●七回表
スクリーンビジョンに、帽子をとって汗を拭う獅号 了(jz0252)が大映しになると、ホームグラウンドを埋め尽くした観客のざわめきが大きくなった。
マスクをかぶった橘 優希(
jb0497)がマウンドに駆け寄る。内野陣全員がそれに続いた。
「今のは、運が悪かっただけです」
獅号に向け、優希が気丈に言う。相手の三番・ロブソンが叩いた打球は三塁ベースに当たって大きく跳ねるという不運で内野安打になっていた。
一死一三塁のピンチ。
「まだ球威もあります、抑えられますよ」
「もちろんだ」
次打者がバッターボックスの外でバットを振り回している。ベースの後ろの定位置に腰を下ろしながら、優希はその表情を盗みみる。
(これ以上、失点は出来ません‥‥)
先ほどはストレートを本塁打にされた。ずいぶんと気分を良くしていることだろう。
それならば。
初球、スライダーを外角に外す。オルテガは反応しない。
(やはり、ストレート狙いですね)
二球目はシンカー。膝元にストライクをとる。
三球目は、再びスライダー。耐えきれずに手を出した相手のバットは空を切った。
「‥‥ッ!」
吐き捨てるように何かつぶやき、優希をにらみつけてくる。優希は見ない振りでボールを獅号に投げ返した。
(これで決めましょう‥‥いいところにお願いしますね)
獅号がうなずく。二人が決め球に選んだのは、フォークボール。優希の狙い通りストライクからボールに外れて落ちていく。
待ち球のストレートを徹底的に外されて、それでもオルテガは食らいついてきた。バットの先で捉えた球が高く打ちあがる。
「!」
観客席から一瞬、悲鳴。だが打球は力なく右翼線に。構えるのは強肩の三善 千種(
jb0872)だ。
「タッチアップなんて、させませんよぉ☆」
ストライク返球が優希に返る。走者はスタートを切れない。
観客が安堵のため息を漏らし、プレーの緊張感が一瞬、切れた。
その隙を、優希は見逃さなかった。
矢のような送球を一塁へ。緩慢な帰塁動作を見せていたロブソンがあわててベースへ飛び込むが──。
コールと共に、塁審が右手を高く突き上げる。マスクを外した優希は、柔らかく顔をほころばせた。
●七回裏
「七回3失点なら投手の責任じゃありませんよぉ」
ベンチに腰を下ろした獅号に向け、千種が明るく言った。
「さあ、リングを目指して逆転しましょう! 逆転優勝とか気持ちいいじゃないんですか☆」
残す攻撃はあと3回、点差は2点だ。
一番・優希からの打順だったが、追い込まれてからのスライダーに対応しきれず三振。
次打者もあえなく三振で、二死無走者で三番の千種に。
「チャンスで回ってくると信じていたのですが、仕方ないですねぇ」
前打席、千種はストレートにタイミングが合わず凡退に終わっていた。
(あれを布石にしちゃいましょう☆)
初球、カウント狙いのスライダーをファールする。やや腰を引き気味に、最初から変化球狙いのスイングだ。
(ほらほら、もうストレートは捨てましたよ?)
賭けではあるが、千種は確信を持って打席に入った。
迷っていたら、結果は残せない。
相手投手の左腕から繰り出される速球の軌跡をイメージする。サイドスローから対角線に投げ込まれる、その威力は抜群だ。
相手が足をあげる。千種はバットをキリ、と握りこんだ。
狙い通りの、ストレート。右翼線めがけて、弾き返す!
打球はライナーとなって糸引くように飛び、観客の声援を巻き込んでライトスタンドのポール際に飛び込んだ。
──HOOOOOOME RUUUUUN!!!!!
スクリーンのビジョンが踊った。場内アナウンスも叫んだはずだが、それは全て客席の歓声にかき消された。
「さぁ、反撃ですよぉ☆」
両足でホームベースを踏んだ千種はチームメイトとハイタッチを繰り返しながら、にっこりと微笑んだ。
「さ、優勝まであと一歩‥‥やってやりますか!」
四番打者・クラウス レッドテール(
jb5258)が右打席に入る。
(気が付いたらこんなコトになってたけど‥‥スポーツやってた事がここで活きてくるとは! やってて良かった♪)
剛速球に振り遅れず打ち返したが、センターの正面に飛んでしまった。これでチェンジだ。
観客のため息をバックに、相手チームがベンチに戻っていく。クラウスは一塁線の中程に立ってそれを見ていた。
「折角の大舞台‥‥負けるつもりはないよ」
──なんだか柄にもないけど燃えてきた! クラウスは相手ベンチに熱い視線を送ると、バットを拾い上げてベンチに戻っていった。
●八回表
アナウンスが投手交代を告げる。
『ジョン・イシズカ!』
歓声が彼を迎え入れる。仁良井 叶伊(
ja0618)‥‥ジョンは一度だけぐるりとスタンドを見てから、マウンドを慣らした。
優希の構えるミットにめがけ、腕を振り抜く。常時160km/hを超えるストレートが、狙い違わずそこへ飛び込んでいく。
数年前の彼を知るものには信じられないかもしれない。
かつて、彼は一度下部リーグでデビューを果たした。当時から剛速球は見るものの度肝を抜いたが、一方で荒れ放題の制球もまた、打席に立つものを恐怖に陥れた──狙われているのはミットか、あるいはメットか? 投げる当人すら分からないレベルだったからだ。
『トール・ハンマー』はそのころに付いた異名だ。当たったものを見境なく打ち砕く恐怖の雷。
結局、彼は目立った成績を残すことなくチームを去ることになる。
先頭打者を高めのストレートで空振り三振にとった。観客が沸き上がるその声を、ジョンは淡々と聞く。
日本の球団に拾われた彼は、そこで徹底的に鍛え直された。荒削りなハンマーを、使える武器へと創り変えられた。
そして帰ってきた──いや、たどり着いたのだ。頂上へと上る階に。
次打者はスライダーでレフトへ打ち上げさせた。クラウスが軽快な動きでボールをつかむ。
だが続く七番打者にパワーカーブを狙われた。レフト前へ弾き返され、二死一塁。
優希がマウンドへ来た。
「三球勝負でいきましょう」
八番のロブレスは、バットコントロールに定評がある。粘られるのはやっかいだ。
初球、ストレートを内角膝元に。球審の腕が上がる。
二球目、スライダーを外に落とす。カットされてファールに。
優希は言葉通り、強気のサインだ。頷き、セットに構える。
ボール一つ、コントロールを誤れば痛打されかねない位置。あのころの自分にはなく、今の自分にはある力。
『トール・ハンマー』。彼は今でも、その愛称で呼ばれている。
狙い澄ましたストレートが、内角高めに構えられた優希のミットに突き刺さった。
ロブレスは悔しそうにバットを叩きつけ、ベンチに帰っていく。
指先からミットへと、雷のごとく放たれる速球を今や精緻に操るジョン・イシズカは、己の仕事を終えてマウンドを降りた。
「あとは、打撃に期待ですね」
スタンドの拍手を背に受けながら。
●八回裏
クリスティーナ アップルトン(
ja9941)が右打席に入る。
「私のあとは下位打順‥‥とにかくチャンスを作らなくては、ですわ!」
この回、彼女を起点に一死二三塁の好機を掴んだが。
「せめて、外野に飛ばして下されば、私の華麗な走塁をお見せできますのに‥‥」
下位打線が内野フライ・内野ゴロに打ち取られて、クリスティーナは頬を膨らませてベンチへ帰ることになった。
とはいえ、これで最終回はまた一番からだ。
グラウンドのざわめきから隔離されたブルペンルームで、神凪 景(
ja0078)が目を閉じていた。
「出番だぜ、クローザー」
獅号がやってきて、彼女に声を掛けた。ゆっくりと目を開ける。
「上位に回ってくる打順だ。気をつけろよ」
「要注意の選手はいますか?」
そう聞くと、獅号は少し考えるそぶりをしてから答えた。
「三番だな」
「今日は、当たっていないみたいですが‥‥」
「その分ここは狙ってくる」
場内アナウンスが叫ぶのが聞こえてきた。
『‥‥ヒカリ・カンナギ!!』
観客が一斉に声を上げ、手をたたき、足を踏みならす。それは一つの振動として伝わる。
「サヨナラのお膳立てだ。よろしく頼む」
「はい!」
景は力強く応えた。
●九回表
スタンドの観客が、マウンドに上がる景を最敬礼で出迎えた。
1点ビハインドでのクローザーの投入。このイニングで必ず逆転するという、チームの気迫を彼らも感じているのだ。
相手は九番から。まずは初球、スローカーブで大胆にカウントをとると、観客がどよめいた。
八回を投げたジョンのストレートは160km/h超。対して景のそれは140km/hに満たない。スローカーブとなれば、球速差はさらに広がる。
(さっきまでの速球とのギャップが有効なうちに終わらせたいわね‥‥)
左投げオーバースローのジョンと、右投げサイドスローの景では球の出所も軌道も全く異なる。それら全てを武器として、景は凡打の山を築くのだ。
決め球のスラーブに、相手は全くタイミングが合わない。ボテボテのピッチャーゴロを難なく捌いて、まずは一死。
打順は一番に返り、ミヤウチが左打席へ。優希が声を出して守備陣形を指示する。
インハイを突いて打ち上げさせようとするが、相手もさるもの。まったく強打せずに、コツンと合わせてきた。
三遊間へのゴロとなる。ショートのクリスティーナが追いつくが、捕球位置が深く、内野安打に。
次打者に進塁打を許し、二死二塁で三番のロブソンを迎えた。
(確かに‥‥さっきまでとは雰囲気が違いますね)
景から獅号の話を伝え聞いた優希は、マスク越しにその様子を伺う。
一塁は空いているが、塁を埋めて四番打者を迎えるのは出来れば避けたかった。
優希はあえてサイン交換に時間を使った。相手をじらして打ち気に逸らせようというのだ。
初球はスライダーを外角に外す。相手の肩が動いたのを見て、二球目はストレートを内角高めに。三球目はスローカーブで再び外角の隅を狙う。
一つ間違えばすべてが台無しになる、そんな綱渡りの緊張感。それを乗り越えなければ、この位置で投げることなど出来はしない。
フルカウントになった。
(ここを抑えれば、きっと)
劇的な展開が待っているはず。
内角膝上から、ストライクゾーンをかすめるようにして落ちるスラーブ。ロブソンの体が泳ぐ。
(打ち取った!)
打球は鈍い音を残してふらりと上がった。だが飛んだ位置が悪い。内野と外野のちょうど中間点だ。
観客の悲鳴がこだまする中、ドライブ回転する打球がグラウンドへ──。
「任せろ!」
落ちる寸前、レフトのクラウスが猛然と駆け込み、飛び込む。
芝の上をたっぷりと滑ったあとで、クラウスはグラブを差し上げた。
その手に収めた白いボールを、見せつけるようにして。
●九回裏
「あとは、逆転するだけだな」
「期待してますよ」
「お願いしますね!」
出番を終えた投手陣から激励を受け、優希が打席に向かう。
相手も当然、クローザーがマウンドだ。
優希の戦略はシンプルだった。球種を絞って狙い打つ。
1点差だ。自分が出塁できるかどうかで展開が分かれる。内角へ食い込んでくるストレートに、覚悟を持ってバットを合わせた。
鈍い打球音。叩きつけられて、ボールは高く跳ねた。優希は懸命に走り、一塁を駆け抜ける。
「‥‥やった!」
審判の両手が広がっていた。内野安打だ。
二番が確実に送り、一死二塁で千種。
「サヨナラホームラン、打つつもりで行きますよぉ」
ロハスには落ちる球──空振りを取る球がない。ここは思い切って、狙っていく。
七回の追撃弾を、もちろん観客も覚えている。劇的な瞬間への期待感が球場を包む。
三球目のカットボールを、豪快なアッパースイングで捉えた。
大歓声に押されて、打球は高く、高く空を舞う。
「行け!」
「ああっ、でも──」
獅号は叫んだが、景は顔を歪めた。
レフトスタンド、一歩手前。
フェンスに張り付いた左翼手のグラブに、無情にもボールが収められた。
二死となり、客席の反撃ムードも一気に萎んだ。
「うーん、状況はよろしくないねぇ‥‥けど、勝たせて貰うよ!」
まだ試合は終わっていない。彼はみなぎる闘志でロハスと対峙した。
(まずは同点にしたいところだけど‥‥無理は禁物だね)
できれば、この回で逆転してしまいたい。そのためには次打者にチャンスをつなげることが大事だ。
クラウスにはボールがよく見えた。ファインプレーで気持ちが高揚していたのかもしれない。
三球ファールで粘ったあと、カットボールにバットを叩きつける。打球は一二塁間を破った。
「よしっ!」
二塁走者の優希は、ホームに突っ込みたい衝動をかろうじて抑え込んだ。右翼のミヤウチは強肩だ。
矢のような返球が送られるのを見て、彼は自分の判断が正しかったことを知った。
二死一三塁。
「頼んだよ!」
一塁上のクラウスがクリスティーナに声を掛けた。彼女は目を閉じて、
(一番おいしい場面──つまり、見せ場。クライマックス!)
そんなことを考えていた。
ヒットを打てば、最低でも同点。しかし凡退すればそこで終わり。
想像を絶するプレッシャーが彼女を襲う。
妹、友人、そして数多の観衆──。それらすべての存在が、彼女を圧す。
それを前に進む力に変換するのだ。
「『久遠ヶ原の毒りんご姉妹』華麗に参上! ですわ」
口になじんだ言葉をほとんど無意識に発しながら。
クリスティーナは打席で胸を張り、投球を待ち受ける。
(必ず一球は投げてくるカットボールを弾き返しますわ)
ただし低めは捨てる。相手が全球そこにコントロールしてきたら──。
いや、来るはずだ。
「‥‥打てよ」
「打ちますよ」
獅号のつぶやきに、ジョンが答えた。
プレートを蹴る音が聞こえてくるほど、静まりかえった。
初球──。
打撃の基本は、上から強く叩く!
「──ですわ!」
気合いの一振りが、快音を導き出す。
もはや声ではなく波となった音に包まれる中、打球は右中間を転がった。
まず優希が返ってくる。これで同点。
「行けますよぉ!」
「回ってください!」
ボールが中継に。クラウスは三塁を回った。
捕手のミットをかいくぐり、転がるようにして右手を伸ばす。
白いベースをタッチした瞬間は、まるで光がはじけるようであった。
●
栄光の瞬間から一夜明け。
「‥‥ふぁ」
景はいつもと同じベッドで目を覚ました。
「夢、か」
だが右手はなにやら熱を持っている。大事なものを握りこんでいるような──。
もちろん、開いたところで何もない。だがその熱が何であったのか、彼女には何となく理解できた。
きっと、仲間たちも同じように思っているだろう。
──そういえば、なんだか学園で見覚えのある顔だったな。
もし実際に学園であったら、野球部に誘ってみようかな?
登校するのを楽しみに感じながら、景はベッドから体を起こした。