼ全員の声だったろう。
‥‥が、当の那由汰はあっさりしたもの。
(思ったより手元で伸びたな‥‥これがプロの球っつーもんか)
一度だけ感触を確かめるように手を見やったのみで、バットを置いて退場していった。
*
続いては未来が登場。だが彼女はバットを持っていない。
未来は鈴音のところまで行くと、マイクを借り受ける。
「うちはピッチャーやさかいな、獅号さんやなくて別の誰かと勝負したいわ」
今は守備に就いているラークスの選手を見回す。「誰かおらん?」
選手たちは顔を見合わせる。未来はさらに挑発する。
「女に抑えられたらそら恥やもんな、逃げたくもなるわなあ」
すると、外野の方で手を挙げる者がいた。
「俺、受けますよ」
「ゆっきー! ‥‥あ、えーっと浅野選手が勝負を受けるようです!」
鈴音がマイクを取り戻してアナウンスすると、場内が拍手に包まれた。
「プロの本拠地球場でマウンドに立つのは、さすがに気分ええな」
マウンドの土を足でならしながら、未来はしばし感慨に浸った。
「‥‥これでプロ選手を抑えられたら、もっと気分ええやろな」
打席の浅野は一軍選手だ。未来は気合いを込めて左腕を回した。
捕手はそのまま道倉で、簡単に決めたサインを出してくる。未来は頷いてからゆっくりと始動した。
初球、カーブ。さすがに見てくるだろうと踏んで、ど真ん中に放り込んだ。
狙い通りに1ストライク。
二球目はストレート。内角に食い込むような軌道を意識して投げると、浅野が反応した。が、芯にはあたらず、三塁内野スタンド上段へのファール。
「うちのストレートはよくノビるんやで? さっきも獅号さんに褒められたしな」
未来は得意げにそう言った。
*
三塁側スタンドで見物しながらコーヒーを買っていた男は、打球がこちらへ飛んだので一瞬身構えたが、ボールははるか頭上を越えていった。
落下地点にはロコンがいて、通路で跳ねたボールを手早く回収したが、子供たちが何人か物欲しそうに見ていたので、そちらに向けボールを放った。男はなんとはなしにその流れを見ている。
「コーヒー、お待たせしました」
「あ、ああ、どうも」
呼びかけられたので前に向き直り、荷台を担いでいるロコンからコーヒーを受け取り、代金を支払った。
「ありがとうございました」
ロコンは軽く頭を下げると、次の客のところへ静かに駆けていった。
「‥‥ん?」
もう一度ファールボールのとんだあたりを見ると、子供たちの姿しか見あたらない。
「んん?」
男はしばらく首を捻っていた。
*
「女の人の投げる球じゃないよ、これ」
浅野が悲鳴を上げた。2ー2、平行カウントだ。
(さて、勝負どころやな)
サインを見ると、道倉も未来の投げたい球が分かっているようだった。
ここまでは、ストレートとカーブのコンビネーション。
「そしてこれが、決め球や!」
未来が投じたのは──チェンジアップだった。
打者のタイミングを外しながら、膝元へ沈み込んでいく。絶妙の場所にボールが落ち、浅野は手を出さずにはいられなかった。
「あーっ、もう!」
打球が飛んだ直後、悔しそうにほえる。ボールは力なく打ちあがって、二塁の位置にいた芝丘のグラブに収まった。
マウンドを降りた未来は浅野と握手を交わす。
「どうやった、うちの球!」
「どうもこうも、緩い球はカーブだけだと思ってストレート待ちで‥‥あ〜悔しいなあ‥‥」
しばらく悔しがっていた浅野だが、やがて背筋を伸ばした。
「今日は完敗です。でも、次があったら打ちますからね!」
「ほな、そんときはよろしく頼むわ!」
*
再び獅号がマウンドに上がった。打席に立ったのは‥‥。
「あれ、広場で立ってた子じゃない?」
「え、女の子?」「違うの‥‥?」
と、ひそひそ声がスタンドのあちこちから聞こえてくる。ちなみに彩桜は男の子です。
「宜しく頼むのである。」
‥‥と、スケッチブックに大きくメッセージを書いて、彩桜は頭を下げた。
どうしてかは不明だがとにかく喋らないので、よけいに性別が分かりにくい。
が、いざ打席に立ってみると、そのスイングは荒々しいまでに豪快だった。
初球を捉えた打球が、高く高く──ファールゾーンのスタンドを越えて消えていった。
獅号も「よく飛んだなー」という様子で打球を見送っている。
「すごいスイングだが‥‥経験はあるのか?」
間近で腰を下ろしている道倉が聞くと、彩桜はメモ帳にさらさら。
「野球はテレビで見ていただけなのである。」
「ってことは初心者なのか」
「初心者相手に姑息な真似すんなよ!」
ベンチに残って観戦していた那由汰が野次を飛ばした。
「分かってるよ、ったく‥‥」
二球目、今度は高めの直球をやはり豪快に空振りした。
すると、浅野が出てきて彩桜の元へ。
「ちょっとだけいい? バットが波打ってるから、気持ち脇を締めて‥‥」
「ユキ、何やってんだ!」
「基本ですよ、基本!」
獅号に怒鳴られて、すぐ退散していった。
彩桜は二度、三度素振りをすると、再び打席へ。
どうやら直球しか来ないようだから、あとは思い切り振ればいい。
そして三球目、真ん中低めのストレートをすくいあげる。重い手応えがあったが力を込めて振り抜くと、打球は高々とあがる。
那由汰たちのサポート? を受けた彩桜の打球は、自慢の天然芝に覆われた外野フィールド、その左中間を深々と破る長打になったのだった。
「ありがとうである。」
バットを返した彩桜はスケッチブックにそう書いてみせると、結局一言も声を発することなく退場していった。
*
最後の打者として、雅也が打席に立つ、とその前に。
(あ‥‥カメラ)
さすがに打席に立っている間は写真を撮れない。
「お預かりします」
ロコンが(いつの間にか)側にいて手を差し出した。
(まあ、俺の写真を撮ったって仕方ないし)
と言うことで、「お願いします」とロコンにカメラを渡した。
打席に立つと、ちょっとした既視感。
よく考えたら、雅也が獅号の打席に立つのは初めてではない。獅号が学園に留め置かれていたとき、トレーニングの付き合いとして立ったことがあった。
(あのときは、打てると思わなかったけど)
せっかく巡ってきた二度目の機会だ。
(本気でやってみるか‥‥)
初球は、ボールゾーンへ逃げるスライダー。今日初めて投じた変化球だ。雅也は落ち着いて見送る。
二球目、当たりをつけていたストレートにバットを合わせると一塁線へ鋭い打球が飛んだが、ファール。
(あのときよりは球威があるけど、当たるものだな)
雅也はそう思ったが、三球目は内角へ沈み込むシンカーで、バットに当たらなかった。
(さすがに、初見の変化球はきつい‥‥)
獅号はまだ持ち球があるはずだが、いくらなんでも全球種使ってくることはないだろう、ということでストレート、スライダー、シンカーの三種類に絞る。
(ストレートなら打てるだろうけど)
とりあえず、そのつもりでタイミングを合わせることにする。
獅号の足があがり、投じられた四球目は、真ん中付近──から外へ沈む、スライダーだった。コースが際どい。
「くっ‥‥!」
雅也は泳がされながらも食らいつく。バットの先がボールを拾い上げるようにして、一塁線に打球がふわりとあがる。
一塁手と右翼手の間、フェアグラウンドにぽとりと落ちるヒットになった。
「崩したと思ったんだけど、上手く持って行かれたな」
すべての対戦を終えた獅号がマウンドから降りてきて、雅也に握手を求める。雅也が応じると、スタンドから拍手が沸いた。
「こちら、お返しします」
ロコンがやってきて、カメラを戻した。
「今の打席は、私が撮影しておきました」
それだけ伝えて、ロコンは静かに立ち去っていった。
「だ、そうだ。その写真も含めて、チカに届けてやってくれ」
「‥‥ええ、分かりました」
雅也が請け負うと、獅号は少し体を寄せた。
「チカのこと、よろしく頼む」
そう言って、獅号は雅也の肩を叩くのだった。
●
「そろそろ、イベントも終わりでしょうかねー」
「球場の盛り上がりが一区切りつきましたから‥‥そろそろだと思いますねぇ‥‥」
球場前広場で、雅人と恋音は屋台営業を続けている。
「そしてこの後、物版は最後の山があるわけですね」
「お持ち帰り用のパックの準備は、よろしいでしょうかぁ‥‥?」
「はい、お任せください!」
恋音に見上げられて、雅人は胸を叩いた。球場の方から、イベントを楽しんだファンが退出してくるのが見える。
「すべて売り切りたいですね。恋音、頑張りましょう!」
*
「リョー、お疲れさまですの」
すべての段取りを終えて、獅号たちが控え室に戻ってくると、アトリアーナが待っていた。
「アトリおまえ、エントリーしてなかったんだな。対決しに来るかと思ったのに」
「‥‥まだリョーは調整中ですから。勝負するのは互いに本調子になったときですの」
ボクたちはライバルですから、とアトリアーナが言うと、「そうだな」と獅号は笑って頷いた。
「‥‥これ、リョーの分、とっておきましたの」
アトリアーナが包みを差し出すと、後ろの浅野があっと声を上げた。
数量限定の、ラークステーキサンドである。
「いいなあ、獅号さん、一口!」
「聞こえなかったのか、俺の分だよ」
じゃれつく浅野を押しのけながら獅号はサンドイッチをぱくついた。
「なんだこれ美味いな」
ガーリックソースの効いたブランド和牛は冷めても美味しかった。
「これ、シーズン中も売ったらいいんじゃないのか」
「残念ながら売れば売るほど赤字になりますの」
アトリアーナは厳然として言った。
「リョーは、いつアメリカに向かいますか」
「すぐだよ。本当ならもう現地入りしてるべきだって向こうがうるさいからな」
獅号はソースの付いた指を舐めながら答える。
「では、暫しのお別れですの」
アトリアーナは獅号を見上げ、微笑んだ。
「‥‥時間が出来たらまた、くるのですの。チカもまってますの。‥‥頑張るのですの」
「ああ。‥‥もっとも今年は、シーズン前に戻ってくるつもりはないけどな」
「そうよ獅号さん、今年は15勝はしてよね!」
アトリアーナの背後から、控え室に入ってきた鈴音が割り込んできた。
「一年通して働けば、それくらいはいくわよね」
まだ一年通しての実績がない獅号に、鈴音は容赦のない期待をかける。
「ああ、それくらいはノルマにしておくさ」
獅号が請け負うと、鈴音はほかのラークス選手にも目を向けた。
「ゆっきー、今年は3割30盗塁をお願いね!」
「今日はいいとこなかったけど、シーズンは期待しててね!」
「道倉さん、怪我にだけは気を付けてね」
「俺は丈夫なのが取り柄だからな、心配無用さ」
「芝丘さんは、娘さんにいいとこ沢山見せなくちゃね!」
「ああ、俺が野球選手だってことをちゃんと覚えておいてほしいからな」
イベントで司会を務めた興奮が残っているのか、最後に鈴音は右手を突き上げた。
「とにかく今年こそ! ラークスAクラスよっ!!」
●
イベントは撃退士たちの協力で盛況のうちに終わった。
ラークスの選手たちはいったんキャンプ地に戻ってオープン戦、そして獅号はアメリカへと渡った。
テレビなどで少しずつ増えてゆく野球関連の話題を見て、野球好きは春を知る。
いつしか冬は遠ざかり、新しい球春が近づいていた。