●
霧のような雨は肌をしっとりと冷たく濡らす。
この身体になってから、外気温の差を意識することはなくなった。
ただ、水は心地良い。
靴の先で、とんと地面を踏む。僅かに水分を含み、強く踏み込めばじわりと水が湧いてくる。
(―― 力は、ほぼ完全に戻ったのに……何故だか嫌な予感が拭えない)
うっすらと色づいた唇は、小さな溜息を吐き出した。
(早く、ゲートを展開しなくては)
連れ従えてきたサーバントが道路修繕に来たものたちを襲ってから時間が経っている。
その報は、恐らく……前回のように微力ながら抗う力を持った者たちへと伝わるだろう。
そして、彼女にとって余計な騒ぎを引き起こす。
それに……
『なぁ、お前は何も感じないの?』
不思議そうな、それでいてどこか悲しそうに見つめてくる瞳が脳裏にちらつく。以前の自分が、島の一件以来頻繁に思い起こされる。
「何度も言ったのに、感じてるよ……可哀想だと――」
淡い光が地面に広がると円陣を象り不安定に揺れ、明滅を繰り返す。その中心へと白と灰が入り交じった、薄い雨雲のようなものが渦巻いていた。
もうすぐ、この扉は開かれる。
●
「ありがとう」
叶から事前に使徒:白雪の画像データを受け取っていた龍仙 樹(
jb0212)は、今回の参加メンバー全員にその画像をプリントアウトし配布した。
その写真に映る少女は、至って普通にしかみえない。あまり生気を感じさせる風ではなくそれ故儚さを垣間見せる。異端には……とても見えない。
全員がやや黙してそれを見つめていたが、
「急いだほうが良さそうです……ね」
ぽつりと切り出した永連 璃遠(
ja2142)に首肯した。
外気に含まれる水分に、紙がしっとりと冷え重く感じる。
ディメンションサークルにて転送してもらった先は、思っていたよりは近場だ。丁度落盤箇所があり、件の事件はここから始まった。人の手でここを切り開くことは無理だろう。復旧にはそれなりに手間が掛かりそうだ。
通行可能な山道を歩き、現場から僅かに離れたところから、ガードレールを乗り越え湿った土と枯れ葉に覆われた斜面へと降りる。
「この天気、本来のわたくしとしては好ましいものなのですけれど」
(……敵の性質を考えると、あまり喜ばしいものではございませんわね)
ふ……と短く息を吐いた蜜珠 二葉(
ja0568)は、まだ日の高い時間だというのに葉を既に失いつつある木々の枝葉の隙間から覗く暗い空を仰ぐ。
かち……っ。
小さな音と共に、すっと光が走った。
桜木 真里(
ja5827)がペンライトを灯しあたりへと軽く走らせる。
鬱蒼と茂る木々は視界の邪魔をするが、今……黙視できるような生物はいなさそうだ。
「足元、気をつけて行きましょう」
水溜まりと勘違いし、件のサーバントに足元をとられることを危惧した二葉の言葉に頷く。
不規則に立ち並ぶ木々の間を縫って、下っていく。
その間、再確認の意味を込め、班分けの確認を行う。今回の行動は主に二班に分かれて行う予定だ。それなりに幅は持たせてあるが、サーバントに対処し、村人の保護にあたる人員四名。
ゲート生成阻止を主な行動目的にする五名、だ。
「無線……も、今は問題なく入りますね」
互いの連絡用に、事前に手配を頼み全員に行き渡らせた小型の無線機の受信状況を確認しつつクルクス・コルネリウス(
ja1997)は頷いた。
時折、獣道というように何度も人なり、動物なりが通り踏み固められたのではないか? というような跡があるが、それらは蛇行していて、最短ルートとはいえない、足元が不確かなまま地図上に示されている集落を目指す。
●
「あそこ、かな……」
「……っ」
ちらりと全員が視界の隅っこに建物らしきものの屋根を確認したと同時に、肌が総毛立つ。
総じて感じた違和感。
何かが……くる!
警戒を強め光纏状態に入る。
―― ……ぴしゃり
足先で弾いてしまった水に二葉は、たんっと後退し
ガウンッ!! 構えたライフルから牽制射撃を放つ。その一発は幹を削った。
「正面だっ!」
仲間の声が飛ぶ。ライフルを構え直し
(遅れ、ましたか……?!)
内心の不安を抱え、標的を見留める。銃口からは再び弾が放たれた。
ぱしゃんっと水飛沫が上がり、弾は吸い込まれる。
音もなく、傷もなく……ゆらりと揺らぐ、水のような……ゼリーのよう、な……。何とも形容しがたいそれには、その衝撃が効いているのか判別し難い。
しかし奴らは予想以上に自分たちと距離を縮めていた。
二葉は他の仲間へと視線を走らせるとそれらは次々と姿を現す。
――……ザシュ……ッ
不意打ちのように間近に迫られ、アレクシア・エンフィールド(
ja3291)は即座に鋼糸から蛍丸に切り替え抜刀。
袈裟掛けに切りつけると、想像以上に濃密で重い手応え……切り裂いた箇所から飛び散った水滴が、そのまま水鉄砲のように襲いかかってきた。
反射的に取った受けが、頬に伝った雨雫を弾き、ぱんっ! と水が弾ける。
地面からせり上がってくる姿は水壁。しかし、すぐに目の前のものに疑似する。
それ故、大きさは様々だ。
不規則に常に波打つ身体は、僅かな光源を利用して水面に木漏れ日が落ちるように煌めき、オブジェのようだ。
自らが発する音しか聞こえない。
ある種の不気味さの漂う戦闘――
現状の確認個体(と言って良いのかは微妙)はこちらの人数と同じ。
行く手を阻もうとしている意図はすぐに汲み取れる状況だ。
案にこれ以上踏み入るなと警告されているようでもある。
しかし、それは聞けない相談。
(サーバントとの実践は初めてになるね……)
ぎゅっとグランヴェールを握りしめた璃遠は、同じくサーバント対応班であるシャノン・クロフォード(ja1000)、真里、二葉に視線を走らせる。全員が同じ意図を持っているのだろう。絡んだ視線に無言で頷き、ぎっと退治した相手を見定める。
「キミとの戦い、あまり時間をかけてはいられないんだ……そこをどいてもらおう」
泥濘んだ地面に踏み込む。
「水は雷に弱いのがセオリーだけど君もそうなのかな」
真里は緩やかな笑みを湛え、開かれた魔法書から電光が迸る。
同じタイミングで一撃を放ったタイミングで、ゲート阻止班は敵の間をすり抜ける。
間に合わなければ、足止めを! そう判断し、身構えた真里の目の前で、それらの姿は消えた。
(抜けた?――)
一撃で倒したなんて甘い手応えはなかった。当たったかどうかも確認しなかった。
しかし、背後から聞こえてくる剣戟の音はこちらに迫ってはこない。
転がり落ちるという無様なことにならぬように、細心の注意を払いつつも遮二無二かける。
冷たい風が頬を撫で、霧雨で濡れた頬がぴりりと攣れるように痛んだ。
●
遠くに見えていた集落が目前に迫ると、こちらが助けにきた側であるのに、僅かな安堵が生まれる不思議。
民家には、ところどころ明かりが灯り、人が居ることを示す。暗く人の気配がない家も多いことから、人が住まない建物もあるのだろう。
道路整備なども殆ど行われていない。
車が通るような道も、住民の手で慣らし固められただけのようなもの。ひっそり、こっそり……誰にも邪魔をされることなくただ静かな生活が続いていたはず、変わることなく、荒らされることなく――
タッタッタ……ッ
足早に沢山の野菜の入った手箕を抱えた女性が、村に近づいたこちらに気がついて足を止める。
「早いですね。復旧作業終わったんですか」
にっこりと穏やかにほほえむ女性は、彼らを作業員とでも思ったのか(そうとれる格好のものは一人も居ないが)ご苦労様ですと付け加えた。
特に集落が被害を受けているという様子はない。
樹は当初の予定通り村人から情報を得ようと、女性に歩み寄りつつ唯一の手がかりである写真を取りだした。
「すみません……この子に見覚えはありませ、ん……」
問いを最後まで投げかけられなかった。
「樹さんっ!」
「……っ!!」
ごぼ……っ
吐く息が気泡となる。
突然掛かった声に樹は身体を捻ったが間に合わない。
視界が揺らぐ。
水底から地上を見つめるように、ゆらゆらときらきらと……。
傍に居た女性が驚きにへたりこんでしまう。
助けなくては、せめて避難を促すように
誰か……。
自らが上げる気泡になお視界が崩れる。
仲間は……集落に入り込んでしまったサーバントと交戦中だ。
急遽接近戦に持ち込まれ体勢が崩れている。
樹は現出させた大剣を握り締め刹那瞑目。次に開かれた瞳は迷うことなく、その一撃を放つ。
(護る為の絶対に折れない翠玉の剣……行きます!)
樹の手の内に顕現した片刃の大剣から叩きつけるような、緑光の一線が走った。
ぱしゃんっ
「けほっ! ……っご、ほっ!」
十秒、十五秒程度が永遠にも感じられた。
相手はその姿を崩したが、倒したかどうかは定かではない。
片方の膝を突いたまま、樹は女性に逃げるように告げるため顔を上げる。
硬直した女性の顔。瞳は目の前で起きている何をとらえているのか分からない。
音を紡ぎ出すこともない唇が、わなわなと震え……
「い、いやぁぁぁっ!! バケモノ!」
●
(効いていないわけではないようだけど……)
繰り返される魔法攻撃に対峙した相手は、消えてなくなるわけではない。
攻撃している間にも、真里はその様子を観察していた。表面的な傷は皆無。しかし、表面積? いや、体積は減少しているように見える。
しかし、時折その量を取り戻しているように見える。
ちらと、足元を見る。回復しているのか……もしくは――湧いているのだろうか?
こちらが攻撃すれば反撃する。
戦闘姿勢もほぼそのような感じで、試されているようだ。深く傷を負うぎりぎり。
「桜木さん」
あれこれと思案していると同じく後方に居たシャノンから声が掛かる。
「ゲート班から救援要請です」
そして、思い至る。
もしかしなくても……足止めされていたのは自分たちの方だったのだろうか――
ぱんっ! と弾き飛ばすように目の前の敵を横に凪ぎ払い
「急ぎましょう」
先陣切って駆けだした璃遠の後ろを直ぐに、今度は明確に敵が追いかける。
同じく二葉もライフルを構え直し、すり抜けた。真里、シャノンも後に続く。
●
「大丈夫ですか?」
シャノンが放つほわりと柔らかな光が、樹の傷を癒す。全快とはいかないが、
「ありがとうございます」
動くに不自由しないくらいには回復した。けれど、顔色はどこか優れない。
それは樹に限ったことではなく、先行したゲート阻止班は一様にどこか陰が堕ちている。
その疑問を合流した四人が問う余裕はなく、集落は混乱に堕ちていた。
村人の悲鳴により、家屋にいた他の村人まで顔を出し、次々と混乱の連鎖を引き起こす。
進入者である自分たちが目的と思われたサーバントも、ここにきて動くものが標的となる。
「こちらは、あたしたちが引き受けます。みなさんは」
「森へ入りましょう」
シャノンの言葉を受け、クルクスは切り出した。当初、他に明確な目的地がなければそうする心づもりだった。
かちゃりとリボルバー『Cs.MO』を構えた草薙 胡桃(
ja2617)が、標的は大きい、しかし、僅かでも後退するように下方に狙いを定め、
「大丈夫大丈夫、集中して集中して、貴女なら出来るよ、モモ」
誰にも届かないほどの小さな声で早口に唱え、引き金を引く。
ガウンッガウンッ!!
その銃声が合図になったように、アレクシアは正面にいたサーバントに虚数魔術・不動縛を仕掛ける。
無数に展開された鋼糸状のアウルが、水柱のように立ち上るっているサーバントを絡めとり縛り付けた。蜘蛛の巣に掛かる朝露のように幾雫が伝う様はどこか美しい。
「させないよ」
若干出遅れた、ダアト二名を援護する形で手にする魔具をトート・タロットに持ち変えた真里は異界の呼び手を発動。
ぐあっ! とせり上がってくる、無数の腕が水塊を捕らえた。
無事駆け抜ける仲間を再度見送ることになるとは、真里はその背を見送りつつその先に居るだろう敵を思う。
「……確かに彼女のいうことも分かるかな」
終わりを望む人に対して引き続き生を要するのは残酷なのかもしれない。
エゴと言ってもいい救いを押し通そうとするのも分かる。
(俺もそうだから――)
自嘲的な笑みで締めくくり、今は眼前の敵と対峙する、
●
―― サワサワ……
枝葉がさざめき、葉に溜まった雨雫がぴしゃんっと地表に落ちる。
(……あ)
ふと、空を仰ぎ階下に望む集落を見つめる。
「あの子たち、あんなに騒いで……」
ちらと自らの足下を見る。円陣の中央は揺らぐ。とても不安定に――
(まだ、離れられない。安定させるまでは、完全に開いてしまわないと)
滅多に刻まれることのない眉間に皺が刻まれ焦燥感が募るようだ。
「――……」
ゆっくりと呼吸を整え、静かに瞑目する。
『ごめんね、あんたを護りきれない婆を許して――』
心から自分を愛してくれていた相手だ。恨み辛みに思うようなことはない、それなのにその瞳が忘れられなくて、何度も……何度も、暗闇に落ちたとき脳裏に蘇ってくる。
(大丈夫。おばあちゃんは何も悪くない)
母は己に全てを許すことを強いた。慈しむことを求めた。
私にはそれが出来る。と――
***
はぁ、はぁっ……
流石に一息に上ると息もあがり徐々に足並みを緩め辺りを見回す。吐く息は白く、上気した頬に当たる小雨が心地よい。
敵はどこかに境界線でもあるのか、途中から追いかけてはこなくなった。
集落から追い出される形で、反対側の山へと流され、谷に剣戟の音が木霊する。仲間はまだ交戦中だ。
「本当に嫌な雨、ですね……目印が分かり辛い」
プロキオンで木々に目印を刻みつつ殿を歩いていたクルクスが苦々しくこぼす。
黙々と、辺りへの注意を怠らず足を前に進める。
続く沈黙に一番に耐え兼ね
「あれは、サーバントに向けられたものだから……」
分かりきっていることを、ぽつりと告げた叶にアレクシアも前を向いたまま重ねる。
「彼らにどう思われていようと、成すべきことは変わらぬ」
撃退士は、ある意味人外の力を持つのだ。知らぬものが見れば、畏怖の念はこちらへ向けられることも少なくはない。
気を取り直し樹が今回結界がないことへの疑問を話題にあげた。
「目立つからか、他に理由が……」
「順番があるんです」
真摯に告げた樹に頷きつつも返したのは叶だ。そして続ける。
「これまでの結界は、ゲートが開かれた数分後、多少誤差はありますが……張られています。それがないと言うことは俺たちはまだ間に合う。ゲートは未だ開いていないということです」
●
仲間の安否も気になって、木々の間からちらとでも集落が見える場所を登っていた。
それが幸を奏したのかもしれない。
作業場だったのか丸太が積み上げられ、他所より平坦で拓けた場所にでた、そしてそれは――
「――どうして」
丸太の上に足を降ろしていた少女はゆっくりと静かに瞼を持ち上げる。
今は望むことは出来ない。空と同じ色をした瞳が憂いを帯びた。
「どうして、人を傷つけるの?」
突然の問いに、微かな動揺が走る。
「貴方たちが、場を荒らさなければ、村は荒れなかった。彼らはただ静かに逝くことが出来たのに、なぜ、貴方たちが痛みを強いたの?」
「――確かに、落ち度があったかもしれない。けれど、貴女がしていることは、救いでもなければ、慈悲でもありません」
資料と同じ姿形をした少女は樹の言葉に首を傾げた。
「貴方は何を救ったの?」
嘲笑しているわけではない蔑んでいるわけではない。ただ純粋なる問い。それ故、反射的に息を飲み直ぐには答えを紡ぎ出すことが出来なかった。
「では、聴かせてくれますか? あなたの『救い』は、誰を救うものなんです?」
助け船を出すように問いかけたのは胡桃。白雪はその視線を胡桃に向けて静かに続ける。
「貴女も救われたいの?」
眉一つ動かさず、淡々と告げるが底しれない冷たさを感じる。
冗談ではない、胡桃が戦う理由を簡潔に述べるなら『生きる』ためだ。彼女に自ら救いなどを求めるはずはない。
返答に困りあぐねいていると、アレクシアが冷静に口を開いた。
「生からの解放、死こそ救い。ああ、否定はせぬよ。だが死は何れやってくる。なればこそ、一度きりの生であるが故に烈しく生きる意味があると言う物。それが人生に真摯であるということであり《mement momri》――つまりは死を想うと言う事だ。そこには老いも怯懦も挟む余地はない。汝のそれは、偏に短絡に過ぎると言う物だ」
淡々と語るアレクシアを白雪は静かに見つめていた。
のれんに腕押し……白雪の心は動かない。けれど荒々しく遮ることも、批判をすることもない。ひたすらに受け止める。
続けて
「私は総てを愛している。ただ、それだけなのだから。故に――論ずるまでもなく。汝の事も愛しく思っているのだよ」
そう括ったアレクシアに白雪は笑みをこぼした。しかし、
「少し、世を見渡す機会を作ることを薦めるよ」
続けられたその瞬間円陣が大きく揺らいだ。白雪は憂うように瞳を細め眉を寄せ、唇に寄せた指先で思案気に軽く弾く。
「……箱庭の中でしか生きられない人たちもいるの。その人たちが同種族のせいで箱庭を奪われたらどうすればいいの? 奪われることを恐れ、怯えて、重ねられる話し合いは、望まぬ結論へと近づくばかり……その結果、人の心は弱り、目に見えぬ神にすがり助けを求める」
ふと、白雪は集落の方を見据える。
「もう、私たちの村のような苦しみは必要ない」
「……けれど、あなたの行為は、結局『命』を奪い取る行為ですよ?」
言った胡桃は、小さく握りしめた拳に力を込める。
胡桃は、少なくともそんな救いは認めない。
知っているから、人は人を救えるって……奪う行為は、救いになどならないと言うことを、それは、独りよがりの行為だということを……――。
「貴女は、生きていて哀しかったのですか? 一点の幸福もなかったと?」
問いかけたクルクスを見つめる白雪の瞳は凪ぎいている。
けれど、地表に現れていた円陣は歪み形が保てていない、形成出来なくなっている。
その様子に、白雪は苦渋の表情を見せた。
そして緩く首を振ると悲観するように嘆きをこぼす。
「……本当に、なぜ大人しく自分たちの順番を待っていられないのか……」
平静が途切れたからか、集中力が切れたせいか。吐いた溜息と同時に、ヒュゥン……と無機質な音が響き円陣が消滅した。
わっと地表から沸き上がった青い光の粒子が美しく辺りに舞う。
「―― 気に病むことはない……よ、仕方ない。人に出来る事なんて限られてるから」
とっと、丸太を蹴った白雪が降り立ったのは樹の前。
「……ありがとう。私も愛しく思うよ、だからこそ……可哀想で、悲しくてならない……」
緩やかな笑みで告げるのはアレクシアへ。
「私が奪うのは感情。苦しみ病むもの。それについてきてしまうのが命、仕方がないの……」
どこか苦しげに伝えるのは胡桃の正面。
「両親を亡くし、血縁者にも遠ざけられたけれど、私にはみんなが居た。幸福で恵まれてた、助けたいと思った。だからこそ、私はみんなを救った。そして、彼らも慈しみ傷みなく救ってあげたい……」
クルクスに告げた白雪の瞳に迷いはない。
彼らの間を縫うように、いや、魚が水中を泳ぐように白雪は目前に迫ってくるのに、全く敵意が感じられないからか、肌で感じる力量さからの畏怖か――みな動けない。
「……お前が、村のみんなを消したのか?」
場を同じくしたメンバーには、今更なにをという言葉を投げたのは叶だ。
微かに震える唇をきゅっと噛みしめ、ふわりと歩み寄る白雪を睨みつける。
「寂しかった? ごめんね。みんな、もう限界だったから……」
また、泣かせたかな? 続けられた台詞に、全員次の言葉がでない。
●
「駄目です! 離れちゃっ!!」
突然、目の前で繰り広げられることになった乱戦に恐怖し駆けだした住民をシャノンは慌てて追いかける。
「待ってくださいっ」
「嫌だっ!」
ガウンッガウンッ!
シャノンや住民を追いかけてきたサーバントの気を逸らすために二葉は素早く撃ち込む。
響く銃声に、男は悲鳴を上げ泥に足を取られて派手に転んだ。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
「ひぃぃっ撃たれるっ!」
身体を丸めがくがくと震えている。失禁するほどの恐怖。
生からの開放が救いだなんて、絶対に駄目だと。生きることでより辛い思いをすることになっても、命は本人だけのものじゃない、多くの人に支えられているのだから――シャノンはそう思い現在行われようとしている愚行を止めたいと思った。
だからこそ、彼らを救わなくてはいけない。助けなくては……
「みなさんを撃ったりしません。あたしたちはそのために訓練を受けていて……だか――」
「シャノンさんっ!」
――え
パンッパンパンッ
冷たい感覚が頬と腕、太股に走った。
音に驚き顔をあげた住民の頬に赤が散る。刹那、彼が怪我を――そう思い動揺した。
しかし、次の瞬間襲ってきたのは、灼けるような熱い痛み。慌てて、ぐっと自身の腕を押さえる。
細い指の間からは赤い糸が幾本も滴り……
「……っ!」
足下にはじわりと、なま暖かい朱色の液体が身体を伝い地面に広がった。
そして、ゆっくりと水と混じり流れていく。
「大丈夫ですか」
バシュ……ッ
シャノンの背後に迫っていたサーバントを叩き散らした璃遠に頷き短く礼を告げると「大丈夫ですから」と住民に重ねた。
その問いに大丈夫だという返答は得られなかった。見る見るうちに彼の上気していた頬は血の気を失っていく。
●
―― ……
何度も切りつけた。
何度も撃ちつけた。
何度も何度も…………
確実に相手も消耗しているはずだ。けれど、旨くゲート班は振り切ったのか、それとも住民も攻撃対象と見ているからか、出てきた敵の数は増えている。
激しい打ち返しはない、しかし決定打も与えられず疲労困憊するばかりだ。やりづらいことこの上ない。
あたりが更地になってしまうような被害はない。だが、撃退士一名が身を挺して庇い、応急処置的に施されたライトヒールにてなんとか一命を取り留めているものがいる。
「……ねぇ……痛い?」
繰り返される剣戟の音に消えることなく、その呟きはその場全員の耳に届く。
「ああ! お嬢ちゃんも無事だったんだね」
集まった住民たちの間に現れた少女に安堵したような声が掛かる。少女は緩やかに微笑み、小さく頷く。
そして、ちらと見た先の男は、既に意識は遠く、他の住民に抱き抱えられ短く早い呼吸を繰り返している。ぐるぐると応急的に巻かれた包帯には赤い染みが広がり元の色が白だったとは思えないほど赤黒く変色していた。
少女は、気の毒そうに眉を寄せ、身にまとった白い衣服が汚れることも気にせず、そっと膝を折り怪我人へと寄り添う。
「大丈夫?」
「ああ、あの人たちが今助けてくれる。そのあと、病院へ運べば……きっと……」
大丈夫だと、傍に居た住民の続ける声は最後まで届かない。
『助けてあげてよ。まだ息してるもん』
彼の日の言葉に今なら誰に頼ることもなく、直ぐに答えることができる。
「――……可哀想……直ぐに助けてあげるよ……」
「やめろぉぉぉぉっ!!」
撃退士たちの悲痛な叫びが響く。
え? 状況の掴めない住民の間で、迷いない処刑は遂行された。
少女から放たれた水弾は、寸部の狂いもなく彼の胸を貫き一度だけ身体をくのじに跳ね上げると、あとはゆっくりと力を失くした四肢が地面を叩き雨水を散らした。
救いだそうにも、彼女の周りには他の住民が。
手が出せない。
一刹那落ちた沈黙。
それを破る声も聞こえない。誰一人動くことが出来ない。
「もう、痛くない。怖くない。これからも、二度と痛みも迷いも恐怖も貴方を苛むことはない」
少女はただ静かに告げて、華奢な両腕の中の身体を抱きしめ、そして、抱き上げる。はらはらと彼女の肩口から落ちる白に近い金糸は、もう永遠に動くことのなくなった村人に光が降り注いでいるかのように清廉な物に見えた。
死によって生から解放する事。
生を優先し命を繋ぐ事。
どちらが正解だとか、そんな一言で片づくほど簡単な話じゃない。
命はそんなに、易くなんてない。
だから、自分が信じた答えを、その罪と一緒に背負って貫くのだと、わたくしは、そう、思いますのに……。
ふるりと二葉の全身を冷たい何かが走る。
恐怖、それとも悲哀、憤り? どれとも直ぐに判断できない。
自身の関係とは別のところで、あっさりと命を絶つ者がいる。その現実が、今、目の前で……。
生きることを諦めることが救いになるのか……僕には分からない。
どんなに痛くったって、どんなに辛いことでも……生けるものは皆、明日を求めて日々を生きている。
僕自身、何のために、何を護りたいかまだ分からないけど、今はそれで十分だと、目の前のことを放っておけなくて、身体は自然と動くのだからと……。
ぐっと剣の柄を握りしめた璃遠の拳は、節が白くなるまで力がこもっている。爪の先が手の内に食い込むほど強く……だが、見ているものへの理解が追いつかない。
「……ん、な……」
人の死を救いと称し一方的に押しつける行為、ましてそれを力があるものが行うのはただの暴力だと、そう思っていた。
今も揺るぎなく、そう、思う。
しかし、目の前でその行為を実行した彼女は、全くの殺意を持たない力を放ち……享楽や憎しみとは縁遠い、とても慈しみ深い表情で彼を見ていた。
まるで癒しを与えているように、傷を修復するかのように――
「どぅ……して……」
唇が震えて上手く声が出なかった。
自分自身、強くなりたいと願った、守りたいと願った。
……命を張って守ってくれた人たちのために、誰かの意志を無視したとしても、自分の願いを叶えるために――
エゴを押し通すことも厭わない。
「だけどね……」
なんとか言葉を紡ぎ出す真里に、白雪はふと顔を上げ見つめる。
空色の瞳は濡れている。
雨のせいか、もっと別な何かなのかは、分からない。
「自分のエゴの為に、懸けて良いのは自分の命だけだよ」
静かな怒りを含んだ声色。
言い捨てて噛みしめた唇の端からはじわりと血が滲み、血液特有の苦い味が口内に広がった。
―― ……ふわりっ、
まるで宙を飛ぶように白雪は地面を蹴り高く飛び上がった。
一息で側の民家屋根まで到達した彼女は、瞳を細め口元を緩める。
見ているだけでこちらが泣いてしまいそうな、そんな悲しげな微笑み。
「私の命なら、もう……懸けたよ……。でも、私だけがそれで、みんなを救ったと安堵し苦しみから解放されても駄目なんだよ……私だけが救われたあとの世界なんて……駄目なんだよ……もっと沢山の人を救わないと……もっと、もっと」
白雪は苦しげに瞼を落とし、空を仰いだ。
彼女の頬を伝ったのはきっと雨雫だ。そうでなくてはいけない、そうでなくては……
彼女が信じるものはあまりにも悲しすぎる……――
***
ガンッ! バシュッっ!
静寂は破られた。
合流したゲート阻止班が掛けた総攻撃。
一発ぐらい当たれば良い。そう思ったのにそれすら甘い。
突如せり上がった水の壁に遮られ、白雪には届かない。
「みなさん……大丈夫、ですか?」
はっ! と我に返った面々は手に手に武器を構え、次の攻撃に備えたが……水壁の奥にはもう白雪の姿はなかった。
雨は強くなる。
どんどん、どんどん、強くなる。
地面に落ちた赤も洗い流し、突然の戦渦に巻き込まれた集落の傷跡も、全て流してしまうように。
●
帰りの車中。
必要以上の口を開くものは居なかった。
ゲート生成は阻止出来た。サーバントによる大きな被害も出なかった、村人も…………全員とは行かなかったが、全て失われる可能性があったことを思えば……――
こちら側にサーバントを引き寄せている間に、復旧は進められ応急的な措置ではあるが、何とか道路は開通していた。
無線で外部に連絡を取り、使徒及びサーバントの撤退を告げ救助要請は行われる。
それに応えてくれたメンバーに村は任せ、彼らは帰路に着く。
「何一つ、確証がなかったから……」
曖昧な情報は、全てを惑わせる。それを良く知る身でもあるため、問われもしないことまで語ることは控えていた叶から告げられた内容は、
使徒の名は『水杜白雪』年齢は十九。
どんな小さな命も慈しみ、助けようと尽くす。過剰なほどの慈愛を施すことのできる少女であり、
両親没後、愛媛県の小さな、とても小さな村に極めて遠い親戚の元へ身を寄せていた普通の日本人(当時は黒目黒髪で、今現在の色とは全く異なる)だった。
そこは奇しくも、同行者:月見里叶の故郷でもある――