突然目の前の景色が変わったことに、仲本は驚き声を失った。地面から離れた足が再びついたときには、獣からは離れ、他の人が駆け込んでゆく建物の入り口の方が近くなっている。顔を上げると、自分を抱えている腕の主は若い男だった。
「ぎりぎりセーフってところか」
抱えている男とは別に、その前に立っている蒼桐 遼布(
jb2501)が息をつきながらそう言う。
小さな悲鳴に自分が元いたであろう方を見ると、小柄な少女が獣の牙を受けて傷を負った所だった。平気なはずが無いその傷から血を流し、しかし少女はそれでも怯む事は無い。
「さぁ、私が相手をしてあげます。来なさい!」
果敢な或瀬院 由真(
ja1687)に続くように、他の数人も同じように獣へと向かって行く。そのうちの一人が振りかざした符は一筋の雷を生み出し、黒い毛並みにめり込んで通り抜け、獣は大きく唸った。
「離して!」
思わず叫び腕を引きはがそうとするが、自分を掴み抑えるその腕は力強く離す事が出来ない。
「すまんね、言いたいことが多々あるのは分かってる……が、まずはこっから離れてもらうぜよ」
麻生 遊夜(
ja1838)がそう言うと、彼女の体の強張りが更に増す。必死でその腕を振りほどこうともがくその様に、振り返った蒼桐はその目を見据えて鋭く叫んだ。
「例え、あれが元は君の犬だとしてもすでに犠牲者が発生している以上、倒さなくてはいけない。それとも君はあれが喰らった命を元に戻せるというのか! できはしないだろう。ならば邪魔をするな!!」
彼女の体の強張りはすっとほどけ、解けたというよりも力がすべて抜けてしまったようになる。言われた言葉に瞳は動揺し、言えることはなく何か言いたい口からは言葉が出ない。
まだ建物の中に避難出来ていない人々が慌てふためき駆けてゆく。そのパニックの中で転んだのか突き飛ばされたのか怪我をし動けない一般人に、彼らの仲間であろう白い髪の少女が駆け寄り、その傷を治して微笑んだ。
「私達が必ず無事に皆様の安全を確保いたします」
それを聞いた人々は、僅かに落ち着きを取り戻す。それとほぼ同時に乾いた音が小さく響き渡ると、よろけた獣が重たそうに瞼を閉じて微睡むように動きを止めた。
「今のうちに避難を完了させてくれ」
サガ=リーヴァレスト(
jb0805)が叫んだのを受け取り、ユーノ(
jb3004)は白い髪をなびかせながらこくりと頷いた。
「さあ、今のうちに」
促すが、仲本はまだ自分の意志で動く事は出来ない。麻生は彼女を押さえつける腕を解こうとはせずに、小さく告げる。
「ああなったらもう戻れん……俺たちを憎んでもらっても構わない、いずれアイツをあんな風に変えた奴には報いを受けさせる、必ず」
そしてそのまま建物へ駆け込む人の波に彼女を無理矢理押し込めると、抗う事は出来ずに彼女の体は群衆の中に飲み込まれて行った。手を伸ばし、何かを叫んでいるが、それは紛れ埋もれて彼らの耳までは届いては来ない。
その一般人達の波に背を向け、撃退士達は広場中央を見据えた。
「Grease Active,Re−generete.さて……と。これで、心置きなく君を倒せるね。覚悟はいいかい?」
蒼桐の言葉に、ある者はすっと緊張し、ある者は少し悲しい表情を浮かべる。
やがてほんの数分で、微睡む獣の周りには撃退士だけが残った。周囲の建物からは、ガラス越しに無数の視線が彼らに注がれる。
「……やはり彼女が、ナカモト……さん?」
ぽそりと呟く水無瀬 快晴(
jb0745)の言葉に、蒸姫 ギア(
jb4049)は憂いた目を獣へと向ける。
「こいつも悪魔に運命を弄ばれた被害者なのかもしれない……ギア、やっぱり同族は嫌いだ」
出来る事なら、こちらを向く視線の中に彼女の物が無いといい。そう思いながら、彼らはすうっと意識を敵一帯へ集中し、そして構える。息を飲む音も響くほどに静かになったその場に、小さく谺す武器の音。
「ワンコ、今、楽にしてやる」
虎落 九朗(
jb0008)が呟くと、弾けるように攻撃は始まった。
蒼桐のグリースが鋭い音とともに獣の足に巻きつくと、その感触に獣の意識は呼び覚まされる。足に絡む細い鋼糸は見えづらく、それに噛みつこうとする前に引っ張られてがくりと体勢が崩れた。
しかし、その知能はただの犬ではないらしい。足を引っ張られた方を瞬時に見た目はその先にいた蒼桐を捉え、強靭な足での一歩は瞬時にその距離を詰める。
「くっ!?」
咄嗟に翳した腕に獣の牙がめり込み、蒼桐の顔が歪んだ。みしりと音を立てたと思った次の瞬間、獣の鼻先に麻生の銃撃が当たり、その牙は蒼桐から離れる。
「大丈夫ですか!?」
牙が離れ血がぱっと飛ぶと、或瀬院が獣と蒼桐の間に割って入り、そのよろめいた足元に槍を叩きつける。だがその一撃は引き倒すまではいかず、怒りに満ちた目で牙を剥いた獣は或瀬院に向かって大きく飛び上がった。
「もらった!」
叫んだ虎落が或瀬院と素早く入れ替わると、その腹目掛けて銃の引き金を引き絞る。大きな銃が吐き出す光の玉は獣の腹を撃ち抜き、呻いたその背後から蒸姫の鎌鼬がその背を襲う。
しかし、風の一撃は素早く避けたその影を追う事は出来ずに、再び眠らせようとサガが発した凍てつく範囲からばっと飛び退り逃れてしまう。
「速いな……」
体が大きい分、流れる血も莫大だ。バケツをひっくり返したように音を立て黒ずんだ血が傷から零れ落ちるが、獣はまだ立ち続けている。その血走った目は、後退したその場所から一番近い敵を捜しぐるりと回る。
そこにいたのは傷ついた或瀬院と、その傷を今治している真っ最中のユーノだ。
牙を剥き、そちらへ飛びかかろうとするが、その頭を真横から鋭い雷が突き抜けて行く。
「……こっちだよ」
攻撃とともに語りかける水無瀬の声に、獣は直ぐさま反応してそちらへ向き直った。
その目は紅く怒りを湛え、また、それに隠れて恐怖と悲しみがある。
撃退士達には気付けない、その小さな感情。獣は傷ついたその痛みに、細く悲鳴を上げた。
建物の中は、それほど混んではいなかった。すぐそこに迫る脅威から少しでも逃れようと、大半の人は二階、三階とできる限り建物の上へ奥へと逃げ込んでいる。従って、一階から撃退士の活躍を見つめる目は決して多くはない。
青銀の髪を振り乱す男の子が刀を振りかざし、それに呼応するように金色の瞳を揺らしながら雷を放つ男の子。離れた所から冷静にそれを銃撃で援護し、また小さな体で果敢に敵の懐へ飛び込む人がいて、その隙を狙い至近距離からの銃撃を試みた一人は獣の牙に捉えられる。
長い爪の様な武器で脇腹をえぐればその口は開き、傷を負った彼も再び立ち上がる。蛇の幻が獣に絡み付くと、それに動揺した隙を捉えて雷が襲う。
その全ては、獣に向かって。連携の取れた間髪置かぬ攻撃は、美しい黒い毛並みを別のもので鈍く光らせた。
それをガラス越しに見つめる仲本の脳裏に、撃退士達の言葉が何度も蘇る。
君はあれが喰らった命を元に戻せるというのか。
出来はしない、それが出来るのならば、それよりもっともっと前に戻りたい。
いずれアイツをあんな風に変えた奴には報いを受けさせる、必ず。
いずれの報い、それは、どうして起こるのだろうか。
あれが元は、ああなったらもう、倒さなくては、戻れん、出来はしないだろう、俺たちを憎んでもらっても、ならば邪魔をするな、構わない、
「クロマメ……!」
自分を見つめる大きな目、つやつやで撫でると喜ぶ黒い毛並み、全てが鮮明に思い出せる大事な家族。また会えたのに、そこにいるのに、どうしてこんな事に?
何の変哲も無かった日々を思い出すと、撫でてほしいと自分にすり寄る背中の感触が手の内に蘇った。
ざわりと、彼女の心が漣立つ。
撫でたい、あの子を、抱きしめたい。
もう一度、もう一度……!
ガラスから離れた仲本は、建物の中を駆け出した。
蒼桐の光る刀身が獣の肩口を斬り付けると、その右足はがくりと折れた。その呼吸は荒く、足が一本機能していないその酷い様相で、しかし獣はまだ倒れはしない。それどころか一層牙を剥いて唸り、憎悪を増しているように見える。
「なんてタフな奴だ」
呟き、麻生の射撃の為に身を翻らせた蒼桐の脇を弾が抜けて行くが、三本足の機動力でも先程より動きは小さいがそれを避けてしまう。
「……来るか?」
獣と目が合った水無瀬が符を構えたが、不意に獣の視線が水無瀬から外れる。それは丁度犬が突然の知らない音に耳を峙てる様な仕草で、今まで仲間達の攻撃に向けては見られなかった動きだ。
全員が獣の向く方を見ると、車の影に、どこから出て来たのか仲本が立っているではないか。
「……ナカモトさん……!?」
突然の事に水無瀬の手が止まり、その呟きと共に獣は地を蹴り駆け出す。
「ダメだ!」
咄嗟に符を放ち獣へ雷撃を浴びせた蒸姫がほんの僅かな差で獣を出し抜く。その速さのまま仲本を抱えて無我夢中で飛ぶと、飛び上がった獣の足が仲本が先程まで隠れていた車を真上から潰した。
「思う事は色々あるかもしれないけど、今は大人しく避難して!」
「嫌だ!」
蒸姫の叫びに、仲本は叫んで返す。ここまで自分の足でやって来た彼女の願いは、切望するがあまり彼女を半分狂わせかけている。
「クロマメ!」
半狂乱に愛犬の名を呼ぶと、それに反応するかのように獣は素早くそちらを見る。やはり彼女に対しては少し特別な反応を見せるものの、それは後に良い結果を齎すとは思えないものだ。
蒸姫と仲本の間に、素早く割って入った或瀬院の槍が獣を貫く。悲鳴が上がる口から覘く牙は、最早真っ赤に染まっている。
「やだ! クロマメッ!!」
「ディアボロになってしまったら、もうどうにもなりません。倒すしか無いんです。これ以上、罪を重ねさせない為にも!」
「嫌だ! やだ、やだ! クロマメぇ……やだああ!!」
泣き叫び暴れる仲本を押さえ込む蒸姫は身動きが取れず、また二人を守った或瀬院も同様だ。
「ワンコ、ダメだ! お前とその人は一緒にしてやれねえんだよ!」
悲痛な叫び声とともに、虎落の渾身の力を込めた重たい剣の一撃が獣の体を飛ばす。バスの車体に叩き付けられた体からは血が飛び散り、それまではどんなに痛めつけても立ち上がった獣も、流石に折れた膝を持ち直すのに時間がかかる。
「やあぁ! やだ、ダメ、……こッ、殺さないでぇ!!」
獣の目は、もう彼女から離れる事は無かった。紅く血走った目はじっと仲本を見つめ、衝動に支配された獣の頭では理解出来ないその惹かれるものから目を離すことができない。
弱り果て、一つのものから目を離せなくなったケダモノが、気配を消したその穏やかで静かな殺気に気付くはずも無く。
ゆっくりと獣に迫るサガの手が握りしめる武器を目にし、仲本は目を見開いた。
そのじっとりと濡れて光る刃が、次の瞬間にはその場には無く。
「もう二度と、こんな目に遭わないと良いな」
斬り付けられた残る一本の前足も力を失い、獣は地面にへばりついた。荒い息の合間に咳き込み、後ろ足だけが自由な体は起こすことができず、その命をつなぎ止めているのは、もう獣自身にも分からない何かだけだ。
もう幾ばくも時間が残っていない事に本能的に気付いた途端、獣を支配していた衝動がぷつりと途切れた。
いたい、いたいよう。
だれ? きみたちは、だれ?
「やだ……、やだ、やめて、やだ、やだ、やだやだやだ」
きいたことのあるこえ。
ああ、おかあさんだ。
やっとあえた。ただいま、おかあさん。
あとほんの少しで獣が事切れるのは、誰が見ても明らかだ。曇った顔ですっと槍を構えたユーノは、その切っ先を真っすぐ獣の額に向ける。
ねえ、なんでかなしそうなの? おかあさん。
ぼくかえってこれたんだ。ねえおかあさん。
かえろうよ。
くぐもった音が静寂を運んで来て、それはすぐに凄まじい声に取って代わられる。
おうち へ か えろ うよ お か あ さ ん
獣がゆっくりと倒れ伏すその僅かな間の後、その悲痛さに耳を塞ぎたくなる様な悲鳴がその場に谺した。
●
「ねえ、クロマメ。ほんとにかわいいねえ、クロマメ」
血だまりの中に座り込んだ仲本は、獣の体を撫でている。優しく撫でていた手で、時折首の周りをぐしゃぐしゃとかき回したり、微笑みながら。
その手が毛並みに潜る度に水音がして、彼女の手を際限なく紅く染める。動かないその鼻先に頬擦りをして、その背に抱きついて、全身が血に塗れても止めようとはしない彼女に、それはもう見えてはいなかった。
キラキラ輝く半開きの眼も、つやつや光る血塗れの黒い毛並みも、彼女には見えていて、見えていないのだ。
水無瀬が静かに近付いても、それに気付く風でもなく。
「……ごめんな。何か無いか調べさせてくれ、な」
声を掛けても、その肩を叩いても、仲本は何の反応も見せない。ただずっと、見えている大好きな家族と遊んでいる。
撃退士達は顔を曇らせ、その様子をじっと見つめていた。本当ならば何故この犬が飼い主の元を離れる事になったのか、どうして離れた山中に現れたのか、その謎を解明する為に仲本に話を聞くべきだろう。天魔出現に関して情報を集めるのも彼らの仕事だ。だがそれは、聞ける状況にあり、解明することに意味がある時にしか行う事は出来ない。
聞けない、そしてそれを解明したとして、救われる人間がこの場にはいないのだ。
「気が済むまで殴ってくれりゃ良いのに……」
そう虎落が呟くが、それは叶わない。これ以上人を殺す前に楽にしてやれたのだと自分を納得させようとするその心を、誰も責めず別の所に行ってしまった仲本の姿は掻き乱す。
「何時になったら、こんな悲劇を止められる? 力不足が恨めしいね、まったく……」
そう泣きそうな顔で呟き天を仰いだ麻生の言葉に、撃退士達はそれぞれ言葉を探そうと口をぎゅっと閉じる。
ある者は決意を新たに、ある者は揺らぐ心を必死で抑え。
そのほんの少しの静寂に、仲本の優しい笑い声が小さく響く。
これを悲劇と言うか、人間共が。
ならこれ以上の事があった時、お前達もその女のように狂うのか。
ああ、見たいなあ。まだまだ見たい事が沢山ある。
穏やかな笑みと笑い声と、血溜まりに座り込んで死体と戯れるその姿。そして言葉も行動も見失ってしまった撃退士達を見る目は、愉快そうに歪んでいた。