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「ここでは死なせないから大丈夫」
春日はそう告げて背を押した。ここでは、の一言がとても重い。
●Case1 S.Yoshina
夜科小夜(
ja7988)は、胸の前で握り合わせていた手を解いて腕を伸ばす。
『―― ……』
ふと耳に届いた声。
それは小夜以外には届くことはない、姿なき声。前にした鏡面に触れる指先を押し留めるような声に、小夜は緩く笑みを零し
(…大丈夫、です……)
と首肯した。他人にとっては不確かでも、小夜にとっては確かで心許せる、自らを案じてくれる存在だ。
「…え」
閉ざされた感覚が最初に捉えたのは水音。激しく強く打ち付ける水流。
ぴしゃりと何かが弾けて頬に冷たいものが飛び散る。
「…っ!」
小夜は慌てて頬を拭い、じりじりと後退する。足元から這い上がってくる冷気。肌を取り巻く痺れるような冷たさ。襲ってくる、刺すような痛み。
「ごぼっ」
大きな泡も直ぐに水流に巻き込まれ後方へ消えていく。
反射的に両手で喉を押さえた。はっはっと荒くなる呼吸を飲み込む。
溺れる。そう思ったことを否定する。
これは現実ではない。それなのに、五感に直接呼び掛けてくる恐怖。
目の前に映し出される急流に飲み込まれる己の姿。見上げた水面がきらきらと冬の日差しに煌めき、意識が遠のく…
「…兄様」
昔、同級生の悪ふざけによって真冬の川に落ちた。
その時、兄が助けてくれた。
小夜は両手を握りしめたまま、全身を強張らせ構える。
……このあと何が起こったのか……忘れられない。
鈍い音がする。何度も……何度も……。
ぴしゃりとまた頬を濡らした。そっと指先で触れると赤い。
「…めて、やめて、ください……兄様、兄、さま……!」
悪戯を仕掛けた相手に息はある。けれどもう動かない、動けない。それでも兄の制裁は止まらない。怒りが空気を伝わって流れ込んでくる。
(…小夜のせいで…小夜が……兄様にこんなことをさせてしまった)
鮮明に脳裏に焼きついて離れない、大好きな兄の狂気……そしてそれは
『後悔の念を植え付け、再び兄様を狂気に駆り立てることを恐れ』
「…小夜は、トラウマを、兄様のせいには、したく、ありません……!」
じわりと目尻に浮かんだ涙を拭う。
普段はシュシュの下に隠れている髪に留めた輪飾りが、キンッと光った。
「…この学園に来て、大切な人達が、いっぱい、出来たんです……」
ぎゅっと打刀を握る手に力を込める。
天魔と対峙する場所は選べない。水場を不得手なまま放置することは、その大切な人まで危険に巻き込むかもしれない、直ぐには、無理でも。
『嘘。怖いくせに…』
「…小夜は、大切な人達を、守りたい、です……」
決意を込めた瞳は揺るがない。
薙ぎ払うがこの一撃、これが最初の一歩となるように――
●Case2 Y.Kimita
一筋の明かりも漏れ入ることもない密閉された空間。
「―― …何?」
鏡に触れた手のひらからじわりと、どろりとした嫌な感覚。温度すら伝えてくるような鮮明なもの…それは、まるで……。
(……血?)
それを連想するしかない。
弾くよう手を引き君田夢野(
ja0561)は手を見た。視界が悪く分からない。
「?!」
続けて気配を感じ、はっと顔を上げると目の前に居たのは、血塗られた己自身。黒に近い赤がその身を染める。
背負った大弓。手には長剣と苦無。禍々しい瞳に映るのは、驚愕する自分。
血に濁った瞳は弓なりに細められ、にぃと口角が上がる。
『良い子ぶるのはヤメにしろよ。本当は肉親を奪った天魔に復讐したいんだろ?』
力がある。
天魔に対抗し得る力が……それを振るう理由は何だ……復讐であってはならない。私怨であっては…それは人を狂気へと駆り立てる。
(俺は違う…俺は、あの撃退士とは……)
『どうした、すべて肯定すれば楽になるぞ? 復讐心も、破壊衝動も、何もかもを』
「拒絶する。俺が戦う理由は『夢を護る』その一点だけだ」
ゆるゆるとした憎々しい態度で対峙した己は嘯く。
『俺は知ってるぞ、君田夢野。闇の入り口に足を踏み入れたお前は、戦いを楽しむ心と、殺意を覚えたことを』
反射的に「違う!」と叫んだ。
「その様なモノは在り得ない! 在ってはならないんだ!」
何も聞きたくないとばかりに声を張り上げた。自分の声が室内に反響して、全身がびりびりと痺れる。
『ならば、どうして、お前はあの時ヤツを斬ろうとした?』
「黙れぇぇぇっ!!」
怒号が響くと共に活性化された片手半剣から繰り出されるゴシックビート。
地の底からの湧き出でる様な重低音を響かせ鏡へと直撃する。
(違う! 俺は違う!!)
割れてしまうのではないかという衝撃が合ったにも関わらず、無残にもその全ての衝撃波は鏡へと染みこむように消えてしまう。
波打った鏡面が、映った己の姿を掻き乱す。
『どうして、お前は…――』
鏡は壊れたように繰り返していた。
終了のブザーが鳴り、がくんっと膝が落ちる。
激しい動悸が頭に響き痛む。息が切れ口の中が痛いくらいに乾いた。
スピーカーから聞こえた緊張感のない声、それに夢野はゆっくりと首を振り、
「わ、分かりません……本当、に……あ、あるのかは……」
答えて、慌ててぶんぶんと頭を振った。その全てを否定するように。
(最大の敵は、俺なのか。この黒い心に、俺は抗えるのか……)
●Case3 S.kirihara
自身が試されることを覚悟して、霧原沙希(
ja3448)は足を踏み入れた。
当然とばかりに目の前に映し出される光景。
まだ幼く、その全てが弱かった。
「何で! こんな事も! 出来ないの!?」
「悪いことをしたら、おしおきだ。そうだろう? 沙希」
繰り返し両親から浴びせられた罵声。
「…助けて、痛い、違うの、ごめんなさい、やめて……」
吐き気がするほど忠実に映し出される記憶。両腕で自身を抱き締め力を込める。
つぅと冷たい汗が背中を流れ落ち、びくりと身を縮めた。
今なら分かる。
子どもだったのだ。あの頃の自分に両親からの全ての要求が、完遂出来るはずない。
彼らの心中を理解することは沙希には出来ない。しかし、もうそれは過去のことだと受け入れることは出来る。
きゅっと唇を噛み締めた後、静かに大きく深呼吸をした。
(……もう、大丈夫)
言い聞かせるように頷いて瞑目する。
これで終わり。そう思ったはずなのに、耳に届くざわめき。人の声。
瞼を持ち上げた沙希は「え…」と息を呑んだ。
新たに現れたのは何気ない日常だ。友人との平穏な生活。そこに”何か”があるはずなどない。
そう思っているはずなのに、沙希は一歩後ずさった。
(あー、うざってぇ。根暗に付き合うのもいい加減面倒なんだって)
友人の表情は変わらない。変わらず微笑んで親しげにしてくれている。
それなのに、彼女の心の声は吐き出す。
(うわっ……なにこれ、傷跡? 気持ち悪っ)
嘘だ。
見えそうな部分は隠している。見咎められるはずはない。
嘘だ。
友人がこんなこと考えているはずない。
嘘だ。違う……違う、違う、違う……友人を信じている。
硬く目を閉じれは、友人の楽しげな笑顔が浮かぶ。間違いじゃない。ひょっとしたら、なんて存在しない。信じている、信じてくれている。
間違っているのは、映し出された自分――
「あああぁぁ!!」
ずんっと室内に衝撃が走る。
一種の錯乱状態で光纏した沙希の全身から噴き上がってくる黒いアウル。液状にさえ見えるそれは、構えた武器に幾重にも纏わり付き、一撃の重さを増幅させる。
そして、そのままの勢いで黒耀砕撃を打ち放つ!
パリンッと衝撃はあったのに、罅一つ入らず鏡は静寂を取り戻す。
そこには、いつもの自分が映し出されている。その像は幾重にもぶれて、定まらない。
「…違う……そんなはず……」
沙希はうわ言の様に重ねた。
●Case4 M.Hanabusa
傷の有無は分からなくても、俺の中の俺は過去を知っている。
思い出せないだけで、俺自身はきっと『知っている』筈だ、と。
英御郁(
ja0510)は、冷たい床を進む。
鏡に映るのは自分。
そして、一人ではなくて……静かに鏡の中の奥行きが広がって世界が変わる。
不確かな既視感。
そこがどこかよりも、胸中を占めるのは……隣りの、大和撫子を絵に描いた様な美女。
御郁は瞳を眇め、じっと鏡面の奥へと魅入る。知っている、けれど覚えていない。
もどかしさが募る。
知ってる。
整って美しい容姿の下、俺に見せる本当の顔。
こいつ、結構性格悪ィんだ。
俺のことをペットか下僕みたいな扱いをしやがる―― …でも、知ってる。
哀しいことや辛いことは誰にも言わず、だからどうしたと哂って見せる。
―― …その本当の胸の内。
俺の長い髪を丁寧に結って、青いリボンを留めてくれた。
「私が拾ったのだから私のものよ」
口調とは裏腹に、細められた瞳がとても優しくて、シャラリと首に巻かれたドッグタグを指でなぞると口元を緩めた。
(そう、俺はあんたが大好きだった)
触れた鏡面は冷たい。
それは己が暖かいということだ。御郁は生を保っている。生きている。
目の前の彼女はたった一人で戦って命を散らした。
いつもは寝る暇もないくらい、馬車馬みたいにこき使う俺を残して――
俺は、後を追ったのに、追い掛けたのに……
彼女を一人で行かせた事。彼女を救えなかった事。
何より…忘れていたことへの罪。
小さな自分が責め立てる。声は聞こえない、けれど確実に自分を責めている。
御郁は静かに瞼を閉じ、ゆっくりと深呼吸。静かに光纏し、武器を手にする。
玉響の時。仕舞いはついた。
「ありがとうなァ」
真実か、徒の幻か。確かめる術はない。
だが一つの可能性であることが、僅かでも御郁の霧を晴らした。
「んー…まァ、楽しかったって事にしとく」
退室後問われた台詞に御郁はひらりと片手を振って答えた。
(結論出すのは、視た物の本当の意味が分かった時、なんだろう)
●Case5 Solitaire
―― …ああ、やはり……
ある種の確信はあった。
話を聞いたときから、恐らく自分が対面するのは… ――
「あなたは?」
『聞いてどうします? 知ってるのでしょう?』
ソリテア(
ja4139)本人。
否、似て非なるもの。
姿形は同じもの。しかし持つべき色が、纏うべき色が全く異なる異質なもの。
『覚えているのでしょう? あの街で、何をしたのか』
故郷――懐かしさを感じて然りの場所。しかし、今感じるのは恐慌。
「……! あ、あれが、何か…?」
声が上ずる。
運悪く街は天魔が鬩ぎ合う場所となってしまった。
力なきものは恐怖すら感じる間もなく肉塊と化す。
しかし、その場で対抗すべき力を得たら……隣り合っていたものが、天魔の毒牙に落ち牙を剥いたら。
『逃げようとしても逃がしません。あなたが殺したのですから』
「や…やめて……それは……」
仕方がなかったのだと、誰もが口を揃えるだろう。誰一人として彼女を責めるものは居ない。
居るとすれば――ただ、ひとり。
彼女本人だ。脳裏を掠めたかつての恋人。頭を振ってその面影を振り払う。
フラッシュバックする記憶、目の前に広がるあの日の光景。
鏡面にあるのは血の気の引いた自分。その背後に立つのは
「やめ、て」
この続きを知っている。この続きは――ソリテアは音のない悲鳴を上げてその場にしゃがみ込み頭を抱えた。
『罪はどこに消えたのですか? 無くなる訳でもないのに』
畳み掛けてくる声。
罪を背負い、前を向こうと決心したのに……それなのに……突きつけられるものは
「やめて……!」
―― ドゴォォンッ!
反射的に光纏し、一息に解き放った魔法攻撃はそのままの形で、ソリテアの身体を弾き飛ばした。
「……っう」
短く唸りソリテアは床に横たわる。
私は、心の底で……何度も、何度でも……敵の手に落ちた彼を手に掛ける――
●Case6 T.Ghora
内へ内へと広がる世界は、余りにも鮮明で…余りにも、酷だった――
夥しい赤で染まる。己から零れ落ちたのか、それとも微かな息を漏らし声を上げることも出来ない妻が流したものか。
足先が赤を弾く。
腕の中の幼い、幼すぎる息子が身を捩った。この状況下、泣かないでいてくれた、泣かずにまだ生きたいというように、己の存在を示した。我に返り
――生かさなくては!
腕に力を込めて、遮二無二走った。
瞼の裏側に焼き付いていて忘れたことはない。それをまた目の前で再現されているだけだ。
それなのに、喉の奥からは血液特有の苦い味が広がってくる。
早く早くと心が急く。
息子を、家族を守らなくては、家族を…――
その中に、妻は入って居なかったのか?
苦い記憶と共に、その時に出来た鼻の上の傷を覆うように強羅龍仁(
ja8161)はそっと撫でる。
鏡の中に妻の亡骸があった。肌にこびり付き、乾ききってしまった血を擦り取ると、はらはらと落ちていった感覚すら鮮明に覚えている。
「あの時はあれが最善だと…」
言い掛けて、ゆっくりと首を振った。
「いや…怖かったんだ」
今更取り繕う気はない。今、此処に立っているのは妻を守れなかった自分だ。
だからこそ残された息子の為に、母の代わりを完璧にこなしたかった。けれど何一つ完璧ではなく、湧いてくる焦燥感。浮かんでくるのは子を慈しむ妻の顔。
そして、冷たくなった姿――
今に価値を見出せない。何かも辛い、それならいっそ……
「一家全員一緒に死ねばよかったのか?」
生きる必要はない。このまま自分の元で生かすのは可哀想だ。そんな闇に囚われる。
――ドン!!
突然、やめろと龍仁は鏡に拳を打ちつけた。
あの時自分は、もう息子しか残っていないのに、それなのに、一体何、を……安心しきって眠る子どもに大きな手があれでは息が…誰の手、だ。俺の…手…だ――
『今度はちゃんと息子を――』
龍仁の何かが弾けた。
赤い瞳が黒く翳り妖しく光る。その危うさに、此処までだと直ぐ判断された。
激しくブザーが鳴る。しかし、全く意に介しない。ただ全てを破壊するように攻撃を打ち込む。
『強羅、止めろ!』
声が届くこともなく繰り返され、それは彼自身を傷付ける。
「ハハハ…殺シテヤル……殺シ、テ、殺ス」
狂気を帯びた赤。紡ぎ出される言葉は一体誰のものだ。破壊を求める男は誰だ。
「ゲ、ホ…っ」
跳ね返った力が鳩尾に入り息を詰める。
まともに入った一撃に膝をつき肩で息をする。声が掛かり肩を掴れた瞬間、射殺す勢いで顔を上げた龍仁の耳に
『―― ……』
何かが届いた。身構えた春日の姿が、ゆっくりと瞬きした龍仁の瞳に映る。
「俺は……何を」
困惑した龍仁に春日は首を振りお疲れさんとだけ続けた。
(息子の声が聞こえた気がした)
ぐしゃりと短い髪を掻き上げて、長嘆息する。
「…また、俺は息子に救われたのか……」
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この実験により、心的負担過多の為不適切と判断された。
扉には「再調整中」の紙が揺れている。