彼女は昔の夢を見ている。
母に百点の答案を見せたときの夢だった。
「花マルさんだね」
微笑みを向けられたあと、抱き締められるのが幸せだった。
頭を撫でられるのが誇らしかった。
良い点を取れば褒められる。
単純な解釈だった。
「この調子でがんばりなさい」
いつからか、母は「もっとがんばれ」と言うようになった。
「受験が過ぎるまでの辛抱だから」
笑顔を求めて、彼女は母の言う通りにした。
頭がぼんやりして、頭痛がひどくなり、がんばれなくなったのはいつからだったか。
「ママはどこで間違えたのかしら」
母の形をした影が彼女に言う。
直後、影は形を変える。
「私は、どこで間違えたのかしら」
母は彼女に、彼女は母に。
影は姿を変えながら、彼女の間違いを暴こうとしている。
●
「……自分とママに責められる夢かぁ」
悪夢の内容を聞いたオズワルド(
jc0113)は、うーん、と唸る。
彼と共に被害者の説得を担当する予定の草摩 京(
jb9670)も、神妙な顔をしている。
「早く悪夢から解放させないと」
決意を呟く日下部 司(
jb5638)の横で、ノスト・クローバー(
jb7527)が「そうだね」と同意する。
「俺は口を挟むと辛辣な言葉しかかけられなさそうだし、説得は任せておくよ」
右に同じです、と抑揚のない声で機嶋 結(
ja0725)が同調した。
「相手が悪魔でないなら、機械的に処理するだけです」
隣では百目鬼 揺籠(
jb8361)が咥えていた煙管を口から離し、細く、長く煙を吐き出している。
その紫煙の向こう側に、毒々しい花の化け物が咲いていた。
向坂 玲治(
ja6214)が、軽く拳を鳴らす。
「どれ、雑草の間引きと害虫駆除しに行くか」
●
多くの人が、心の奥底で夢を見ている。
いつか誰かが助けにきてくれる夢を。
いつか誰かの、光になる夢を。
●援護班
ヴヴヴヴヴ、と生理的な嫌悪を催す羽音が響いていた。
毒花の周りを飛び交うハチの群れへ、堂々と歩み寄る影が一つ。
向坂だ。
武器を肩に担いだまま、くいっ、と指で手招きしながら言い放つ。
「ほら来いよ。お前らの敵はここにいるぜ」
まずはハチを花の周囲から引き剥がし、被害者の説得役と護衛を送り込む。
それが今回の作戦だ。
その目論見通りに、ハチたちは挑発に乗った。
向坂は反転して、花から遠ざかる。
陽動を補佐するため、機嶋とノストもハチの群れの左右を並走する。
群れの最後尾では毒島勇輝(
jb6176)が追走していた。
彼らが花から十分離れたところで、説得班と護衛班が迂回しながら花を目指していく。
群れの最後尾にいた数匹のハチが反応したが、毒島が阻霊符を発動させてハチの気を逸らした。
(実戦における光纏を観察する、いい機会ね)
毒島はハチに攻撃を行わず、攻撃を防ぎながら花から遠ざけていく。
先頭のハチは向坂を追い続けて、最後尾付近のハチは毒島を追い続ける。
その誘導に奇異なものを感じたのか、左右を固めていたハチの移動速度が鈍った。
数匹のハチが花に戻ろうとした瞬間、銃声が連続で轟く。
機嶋が放った、二丁拳銃による威嚇射撃だった。
「ノストさん!」
花粉に注意を、という警告を込めて、機嶋が彼の名前を呼んだ。
説得班に攻撃が及ぶ場合は銃撃する、というのは事前に打ち合わせ済みだ。
銃声が聞こえた瞬間、ノストは移動を止めて花に振り返っている。
花が上体を反らすように幹をしならせ、こちらに花粉を飛ばしてくる瞬間に彼は備えていた。
――ふっ! と短く呼吸を切りながら、ノストは光纏を一段と輝かせる。
同時に、大きく風が吹いた。
上空へ向かう春一番が壁となり、花粉を押し上げる。
吹き上げられた花粉が落ちてくる前に、ノストも陽動に戻る。
「助かります」
「うまくいってよかったよ。……俺らも注目されるようなスキルを持っていたらよかったんだけどね」
状態異常を回避したものの、陽動中に攻撃をしたのはこれが最後になった。
もっと離れれば花粉を飛ばされずに済むかもしれないが、保障はない。
風を起こすタイミングを間違えば、状態異常で悲惨なことになるかもしれない。
これらの可能性を考慮して、彼らはハチの攻撃を受けることに専念した。
機嶋はハチの攻撃を鎧で受け続け、ノストは予測回避で攻撃を掻い潜る。
「ぐっ!」
うまく攻撃をやり過ごしていた毒島が、ハチの体当たりで負傷する。
続けて別のハチから噛み付かれそうになった瞬間、向坂が割って入った。
「ありがとうございます!」
「おう」
庇われた毒島は、自分と性質の違う向坂の光纏を見て密かに思う。
(一口にアウルといっても、光纏には個性があってとても興味深いわ……)
遠くを見れば、機嶋も自己治癒能力を上げて奮戦している。
(実に面白い!)
毒島は心を躍らせているが、負傷の度合いが進むにつれて焦りが募る戦況ではあった。
「もう一度攻撃してみるかい? さっきよりも離れているし、花粉が飛ばせる距離を判別できるかもしれない」
蝶のように舞いながら、ノストが声を掛ける。
「……」
武器を銃から刀に変更した機嶋が、光纏で刀身を黒く染める。
斬撃を繰り出そうと地を蹴った瞬間、「待った!」と向坂の声が聞こえた。
「あれは……」
毒島が花の方を振り返る。ハチも動きを止めていた。
花の化け物が、悲鳴を上げている――。
●
彼女は、夢を見ている。
ビルの屋上で、夕日を前にして、膝を抱えて泣いている夢を見ている。
前にも後ろにも行けない夢だった。
「いたいところはない?」
背後から聞こえた声に、彼女はハッと振り向く。
あのときと違って、誰もいなかった。
代わりに、今度は空から声が降ってきた。
「初めまして、草摩京です。よろしくお願いしますね」
「ボクはオズワルド。悪魔だけど人間の味方だよ。きみの名前はなんていうの?」
●護衛班
現実の彼女は、花の根元で夢と現実の境目を漂っている。
……正直に言うと、日下部はそんな彼女のことを快く思っていない。
結局、彼女は自分の弱さに負けているだけではないか。
不真面目というのは、あながち間違っていないのでは。
彼は、そう考えている。
しかし、救助に関しては別だ。
無事に救出する。その一念に関しては強いものを持っていた。
「行かせませんよ」
陽動から漏れたハチを前にする日下部は、武器を構えていない。
救出完了まで絶対に構えず、攻撃も行わない。
不退転の覚悟で武装した身体こそが、唯一無二の盾だった。
飛び込んでくるハチの攻撃を、日下部は真正面から受け止める。
「俺に構わず声を掛け続けて下さい」
彼の背後では、草摩とオズワルドが説得を始めていた。
百目鬼もそばに控えている。
「あなたの夢を見たひとから話は聞きました。……辛かったんですね。お母さんに理解されなかった事」
……うぅっ、と嗚咽が漏れた。
オズワルドの毛むくじゃらの手が、涙を拭う。
「いつもどおりが当たり前になっちゃったのかも。……家族や友達は傍に居るからこそ、きみの気持ちに気付けなかったのかも」
ううぅっ! と苦しげに少女が呻いた瞬間、ヴヴヴヴ! と羽音が近付いてきた。
ハチが一匹、日下部を振り切って接近してくる。
渾身の体当たりを代わりに防いだのは、百目鬼だった。
続けてもう一匹ハチが攻撃してきたが、間一髪で日下部が止めた。
二人に目礼した後、草摩は再び少女に語りかける。
「痛みを誰かに理解して欲しかったですよね……受験の悩みや苦しみを聞いて欲しかったですよね」
「でも、私、……が弱かった、から……みんな、同じなのに」
彼女が示した初めての反応を、草摩とオズワルドは逃さない。
「それでも……結果が出なくても、貴女は頑張ったじゃないですか」
「そうだよ。辛いなら逃げよう。今は無理して前を向かなくていいし、頑張らなくたっていい」
「……だめ、それだと、ママが喜ばない」
少女が何か言おうとした瞬間、ギィィィ! と花が蠢いた。
鞭のように振るわれたツタを、百目鬼が身を投げ出しながら受け止める。
吹き飛んだ後、受け身を取った百目鬼は鋭い眼光で花を射抜く。
「話がしてぇっつってるの! 無粋な真似すんじゃねぇですよ!」
その間に、少女が草摩とオズワルドが告げる。
「私、別に受験なんてどうでもよかった。ただ、ママに偉いねって言ってほしくて……期待に、応えたくて……」
……。
「馬鹿みたいよね……もう、子供じゃないのに。ママも、呆れちゃう」
それが、彼女の嘘偽りのない心情だった。
「……きっと貴女は少し不器用だったんですね」
沈痛な面持ちで呟いた草摩に、オズワルドが「うん」と頷く。
「不真面目なんかじゃ絶対にありません」
「そうだよ。きっと誰のことも傷つけたくなかったんだよ」
少女の目が開く。焦点の合わない、ぼんやりとした視線だった。
「お母さんのこと、まだ大好きですか?」
「……うん」
「なら、一緒にお母さんに伝えに行きましょう。死ぬくらいなら、思いっきり叫んでみませんか?」
「……やだ、甘えるな、って、怒られる」
「うまくいかなかったら一緒に泣きます。伝わったら、一緒に笑って泣きます。……一度死んだと思って、お母さんに気持ちを伝えてみませんか?」
「むり、だよ……できない、こわい」
花が悲鳴を上げた。
攻撃の勢いが増すが、日下部と百目鬼が、歯を食い縛って踏み止まる。
「ここまで頑張ってきたんでしょう! 自分でそれを否定しちまうんですかぃ!」
百目鬼の叫びをかき消すためか、花がまた叫ぶ。
「きみは自分を傷つけてるよ。お手伝いはできるけど、きみを助けるための一歩を踏み出せるのはきみだけなんだよ」
そばにいるオズワルドの声なら届く。
「きみ自身を助けてあげて。目を覚まして!」
草摩の声なら届く。
「もしも拒絶されたら、いつでもうちの神社に来て下さい。私は真面目でも不真面目でもない、お母さんが好きな貴女を待っています。いつだって話を聴いて、一緒に笑って、一緒に泣きますから……」
手だって、届く。
「さあ、手を取って下さい。伸ばせば、すぐ傍に私たちは居ますよ」
●
全てのハチが、花に向かって飛んでいた。
援護班が虫を追っている。
花が怒り狂っている様子も見えた。
オズワルドの咆哮が聞こえて、青白い光纏が広がっていくのも見えた。
説得成功の合図を受けて、銃を取り出しながら毒島は呟く。
「……なるほど。アウルだけが撃退士の力……ではないわけね」
彼女が狙うのは、少女と花を繋ぐ触手だ。
光纏で身体能力を引き上げて、集中する。
引き金を引いた直後――花の巨体が、揺れた。
「撤退します!」
少女を抱える草摩の背中に、再捕獲を狙ってツタが伸びてくる。
「おっと、俺を忘れてねぇか?」
強引に割り込んだのは、全力疾走で駆け付けた向坂だ。
ツタは向坂に巻き付いて彼を取り込もうとしたが、日下部と機嶋が素早くツタを切り落とす。
「こっちでさぁ!」
鉄下駄でハチを蹴り飛ばしながら、百目鬼が叫ぶ。
向坂も槍を振り回して援護していた。
二人が作った退路を、オズワルド、草摩、日下部の三人が進む。
少女はオズワルドに抱えられて、草摩は弓で周囲を警戒しながら追走していた。
殿は日下部が勤めていて、接近してきた二体のハチを神速の刃を飛ばし、最後には沈めていく。
一分の隙もない、見事な撤退だった。
●
花の周辺には、多くのハチが残っていた。
花もまだ生きていて、怒りを燃やしている。
しかしそれ以上に、撃退士たちの光纏も輝きを放つ。
ぶん! と空を薙いだ槍の穂先が、化け物に向けられた。
「ようやく解禁か……お礼参りといかせてもらうぜ」
槍の持ち主である向坂は、ニヤリと笑いながら突撃する。
「これで本気が出せるようになる。手加減するのはどうもまだるっこしいね」
雷を下半身に、風を上半身に纏ったノストが全身を緑色に輝かせて、手近のハチに挑む。
ハチの攻撃を紙一重で避けてアウルを叩き込み、魔法書で放った真空の刃でトドメを刺していく。
彼と同じく、毒島もハチを攻撃している。
「私のアウル、喰らいなさいっ!」
装備は銃から杖へ変更されているが、攻撃自体は光纏で作った氷の鞭で行っている。
ハチに命中するたび、氷の粒子が飛び散る鮮やかな攻撃だった。
一方、機嶋は花の近くへ駆けつけるときに使用した全力跳躍で、ハチの合間を駆け抜けながら攻撃している。
ハチが繰り出す死ぬ間際の特攻を警戒して、先手必勝の斬撃を繰り出しては移動する。
元々能力が低いこともあって、ハチたちは瞬く間に掃討されていった。
そして――
「ギィイイイイイイ!」
花は、身動きが取れずにいた。
「これで終ぇです! 御覚悟を!」
百目鬼の左手が伸びて、茎や葉に巻き付いている。
かざした掌には眼が浮かび、花を睨み付けて束縛している。
全て幻覚だが、花には抗う術がない。
拘束された花に、影が重なる。
空高く跳び上がった向坂の影だった。
花に突き刺した槍の一撃が、トドメになった。
●
「色々趣向を凝らしたみたいだが……結局大した事ねぇな」
一仕事終えて、向坂が息をつく。
「で、大丈夫そうか?」
向坂の視線の先には、救出された少女がいる。
彼女の周りに、撃退士が全員集まっていた。
「少しぼんやりしているみたいだけど、問題なさそうです」
応急手当をしていた毒島の言葉で、安堵が広がる。
しかし、少女の顔色は優れない。
「あなたは『どうしたい』ですか?」
日下部が声を掛けると、少女はぴくり、と反応した。
「年下の俺が言うべきことではないかもしれませんが、自分自身がしたいことを見つめて下さい。負けないでくださいね」
少女は目を閉じる。
草摩が手を握ると、少女は涙を一筋流して握り返してきた。
「ところで、君はどうして花に捕まっていたんだい」
ノストが単刀直入に尋ねた。
「同じような目にあうことを減らすのも、撃退士の役目だからね」
少女は、小声で「妙な男」について口を開いた。
その途中、オズワルドが頭上に向かって叫ぶ。
「誰だ!」
異常を感知した瞬間、頭上の景色が歪み、羽根を生やした目玉が出現する。
機嶋が即座に銃撃したが、目玉はそれよりも早く位置をずらした。
ニィィ、とほくそ笑むように、監視サーバントが目を細める。
「お前が黒幕だな! どうしてこんなことするんだ! 卑怯だぞ!!」
返答はない。
目玉は現れたときと同じように、姿を溶かして消えていく。
「人の子の心で弄ぶような真似。いけすかねぇ感じでさ」
百目鬼の言葉が、その場にいた全員の心を代弁していた。
「それはさておき……来たみたいです」
毒島の言葉に、全員が反応する。
サイレンを鳴らして救急車が近付いてきた。
停車した後、救命士よりも早く駆け降りてくる女性の姿があった。
●
個人情報保護のため、報告書はここで途切れている。
ただ、両者の夢は叶った――とだけ、記載がある。