研究院からおよそ4kmほど離れた、小高い丘でのことだ。
護送を依頼したミルザムと撃退士たちの間には、緊張と躊躇いが漂っている。
元は仲間の支援が目的で集まっていた連中だ。
ミルザムのために集まったわけではない。
さらに言えば、ミルザムの行動に懐疑を抱く人物もいた。
イシュタル(
jb2619)である。
彼女を含め、斡旋所にいた撃退士は皆、ミルザムの事情を知っていた。
――ハーフ技術の導入に貢献した技術者であり、研究のために身体を犠牲にした。
――完治していないが、『雫』の謎を解き明かすために動いている。
久遠ヶ原の職員がミルザムを止めたときの会話に、これらの情報が含まれていたのだ。
それを知った上で、イシュタルはミルザムの行動に疑問を抱いていた。
(……宝石の解析はたしかに此方側にとって有益なものにはなる、か……)
筋が通っているように見えるが、決定的な部分が抜けていた。
(でも……何故そこまで知識を求める?)
その部分は、職員との会話に登場していなかった。
(研究の為とはいえ己の体さえも差し出してたみたいだし……理解し難いわね)
乗り気でないのは雨野 挫斬(
ja0919)も同様だった。
「天使を解体できると思ったのにな〜」
雨野の目的は天使との戦闘を通じて快楽を得ることにある。
護送となると、目的を果たすのは難しくなるだろう。
しかし、不満を露わにされたミルザムが言う。
「もし連れて行ってもらえないようなら、一人で行く。非合理的だがな」
何故そこまで? と撃退士全員がミルザムに注目する。
「知らないモノをこの手で解析してみたいんだ。知欲のために、と言えばわかりやすいか?」
「あら。久遠ヶ原のために、とかじゃないんだ?」
雨野の発言に、ミルザムが小さく顎を引いて頷く。
「キミたちや、キミたちの仲間のためでもないな。利害が一致していることを訴えているだけだ」
「ふぅん」
雨野はミルザムの顔を見ながら「ん〜」と唸る。
「見捨てて遊びにいってもいいけど……まぁいいわ。欲の為に他の全てを犠牲にできる同類のよしみで守ってあげる」
言うや否や、雨野は地図を取り出してどこかに電話をかけた。
細いフレームの眼鏡を掛けた戸蔵 悠市(
jb5251)も思案顔だったが、ミルザムの発言を聞いて納得が出来た。
「知識を求めるその意欲は分からんでもない。私が本を読む理由も似たようなものだ。命を賭けるというならば止めはしないが、こちらも勝手に護らせてもらう」
此度のメンバーにおいて唯一の悪魔である、ノスト・クローバー(
jb7527)も同調した。
「俺も、人の紡ぐ物語に興味があって人界に降りた。君の知りたいという知識欲もなんとなく理解できるかな。雫の何かしらの情報を得られると期待しているよ」
「だなぁ」と獅堂 武(
jb0906)が声を上げた。
彼は、後ろ髪を赤い紐でまとめている。
「まぁそれぞれ得意分野で頑張るしかねぇわな。ミルザムさんは頭脳労働、俺らは肉体労働で頑張りますかね」
困っている人を放っておけない、お人好しの彼のことだ。
周りが同意しなくても、おそらくミルザムの護送には参加しただろう。
赤色の髪紐を締め直して、獅堂は自身の頬を張る。
「うし、気合い入れるか!!」
発言こそしなかったが、今本 頼博(
jb8352)も考えは同じだ。
地図でルートを確認する目は真剣そのものだった。
(ミルザム自身の希望とはいえハーフ技術のおかげで今の俺がある。俺の身勝手だがハーフ天使として恩を返そう)
各々が護送に向けての準備に取り掛かる。
途中、雨野が全員を集めた。
「研究院に連絡して、周辺の状況を確認したよん」
雨野が地図を広げる。
現在地は研究院の西側。
研究院の北西には上位サーバント・朱雀がいる。
南西は比較的、安定している。
研究院の周辺は森になっていて、天界軍が放った索敵用のサーバント、焔の蝶が多数いる。
研究院の手前1kmのところに小川が流れているので目印になるだろう――とのことだった。
「蝶に見つからないように南西へ移動するのが大前提……ですよね?」
緋桜 咲希(
jb8685)の確認を、雨野が肯定する。
「朱雀の相手は研究院側の撃退士に頼んでおいたよ」
基本は戦闘を避けた隠密行動。
安全な道を探す先行偵察隊と、ミルザムを護送する本隊の二手に分かれる。
連絡はハンズフリーイヤホンを使って、携帯電話で取り合う。
大まかな方針が決まり、撃退士たちは準備の最終段階に入った。
準備を終えたフィオナ・ボールドウィン(
ja2611)は、丘の上から研究院まで続く森を見下ろしている。
何かを見下ろす姿が、とことん絵になる女性だった。
「さて、すんなり辿り着ければいいのだが……そうもいかぬよな」
俯瞰している木々の隙間から、焔の蝶がちらちらと見えている。
●
先行偵察隊に立候補したのは雨野、緋桜、ノストの三人だった。
三人は現在、研究院の南西の角付近を目指して一直線に進んでいる。
雨野とノストが前方を、わずかに遅れて歩く緋桜が頭上を警戒していた。
(ひぃ、な、なんか怖いのが居そう……心細いよぅ)
緋桜が怯えているが、警戒は怠たらない。
本隊より先に進み、安全が確認されたら進軍要請を電話で伝える。これの繰り返しだ。
やることは単純だが、徹底するのは重労働だ。
草木で物音を立てないよう、慎重に進軍する必要がある。
しかも相手は小さな蝶で、サーバントだ。
透過を使って木や葉をすり抜けてくることもある。
今も、前方に炎が見えた気がして三人は息を詰めた。
……蝶が、通り過ぎていく。
既に同様の状況を、空振りも含めて何度か経験している。
迂回も数回、強いられた。
(うようよと……厄介だね)
心中で呟いたのはノストだが、他の二人も心境は同じだ。
蝶が消えたのを確認して、周囲を見回す。
雨野とノストが首肯を交わして動き出した。
瞬間、緋桜が二人の服を引っ張った。
「っ!」
頭上を仰ぐ。
蝶がいた。
見つかったかもしれない。
疑いを持つと同時に、ノストは頭上に向けてワイヤーを放った。
敵を絡めとり、両脚に雷のアウルを、身体に風のアウルを纏って糸を絞る。
蝶が羽根を散らして絶命した後、三人は再びその場に伏せる。
……数分が過ぎた。
特に変化はない。
本隊の今本から『大丈夫か?』と、携帯電話で尋ねられた。
「すまない。問題ないよ」
ノストが返答している間に、緋桜が大きく吐息した。
長く呼吸を止めていたらしく、苦しそうにしている。
「念のため、すぐに移動しよう」とノスト。
「うん。移動先で少しだけ休憩しようね。がんばれる?」
雨野が尋ねて、緋桜が返答する。
「は、はい。ごめんなさい……」
「疲れているのは緋桜君だけじゃない。気にしないことだね」
ノストの発言を聞いて、雨野も微笑む。
そこでようやく、緋桜も安心したように表情を和らげた。
●
本隊を先導しているのはイシュタルと獅堂だ。
イシュタルはミルザムに懐疑心を抱きつつも、他の撃退士と連携して動いていた。
左右、前方と鋭く目を光らせ、些細な変化があれば背後にハンドサインを送る。
今のところは、先行偵察班からの指示通りに進めていた。
敵に遭遇する可能性も頭に置いている。
隣を歩く獅堂も姿勢を低く保ち、じりじりと進んでいる。
遮蔽物が見えた場合はイシュタルに合図を送り、微妙に進路を変えていく。
他の三人は気配を殺しつつ、少し離れて歩いていた。
ミルザムは戸蔵が背負っている。
先行偵察隊が休憩を取ると聞いて、本隊も少し休むことになった。
休憩の最中、戸蔵が小声で「ミルザム女史」と呼びかけた。
「いきなり尋ねるようだが、天魔の蔵書を所有していないか?」
「……いや。天魔の知識に興味があるのか?」
「ああ。今はまだ有り得ないことでしかないが、是非読んでみたい。貴女の経験を書き記しておくつもりはないのか? 貴女の足跡を歴史に刻むためと、後に続く者達のために……」
戸蔵は、発言の途中で自ら口をつぐむ。
ミルザムが怪訝そうにしていたからだ。
「こういう発想は人間臭すぎるものだろうか」
「私に限った話かもしれないが、私の欲はあくまで、自分を満たすためだけにある」
先行偵察隊から再出発の連絡が届き、話は途切れた。
本隊も再び進み始める。
「…………」
再出発後、本隊の最後尾を歩くフィオナは周囲の様子を探っていた。
彼女は、後方と上方からの奇襲を警戒する役目を担っている。
後方に蝶はいない。
頭上も異常なく、木の葉の隙間から空が垣間見える。
だが、フィオナは何かを感じ取っていた。
「止まれ」
呟いたのは戸蔵に背負われているミルザムだった。
しかし彼女が呟くよりも早く、フィオナは立ち止まっていた。
今本が立ち止まり、先頭を歩いていたイシュタルと獅堂も振り返った。
全員が知らず、息を潜める。
耳をそばだてていたフィオナが頭上の、木々の隙間に目を凝らす。
「来る!」
ひゅんっ、と風を切る音が聞こえて、木の葉の間隙を縫って何かが飛んできた。
フィオナが飛び退く。
彼女が先ほどまで立っていた場所に槍が突き刺さり、砂煙が舞い上がった。
頭上にぽっかりと開いた枝葉の穴から、風がまた訪れる。
鎧に身を包んだ、羽根を持つ男が舞い降りた。
「虫けら風情が、よく避けたな」
槍を引き抜き、頭上で豪快に回転させてから肩に担ぎなおす。
《紫迅天翔》リネリアを主人に持つ天使、従士ロベル・リヴルの参上であった。
●
「……貴様も騎士団の手の者か」
ロベルと対峙したフィオナは、動揺することなく口を開いた。
先行していたイシュタルと獅堂はすぐさま身を翻し、ミルザムを隠すようにフィオナと並び、壁を作った。
逆に、戸蔵と今本はロベルから距離を取る。
「さすれば名乗っておこう。我はフィオナ・ボールドウィン、今生の円卓の主」
「虫が騎士を名乗るのか?」
槍で肩を叩きながらロベルが嘲笑する。
「貴様は? 木石にあらずば名ぐらいあろう」
質問しながら、フィオナはロベルを観察する。
他の仲間も天使の一挙一動に注目していた。
「……クッ、クハハハ」
「何がおかしいの?」
イシュタルが尋ねてもロベルは嘲笑を止めない。
「虫のくせに知性ぶっているのが滑稽だ。それに反して敵の情報を知りたがるのは臆病な虫らしい。その対比がやはり滑稽だ」
ロベルは笑みを浮かべたまま、槍の穂先を撃退士に向けて叫んだ。
「ロベル・リヴル! ロベル・リヴルだ!! ゆくゆくは大天使に名前を連ねる俺に殺されること……名誉に思え!!」
刃を向けられた撃退士たちが、静かに腰を沈める。
「貴様の目当ての予測がついた。……これであろう?」
フィオナは言いながら、これみよがしにヒヒイロカネから双剣を抜いて構える。
獅堂も両手に符を挟んで対峙している。
「……ヒヒイロカネか。確かにそいつを集めろと言われちゃいるが、そっちは後回しだ」
ロベルは二度、袈裟に槍を振って撃退士たちを威圧する。
「貴様らを踏み潰してから、ゆっくり回収すればいい」
ニィ、とロベルの口角が上がる。
空気が重くなった瞬間、後列に下がっていた戸蔵が光を放つ。
ストレイシオン召喚の光だ。
前列の三人に防御効果が掛かった。
ロベルが動くのと、獅堂が符の効果を発動させたのは同時だった。
「そんなもんが当たるかよォ!」
速い。
獅堂が放った直線移動する氷の刃を潜りながら突進してくる。
これを、フィオナが真っ向から受けて立つ。
一度、二度、三度と剣戟が続く。
槍と双剣の打ち合いである。
普通ならばフィオナの方が機動で勝るはずだ。
しかし、長槍を扱うロベルはその動きに見劣りしない。
フィオナの打ち込みに合わせて戸蔵のストレイシオンも攻撃に加わるが、まるで命中しない。
その速度を止めるべく、獅堂が武器を鉄数珠に持ちかえる。
ロベルを拘束するのが狙いだ。
糸が槍の穂先に巻きつき、獅堂が綱引きの姿勢を取る。
「しゃらくせぇ!」
力任せに薙ぎ払われて、糸が外れる。
「んなろっ、じゃあこれはどうよ!」
獅堂が刀印を切って術の構えを取る。
八卦石縛風――澱んだ氣と舞い上がる砂塵によって対象を石化させる術だ。
「そんなもん効くわけねぇだろがァ!!」
ロベルの勢いが止まらない。
「厳しいな」
後列に位置する戸蔵の、さらに背後。
戦況を見つめていたミルザムが呟いていた。
「真っ向勝負では無理がある」
彼女の言う通り、前衛の二人とストレイシオンが押され始めていた。
回復手段を持つストレイシオンが攻撃を引き受けつつ、フィオナが獅堂と連携して戦うが一向に好転しない。
健闘しているが、今のままでは勝てない。
「虫けらのくせによく粘りやがる!」
接近戦に応じていたロベルが前触れなく離れる。
そして、翼を羽ばたかせて離陸した。
「少しだけ本気を出すぜェ!!」
急上昇の後、急降下する。
巻き起こした陣風と共に一瞬だけ地上のフィオナとすれ違う。
強振された槍と双剣が激突して甲高い音を立てた。
攻撃を捌いたフィオナが振り返ったときにはもう、ロベルは空中にいる。
余裕の笑みを浮かべて、高度を保っていた。
「安心しろ、飛ぶのはトドメまで取っておいてやる。次に飛ぶときは貴様らを殺すときだ」
翼を打ちながら、ゆっくり高度を下げていく。
「作戦会議の時間をやろうか?」
ニヤついたロベルに、フィオナが「いいや」と答えた。
「そんなものはいらぬ。もう、十分わかった」
「ハハッ、そうか。まぁ無理もない、あまりに一方的過ぎるわな」
……念のため、他の天使と、彼と戦った撃退士の名誉のために解説しておく。
ロベル・リヴルは、けっして弱くない。
ただ、彼は知らなかった。
対峙した瞬間から、撃退士たちが立ち居振舞いを見て性格を分析していたことを知らない。
武器の間合いや重心を見極め、攻撃手段の予測を立てていたことも知らない。
威圧のために槍を振り回したことすら愚行だった――それに気付くための経験が、ロベルにはなかった。
「真っ向勝負では無理がある」とミルザムは分析した。
では、十分わかった状態で、真っ向勝負でなければ――
●
「――見ィつけたっ」
●
森を、颯爽と駆ける光があった。
光は濁った赤の色をしていて、陽炎のように彼女の全身を包んでいる。
待ち合わせに遅れてしまい、先に到着している恋人に背後から悪戯を仕掛ける心地だった。
感情によって大きさや濃さが変わる彼女の光纏は焦らされた分、激しく燃え上がっている。
慢心したロベルは彼女の突進に気付かない。
林立する木の幹をジグザグに駆け上がる彼女が同じ高度に至り、跳躍したときにようやく首だけを振り向かせる。
その瞬間にはもう、雨野 挫斬が放ったワイヤーが目の前にあった。
「うあッ!?」
血飛沫が舞う。
槍がロベルの手を離れ、地上に落ちた。
「キャハハハ!」
雨野の残酷な笑い声が響いた。
ロベルは空中で、顔面を両手でおさえている。
「目が……っ!」
その隙に、戸蔵からミルザムを託されていた今本が彼女を背負って全力で走り始めた。
追走するイシュタルが殿を務める。
最初は前列に位置していた彼女は、戸蔵のストレイシオンと入れ替わって最後列に下がっていた。
ミルザムを守れるように、ずっと控えていたのだ。
「こ、こっちです!」
今本とイシュタルが向かう先に緋桜がいる。ノストも一緒だ。
襲撃直後に撤退しなかったのは、先行偵察隊が合流するのを待っていたからだ。
「ま、待ちやがれ、貴様ら、」
右目を潰されたロベルが向きを変える。
混乱していた彼は、戸蔵のストレイシオンが接近していることに気が付けない。
結果、ロベルはストレイシオンに背を向けることになり、片翼を噛み砕かれた。
「ッ!」
ロベルが堕ちる。
ミルザムを伴った一団は森の奥へ消えた。
「バ、バカな……この俺が……、っ!?」
ロベルが危険を察知して地面を転がる。
間合いを詰めたフィオナが斬りかかっていたのだ。
口に入った砂を噛みながら、ロベルは片目を剥いて槍を探す。
奇しくも目の前に落ちていた。
槍を拾い上げて構える。
四方を、撃退士たちが囲んでいた。
「さぁ、遊びましょう天使様! それとも人間如きに背を向けて逃げる?」
「調子に乗るなァあああ!」
正面にいた雨野の挑発を受けて、ロベルが前に出る。
視界を半分失ったロベルの攻撃は、まったく当たらない。
「アハハ! この程度? サーバントより弱いわ!」
闇雲に振るわれる槍の攻撃をくぐり抜けて、雨野が腕を薙ぎ払う。
指先から伸びたワイヤーが同じ軌道を描き、ロベルのこめかみを裂く。
無論、右目の死角を狙っての攻撃だった。
ロベルの膝が落ちる。
頭上からストレイシオンが吐き出した雷が落ちて、背後の獅堂が放った氷の刃が肩に突き刺さった。
「ぐ、おおおお」
ロベルは「参った」が通じる訓練でしか戦ったことがない。
不意打ちの狡さ、致命傷を受けても止まない攻撃の苛烈さ――何も知らずに挑んだ報いだった。
「終いだ」
フィオナが剣を振りかぶりながら、出る。
(……音?)
打開策を閃いたロベルが顔を上げる。
剣が発する風切り音を聞き取り、皮一枚で避けた。
ロベルは、両目を閉じている。
(まずは包囲を抜けるッ!)
活路を求め、ロベルは遠距離攻撃中心の獅堂に狙って距離を埋める。
目は閉じたままだが、獅堂が戸惑っているのを耳と肌で感じ取った。
本能と感覚に従い槍を突く。
肉を抉った手応えがあった。
その後に、いきなり攻撃を受けてのけぞった。
獅堂がカウンターで放った炎の球体をまともにくらったのだ。
思い切りのけぞった状態で左目を薄く開けると、突撃してくる雨野の姿が見えた。
「くそ、がァ!」
獅堂に刺さったままの槍を掴んで、体勢を立て直す。
槍を強引に引き抜いて雨野へ投じた。
舞い散る鮮血の向こう、身体に槍を突き刺したまま、雨野が笑うのが見えた。
「ふふ、楽しくなってきた!」
ゾッとするような笑みだった。
こいつはたぶん殺しても死なない。そんな予感すらわいてくる。
――怖い、と。
ロベルが初めて撃退士を恐れた瞬間だった。
それも束の間、ロベルは死角から飛んできた拳に頬を思い切り殴られる。
剣では音を盗まれると悟ったフィオナが拳闘に切り替えたのだ。
ロベルが状況を悟る前にタックルで押し倒して、馬乗りになる。
「……ふん……他愛ない」
呟いた直後、フィオナはロベルの顔面に拳を打ち下ろす。
単発に留まらず、連打が続く。
(な、んだ?)
ロベルは無意識に両腕を持ち上げ、顔面を守っていた。
(殴られて、いるのか。人間、ごときに)
とんだ生き恥だった。
しかし、それ以上に思うことがあった。
(……)
拳撃を防ぐ両腕の隙間から、ロベルの左目がフィオナを見た。
「むっ?」
瞬間、連打を続けていたフィオナが手を止めた。
きっかり一秒間、両者は視線を結んだまま動かなかった。
何故か、フィオナが薄く笑う。
直後、ロベルが寝たままの姿勢で彼女の額を殴った。
フィオナが体勢を崩した隙にロベルは拘束を抜け出て、背を向けて走り出す。
「あら、逃げるの。ふふ、いいわ、見逃してあげる、弱虫さん!」
雨野の発言にも反応せず、ロベルは退却していった。
「フィオナ女史、何故攻撃を止めた?」
フィオナ率いる円卓、その第八席に身を置いている戸蔵の質問に、フィオナが答える。
「目のせいだ。あの瞬間、うつけ者から面白い目に変貌した」
彼女は、ロベルが立ち去った方角を見ている。
「生き延びんとする、飢えた獣の眼光。……つい、魅入ってしまった」
●
ミルザムを連れた四名について語る。
ロベルから離れることに成功したものの、研究院が近付くにつれて蝶の数は目に見えて多くなった。
さらには掃討戦から逃れ、身を潜めていたらしい通常サーバントまで見かけるようになった。
迂回が難しいと判断した場合は身を潜めて、敵が去るのを待つ。
蝶が近くにいないこと、サーバントが単独でいること、その他のルートが塞がっていること……これらの場合に限り、強引に突破を図った。
明鏡止水で潜行の効果を得たイシュタルが敵に近付いて先制攻撃を浴びせて、ノストと緋桜が飛び出し、三人で畳み掛ける。
その戦法で道を切り開いた先に、残り1kmの目印である小川が見えた。
小川を渡り切ったところで、不運にも森の中から現れたサーバントと鉢合わせた。
リネリアが研究院を包囲するために放っていた犬型のサーバントだ。
出会い頭に、出現位置に一番近かった緋桜が爪で引っかかれた。
「……ひっ!?」
彼女の悲鳴をサーバントの遠吠えが遮る。
すると同型の敵が二体、続けて現れた。
「い、痛いよぅ……」
「あと少しだってのに!」
緋桜が涙ぐむ横で、今本が悔しがる。
今本に背負われているミルザムが「……いや」と否定した。
「天使に見つかって戦力を削がれ、疲労も蓄積した身体でよくここまでたどり着けた。そう考える方が正しいだろう」
「まぁね……緋桜君、大丈夫かい?」
ノストに尋ねられた緋桜は、ぶつぶつと何かを呟いている。
「イタイコワイイタイコワイイタイコワイ……」
戦うのは難しそうだ。
それを見て、槍を構えたイシュタルが呟く。
「……囮になるわ。道を拓いて、その後は足止めに回る」
議論の時間を持たずに彼女は飛び出していた。
突進してきた一体目を叩き伏せ、二体目を突き上げる。遅れて飛び出してきた三体目の攻撃は彼女の身体を掠めた。
「行って!」
イシュタルがミルザムに疑いを持っているのは変わらない。
だが、雫の解析は有益なものになる……それを理解した上での行動だった。
ノストが飛び出して、その後に今本が続いた。
緋桜は――
「あ、そうだ」と、唐突に顔を上げた。
そして今までパニックに陥っていたのが嘘のように、はっきりと言った。
「相手を殺せばもう痛くないし怖くないね」
内容とは正反対の明るい声と共に、彼女の全身から黒いもやが噴き出した。
立ち込めた闇色の光纏の中で、ギン! と紅色の点が輝く。
変色した緋桜の瞳の色だった。
「うふふ……死ね!」
黒い煙を切り裂いて、斧を装備した緋桜が飛び出してくる。
イシュタルを取り囲んでいた犬型サーバントに向けて、狂刃を振るう。
「シネシネシネシネェッ!!」
イシュタルと緋桜が足止めしている間に、ミルザムを連れた二人は遠ざかる。
●
研究院まで、あとわずかだ。
先行するノストを、今本が必死に追走している。
その途中、ノストの携帯電話が着信で震えた。
雨野からだった。
『無事〜?』
「川を越えた。もう少しで着く」
『お〜、それは良かった。……でもごめん、悪いニュース』
内容を聞いたノストが、速度を緩めて立ち止まる。
ミルザムを背負った今本も停止する。
「どうした?」
「朱雀が、」
ノストの言葉を、甲高い鳴き声が遮る。
次いで、二人が立っている場所を大きな影が横切った。
朱雀が低空飛行していた。
地上付近で何かを探しているような飛び方だった。
「……北西を離れてどこかへ飛んでいった、という報せだったね」
走っている途中、気付かないうちに焔の蝶の網に引っかかったのかもしれない。
ノストは朱雀が飛び去った方角を見て、何かを決めたように頷いた。
「今本君、俺は朱雀を引きつける。ミルザム君を頼む」
「一人でか?」
ミルザムの質問に、ノストは微笑んでみせた。
「気を引いて逃げるだけなら、やってみせるさ。またあとで会おう」
止める間もなく、ノストは走り出した。
残ったのはミルザムと今本だけだが、ゴールはすぐそこだ。
「待て」
今本が研究院へ向かおうとするのをミルザムが制止した。
「私を降ろせ」
「いや、でも……」
「早く」
今本は、ミルザムに従った。
「先に研究院へ向かってくれ」
「……なんで、そうなるんだ?」
「敵に私たちの存在が知られているなら、固まっているより分かれた方がいい。私は隠れておく。研究院に着いたらキミが応援を呼んでくるんだ。その方が合理的だろう」
「もしも、俺が戻るまでに見つかったら?」
「そうならないよう、急いでもらえると助かる」
今本はまばたきを繰り返したあと、深く息を吐いた。
そして、携帯していたアンブレラを二本とも手渡した。
川と森林の迷彩柄の、進行途中にも状況に応じて使用していた傘だった。
「万が一のときは杖代わりにして歩いてくれ。あと、これも預ける」
今本はミルザムに何かを手渡す。
「これは……ブローチか?」
「ふたつのこころ、ってアクセサリだ。……絶対に諦めないための、お守りにしてくれ」
「ふむ……むっ?」
今本は、宝石を眺めていたミルザムをいきなり持ち上げた。
両膝の裏と、背中に手を回した――いわゆる「お姫様」を運ぶときの抱え方だ。
サイレントウォークで足音を消しながら、走り出す。
「何をしている?」
「俺の命に代えても研究院まで無事に連れて行く。最悪の場合は俺を置いて行ってくれ」
「……何故そこまでする?」
「俺は天使と人間のハーフだ。父は天使で母とは相思相愛だそうだ。惚気を毎日聞かされた」
サイレントウォークでは足音以外を消すことはできない。
ミルザムの身体が草葉に触れないように、その他の音も立てないように今本は走っている。
「俺が久遠ヶ原に入学したのはハーフ技術が導入されたからなんだ。……これは俺なりの、恩返しだ」
「そうか。私の中にはない感傷だ」
言った瞬間、ミルザムは戸蔵の言葉を思い出した。
『貴女の経験を書き記しておくつもりはないのか? 貴女の足跡を歴史に刻むためと、後に続く者達のために……』
――後世のために。恩を返すために。
そういう類の考えをミルザムは持っていない。
持っていないからこそ、聡い彼女は理解した。
(これらも、人間の歴史の一部なのだろうな)
ミルザムが思考している間も今本は走り続けている。
森が途切れて研究院の壁が見えた。
普段は不可視化されている今本の翼が大きく開く。壁を一息に飛び越えるつもりだ。
ミルザムを抱えたまま離陸する――まさにその瞬間、朱雀が研究院の外壁に沿って飛んで来るのが見えた。
今本は飛ぶのを止めて、地面を滑りながら減速した後、ミルザムを地面に置いた。
ミルザムから離れつつ、朱雀に向かって決死の覚悟で吼える。
「来いよサーバント!」
朱雀が今本に気が付いた。
……しかし、朱雀は彼にもミルザムにも興味を示さなかった。
高度を上げて、森の方へ飛び去っていく。
「あ、あれ?」
完全に、肩透かしをくらった状況だった。
「今本君」
声がした方向に振り向くと、朱雀を引きつけていたはずのノストがいた。
「俺も無視された。あれはたぶん、俺達とは違うものを探しているんだろうね」
朱雀も、その他のサーバントも見当たらない。
つまり――――
「護送は、成功だよ」
●
ミルザムは無事、研究院に送り届けられた。
ロベルと交戦した面々も、イシュタルと緋桜も研究院に到着している。
負傷はしたものの、全員無事だった。
「最初に会ったときも話したが、私は欲のために生きる人間だ」
護送に参加した撃退士たちが再集合したときに、ミルザムは彼らを集めて話し始めた。
「可能ならば、世界の全てを解き明かしてみたいと常々思っている。雫やレーヴァテインはもちろんだが、人間界の成り立ちや歴史も興味の対象だ。久遠ヶ原に身を寄せたのは、人間のことを深く知るためでもあった」
ミルザムは一旦、言葉を区切った。
撃退士たちが「?」と首を捻る。
「……つまり、何が言いたいか、というとだな」
合理主義の彼女は珍しく言葉を詰まらせた。
しかし、すぐに無表情で先を繋いだ。
「護送に参加してくれたのがキミたちでよかった。感謝している」
気取った言い回しの礼を受けて、撃退士たちは微笑した。
雪解けのような微笑みだった。
「あと、戸蔵……だったか」
ミルザムが、彼に目を向ける。
「本の話だが、書いてみたくなったときは筆を取るかもしれない」
「っ、それは……」
「あまり期待はしないでくれ。私は約束を裏切り続けた末に、人間界にたどり着いている」
通路の方から足音が聞こえた。
研究院の職員が、彼女を迎えに来たのだ。
「今度は私が力を尽くす番だな。また会おう」
撃退士たちに別れを告げたミルザムが、職員に連れられて立ち去っていく。
それと入れ替わりに、妙齢の女性が彼らの前に姿を現した。
対天魔対策司令室四国司令・鷲ヶ城椿――つまり、此度の防衛作戦の責任者である。
「よくぞオヒメサマを送り届けてくれた! あたし一人じゃ役不足かもしれないけど、代表して礼を言う!!」
椿は白い歯を見せて笑った。
「ありがと」
価値のある、作戦成功だった。
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一つだけ疑問が残る。
朱雀は、何を探していたのか――。
その答えは従士ロベル・リヴルの主、《紫迅天翔》リネリアの行動にある。
彼の出陣が決まったとき、朱雀はリネリアから命令を受けていた。
「チュエさん、もしもロベルくんに何かあったら包囲よりそっち優先で頼むっすよ。初陣だし、心配っす」
ロベルの負傷は焔の蝶によって天界軍に伝わっていた。
朱雀は、空から彼を探していた。
ロベルが移動を続けていたせいで正確な位置がわからなかったのだ。
ロベルはリネリアから応急処置を受けた後、傷の完治のためにゲートへ撤退することが決まった。
空路の途中、リネリアに手配された大鷲型のサーバントの背中で、ロベル・リヴルはギリリと強く強く強く、歯を軋ませる。
顔の右半分は包帯のせいで隠れていた。
「……俺は、必ず戻る」
欲する対象を「戦い」から「勝利」へ変えた騎士が、空に吼える。
「絶対にだ!!!」
次は撃退士から受けた傷の分だけ、手強くなって戻ってくる――。