自らが突き崩した建物から顔を上げ、怪物がこちらを向いた。
もうもうとなびく土煙の中から、爛々と光る目玉が覗く。
拳一つが人の体ほどはあるそいつは、遠くに集まるもの達の姿を見つけて歓喜の咆哮を迸らせる。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
口腔の無数の牙をさらし、舌なめずりをする。四肢をみなぎらせた暴将・アバドンは身を低く沈め、狙いを定めた。
「うわぁ、凄いのが来たー!」
アッシュ・スードニム(
jb3145)は遠くからの咆哮をその身に浴びて、犬のような耳としっぽをぴんと張りつめさせた。
「あれなに? あれなに?」
「あれが、アバドン。群馬に巣くう破壊の悪魔‥‥」
日下部 司(
jb5638)は半ば呆然としてその威容を眺める。まだ距離があるというのにはっきりと見える巨大なその姿は、逆に巨大すぎて恐怖すら感じない。
だがそんなことを考えていたのは一瞬だ。こちらには既に戦闘不能者がいる。彼らを救い出すのが自分たちに与えられた最低限の任務だ。
「とにかく、少しの間でも救出の時間を稼ぐために仲間と全力を尽くそう!」
時間は限られている。司はアバドンから目をそらし、まずはフリーランスのメンバーの元へ向かった。
「待たせたな。もう大丈夫だ」
彼らの元には志堂 龍実(
ja9408)がいて、力強い声をかけていたが。
「大丈夫‥‥大丈夫だと? あんなのが来てるってのにか!」
リーダーであるはずの竹下はひどく動揺している。司は彼の肩をたたいた。
「落ち着いてください。俺たちが相手の気を引きます。どれだけの時間が稼げるか分かりませんが、仲間と一緒に撤退線に向かってください」
その隣では雪風 時雨(
jb1445)が必要以上に落ち着き払った様子でアバドンを見物していた。
「おやおや大きい悪魔であるなー。記念にデジカメで写真撮って土産にしよう、さて」
アバドンは今にもこちらに向かって突進を仕掛けてきそうな具合だ。
Q.召還獣と一緒にアバドンさんに轢かれたらどうなりますか?
「A.ハンバーグの元、であるなははは!」
独り問答して高笑い。時雨は仲間を振り返る。
「よし、テイマーは撤収! 救助者達を召還獣に載せるぞ!」
「味方から突出なんて常々馬鹿な真似と言われてるってのに、しかもこんな大物のいるところで!」
ルドルフ・ストゥルルソン(
ja0051)が呆れ顔で言うのを聞いて、竹下等は唇を噛む。言い訳のしようもないことだ。
代わりに戸蔵 悠市 (
jb5251)がルドルフの肩を叩いた。
「全員生還が撃退士の任務達成における最低条件だろう‥‥生きて帰ること、ひとまずはそれだけを考えよう」
友人にそう言われ、ルドルフははぁとひとつ溜息をつく。今にも溜めこんだ暴力を蒔き散らさんとしている巨牛を見やって、それでも不敵に言った。
「まぁ、任せておくと良いよ。少なくとも奴は俺より遅い‥‥たぶん、ね」
「よっと‥‥少し辛抱してね」
アッシュは意識のない安藤の元に駆け寄ると、慎重に彼を抱き抱える。そしてスレイプニルを召還した。
クライムスキルを利用して、彼ごとその瘤のようになっている背にまたがると、アディと名付けた召還獣がかすかに身震いした。
時雨も同様に、肩を怪我している長見と一緒にスレイプニルの背にまたがる。悠市は竹下、富岡と三人で乗ろうとしたが、さすがに姿勢が安定しない。速度も出せないだろう。
「俺たちはまだ動ける。自分で走るさ」
悠市が一緒でなければそもそも彼らは召還獣に乗ることも出来ない。結局、彼らは自力で進む他はなかった。
「でかいな‥‥だからといってやることが変わるわけでもない」
フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)がアバドンを見据えている。悠市は彼女の元へ駆け寄ると、光信機を手渡した。
「無茶はするなよ」
「分かっている。出来る限り足を止めたら、こちらも撤退しよう」
「ルドルフ、お前は特にだ。前科もあるからな‥‥」
「なんだよ、それ」
ルドルフは渋面を作って見せたが、それが彼なりの激励であることは分かっている。
言葉を続けようとしたところに、冷たく乾いた声がした。
「来ます」
マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)が告げると共に、空気の流れが変わる。アバドンの方から風のように流れてくる気配がある。
それは殺気だ。
囮となる者は各々が武器を顕現させる。悠市は身を翻し、テイマーの二人に合流する。
「アディ、急いで逃げるよー!」
アッシュの声でスレイプニルが駆けだし、その姿は見る見るうちに離れていく。
「偽神マキナ、うちの主様をよろしく」
ルドルフはすれ違いざまマキナの肩をぽんと叩くと、建物の陰に姿を消した。
──さあ、準備はいいか。
まさかそうは言わなかっただろうが。
暴将が地を蹴り、突撃を開始したのはまさにその直後だった。
●
味方が周囲に散っていく。マキナは敢えて正面に立った。
ひとつの暴風、竜巻のごとくこちらに迫り来る暴将アバドン。勢いを止めなければ一瞬でここを通り過ぎ、召還獣達の元へ辿り着いてしまうだろう。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
咆哮は圧力を生み、彼女へと襲いかかる。マキナは表情ひとつ変えずに拳を構え、待ち受ける。
「──っ」
巨体が眼前に迫り、顎が開かれ、視界いっぱいに口腔が広がる。限界まで引きつけて、マキナは後方へと飛んだ。
鼻面をかすめるようにして攻撃を躱す。食らいつくべき獲物を失った牙はそのまま地面に食らいついた。そこに敷かれていたアスファルトはまるで食い散らかされたクッキーのようにあっさりと噛み砕かれて方々へ破片を散らす。
「相変わらず出鱈目な事だな」
天風 静流(
ja0373)は二度目の邂逅となる暴将をそう評した。こちらに注意を向けるべく手にした拳銃で顔を狙う。アウルの弾丸が耳元で跳ねてもアバドンは痛がるそぶりも見せなかったが、赤い目玉がキロリと動いて静流を捉えた。
そこへ。
「何処を見ている! お前の相手はこっちにもいるぞ!」
大剣を構えた司が逆方向から声を張った。アバドンはその声に釣られるようにして首を巡らせる。
そして、無造作に左腕を払った。
蠅を払いでもするかのような動きは、しかし司からすれば電柱で横薙ぎにされるようなものだ。咄嗟に防御姿勢をとる。盾を緊急活性しようとして、既に魔装の装備量が限界を超えていることに思い至った。
「ぐうっ‥‥!」
結局武器で受けた司は、そのまま後方に数m飛ばされた。建物に突っ込む寸前で踏みとどまり、体勢を立て直す。
一方でフィオナは側面に回り込み、剣を振るう。魔術によって現れた黄金の鎖は、しかし暴将に絡みつくことはなくはじけて消えた。
ほぼ同じタイミングで、建物の陰からルドルフが影縛を試みる。こちらはわき腹に当たったが、いずれにしても敵が怯む気配はまるで見受けられなかった。
「もとより期待していなかったが‥‥足止めにもならんか!」
「ちゃー‥‥やっぱこの手のは効かないのかね?」
二人はそれぞれに眉根を寄せた。
「ニンゲン‥‥ニンゲン‥‥!」
アバドンの正面にはまだマキナが立っているが、暴将は顎をあげ、遠くを見るそぶりをした。その先にはアッシュと時雨が駆るスレイプニルに、悠市らの姿がある。
遠ざかる彼らの元に向かわせることは絶対にさせない。その強い意思の元、革帯 暴食(
ja7850)はアバドンの足下に躍り出て声を張り上げる。
「我が名は大罪ッ! 蠅王ベルゼブブが司りし罪名暴食ッ!
さぁ、蝗王アバドンッ! どっちが害虫の頂点に相応しいか決めようぜぇッ!?」
その身に纏うは脚甲一枚ばかり、防具と呼べるものはほとんど身につけないままに、暴食は蝗の王の名を冠する暴将の前に立ち、ケラケラと笑って見せた。
この時点で既に暴食は限界までアウルを巡らせ、自身の退路を断っていた。狂気を纏い、狂喜を孕み、アバドンへの想いを一心、言葉に乗せて。
「テメぇの名を知ってから、この日この時この瞬間この刹那をどれだけ待ち詫びたことかッ!」彼女の想い。愛とはすなわち食である。だからこの時も彼女はこう叫ぶ。「さあ、喰わせろッ!」
それに対するアバドンの答えは、振り下ろされる右拳であった。
暴食は飛び退いて躱すが、巨大なばかりでなくその動きは素早い。何度も躱し続けるのは難しいだろう。
それを感じた暴食は──舌なめずりをした。
「いいぜぇ‥‥何でもしてやるッ!」
目を輝かせて、次の一撃を待つ。
「図体に違わず‥‥恐ろしい奴だな」
龍実は思うさま力を振るうアバドンを見上げる。
「けど‥‥それは時には弱点にもなる!」
前方で味方が注意を引きつけていることを利用して死角へ回り込む。上半身同様に隆々とした筋肉に覆われている足に向けて長剣を振るい、薙ぎ払う。
固い鉄を打ったかのような感触が跳ね返ってきた。アバドンが動きを止める気配はない。
「来ているぞ!」
遠くからフィオナの鋭い叱責が飛び、風のうなりを感じるよりも早く龍実は身を沈めた。そのわずかに上を、アバドンの尾が掠めて過ぎていく。
「攻撃範囲に死角は無いということか‥‥!」
腕にしろ尾にしろ、一撃でももらえばダメージは計り知れない。龍実の背を冷たい汗が流れた。
建物の陰に身を潜めた山里赤薔薇(
jb4090)は、迫り来る敵を見据えて身を震わせていた。
「この化け物が街を‥‥皆を‥‥! 許さない、絶対に!!」
人の気配のしない街。それだけでも許し難いのに、残された街をいともたやすく破壊して見せる怪物。
「こいつは‥‥ここで殺す!!」
敢えて苛烈な言葉を口にし、自らを奮い立たせて。意を決し、物陰から躍り出る。
アーススピアを行使することは、事前に仲間に伝えてあった。だがいざ目の前に出てみれば、考慮の必要もないほどに敵は巨大だ。
味方のいない地点を狙い意識を集中する。天使の名を冠した長剣の柄をしかと握りしめて。
「くらえ、化け物!」
大地より突き出た槍がアバドンの足を捉え、貫いた。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
アバドンが咆哮を放つ。それは痛みに耐えているようにも聞こえた。
桐ケ作真亜子(
jb7709)は大急ぎで上った民家の屋根の上からそれを聞いた。だがそれ以上に彼女の心を揺さぶったのは、魔法を放った赤薔薇の必死の形相であった。
「怖い、これがあの優しい山里先輩!?」
恩人であり、尊敬する先輩である赤薔薇が敵意を剥き出しにして戦う姿を初めて目の当たりにしたのだ。
「これが戦い、これが撃退士?」
彼女にとっては、これが初陣でもある。それにしては何とも相手が勝ちすぎているようにも思えるが、元は単なる救出依頼だったのだから仕方がない。
(ボクは難しいことなんてわからない。でも、こいつがとんでもない巨悪で暴君なのはわかる!)
こいつのせいで、ここは語りかける野良猫の姿さえ無い街になっているのだ。
(山里先輩もいる、きっと何とかなる!)
真亜子は弓を引き絞る。それはまさに眼前の敵・暴将アバドンと同じ名前を冠した弓だ。
だからきっと当たる、と頷いて、狙うは『気味悪いオメメ』だ。
一射目は惜しいところに当たった。
「まだまだ!」
いくらかでもダメージになっていると信じて、狙い定める。
司が再び右手からアバドンに迫る。その手にあるのはディバインランス。
駆け寄るさなか、自然静流と視線が合った。静流は薙刀を振り出し、左手から距離を詰める。
咄嗟の連携で放たれた二つの強烈な突きが、アバドンの左足に炸裂する。
会心の手応え。だが──。
「くっ、重い‥‥」「だめか‥‥!」
びくとも動かぬ巨体に、二人は逆に弾き飛ばされないよう踏ん張らなければいけなかった。
態勢を整えようとする静流の頭上に影が差す。
彼女の頭を軽く叩き潰せるであろう拳がそこにあった。
フィオナは庇護の翼を発動し、静流を押しのけるようにしてそこに立った。
それは、ディバインナイトである彼女からすれば当たり前の行動だ。だが振り下ろされたアバドンの拳は──その規格外の攻撃力と、かけ離れたカオスレートは──そんな彼女の常識を粉々に砕いた。
「ぐぅっ‥‥!?」
魔具は砕けなかった。だがフィオナの前腕は衝撃を支えきれず砕けた。なおも拳の圧は止むことを知らずに、彼女を強引にひざまずかせる。
彼女の持って生まれた王の威ごと、叩き潰すかのように。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
アバドンが吼えた。かと思うと、暴将はばっくりと口を開く。そして力を失い倒れ込もうとするフィオナを深くくわえ込んだ。
「いけません」
もっとも近くにいたマキナが跳躍し、アバドンの喉元に一撃を叩き込む。それはスキルによって外皮を素通りし、暴将の体を揺らす。さらに龍実、真亜子が弓でアバドンを撃つと、ようやくフィオナの体が吐き出された。
●
繰り返されるアバドンの咆哮をその背に浴びながら、フリーランスの四名とともにテイマー達は全力で駆けている。
「うひゃあ、凄い声だねえ」
その実振り返る余裕も無いほどながら、アッシュはなおも状況を楽しもうとしていた。
隣で轡を並べる時雨も、徒歩で駆ける竹下らが遅れない程度に全力で召還獣を走らせながら応じる。
「可能なら相手の攻撃手段などを観察してもらえると助かるな。この土地を解放するにあたって敵将の情報は必須、これは千載一遇の機会!」
「足止め班に期待、だねー」
「竹下殿たちも迂闊ではあるが、ある意味金星かもしれぬな」
もちろん、それは生きて帰れたらの話だ。
後方の様子を確認する余裕は当分ないし、アバドンと距離を開く、すなわち味方と距離を開けるということはそのまま敵地での孤立を意味する。自分たちが安全だという保証を得るのも、まだしばらくは先のことになるはずだった。
●
変わらず物陰に潜みながら、ルドルフは歯噛みする思いだった。
主君の名を呼び、飛び出したい気持ちを抑えて隠密に徹する。ここからではフィオナの容態さえわからないが、彼女は自分が知る中では一番強いディバインナイトだ。今は信じるほか無かった。
(とにかく、動きを止めなくちゃ‥‥)
側面に立つ彼を暴将が気にする様子はない。影縛の術は、今まさに振り上げられようとする右腕に当たった。
「今度は、どうだ?」
攻撃を待ちかまえていた暴食は、アバドンの右腕が不自然に制止するのを見た。まるで、何かに縛られたように。
ルドルフの動きが見えていたわけではなかったが、好機を逃す道理はない。暴食は一気に距離を詰めると、そのままアバドンの腕に駆け上がる。
「愛してるよぉ愛してるぜぇだから喰わせろよぉ蝗王よォォオォッ!」
右足を一閃して脚甲をアバドンに叩きつけると、余勢を駆って全身でその太い腕にへばりつく。あんぐりと口を開けた暴食は、そのままアバドンにかぶりついた!
「固ってぇ肉じゃねェのサ、アバドンちゃんッ! ケラケラケラケラ!」
腕に食いつかれるという、少なくとも人間からは初めて受けたのではないかという行為を暴将は不快に感じたようだった。首をひねって暴食を見る。だが右腕は動かない。
束縛が効いている。誰の目にもそう見えた次の瞬間。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
咆哮を放ったアバドンは体全体で右腕を『押し始めた』。
「うおぉッ!?」
腕に張り付く暴食ごと、民家の石塀に動かない腕を押しつけ、腕ではなく体の圧で石塀を砕く。それは暴食をこそぎとろうとする動きだった。
「痛ぇじゃねえのサッ! ケラケラ!」
だが痛みをシャットダウンしている暴食は離れない。アバドンはなおも腕を押しつけようとする。
「こっちに来た!?」
民家の上にいる真亜子は揺れで狙いを定められなくなっていた。
暴将の巨大な顔はすぐ眼下にあるが、目玉をピンポイントで狙うのはもう難しい。代わりに、角を生やした頭が目に入った。
「だったら‥‥」
真亜子は弓をしまい込み、身の丈を大きく上回る剣を顕現した。
意を決して屋根の上で助走をつけ、跳ぶ。大剣をひらめかせ、狙いは敵の脳天だ。
「くらえ、正義の一撃!」
それだけで真亜子とさして変わらない大きさの角の間に着地すると、逆手にした剣の切っ先をためらうことなく突き刺した。
「ガアアアアアアアアアッ──」
「う、うわ、わっ!」
アバドンが鬱陶しいとばかりに頭を振るい、真亜子は離されまいと柄にしがみつく。
「マァちゃん!?」
赤薔薇は果敢な後輩の姿に驚きの声を上げた。だが直後にこれが攻撃のチャンスであると思い至る。暴食と真亜子に意識をとられ、暴将はこちらを気にしていない。
物陰を飛び出して距離を詰める。長い尾が再び振るわれるのではと警戒しつつも背後に迫り、背中に向けてスタンエッジを放つ。
暴将の背に確かに電撃がはじけたが、それで怯む様子は見られなかった。
(効いていない‥‥?)
この位置に長居をしたらさすがに狙われるだろう。赤薔薇はそれ以上スタンエッジを行使することを諦めて再び距離をとった。
「なんて奴だ‥‥」
意識のないフィオナを物陰に寝かせ、龍実は改めてアバドンを見やる。
彼自身も盾を顕現しはしたものの、果たして受け止められるのは一撃可能か、否か。
(それでも、やるしかない)
今しばらく食い止めなければ、まだ救出目標の安全圏には遠い。
今回は、人の命を救うための戦いだ。それは龍実自身の目的にもっとも叶っている。
だから諦めるわけには行かない。自らの命を賭す覚悟で、彼は再び前線へ向かった。
●
アバドンから離れていく悠市ら逃走班もまた、敵と無縁ではいられなかった。
路地をいくつか抜けた先、数体ばかりではあるがディアボロの姿が見える。富岡が忌々しげに吐き捨てた。
「まだ狩り残しがいやがったのか!」
「たいして強くはない奴らだが‥‥」
「ふむ」
竹下の言葉を聞いて、時雨はつと考える。
「戸蔵殿、長見殿をお願いできるかな」
悠市はすぐその意味を理解する。「足止めするのか?」
「万が一、安藤殿たちが狙われるようなことがあっては一大事であるからな」
長見と共にスレイプニルから降りた時雨は彼女の身柄を悠市に引き渡した。
「先へ行きたまえよ、何、適当に撒いてすぐに追いつく!」
「だったら、アディも置いていくよー」
アッシュが言った。安藤を抱えたまま翼を顕現させ、召還獣の背からふわりと浮き上がる。
「こう言う時、翼があって良かったなって思うねぇ‥‥安藤さんはボクに任せて」
時雨にそう微笑みかけると、悠市たちに向き直る。
「さあ、先を急ごうかー」
(ボク達が逃げ切らないと他のメンバーも撤退できないからね)
時雨とスレイプニル二体を残し、彼らは敵を迂回してまた駆けだした。
●
暴食と真亜子がアバドンの体に直接張り付き、残りの者は多方向から取り囲んでいる。
戦闘不能者を出しているとはいえ、こちらの想定に近い形にはなっていた。
(さて、どう動く──?)
正面から右へと位置を動かしながら、マキナはアバドンに無言の問いを投げかける。
だが暴将の回答は、すべてが暴力となって返ってきた。
左腕が横薙ぎにされる。それは直近にいたマキナばかりか、司をも捉えて吹き飛ばす。
ついに自由を取り戻した右腕が大きく振るわれる。ブゥン、と風を切る音とともに、暴食が弾き飛ばされて地面の上をごろごろと転がっていく。
最後には勢いよく頭を振ると、真亜子が地面に叩きつけられた。
「ぎゃうっ」
小柄な体は一度大きく跳ねた。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
瞬く間に状況をクリアにし、暴将がまた咆哮した。
「いたた‥‥」
頭を振りながら、真亜子は何とか起きあがる。見上げた視界いっぱいに広がっているものがアバドンの背中であることに、すぐには気づけない。
「マァちゃん!」
山里先輩の声がする。振り返ろうとしたら、突き飛ばされた。
「えっ‥‥」
再び尻餅をついた真亜子が次に見たのは、今まさに自分の居た位置に立つ赤薔薇。
そして彼女が、加速度をつけて襲いかかってきた暴将の尾をまともに受けて吹き飛ばされるシーンだった。
静流が暴食の元に駆け寄ると、彼女の顔は土気色をしていた。
開幕直後に使った死活の効果が切れたのだろう──攻撃も受けていたし。
静流はそう思ったのだが、思ったそばから見る見る顔に血の気が戻り、暴食はぱっちりと目を開ける。
そしてぱっと飛び起きた。
「動けるのか?」
「全ッ然! 余裕ッ!」
静流にぎらついた目を向けたのは一瞬で、すぐにまたアバドンを注視する。
「あの程度で死ぬはずねぇだろぉ‥‥人間様嘗めんじゃねえぞぉケラケラケラケラ!」
笑い声をあげながら、暴食は再び吶喊していった。
「大丈夫ですか?」
「ええ‥‥」
司の声にマキナはそう返したが、立ち上がった瞬間霞んだ視界に顔を歪めた。肉体のそこかしこが痛みでもって自身の限界を伝えてくる。
アバドンの攻撃を二撃受けて凌いだ司はたいしたものといえるが、彼だって次の一撃はさすがに持ちこたえられないだろう。
震える体を叱咤して戦線へと戻ろうとした時、逆サイドから暴食が再びアバドンへとりつこうと迫るのが見えた。
「もう一度だッ! 喰わせろ蝗王ッ!」
暴食の背後で静流が銃を構える。彼女をはじめとしていくつかの援護が飛んだが、いずれも効果的なものにはならなかった。
アバドンが右腕を振るうと、暴食は躱すことも再びとりつくことも叶わず、弾き飛ばされる。受け身もとれずに地面に跳ねて、今度こそ彼女は動かなくなった。
「先輩、山里先輩!」
真亜子は建物の壁に突っ込んだ赤薔薇の元へたどり着くと、その身を抱え起こす。しかし赤薔薇はぴくりとも反応を示さない。背中に回した手にはぬるりと熱い感触があった。
「よくも‥‥よくも先輩を!」
湧き出る怒りが、真亜子自身の体の痛みを忘れさせた。こちらを振り向きもしないアバドンに向けて、剥き出しの敵意を放出する。
だが‥‥それを押しとどめる手があった。
「これ以上は戦線を維持できない。撤退しよう」
龍実だった。
「でも!」
「山里はまだ生きてる」
その言葉が、真亜子の剣気をしぼませた。確かに赤薔薇は細いながらもまだ息をしていて、流れる血は熱いままだった。
「この以上は撤退も怪しくなる。それに‥‥」
もともと、戦闘不能者が三名を超えた段階で撤退に移るという話ではあった。もっとも、その提案をしたフィオナ自身は今は号令できない。
「これは命を捨てる戦いじゃない」
元々は命を救うために彼らはここにきたのであり、今はまた敵の情報を持ち帰るという使命も帯びているのだ。
「桐ヶ作はまだ動けるか? それなら、山里を頼む」
龍実はそう言うと身を翻し、フィオナの元へ向かった。
「ミイラ取りがミイラになるわけにはいかないな」
静流は暴食をその背に負った。動けないもののフォローは何とかなる。だが問題は、暴将が撃退士達の撤退を許してくれるかどうかだ。
いざとなったら背中の暴食を誰かに預け、自分が──静流がそこまで考えたとき、雷のように飛び出してきてアバドンを斬りつけたものがあった。
「来いよ化け物っ」
ルドルフだ。忍刀で暴将の足を斬りざま駆け抜け、すぐに距離を取り直す。
だがその位置は、静流達のいる場所とは正反対。アバドンの背後だ。
「そんな疲れ切った獲物よりも‥‥イキの良い奴との鬼ごっこの方が楽しいだろ?」
大声でその背に呼びかけながら、静流の方を見る。
──早く行け。
目顔でそう訴えていた。
●
時雨は敵を退け、先行した悠市やアッシュ達を追いかけているところだった。
「──おや」
ふと振り向くと、アバドンが向きを変えている。
「お帰りかな? さて‥‥」
「どうしたのかな?」
アッシュが首を傾げる横で、悠市にはひきつるような予感が走った。
光信機を取り出して、通話を試みる。
まずルドルフを呼ぶが、返事がない。次にフィオナに呼びかける。
『‥‥志堂だ』
応えたのは龍実だった。
「そちらの状況は?」
その返事は悠市を動揺させるに十分なものだった。
●
「悪いがこっちは取り込み中ってね!」
光信機からのコールを無視して、ルドルフは全力疾走していた。
何しろ背後から追うものは、
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
暴将アバドン。一緒に鬼ごっこを楽しむには少々おっかない相手である。
「『疾駆』の二つ名は伊達じゃないさ」
確かに、単純な直線移動力はルドルフが上回っていた。あまり引き離しすぎないよう、スピードを調整する余裕さえあった。
だが、いよいよ暴将を撒いてしまおうと路地に入ったところで事態が変わる。
その巨体では狭い路地は通れないかと思えばさにあらず。目の前をふさぐような看板などはたたき壊しつつ、透過能力で塀をすり抜け、速度を落とすことなく追いかけてくるのだ。
こうなると、道に従って進まなければならないこちらが不利だ。元いた場所からは十分離れた。あとは広い道に出て逃げ切ってしまおう──。
そう考えたとき、背後から迫る暴将の圧力が弱まっているのを感じて、ルドルフは首を回す。
暴将は足を止めていた。
そしてそばに立っていた電柱を右手で掴むと、枝を折るような気安さでそいつをボキリとむしり取る。
「おいおいっ──!」
アバドンが投擲モーションになり、うなる音を立てて電柱が飛んできた。それはルドルフの眼前の地面に突き刺さって砕け、アスファルトを滅茶苦茶にする。
道を塞がれた、と感じたときにはもう遅い。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
闘牛のごとく突撃する暴将と目が合った次の瞬間、ルドルフは跳ね飛ばされた。
アバドンはルドルフを追っていたこと自体を忘れたかのように走り続け、正面の建物に激突してようやく止まった。
立ち上がる砂埃を避けるように、後方にふわりと影が降り立つ。
「お見事ですアバドン様。撃退士どもは排除されました」
トゥラハウスは慇懃な口調でアバドンを誉め称える。
「ニンゲン‥‥ニンゲン‥‥」
「今はお休みくださいませ。奴らを屠る機会はいずれまた、いかほどにもございますでしょうから」
「ガアアアアアァ‥‥」
その吼え声は抗議したようにも、眠そうにあくびをしたようにも聞こえたが、いずれにしても暴将はトゥラハウスの言葉に従った。翼を広げ、県庁へとむかって飛び立ったのだ。
遠ざかるその姿を礼をもって見送ったトゥラハウスは、瓦礫の山と化した戦場を見渡して忌々しげに毒突く。
「鈍牛め、どれほどの手の内をさらしたのか分かっているのか。策を練るこちらの身にもなってみろ」
そして、飛び去っていった。
●
トゥラハウスが呟いたすぐ下にはルドルフがいたが、半ば瓦礫に埋もれ、意識を手放していた彼にはなにも聞こえてはいなかった。
「ここにいたか」
しばらく経って、彼を見つけたのは悠市だった。体にかかった瓦礫をどかして声をかける。
「全く、あれほど無茶をするなと言ったのに‥‥」
ルドルフは返事をしない。
眠る彼の横に腰を下ろす。心音を確認して、悠市はようやく安堵した。
●
「それで、どうだったのー?」
「見た目通り、強大な力を持っていたよ。こちらの攻撃も、有効なものは数えるほどだった」
アッシュにそう答えながら、司は頭の中で早くも報告書の内容を練り始めていた。
「ジャガーノート──絶対的な力」
呟くようにそう言ったのはマキナだ。
「究極に近くなるほど、陳腐になる。彼はその典型でしょう」
回答は単純で明快だった。すべて力で叩き潰す。他の思考は見えなかった。
今日退いたのは、勝てないからでも倒せないからでもない。
“今はまだ”
それだけのことだった。
力の強大であることは知れたが、完全に隙がないわけではない。今日の戦いにはいくつもの材料があった。
それは間違いなく『次』への力になる。
決戦の時は近い。
そのことを、その場にいた誰もが肌に感じていた。