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雫(
ja1894)は引き違い戸に手をかけて僅かに躊躇う。噂には聞いていたが、本当に胡散臭い。主に看板から醸し出される雰囲気が。
(まあ、当たるも八卦当たらぬも八卦と言いますから)
そう自分に言い聞かせるようにして、カラリと扉を開いた。
「ちゃお☆」
そのまま扉を閉めて回れ右しそうになった。
しかし、意を決した雫は案内されるまま椅子に腰を下ろす。机上の水盆は両隣にある蝋燭の明かりを移してゆらゆらと不安定に揺らめく。
「何も見え……」
ないと最後まで言わせては貰えなかった。
「見えるよ。君は見えるはずだ」
断定される台詞。水面は不規則に揺れ明かりも揺れ、視界も揺れる。
***
鼻の先を早朝の香りが掠める。
(……え)
清々しく真新しい空気。それはとても晴れやかで、今日一日が明るいものだと約束されているようだ。
映し出される像はまるで目の前で今繰り広げられているかのように鮮明に見える。
長い銀糸を緩く束ねて、エプロン姿で台所に立つ。慣れた手つきで行われる作業は、きっと毎日何度となく繰り返されてきたものだから。
ダイニングテーブルには、台所に立つ女性と同じ年齢と思われる男性が先に席に着きゆったりと寛いだ雰囲気でテレビを見ている。
それが雫の選択なのか、音は拾えない。
音は振動として伝わりリビングの扉が乱暴に開かれた。
「―― ……っ! ……!!」
高校生くらいの少女は雫よりも年を重ね、むぅっとむくれっ面でダイニングにいる二人に文句を付けている。
振り返った女性は瞳を柔らかく細めて、慈愛を含んだ笑みで少女を捉え、ふと座っていた男性と視線を絡めると、お互いにくすりと表情を和らげた。
そして、笑いながら少女の訴えに答えると、少女はますます不貞腐れたような顔。素直に感情を表に出すことが出来る。それは自由にのびのびと幸せの中で育まれた証のようだ。
その内側で起こる笑いに影響されるよう水面に波紋が起きる。
(……あ)
もう一人、誰かが入ってきたのに映像は途切れた。
「これは……私が母親に? それとも記憶が戻って両親が見つかった未来?」
誰に言うでもない呟き。
「私の手は汚れている。どんな理由があったとしても、誰かを傷つけたことは事実……」
幸せへの諦めか、求めることへの疑問か。
「とりあえず、涙は拭いてもいーよ」
指摘され、雫は慌てて頬を拭った。真実なのか問うても、春日は肩を竦めるだけ。
「何? 見たくないものだった?」
雫は小さく首を振る。
「ただ、私にこの幸せを得る資格はあるのでしょうか?」
告げた雫は席を立つ。立会人となってしまった春日に泣いてしまったことへの口止めをし、扉に手をかけると呼び止められた。
「幸せになる資格なんて、誰がくれるんだろうね。君、知ってる?」
春日は新たな蝋燭に火を灯している。今度は雫がその問いに答えることなく小さな声で礼を告げて部屋を後にした。
●
次なる客はエイルズレトラ マステリオ(
ja2224)。揺らめく水鏡に吸い寄せられるように堕ちる。
バサリ……っ
黒いタキシードの裾が靡く。
跳躍し、高い位置から解き放つのはカードの猛攻。
手の内に広がり、指先から弾き出されるカードは空気を切り、一閃が走れば赤が飛び散る。地面に延びる赤は彼のものではない。
ガウン! ガウンッ!
飛び交う銃声。それらが彼を捉えることはない。細身の男は、慣れた足取りでそれらを的確に交わし、相手にカードを放つ。
―― スパ……ン……ッ
確実に急所を狙う。
それ故に血しぶきは大量にあがり、露出した土色は赤黒く、そして転々と血溜まりを作った。
対峙した相手は、一人また一人と自らが作り出した赤い池に身を沈める。
「ぐあっ」
醜い断末魔。
がくりと最後の一人が膝を着く。そのままゆっくりと曲線を描き地面に伏すと、一刹那、静寂が訪れる。
男は、とんっと両足を揃えると満足げに息を吐き、すらりとした長身を折り曲げて恭しく一礼した。
辺りには誰もいない。
今はもう、男が一人そこに立っているだけだ。
***
「―― ……っ!」
はっと息を飲み現実へとエイルズレトラは引き戻された。
もう水盆には何も、いや、誰も映っていない。
エイルズレトラは、口角を引き上げて喉の奥を小さく鳴らす。
「……面白いものを見せてもらいました。自分の心の奥底にある、願望と言うヤツですね」
「未来なんてもんは不確定なものばかりだろ?」
春日は水量が僅かに減ってしまった水盆に液体を足し入れながら答える。
エイルズレトラは、自嘲的なもしくは嘲笑的な笑みを浮かべて「未来?」と肩を竦めたあとゆっくりと首を振る。
「いいえ、僕が見たのは間違いなく願望ですよ。少なくとも、僕の未来ではあり得ない」
断言した彼をちらとだけ見た春日は「ふーん」と零しただけ。そして、立ち上がったエイルズレトラは、静かに再確認するように重ねた。
「僕は、大きくなれないことを知っています」
それは昔、マステリオ家が負った呪いの形…… ――
●
頬を撫でる風は潮の香りを含んでいる。
緩い上り坂の道を歩いているのは雪成藤花(
ja0292)に似た女性。
その周りでは、愉しげにはしゃぎながら子どもたちが走ったり彼女の周りを回りその手を取る。
一人が取れば「ボクも」「あたしも」とみんなが鈴なり。これでは歩けないと困っても、怒気が沸いてこないのは子どもたちの無邪気さ故。
小さな手に導かれ見えてきたのは赤い屋根。どこか可愛らしさのある建物の外門には『児童保護施設』の文字が見て取れた。
「お姉ちゃん帰ってきた!」
「早く早く!」
家屋の中で留守番していた何人かが、入れ替わり立ち替わり窓からひょこひょこ顔を覗かせる。
きぃ……っと扉が開くと、真っ白な直毛をなびかせたマルチーズが飛び出して藤花に飛びついて来た。
「きゃっ」
小さな悲鳴を上げたあと膝を折、抱き上げた藤花の視界に入ったのは見慣れた足先。
ふんわりと笑みが深まるのが自分でも分かるほど、幸福が溢れる。
「おかえり」
見上げた先には、大切なあの人。張り付いた笑顔ではない本当の彼の笑顔に迎え入れられる喜びは何ものにも代え難い。
***
藤花は覗いていた水盆の縁をそっと撫でた。
幸福な未来を、望む未来を、叶えたい夢を、紡ぎたい想いの数々を、それは見せてくれた。
現実かどうか怪しいそれすら愛おしい。
続けて水鏡は、藤花の翠眼にランダムな未来の映像を注ぎ込んでくれた。
自分にも似た銀髪翠眼の少女の姿
縁のあったみんなに祝福された結婚式
小料理屋も無事に軌道に乗り
自らの大学卒業――最後に見えたのは、幸福な時間を重ねてきたのだろう、年老いた自分。
そしてその全ての像の中。藤花の傍らには必ず同じ人物が寄り添う。
映し出された全ての人が、春の木漏れ日を浴びているように幸に溢れ、優しげな笑みを、楽しげな笑い声を上げていた。
あの人が笑っていた――。
●
「藤花ちゃん」
丁寧に室内へと一礼して扉を閉めた藤花に声をかけたのは雨宮祈羅(
ja7600)。
祈羅は部活のみんなからの差し入れをぱくりとしながら出店巡りをしていた。
「未来?」
藤花が出てきた教室の案内を見て首をかくり。
「当たってたかな?」
その問いには現時点では誰も答えられない。けれど、藤花のふわふわの笑顔を見る限り悪いものではなさそうだ。
「幸せそうで何より♪」
にこりと、そう口にして祈羅は藤花の頭をふわりと撫でて別れた。
「それじゃあ、うちもお邪魔しまーす」
***
今と大して変わらない探偵事務所。
いつも彼は窓を背にしてその席に座っている。
ちょうど間が悪いのか、今は祈羅しかその場所には居なくて、手持ちぶさたに机に突っ伏したり起きあがったりを繰り返した。
その表情は冴えなくて、時折小さく溜息を吐く。常に明るく笑顔がモットーの祈羅としては人前ではあまり見せない顔だろう。
でも、自分だけはそれを知っている。
危険な依頼に同行できなかったときは不安だ。
早く、早く、無事に帰ってきてくれれば良いのに……血の気の多いあの人を見ていると、いつか置いて行かれちゃうんじゃないか。そんな思いが頭を支配する。
―― かちゃっ
扉が開き、祈羅は勢い良く立ち上がった。ふわりと頬を上気させ
「おかえり!」
(今とそんなに変わらないね)
鏡をのぞき込んでいた祈羅は、微かに頬を緩めた。あの人の無事を確認して安堵するこの瞬間が好きだ。
「あ、そうだよね。もう平和なんだから、大丈夫なんだよね」
彼の隣に立って、何か言われたのだろう。
水盆の中の祈羅はくすくすと笑うと口にした。その単語に祈羅は顔を上げる。
「平和?」
「そうなんじゃないの?」
春日は小さく肩を竦めて、続きを見れば? という風に水盆へと視線を投げる。
そこはすでに場所が変わっていて大事な友達と、大事な大事な妹たちの楽しげな姿がある。
みんな今より大人になって、でも、誰が誰かは直ぐにわかる。
話すときの仕草や癖、みんなの持つ笑顔は年月などではそれほど変わることはない。
詳しい会話の内容までは聞き取れないが、その様子からは平和で穏やかな空気が流れていることは伝わってくる。
その中に居る祈羅もにこやかにしている。彼も表情は見て取れないが、その雰囲気からはおそらく……。
「うち幸せそうだよ」
誰かに言ったわけではない。でも確認するように祈羅は声に出して微笑んだ。
(きっとこの後大切な妹たちを嫁に出すような日もきっとくる)
平和で当たり前の幸福に満ちた未来だ。
―― からり
祈羅は後ろ手に扉を閉めた。
この先もあの探偵さんと一緒だった。みんなと一緒だった。それが何より嬉しい。
「さ、お店当番にもどろうかな」
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出てきた祈羅と入れ替わるように入室したのは純白のエリクシア(
jb0749)、皆と同じように中央の席へと静かに腰を下ろした。
(将来の夢?)
問われてもぴんとこない。ゆらゆらと灯火が揺れる。鏡面が揺れる。
映り込んだ自らの姿も揺れた。
ジジッ。
脳裏にノイズが、ジャミングがかかるように明滅する。不安定な映像。
モノトーン。
白と黒、濃淡のみで構成された世界。
どのくらい先のものだろう。コンクリートジャングルという表現を陳腐だと思った。しかし、それが一番しっくりくる場所。一部は崩壊し、廃墟と化している。
その隙間を縫うようにエリクシアは滑空した。風を切る音はするのにその感触はない。
眼下に見えるのは武装集団。上がる土煙に鼻孔を擽るのは硝煙の香り。それには血液特有の香りも混じる。
エリクシアは、フライトユニットと無線兵器を操り、手にしたアサルトライフルで次々と目標を打ち倒していく。
赤が重なる。
血の臭いが濃くなる。
そして、動くものは誰もいなくなった。無機質な場所。エリクシア、ちらとそんな地上へと視線を落とす。
「―― ……」
再び上空へと戻っていく自分に人間らしい部分は残っているのか。
有人機動兵器として秩序の管理者となった、役割を望まれたデウスマキナとしての……私……。
ジジッ
突如、草いきれに包まれる。
頬をなでる風は暖かく、柔らかい。擽るように抜けていく風に乱された髪を掻き上げ、エリクシアはゆっくりと歩みを進める。
見渡す限りの緑。
―― ずっ
重力に引き寄せられるように、草臥れたようにエリクシアはその場に膝を突き、そのままゴロリと転がって空を仰いだ。
高い、
青い、
広い、
暫し瞑目し大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
その姿は衰弱しているようにも見えた、しかし、頬の上で長い睫は震えゆっくりと瞼は持ち上がる。
細められた瞳は穏やかで、何かを成し遂げたような充足感が垣間見れた。
空は高く青く広い。
***
「未来の私は何かをやり遂げ、何かを得て、答えを見つけるでしょうか?」
映し出された二つの未来は余りに対照的過ぎて、彼女の中の迷いそのままが反映されていた。
それは、自分が望む未来……それとも望まれた未来……どちらであるべきなのだろう。
●
―― カチコチカチコチ……
古びた時計の音が響く。
机上に突っ伏している人影。両の腕を枕にして額を押しつける。
(あれは私……)
そう感じた瞬間、荻乃杏(
ja8936)意識は引っ張られた。
室内には独り。
そして一人で家族の帰りを待つ。今も、この先もそれは変わらないのだろうか?
待つだけは嫌だから、再び会うことを願って僅かな手がかりを頼りに長く長く旅を続けた。
もしかしたら……という淡い期待を含めて家路につく。
「ったく、さ。いつまで家出してんだか」
顔を上げた少女は頬杖をつき悪態を零す。口元には微かな笑みが浮かんでいる。
傍らにある写真立て。
写真の中の姿は変わらない。その姿をこつりと指先で弾き小さく嘆息。
「ホントに、もう。そんなに長くは待ってらんないわよ?」
人に与えられた時間は有限でその理だけはあらがいようはない。
それを思い知らすかのように
カチコチカチコチ――
時計の音がやけに大きく響く。
叶わぬ夢と届かぬ願いと知り、それでも尚思い続けた。それこそ一生という時間に近い永久。
それでも、もう一度だけ彼女に会いたかった。
両親を亡くした自分と共に居てくれて、たった一人の家族であったアイツに……。
(ああ、全ての感覚が重く沈む)
杏は夢の終わりを感じた。幻の中でも待ち続けていた、独りで、一人で。
時計の音が遠くなる、視界が揺らぐ、先刻まで何を見ていたのだろう……何を見て……
―― ……ギィ……ッ
薄暗い場所に光が射し込む。
かたんっ立ち上がり振り返った。
「遅かったじゃない」
とくんとくん、心臓の音が身体に響く。先の自分か今の自分か、その境界線すら曖昧になる。
わぁっと身体の中を掛け巡る熱。次の言葉を紡ぎ出すのに微かに口元が強ばる。
(……言わなくては、伝えなくては……)
「おかえりなさい」
ぽつんっ
一滴水面に波紋が広がった。
水盆に映る姿は今の自分。蝋燭の淡い灯火に揺らいでいる。
顔を見られないように視線は伏せたまま立ち上がり短く礼を告げる。
夢の終わりはどこか侘びしい。現実ではないと分かっているから。
「ねぇ、アンタって……ん、やっぱいいや。占い、どうもね」
何者かという言葉を飲み込んだ杏は、ひらりと後ろ手に片手を振って部屋を出た。
「そんなに、待ってらんない。……探し出してやるんだから」
必ず。
ぎゅっと握りしめた拳に新たな希望を掛けた。数ある未来のうち、自分は必ずあの未来を手に入れる。
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春日は生徒が途絶えてしまった教室の暗幕を一部開いて肩を預ける。煙草を銜え手持ちぶさたにジッポの蓋を、カシン、カシン……ッ金属の擦れる音が心地良い。
祭りを楽しむ生徒たちの声が届いてくる。それは当たり前なことだ。
明日があるのもそれは当たり前のことだ。