「これは……」
呆然とした龍崎海(
ja0565)が小さく声を上げる。
異様なその光景は、思っていた以上のものだった。一つの教室に限らず、隣の教室、果ては廊下で寝ている人間までいるのだ。どうやら、この睡眠の効果は教室一つに限定はされないらしい。
一つの教室、ここは最初に件の中学生バンドが借りた部屋だ。もう既に、ここへ来る目的はこの眠りだけになっているのだろう。 楽器も見当たらない。
「試してみましょう」
そう言って織宮 歌乃(
jb5789)が抗天魔陣を展開すると、龍崎も一緒に現世への定着を展開する。すると、二つの陣の範囲に含まれた人々だけが、緩やかにではあるが目を覚ました。
「確定ですね。ではまず、皆さん起こしましょう」
エルディン(
jb2504)が小さな溜め息をついて起こしにかかると、他の面々もそれに続いた。利用者達からは不満の声が漏れるが、それに気付かない振りをして彼等を校舎の外まで追い立てる。
外へ出した利用者達の聞き込みへは三人、そして残った四人は顔を見合わせ、それから各々向きたい方向へと顔を向ける。
「何か切欠はあったのかな。何かねーか探してみるぜ」
そう言って歩き出してしまう笹森 狐太郎(
ja0685)の背中を、織宮が慌てて追いかける。
「一人はダメですよ」
二人分の足音の遠ざかるのを耳だけで見送るようにして、それから静かになった教室を雪代 誠二郎(
jb5808)と川澄文歌(
jb7507)が見回す。
「之と言って怪しい物は、無いね」
「何で伝染するのか……」
ぱっと見、何も無かいただの教室だ。しかし、迂闊に触った何かが原因だったりしたら眠りに落ちてしまう。触るだけではなく他にも可能性があると、もしもの時のため川澄が携帯電話のアラームを設定しているうちに、雪代はおもむろに座り込んだかと思うとそのまま床に横になってしまった。
「雪代さん!?」
驚き声を上げる川澄を気にも留めず、雪代はひらひらと手を振って目を閉じてしまう。
「被害者の気持ちになるのも大事だろう? 十分経ったら起こしてくれ給えよ」
余裕のある微笑みのまま目を閉じる雪代に、無謀な事を、と思いながらも無意識に静かにしようと川澄の動きはゆっくりとしたものになる。
静かな空間、時計の音。
程なく雪代の呼吸は緩やかな寝息に変わり、その隣に座り覗き込んでいた川澄も、つられたように瞼が重くなるのを感じた。
「あ……」
もしかしてこれが、と思った時には、川澄の体はこてんと横になってしまっていた。
外へ出された利用者達の不満は凄まじい。暴力的な手段で抵抗したり、声を荒げたりはしないながらも、晴れていると言うのにその場の空気はどんよりと重い。
「誰も傷つかない……、それはきっと素晴らしくてとても良い世界だと思っているのでしょうね」
嘲笑に近い笑みを浮かべ、マルドナ ナイド(
jb7854)が彼等を見て呟く。それは、痛みや苦しが無ければ成長も発展も無い、と言うように聞こえるが、その表情からするにそうではないようだ。
「天魔は紛れていませんね」
彼等をじっと見渡していたエルディンがそう言うと、龍崎はふうと息を吐いた。
「なら、とにかく話を聞いてみよう。何か手がかりが見つかれば良いけど」
校舎内にいた人間達を全て移動させると言う動きがあったにもかかわらず、原因であるはずの天魔は姿を見せて来ない。教室内で現世への定着を展開した時もだ。普通であれば搾取が中断されれば様子を見るなり排除しようと現れても良いはずなのに。
「最初にここへ来ようと言い出したのは誰ですか? バンドメンバーの利用が最初だと聞いていますが」
龍崎が群衆へ問いかけると、一人の男子中学生が手を挙げた。
「俺だよ。ここで練習しようって言ったの」
「何故ここだったんです?」
「他に無いから」
エルディンを睨みつけて言うその言葉に、嘘も他意もなかった。実際にこの街にはこのように多目的で使える施設がここぐらいしか無いのである。
「あなたは何故ここに? 誰から誘われたのですか?」
その隣にいた大学生風の女子に問いかけると、おどおどしながら遠くにいる一人を見る。
「友達……あの人に教えてもらったの。いい夢が見られるって」
「どうして来ようと?」
「最初は興味半分……でも本当にいい夢見れて」
「そうですか」
いい夢、と目を輝かせた女子大生の言葉をブツリと切り、マルドナは彼女に背を向ける。再びその目はバンドメンバーの中学生に向けられた。
「この方達、みんなあなた達が声をかけたのですか?」
「誘ったのはクラスの友達くらい。そこから口コミで広まってったり、あとは俺等連れ戻しに来た家族がそのまま〜とか」
出て来る情報は事前に警察から提供された物と何ら変わりない。彼等が団結して隠蔽しようとしているのではなく、本当にそれ以上のものは無いようだった。
強制的に連れて来られた者はいない、そして誰もが校舎内へ戻る事を望んでいる。
「何なんだ、これは」
苦々しく龍崎が言うと、もう一度エルディンが彼等を振り返る。見渡す限りある表情は、全て自分達への嫌悪の眼差しだ。天魔が関わっていると説明しても、それは変わらない。
「本当にこれ以上の事は何もないのでしょうか」
「幸せな気分でお昼寝させて? ああ、何てつまらなくて苦しいんでしょう」
「いい気分にさせるのは間違いないけど、その先の目的がわからないね」
溜め息をつき、それから気を取り直したように息を吸って、三人は足を再び校舎へと向けた。
「とにかく天魔がいる事だけは間違いない。それは取り除かなければね」
「何か、ありましたか?」
「いや、何もねーな」
おっとりと問いかける織宮 歌乃(
jb5789)の声に、ぶっきらぼうに答える笹森。対象的な二人組は、調査を始めて三階から部屋を一つ一つ調べていた。しかし何もめぼしい物は出て来ず、無音の教室に二人の足音と引き出しを開ける音などばかりが響き渡る。
「夢を見せるだけとは、どーいうつもりなんだ」
「笹森さんなら、どんな夢をいい夢だと思いますか?」
もの静かに問いかけられ、振り返ると織宮は微笑んでいる。すると笹森は考える素振りも見せずにすぐに答えた。
「モテる夢! 警官になってモテてる自分が見れたら幸せだな」
ストレートで正直な笹森の言葉に、一瞬キョトンとした織宮も再び笑みを浮かべる。
「見られるといいですね」
「つーか、自分で叶えるけど」
「頑張って下さいね」
「でも予習的に一回くらい見てみたいかもなー」
そう言って笹森はふざけてごろんと床に寝転がる。小さく笑う織宮が見ている中で目を閉じるが、眠気が襲ってくる気配もなくすぐに起き上がった。
「ダメだ、眠くならねーや」
「……何ででしょう?」
そう首を傾げる織宮に、笹森も真顔に戻る。眠りの原因はまだ突き止められてはいないが、しかしそう言えば先程から自分達二人は全く眠くなる気配もない。
「接触感染ではきっとないですよね。私先程あの方達に触りましたから」
「俺も。じゃあ、場所?」
一階と三階で何か違いがあるのか、例えば感覚に訴える何か、色・音・匂いなど。それらに違いは無かっただろうか。
「特に変な匂いはなかったな」
「音も……何の音もありませんね」
壁にかかっている時計は無音で針を流しており、二人の他に誰もいない三階は静寂そのものだ。
「聞き取れない何かを特定の教室だけに流したり? 考えにくいですが……」
アウル覚醒者の五感にも感知出来ない音と言うものはまるで考えにくかったが、行ってみる価値はあると、二人はそこで引き返し放送室を探し始めた。
♪♪♪〜♪♪♪
無機質な明るいメロディーが、足を止めた三人の目の前で鳴り響いた。
龍崎、エルディン、マルドナが教室に戻って来ると、室内ではやたら優雅に手を組み横になった雪代と、その隣で小さく丸まった川澄が眠っていたのだ。ビックリして止まったその足が前に進む前に、川澄の手元に落ちていた携帯電話がメロディーを流し始める。
「ううん……」
その音で目を覚ました二人はもぞもぞ起き上がり、心地よい昼寝後のようにゆっくりと伸びをした。
「大丈夫ですか!?」
慌てたように駆け寄るエルディンを見、それから壁の時計を見て雪代の眉毛が困ったように下がる。
「十分で起こしてくれと云ったじゃないか」
申し訳なさそうに携帯を閉じる川澄だったが、その表情は全く気に病んではいない。いい気分をたっぷり味わった後に少し苦い思いをしても紛れてすぐに消えてしまう、そんな感じが窺える。
「全く何の問題も無いね。いやぁ、善い夢を観たよ」
その晴れ晴れとした表情に、ふと、マルドナが何かに気付いたように目を丸くした。
「それこそが、目的なのではないですか? 良い夢を見せる、という」
眠っていた二人の表情は任務中だと言うのに穏やかで柔らかく、余程いい夢を見たのだろうと空気でわかる程だ。
「そのあとどうするのかではなく、それが目的?」
「合点が行きますね。シンプルすぎて拍子抜け……しますが」
途切れた言葉の合間に、エルディンがあくびをしていた。それを見ていたマルドナの瞼も重くなって来る。
「いけない、眠くなってきました。誰か、誰か叩いて下さい!」
しかし、本人の希望とあっても女性に手を挙げる事は出来ない紳士風と聖職者。困った顔で川澄がビンタをしようと構えた瞬間、彼等の足下に結界が広がり眠気を吹き飛ばす。
「とりあえずは大丈夫かな」
そう言う龍崎を、マルドナは恨めしげな目で黙って見ている。変な静寂の間に、時計の音だけがコチコチと響いた。
「そういえば、時計……」
呟いて川澄が見上げる、唯一この場で音を出すもの。
「見てみましょうか。事前調査でも音が出ていたのはこれだけのようですし」
エルディンが時計の下へ行くと、少しだけぴりっとした緊張感が生まれる。天魔が潜んでいれば、大小関わらず戦闘にはなるだろう。それを想定しての緊張ではあったが……
「……あれ?」
その声にぴくりと肩が震えるが、その反応はどうも敵を見つけた物とは異なる。不思議に思っている四人に、エルディンは外した時計を手渡した。
「何だい之は」
受け取った雪代が不思議そうな顔をするように、その時計は滑らかに秒針が動き音のでないスイープ時計だったのだ。
「静かに」
口元に指を立て、川澄が皆を制する。しんと静まり返った教室には、……秒針の音が刻まれる。しかし、雪代の手元にある時計は、無音だ。
「……時計じゃないんだ」
顔を見合わせ、そして五人の目は一斉に一カ所に集中した。
「え? 時計は何でも無かった? 何でも無くはない?」
「どういうこった」
掛かって来た電話で受け答えする織宮の口調で、進展のあった事はわかるが、詳細までは隣で聞いている笹森にはわからない。
「……音がしない時計?」
秒針の音は時計ではなく、校内放送用のスピーカーから聞こえていたのだ。これで三階にいた笹森と織宮に何の変化も無かった事に説明がつく。
二階に下りて来ていた二人は歩きながらその電話を受けた。そしてそうこうしているうちに、その表札は現れた。
小さな白いその札が表す『放送室』はずっと使われていなかったのだろう。ドアを開けて中に入ると埃っぽい匂いが鼻につく。電気をつけてみるとミキシング卓など一揃いの設備はあったが、どれも薄らと埃をかぶっていた。放送範囲を決めるボタンもずっと前に使われたときの設定のままなのだろう、一階の一般教室の範囲、集団睡眠の現場の辺りだけが有効になっている。
そして、それはいた。いたというよりも、あった。
ガラスで区切られたブースの向こう、真っ暗なその部屋を明かりが照らすと浮び上がるその姿は、古ぼけた単なる柱時計にしか見えない。動きもせず、攻撃してくる訳でもなく、ただただ時を刻んでいる。
「これか?」
スタジオに踏み込んでその音を聞くと、急激に眠気が襲って来る。瞼の重さが尋常ではなく、それがこの時計が天魔であるのは間違いないと教えてくれた。マズイ、と思ったその時、織宮の抗天魔陣が足下に広がる。
「この野郎、味気ねー子守唄聞かせてんじゃねーよ!」
ガン、という轟音と共に時計の文字盤は砕ける。それは、多くの人の哀れで幸せな時間が終わった事も意味していた。
分解された柱時計型サーバントは、内部を念入りに破壊されてガラクタ同然の姿で運び出された。それを見送り、撃退士達は人々を向き直る。
「天魔の排除は完了しました」
「今のが天魔だったのか?」
誰かが声を上げる。川澄がこくんと頷くと、命を救われた人間からは出ようはずも無い言葉が上がる。
「何て事してくれたんだ、俺達はあのままがよかったのに!」
幸せな夢への依存、それは想像を遥かに超えて人々の心を蝕んでいたのだ。
「しかし、それではいずれ感情を搾取されて……」
「じゃああの時計と同じ夢を、あんたらがくれるっていうのかよ!」
あの幸せの果てが自身の喪失であると、わかっていないはずは無い。それでも、一人二人の怒号はやがて伝染していき、彼等の叫び、悲鳴はその場を瞬く間に覆い尽くしてしまう。
「もう会えなくなっちゃう……嫌だ!」
「もう一度見させてくれ。この先何を楽しみにすればいいんだ」
「余計な事しやがって!」
その様子に、くすりとマルドナが笑う。
「ブーブーと……本当に豚さんみたいですね」
川澄が慌てて止めるが、マルドナは柔らかい笑いを止められずくすくすと笑っている。
その言葉を聞いていた雪代は、何とも言えない笑みを口の端に浮かべたまま、帽子を深くかぶり直して彼等に背を向けた。
「夢の世界に逃げても、何も現実は変わりません」
「じゃあどうしろって言うんだ! 夢でもなきゃ見られないんだ!」
織宮の訴えるような声にも、それをかき消すような叫び声が畳み掛ける。
「現実では絶対会えないんだ……夢でもいいから会いたいのが悪い事なのか?」
そう言う老人の顔は悲しそうで。
「あのままがよかったんだ。お前等の正義を押し付けるなよ!」
若者の怒りには寂しさが含まれている。
「天魔の餌食でも何でも、それでも! よかったんだ、夢が見られるなら!」
自分達の存在・行動の全てを否定されるその言葉。しかしそれでも、何もする事は出来ない。幸せな夢を見せてくれる天魔は、もういない。
泣き出す女性、怒りの治まらない男性、そんな彼等に対し、エルディンは精一杯柔らかな笑顔を浮かべた。
「皆さんのお話は私が聞きましょう。どんな事でも……」
その笑顔が隠しきれない悲しみは、彼等には理解しては貰えない。止まない怒号を聞きながら、一行の後ろで川澄が小さく子守唄を口ずさんでいる。
鎮まり、優しい眠りが誰にも訪れる事を願い。怒号と悲鳴にかき消されながらも、その歌は途切れる事は無かった。