フロントガラス越しに彼らの目に飛び込んだのは、ボールのように弾き飛ばされる人の姿だった。
「あれか!」
リチャード エドワーズ(
ja0951)が叫ぶと全員の目はそちらを凝視し、車はタイヤを軋ませながら停止する。彼が叫んだ通り、ボロ雑巾のように地面に叩き付けられたのが、彼らの保護対象である神崎サエだ。
車から降りる寸の間も目を離せない程の酷い有様な彼女だったが、まともに動かない体を無理矢理起こし、まだ戦おうとしている。
「危ない!」
牧野 穂鳥(
ja2029)がその前に立ちはだかり、神崎に向けて放たれたケンタウロスの矢を緊急障壁で受け止めると、ミノタウロスが突然現れた邪魔者の姿に大きく吠えた。
「ハナを切るぜ、お前ら下がれッ!」
地を揺るがすような低い轟音を、しかしものともせず掻き消すように、牧野の後ろに続いていた長門 一護(
jb1011)がその懐に飛び込み発剄を放つ。
どん、と低い音と共にミノタウロスは追いやられ、その後ろにいたケンタウロスにもその衝撃は伝わって、足下がよろめいた。
「おら来いよ、牛頭!」
挑発しながら横へ回り込む長門を追い、二体の目は神崎から反れる。それを好機と逃さず、立ち上がれない神崎の体を石上 心(
jb3926)が捕まえ飛び上がると、神野コウタ(
jb3220)が走ってその後に続いた。
「お退きになって、怪我いたしますよ」
その声に他の面々がばっと距離を取ると、紅鬼 姫乃(
jb3683)の周囲に無数の刃が姿を現した。彼女の細長くなった瞳孔と同じように光るその刃は、次の瞬間には二体のサーバントを切り刻むよう縦横無尽に駆け抜ける。
刃が消えると同時にチョコーレ・イトゥ(
jb2736)と七瀬 歩(
jb4596)がケンタウロスに攻撃を加え、その死角からミノタウロスへ回り込んだリチャードのツヴァイハンダーがその頭にエメラルドスラッシュを放つと、二体は自分を攻撃した個体に目を向け、上手くその戦力は分断された。
「馬は任せたぜ!」
そう不敵な笑みを浮かべながら長門が叫ぶと、答えるように牧野の轟蕾閃がぱっと光を散らした。
牧野の轟蕾閃が光を放つと同時に、それで出来た隙を狙ってチョコーレのグリースがその前足に絡み付く。間合いが近すぎて狙い辛いのか、また避けやすいのか、その矢は彼に当たる事は無い。
「ただ図体がでかいだけか? 人形が……」
彼が離れグリースも外れると、今度は遠距離から七瀬の射撃がその前足に当たる。間髪置かず同じ箇所に紅鬼の矢が減り込むと、ケンタウロスは唸りを上げ片膝を折った。
崩れた体勢から弓を構え矢を放つが、向けられた七瀬はひらりと身をかわし、コンクリートを穿つその強烈な矢を避ける。
「当たらなきゃ意味ないんだぜっ」
元気そうに手招きする七瀬に折れた膝を延ばしかけた所で、またケンタウロスの膝は折られた。その軌道上に味方がいなくなったのを確認しての牧野の百渦殿は、ケンタウロスを飲み込むよう炎の渦が立ち上らせる。
「まるで地獄の池のよう……くぅぅ」
うっとりとしたように呟く紅鬼の髪からは、その池に浸したように火の粉がこぼれ落ちる。
その鳴き声に至福の色を感じたチョコーレはそちらを見、またケンタウロスの目が紅鬼を向いた事に気付いて即座にグリースを構えた。放たれた細い糸はその首に絡み付き、一瞬紅鬼に向いた目を己の首に異物を巻き付けた敵に向けさせる。そうして目線が切れたその刹那、己から静かに落ちる火の粉を纏わせた紅鬼の矢は、業火に喘ぐケンタウロスの片目を深々と射抜いた。
雄叫びを上げ自身に突き刺さった矢を引き抜いて弓を構えるが、その挙動は既に遅く、体勢を整える前に両腕に牧野の轟蕾閃が当たり、その攻撃を許しはしない。
「往生際の悪い」
呟きながらちらりと石上と神野の去った方へ視線を向ける。神野の召還したストレイシオンが三人を守るようにそこに構えており、微かにその影から彼らの姿が見て取れた。頭の位置から察するに、神崎は身を起こしている。意識があると言う事だろう。安心したが、同時に早く終わらせなくてはと再び敵に目を向ける。
首を解放されると同時に今度は後ろ足を絡めとられたケンタウロスに、紅鬼が大鎌を振りかざして突進する。そこに至るまでに彼女に向けて矢が放たれたが、それは当たる事は無く、また七瀬の援護射撃と牧野の轟蕾閃による妨害で、次の挙動に移る事も侭ならず。
「これで終わりにしましょう」
先程チョコーレがグリースで傷つけていた首目掛けて振り下ろされた大鎌の刃は、血を零すその傷跡を何の躊躇も無く切り裂いた。
ほんの少し遡り、ケンタウロスが絶命する数分前。
抱えられた神崎は抵抗する事も無く、地面に降ろされるまでピクリとも動かなかった。
「みんなを守れ! さくら3号!」
巨体を揺らし現れたストレイシオンの背後に着地し、草の上に降ろされると、神崎の体はされるがままにそこに横たわる。
「無茶なことしやがって……あんたが死んだら、あんたと同じ様なのがもっと増えるだけだとわからないのかよ」
まだ呼吸をしてはいるもののその力の無い様子は、抵抗するだけの余力が無いことを物語っていた。だが、それ程に弱っていると言うのに、神崎は無理に起きようとする。その表情は苦痛に歪み、見ていられない程痛々しいものだった。
「動いちゃダメだよ!」
肩を押さえる神野を、神崎の目が捉えた。虚ろな光の無い瞳、しかし真っすぐなその目は、悲しそうに神野と石上の姿を映し出す。
「来なくてよかったのに……」
また、人が傷つく。そう言いたいのだろうと言葉を見越し、かっとなった石上はその胸ぐらを掴んだ。
「俺達に怪我してほしくないってんだ、ありがたい話だな。それも自分のせいだって思うんだろ」
図星を指されたからなのか、それでも思う事は無いのか、神崎はじっと何も言わずに石上の言葉を聞いていた。
「死んだり再起不能になった撃退士に対して、あんたの責任が全く無いとは言わない。でも、結局はそいつ自身の責任だよ。だけどあんたは責任の代わりに、そいつらの命、魂、心を背負わされた」
すっと、神崎の目に光が僅かに宿った。そんな気がしたが、それが光だったのかどうかは分からない。ただほんの少しだけ目が変わったような気がしたが、それは心を動かせた訳ではないようだった。
「知ってるよ」
ぽつりと呟かれ、思わず石上はその手を離す。自分の腕で体を支えた神崎は崩れ落ちはしなかったが、弱々しい様は変わらない。駐車場の戦闘を見つめ、それからその目は石上を向く。
「誰も私のせいなんて言わなかった。自分のせいだって言っていなくなったよ。でも……そうはいかない、背負わされてしまったんだもの」
「背負わされたって……そんな」
深く傷ついた様な顔になる神野とは、神崎は目を合わせない。
「あんた、仲間の命を重荷だって言うのか!? それで今度はあんたも倒れて、俺達に背負わせるってのかよ! 悪いけど、俺は今のあんたなんか背負うのはごめんだからな」
罵るように噛み付くが、彼女の表情は変わらない。僅かに小さく微笑んだが、何故ここで微笑むのか、石上にも神野にもその真意はわからなかった。
「そうね。背負わせたくないわ。それを力に変えられる人ばかりではないもの。そんなことは、背負わせてしまった人には分からない」
「でもおいら、変えられない未来なんて無いって信じてる! これから先もずっと、サエさんが傷つく事ばっかり起こったりはしないよ!」
純粋で美しい、子供の願いと未来への嘱望。しかしそれは、残念ながら彼女の心の奥底までは届かなかった。
勿論、響かなかった訳ではない。石上の乱暴な、それでも想いの籠った言葉も、神野の真っすぐで泣きたい程必死な祈りも、彼女の心に響いてはいた。しかし。
「貴方達は、前を向いていて」
そう言って、神崎は立ち上がる。
その言葉は、己の未来を見ることができない故に、未来あるものを守ろうとする想いから生まれたものだった。
「おっとぉ!」
ミノタウロスの斧を避け、長門の体は派手に飛び上がる。
「まったくタフだな。まだそれだけ動けるのか」
呆れたように言うリチャードだったが、その言葉は敵に向けられたものか長門に向けられたものなのかわからない。二人で散々攻撃を叩き込んだミノタウロスだが、疲弊は見て取れるもののまだ倒れはしない。こちらの手数の少なさ故か、元より生命力の高さ故か、上がった地響きにケンタウロスが倒れた事を確認したが、先を越されたなと溜め息が出る。
「ノロイぜ牛野郎ォ! 牛歩じゃ俺らに勝てねぇぜ!? 」
縮地を発動した長門の早さにミノタウロスが翻弄され僅かに動揺すると、その背後に回り込んだリチャードのエメラルドスラッシュが深々と入り込む。その攻撃に吠えるミノタウロスが振り向き様にリチャードへ向けて斧を振りかぶるが、敢えて懐に飛び込む事でその重たい刃を避けると、真後ろで長門のスネークバイトが音を立てたのが聞こえた。
「そのまま来い、長門!」
「おお、同時にやるぜ金髪! 合わせろッ! 」
斧を避けたその足で脇をすり抜けて距離を取り、ミノタウロスの目が自分を追っている事を確認してリチャードは再び踏み込む。そうして出来た僅かな死角に長門のスネークバイトが突き刺さるのとほぼ時を同じくして、リチャードの斬撃もその真後ろを切り裂いた。
「ッしゃア!」
足下も既に覚束無いミノタウロスは、何とかやっと立てている状態だ。辛うじてまだ武器はその手に握っているものの、それを的確に振るうだけの力は残ってはいない。ケンタウロスに当たっていた仲間達もこちらへ走ってくるのが見え、あとは一発でも当てればこの牛も倒して終わり……
と思っていたし、それは当たっていた。
ただその前に、最後の一振りが挟まれた以外は。
「危ない!」
離れた所から七瀬が叫ぶのが耳に入り、長門とリチャードは反らしていた目をミノタウロスへと戻した。視界の端に鈍く光るものが映り、思わず躱した自分の体のあった場所を、分厚い刃が通り抜けて行く。
最後の足掻きで振り回された斧はある所でその手を離れ、かなりの重量と速度でもって放たれた所から真っすぐ一直線に吹っ飛ぶ。それは速く、運悪く軌道上にいた紅鬼は思わず足を止めたが、止まった足が動き出すのは僅かに遅れた。
「紅鬼殿ッ!」
叫んだチョコーレの声も、紅鬼自身の対処も、何もかもが遅れていたその場にあって、彼女の危機に間に合ったのは火の鳥だった。斧が紅鬼に当たるその寸前、真横から巨大な炎の固まりがその斧を直撃する。その姿は羽を広げた巨大な鳥を呈しており、その力は斧の軌道を曲げ、彼女への直撃は免れた。
それだけでも強力とわかる炎の魔法。それを放った味方を捜そうとする前に、遠くから悲痛な声がその主を教えてくれた。
「神崎さん!」
チョコーレのグリースがミノタウロスを引き倒すのと、立ち上がった神崎の姿が草の中に消えるのは、殆ど同時だった。
戦闘が終了した駐車場には、関係車両が次々乗り入れて来る。サイレンの音が重なるその喧騒の中、神崎サエはその目をうっすらと開けた。
生きている。まだ。
傷の手当てをしてくれている女の子は、自分を睨んでいた。
「あなたの命はあなたのもの。お好きになさればいいですが、本当に死にたいなら殺してもらうのを待たずに、身を投げるなりなんなり方法はあるのでは」
その怒りを湛えた牧野の視線に、神崎はふっと小さく笑う。
「ただ死ぬことはできないのよ、撃退士は」
牧野は何か繋ごうとするが、それはチョコーレが差し出した手によって止められた。
「神崎殿、悪魔の戯れ言だと思って聞いてほしい」
そう声を掛ける彼は、体を起こした神崎をみつめて静かに言う。
「天魔と人間との戦いは、神崎殿一人でどうこうなるようなモノじゃない。生き残った神崎殿が自ら死んだりしたら、それこそあの世で仲間に会わせる顔がないと思うぜ」
「耐えられなくて死にたいなど、それは道半ばにて倒れた人への冒涜だ」
冒涜、というリチャードの言葉に、神崎の笑顔はほんの少し悲しそうなものに変わった。無論彼も、責めようとしているわけではない。それを知らせるように、七瀬がその膝に取り付く。
「誰かが生かそうとしてくれた命、無駄にしちゃいけねぇよ。死んだり大けがを負った人たちが、神崎さんにも同じようになって欲しいとか思ってるはずないんだから」
知ってる。
だって誰もいなくなった戦場に自分一人が取り残されたのだから。
それがどういうことなのかぐらいは、知っている。
それでも。独りじゃないから、一人ではいられない。
「おいらはやっぱり変えられない未来なんてないと思う。みんなのような撃退士になりたいし、一緒に戦った仲間のことを思って自分を責めてしまったサエさんみたいな、優しくて強い撃退士になりたいよ」
七瀬の隣で同じように自分の膝に取り付く神野の頭に手を置き、小さく撫でた。
「そうね、変えられない未来は無いわ」
神野だけじゃない。天使も悪魔も人間もいるこの後輩達の輪は、変えられる未来と、変えて行かなければいけない未来への希望だ。私のようになりたいなんて、言ってはいけない。そう思ったが、それは口には出さなかった。
ゆっくりと立ち上がって駐車場に目を向けると、見慣れた車が入って来た所だった。降りて来たのは、振り切って来た自分の上司。彼は神崎の姿を見つけると、ほっとした様な表情になり、それはすぐ厳しいものへと変わる。
後輩達は、何も言わない。立ち上がった自分に倣って立ち上がるが、言葉に迷っているようだった。もしかしたら諦めたのかもしれないが、それならそれで良かった。
「だから私は戦うのよ、未来のある人達を助ける為に。全力で戦う、自分の全てで挑む。そうして掴んだ死しか、私には許されない。それが、私が誓う“撃退士”」
それまで黙って話を聞いていた紅鬼が、歩き出そうとした神崎の服の裾をきゅっと掴む。
「姫乃は“貴女に”生きていて欲しい」
少し驚いた様な表情を浮かべるが、神崎はその手をそっと取ると、優しく放した。
「約束は出来ないわ、あなたに重荷を背負わせるのは私は嫌だから。助けに来てくれてありがとう」
最後まで微笑んだまま、「また会おう」とは言わずに、神崎は弱々しい足取りで迎えの車へ歩いて行ってしまう。彼女に背を向けていた長門が、その背中に苦々しく吐き捨てるように言った。
「帰りを待ってる奴がいる、その大事さを知らねェんだ」
もしくは。知っているからああなってしまうのかもしれない。
様々な想いで彼女を見るしか無い彼らの誰もが、神崎サエとの再会を願う。
彼らの願いが叶う日が来るかは、誰も、神崎本人ですら、知る由はなかった。