●ここは桃源郷か?!
猛暑だ、酷暑だと連日報じられている中。
頬を撫でる風はひんやりと冷たく心地良い。
「おー……疲れたけど……避暑地だけあって涼しい……」
二台のマイクロバスから各自降りて、んーっと背伸び。凝り固まった筋肉を軽く解したのは常塚咲月(
ja0156)
「暑さがないのは良いよな」
と同意したのは、咲月とは幼馴染みの鴻池柊(
ja1082)
目の前にしたのは純和風旅館。白滝の宿だ。耳を澄ませば、その名の通り滝の音が聞こえる気がする。
そして、振り仰げば、左右の山から延びている木々の枝が、天然のアーチを作り出し直射日光が落ちてくることがない。
「ようこそ、お越しくださいました」
優美な和服姿で迎えてくれたのはこの宿の女将。恭しく腰を折られ生徒たちの
「よろしくお願いします」
が木霊した。
「楓、もし予定がないようだったら、俺たちと一緒に散歩しに行かないか?」
簡単な部屋割りの後。
各自荷物を置いて、自由時間。
決められているのは各食事時間と、明日の出発時間くらいだ。
強羅龍仁(
ja8161)に掛けられた声に学園からの引率者として同行していた常盤楓は振り返る。
『パンフレットにも書いてある通り、滝は大小数箇所あります。皆さん仲良く楽しんでくださいね』
と数名見送り、丁度、釣り道具の貸し出しを手伝って人が捌けたところだ。
龍仁の周りにはcicero・catfield(
ja6953)八辻鴉坤(
ja7362)クインV・リヒテンシュタイン(
ja8087)たちが一緒に行こうと重ねてくれる。
「ええ、喜んでご一緒します」
にっこりと微笑んだ楓と共に旅館を後にした。
足下に落ちる木漏れ日。
抜けていく風にきらきらと揺れていく。木と水の香りが静かに運ばれ鼻腔をくすぐる。草いきれとはほど遠い清涼感だ。マイナスイオンが充満している。
「へぇ、結構風が涼しいね」
足取りの軽いクインに続く。
「鳥さんたち、可愛いなぁ」
のんびりふわりと微笑んだシセロに楓は首肯する。
「野鳥の生息数も多いようですし、人に慣れている子いると思います」
言ったそばから新たな鳥が傍の木の枝に止まる。
そんな野鳥と動物交渉能力で仲良く出来ないかと、チャレンジし始めたシセロの姿に笑みが零れた。彼の伸ばした手の先に、早く小鳥が止まらないかとこちらまでわくわくしてしまう。
「最近は慌ただしかったからな。こうしてゆっくり散歩するのもいいもんだな」
龍仁の視線は上。
「息子の土産は何がいいかな……」
誰に言ったわけでもない独り言も割と聞き逃さない。
「カブト虫とか、クワガタも大きいものが居ますよ」
「そうなのか?」
龍仁の食いつきがよくて良かった。
「ん、こっちの方から川の音が聞こえるね。きっとこっちが近道だよ」
ぴしりと脇道を指さして告げたクインは、ずんずんと先に歩く。背中が見えなくなってしまったけれど、まぁ、ジャングルの奥地というわけでもないし迷ったりはしないだろう。
タッタッタッタッタ……。
他愛もない話をしながら歩いていると、後ろから追い掛けてくる規則正しい足音が聞こえた。ふと、歩みを止め振り返れば桐原雅(
ja1822)が走ってくる。
そして、彼らの前で足並みを緩めると「常盤先生」と足を止める。はい? と首を傾げた楓と向き合ってペコリ。さらさらと肩口から長い髪が零れ落ちた。
続けて今日のお礼を口にした雅に、ああ。と納得し笑みが深まる。
「こちらこそ助かりました。トレーニングですか? 頑張ってくださいね」
―― ……ドドドド
防護柵の向こうに滝が見える。
「確かこの滝が源流に近いものだったと思います」
楓の言葉に、ひょいと身を出せば、臓腑が冷え、滝壺へと吸い込まれるような感覚が襲ってくる。
それほど広さはなく、直ぐにまた下へと落下している。が、高さだけはある…… ――
「……結構水深がある気がする……試してくる」
突然何を思ったのか鴉坤の台詞に慌てて制止するが
「大丈夫だよ。先に歩いて行って」
何が大丈夫なのか今すぐに説明して欲しい。
「あこ、ん! ちょ、お前待てっ!」
色々と目星をつけていた龍仁も、鴉坤が上着に手を掛けたことに気が付いて全力で制止!
あっさりスルー。
「下で待ってるね」
にこり、じゃなーいっ!
「強羅さん、危ない」
滝壺に吸い込まれる彼は止まらなかった。龍仁が止めに走った勢いで柵にぶつかりそのまま巻き込まれそうなのを、シセロと楓が慌てて抑えた。
ほぅと一息吐いたところで、パシャンッと水を弾く音がした。
……多分、無事だろう。
「みんな遅いようだね。何に足止めを食っているのだろう?」
―― ……ぽつん。
クイン自身、自分が迷っていることに気が付くのはもう少し後になってからだ。
●釣って食う
宿の丁度裏手に落ちてくる滝。
そこからゆったりとした川となって流れ、河原が広くなっている。
「懐かしいわね。昔はこうして、良く釣りをしたものよ」
水着の上にパーカーを羽織っただけの月臣朔羅(
ja0820)は露出している所へと丹念に虫除けスプレーを吹き付ける。
「蚊に迫られても、嬉しくないもの。貴方も使う?」
気軽に他のメンバーへも貸し出した。
河原には既にいくつかの、簡易的な竈。
「渓流釣りには絶好の場所だし、良い獲物が釣れるかも知れない。こういう機会も滅多にないだろうし、楽しむことにしようぜ」
とやる気満載な榊十朗太(
ja0984)と、淡々と作業をこなした影野恭弥(
ja0018)のお手製だ。
既にその側に設けられた囲いの中には数匹の川魚が泳いでいる。落ちた日陰には、飲み物やおにぎりなども、
「皆、滑って川に落ちるなよ」
などと気を配ってくれていた神楽坂紫苑(
ja0526)により用意されていた。
滝壺の両岸にはごろごろと不揃いな岩も転がり、それぞれが思い思いの場所に腰を下ろして釣り糸を垂れる。
天辺が平らになった岩の上。真剣な面もちで、竿を支えているのは如月統真(
ja7484)その隣で愉快そうにそれを眺めているのは帝神緋色(
ja0640)最初は
「どれだけ釣れるかな? 楽しみだね〜緋色君」
と口にしていたのに、釣りの上手な男の子って格好良いと思うよ♪という緋色の言葉に煽られて、今に至る。
(……今です)
ぐいっと竿を上げた雫(
ja1894)その先には、十センチほどの魚が最後の足掻きとばかりに跳ねていた。自らの髪の毛から器用に作り出した疑似餌により、何匹か釣り上げた後は、水面にちらちらと伺える魚が食いつく前に、釣り針に引っかけて穫れるか? という新たな挑戦を試みていた。
その成功に、普段は表情に乏しい彼女だが、心なしかその顔に喜色が浮かんでいるような気がする。
(よし! 僕も)
それを見ていた、森田良助(
ja9460)は、勢いよく竿を振りぽしょんっと放った。これも何度目かのトライだが……なかなか上手く行かない。
「この辺りなんか良さそうじゃない?」
唸っていた良助に水面から声を掛けた朔羅は、すらりと伸びた長い足が水面に浮いている。水上歩行により魚がくるくると同じ場所を回っているところを発見。
重ねて良助に手招きした。
「え、本当? どこどこ」
一旦竿を引き、身を乗り出して覗き込む。
―― ……じーーっ
竿の先に集中している統真を見ていた緋色は、ふと悪戯を思いついた。そぉっと歩み寄って、髪の間からちらりと覗いている耳に。
ふぅ
「っ!!」
声にならない声を上げて、突然立ち上がった統真。
がらりと足を踏み外す。重力に従い下へ下へと引っ張られる体、反射的に必死に何かに掴った。え、と予想以上の反応の良さに驚いていた緋色が、凄く近くに……ちか、く、
―― ……ばしゃーんっ
落ちた。
「おいっ! 大丈夫か?」
掛けられた十朗太の声は二人へではない。
ほぼ同時に、滝壺へ「ぬわーっ」と身を投げてしまったのは良助だ。
そんなに覗き込んだら危ないという暇がなかった。浅瀬で溺れることはなかったが頭の先から足の先までずぶ濡れだ。
「大丈夫だよ。僕、着替えは用意してたんだ」
ぎゅーっと濡れそぼった洋服を絞って、そういった良助に安堵した十朗太からも、それなら良かったと笑いが零れた。
「統真驚きすぎ!」
ぷはっ! と水上に上がってきた緋色は、再度統真の驚きっぷりを思い出して、くすくすと笑い、真っ赤になった統真も「もうっ!」とむくれたものの緋色のその様子に笑いが感染した。
次々と起こる水面の波紋にゆらりと釣り糸が揺れる。
(……んー、川のせせらぎに鳥の声。自然の歌は心地良いのさぁねぃ……)
岩の上から糸を垂れた九十九(
ja1149)
耳に届く賑やかな笑い声も、自然の息吹を掻き消して行くことはない。心地良く調和の取れた空間だった。
そして暫らくして、味噌の焼ける香ばしい香りと立ち昇る白煙がそれに混じった。
「川魚は内臓まで美味しいです」
という雫に同意してそのままいけるものはそのまま、抵抗のあるものへは恭弥がナイフで捌いて内臓を取り除いてくれる。
「本当は一日程は囲いに入れて、老廃物を出してからの方が美味しいのですが……」
手際良く串に刺された川魚は人数分焼かれていく。
食事のあと、着替えをしに宿に戻ったものも居たが、逃がされた魚を追うように朔羅も水に入った。
「ん。やはり、汗をかいた後の遊泳は気持ちが良いわ」
人数の少なくなった滝壺は、プライベートビーチのようだ。ぷかりと浮かんで空を仰ぐ。
水面と同じ色が見上げた先にも広がっていた。
●水辺の休息
ぱしゃんっと足先で弾く水が陽光に煌き、白く滑らかな肌の上に落ちると宝石のように輝く。
「川の水は涼しくて良いですね」
ほぅとアーレイ・バーグ(
ja0276)は息を吐き水につけた足を何度も弾く。
その震動に柔らかな胸がたゆんと揺れ、ちょ、もう、色々ギリギリな悩殺水着。非リア男子の目に留まろうものなら、滝壺の水は透明度を失い赤く染まっただろう。
そんな際どい状態であることへの彼女の自覚は全くない。
まあ、幸か不幸か今ここにはリア中と、女子しか居ないのだが……。
バシャバシャバシャバシャ
水柱……いや、水壁か。
その勢いで滝壺を割ったのは
「うーん。ふゆみってば泳ぐの超トクイ★」
新崎ふゆみ(
ja8965)だ。学校指定の水着が彼女の泳ぎを妨げない。
(あーぁ、だーりんと一緒にきたかったなぁ……、あっ、で、でも! かわいい水着買えてないもん! やっぱダメダメ!)
百面相をしながら、すい〜っと岸まで泳ぎきる。よいしょ★と両手をついて水から上がるとふと目に付くお腹。
(あと、おなかのお肉をもうちょっと落としてからぁ!)
乙女的こだわりだ。
「水が冷たくて気持ちいいわ……」
すぃと水を掻き、柊太陽(
ja0782)のところまで泳いできた桐村灯子(
ja8321)は、太陽の腕にするりと腕を絡めて立ち泳ぐ。
「そうだな……灯子疲れた? 上がる?」
抱きついてきた恋人を受け止め、太陽はそのまま岸へと泳ぐ。二人の間を撫でていく水流がくすぐったくも感じるが、離れるつもりもないらしい。
二人が数ある木陰の一つを陣取って、一休み。
ふわぁっと、小さく欠伸をこぼした灯子に太陽は瞳を細め、塗れて頬に張り付いていた灯子の髪を、そっと梳き後ろへ流した。
ぴくりと肩を強ばらせて太陽を見上げた灯子と目があって、お互いにくすりと笑みを零す。
「ひーちゃん、待って……疲れた……」
柊の肩には既に咲月の荷物が。
それでもなお辛そうな幼なじみに柊は小さく嘆息。
仕方がないなというように微笑んで、その手を伸ばした。ありがとー……と手を差し出す咲月の手を絡め取って、滝壺までの道のりを歩ききった。
咲月にとって、やっと辿り着いた先で彼女はスケッチ道具を広げ、水辺近くの岩に腰掛けた。その横に脱いだTシャツを置いて、柊は水に入る。
深いところがあるのか中央に向かって瑠璃色が濃くなり、浅瀬からの濃淡がハッキリとしている。
すぅっと大きく息を吸い込んで、潜水。
水圧に押し殺されて音がほとんど届かない。
絶えず水底に向かって落ち続ける滝の音だけが、ドドド……と鈍く響く。地味な色味の川魚が目の前を通り過ぎると、柊はくるりと体勢を変え地上を見上げた。
波紋に落ちる陽光が眩しく光り幻想的な景色を作り上げる。ハッキリと伺えない地上に輪郭が揺らいだ状態で咲月の姿も確認出来た。真剣にデッサンしているようだ。
ふっと口元を緩めて、水面へと上昇。
「ぷはっ」
「ひーちゃん……体力あるよね……」
のんびりと口にした咲月に、水の落ちる前髪を掻きあげながら柊は答えた。
「月の体が弱いだけだろう?」
●己が肉体を極める
時折水面がキラリと煌めく。
―― ……ヒュォ……
一線が走り、刹那全てが静止したように見えた。
チンと微かな音を立て、刀が鞘の中へと収まると全てのものがあるべき姿を取り戻す。
瀑布が上げる白飛沫。
理に従って落ち続ける水を見詰め、ちらと腰に留めた刀を見る。
(……悪くは無い、な)
すっと低くしていた腰を伸ばし、首肯するのは水無月神奈(
ja0914)
現地入りして特に休むこともなく、真っ直ぐに鍛錬へと切り替えた神奈は白装束に着替え滝に打たれ、心を整えて瀑布と向き合った。そこへ映る歪んだ己の姿を断ち切るように……。
そして、滝を断つものがもう一人。名を日谷月彦(
ja5877)
―― ……ゴゥッ
重厚感のある刃が滝を割る。
(まだだ明確に真っ二つに割れていない)
「……まだだ」
赤と黒の瞳が鈍く光る。飛沫と同じ色の髪がさわりと靡いた。ゴゥ……ッ……トマホークの描き出す三日月の軌跡が何度も走る。
カランっと木刀を河原へと置く。
幾度振るっても己が納得の行く境地へは遠い。己の未熟さを再確認した東郷遥(
ja0785)は滝に打たれるべく、滝壺へと戻る。打たれるならと案内されていた場所は、比較的水深が浅く、深いところでも胸まで浸かると言うこともない。
「修行……か」
木陰でスケッチをしていた梶夜零紀(
ja0728)は、滝の下へと入り、岩の上に座した遥を見て
(俺も挑戦してみよう)
という気になった。多少塗れても良いように上着は脱いで……ざぶざぶと、滝へと向かう。長年打たれ続けているのか滝の元にある岩は、比較的平らなものが多かった。
(ここで良いかな?)
ぴしゃりと水を弾いて岩の上に立つ。
バババババっ
と耳に大きな音が響き一瞬ひゃっとなるが、平常心平常心。山を背にして立ち直す。水圧が結構くる。ぶふってならないようにするのが大変なんだけど……ちらりと東郷を盗み見る。
無心だ。
(……なるほど)
如何にリラックス出来るかに掛かっているような気がする。
戦闘も同じ……極限状態であるからこそ、力を抜く必要がある。うんと一人首肯して、もう一度。そう思った瞬間、零紀は目を見開いた。
目の前にした水面がせり上がってくる。
「え……!!」
ザバァと大量の水を滴らせながら姿を現したのは。
(―― ……俺っ?!)
今度は目を白黒。
「やあ、驚きましたか? ちょっとした悪戯で……」
「うわっ」
慌てて滑って岩に尻餅を付く。いつもは冷静なはずなのだが。
零紀、割と反応が良い。
バレないように遁甲の術で水中を泳いで近寄りタイミングを見計らって、変化の術で零紀と同じ姿で現れただけなのだが……微妙にネタばらしした今の方が驚いているのは何故だ。
いやいや、そんな指差しされても。
「大丈夫ですか?」
なんだか心配になってきて、悪戯仕掛け人である田中匡弘(
ja6801)も、立ち上がるのを手伝おうと、手を伸ばす。
そして、近寄ったのと同じだけ仰け反られるのだけれど……何故だ? 首を傾げる匡弘。
ぼとぼとぼとと巨大な水滴が落ちる。
―― ……うん。ここ鏡がないから分からないよね?
あのですね、いつものアフロが超水分含んで、ドレッド崩れになってます。
マジで、ちょーっと怖いから。
(賑やかだね……)
そんな様子を見詰めつつ、ランニングを終了し水着に着替えてきた雅は、ちゃぽんっと水に浸かった。
●ピローファイター
誰が呼んだか仕掛けたか。
熱い戦いの火蓋は切って落とされた。
気がつけば一部屋に予定人数の倍ほど集まっている。
全員部屋から枕持参してきたのか、かなりの数が既に飛び交い……ぼすっ! ばすっ! と鈍い音が響く。スキルとか使ったら宿破壊しかねないから注意してくださいね!
(とりあず、眼鏡は置いて)
ことりと、安全圏と思われる場所に眼鏡避難。戦場へと振り返ったのは……クイン……のはず、あれ? どちらの美少年だろう?
「さて! 枕投げです! 日本の伝統文化ですねっ!」
力強いアーレイの宣言。
ぷるんっと揺れた胸が零れ落ちそうな……ああ、備え付けの浴衣はもっとちゃんと締めないと……色々危険だと思うのです。
「伝統的な合戦なれば、拙者、引くわけにはまいりませぬ。全力でお相手させていただきまする」
え、ちょ、合戦?! 敵も味方もないはずだが。遥は、何か勘違いを……ああっ、凄いやる気で……。
「……枕……もしかして、ピローファイトのこと?……OK、やろう」
「いっけぇ!」
***
「―― ……おや」
踊り場に設けてある長椅子に腰掛けていた紫苑を発見して楓は足を止める。
「もしかして、部屋を追い出されましたか?」
ここに辿り着くまでに、随分と賑やかな部屋があった。破壊音さえしなければ、まぁ、目を瞑っても良い程度だろうと通り過ぎてきたところだ。
「いえ、ここからは月が見えたので」
からりと手に持っていたグラスを揺らす。ふんわりと、ほろ苦い香りがした。
「ああ、本当ですね」
つっと紫苑が見上げた窓の外には、僅かに欠け始めた月が柔らかな明かりを下界へと注いでいる。
―― ……ん
内庭では、一人黙々と剣を振るう神奈の姿があった。
規則正しいその動きは、型の練習かもしれない。彼女は一心に続ける、記憶にある、姉の振るう刀の動きを思い出しながら。
(姉さん……私は…… ――)
風を切る音が、心地良くあたりに響く。構えた刀に月光が反射して煌いた……。
***
ぼすっ!!
「ぬあ」
良助の顔面にクリーンヒット。両手に枕を握っていたから防御不可。
「はっはっは、僕に枕投げを挑むというのかい。ふふふ、僕は手ごわいよ。僕のずのうわっ」
ぼすっぼすぼすぼすっ!!! 一山出来た。
クイン。前説長過ぎです。
「まだ話しの途中だよ!」
復活はぇぇ……。
枕を撒き散らしながら立ち上がったクインと共に良助も、えいえいえいえいっ! と地味攻撃を再開!
ぶふっと例え顔面に枕を食らおうとも、愉快そうなシセロ。もう、誰が誰を狙って投げつけているのかさっぱりだ。
「ふぁいあーぶれいくー!」
響いたアーレイの声に、思わずびくり。
実際は、ぽいぽいぽいぽいと枕が飛んだだけだ。
「――とか、やりたくなる衝動に……」
(勿論実行には移しませんとも)
***
ロビーの一角にあるお土産物売り場には、太陽と灯子の姿があった。
仲良くお土産を選んでいるようだ。時折、灯子が可愛いものを発見して太陽にお伺いを立てている。
店番に立っているのは夜遅いからか、女将だ。穏やかな様子でこちらを見ていた。
夢中になってあれやこれやと、選んでいる灯子を優しい瞳で見ていた太陽だが、ふと何か目に留まったようだ。
一つの髪飾りを手にとって、頬を緩める。
灯子の髪の色に似合いそうだと思った。内緒で買ってプレゼントしたときの灯子の反応を思いつくだけ上げると、益々気分が高揚する。
太陽がこっそり包装を頼むと、女将はその意図を汲み、灯子から見えないように受け渡してくれた。
***
ぼすっ! ばしっ!
もう、そろそろやめたらどうだろう?
「負けるわけには参りませぬ」
「ふふっ、この角度は予想していなかっただろ?」
●只今巡回中。
「え、怪談話のある滝ですか?」
巡回という名の散歩をしていた楓は月彦に呼び止められて話を聞く。どうやら、怪談話の真相とやらを確かめたいらしい。
月彦の問いに、観光案内図を開いて説明する。
「確かこの一番上の滝ですよ。滝の幅はあまりないですが、高さがありますから」
昼間、鴉坤が無謀にも高飛込みをした場所だ。
流石撃退士。というべきか、姫は命を落としたが鴉坤はぴんぴんしていた。
「なるほど。分かった」
頷いて立ち去る月彦の背中に、無茶はしないようにと念を押す。
そして楓は、ふと外で神奈が刀を振るっていたことを思い出し、内庭の見える渡り廊下を目指した。
―― ……がこんっ
「……待てって言ったのに何処行ったんだ?」
自動販売機から出てきた飲み物を取って、柊は廊下をきょろきょろ。
「うー……頭、くらくらする……長湯し過ぎた……」
浴場があるほうから、ふらりと唸りながら出てきた咲月は渡り廊下で
「常盤先生、発見……。何してるの……?」
「こんばんは、常塚さん。少し庭を眺めていました」
既に神奈の姿はなく、楓はそう答えてゆるりと微笑む。そして、同じ問いを掛けられた咲月は、ひらひらと片手を振って風呂からの帰りなのを告げた。
「お迎えみたいですよ?」
のんびり立ち話に興じていたが、ふと咲月が背にしている方から歩いてくる姿を見つけた。同じように相手もこちらに気がついたのだろう。足を早めて近づいてくる。
「常盤先生、今晩は」
追いついた柊と挨拶を交わす。
「あ……ひーちゃん」
「あ、じゃなくて……月。何でこんな所に居るんだ……ほら、冷たい飲み物」
「おー……ありがと……」
「あと、髪乾かさないと風邪引くぞ」
なんとも微笑ましいやり取りだ。
「それじゃあ先生、お休みなさい」
二人を見送ったと思ったら……
「トッキーこんな所にいたー★」
どんっとふゆみの突撃を受けた。その衝撃を受け止めつつ「何かありましたか?」とにこり。
「まだ、寝るには早いし〜★トッキーとお話しようと思ってー」
にこにこっと愛くるしい笑顔を振りまいて答えたふゆみに、なるほどと頷いた。
「今日もねー、旅行とか最高じゃん! ふゆみちょうらっき〜★って思って」
「私もみなさんに参加していただけて助かったのでおあいこですよ」
穏やかに答えた楓にふゆみは、トッキーちょうふとっぱらー★と重ねた。
***
同室の者が意気込んで、枕投げへと馳せ参じてしまったため、部屋に残されたのは統真と緋色だった。
「緋色君のせいだよ〜。集中してたのに、あんなことをするから……!」
ぶすーっとむくれつつも改めて口にして思い出したのか、統真は枕を抱えてゴロゴロゴロと部屋の中を転がる。
「まさか、あんなに驚くとは思わなかったんだよ……これは、僕の体でお詫びをするしかないかな……」
じりっと転がった統真の元へと膝で歩み寄り、するりと浴衣を肌蹴る(注:男です)
「照れちゃダメ……ね、よぉく見て……」
艶やかな笑みを浮かべた緋色が近寄ると、同じだけ離れる統真との、間を確実に詰めていく。焦る統真。
「ぼ、僕にそんな趣味はないよ!? ちょ、来ないでよ!?」
大事なので二度言う。どっちも男です。
薄い本のネタでもありません。
―― ……多分。
***
「ねぇねぇ、それでトッキー彼女いないってホント? 本当はいるカンジでしょ〜?」
「おや、そう見えますか? ――」
にっこりと何か続けたようだが、建物の中から破壊音が響き掻き消された。
―― ……ちーん。
枕投げ強制終了。
トッキー……もとい。常盤楓、怒るときには怒ります。
みんなの記憶に、笑顔の下に隠された怒気が一番怖いと深く刻まれる勢いで。
●外でも良いよね。
木々の間から見える星は、枝に咲いた花のようだ。
宿の喧騒を離れて、恭弥はごろりと岩の上に寝転がる。夜目を使用し、上がってきたが、あたりが静か過ぎるため、宿からの賑やかい雰囲気も完全には消えない。
それも仕方ないと、軽く瞼を落とした瞬間……がさりっと草を踏む音が聞こえた。
反射的に身体を起こして、様子を窺えば……何故かこそこそしている風に見える龍仁だ。
咄嗟に後ろに何かを隠したような気がしたが、その慌てように警戒は解かれる。
「何をしている?」
「い……いや……なんでもないぞ!」
なんでもないって、なんでもないわけないだろう。
けれど、焦る姿から、触れてはいけない何かがあるのかもしれない。そう察した恭弥はそれ以上の深入りはすることなく言及は控えた。
そして、噂のある滝が見える位置に陣取った雅は、静かにしっとりと夜のティータイム。
(そういえば……この滝壺に身を投げたお姫様の姿が見えるとか見えないとか……)
柔らかなお茶の香りを燻らせ、昼間とは違った表情を見せる滝を眺めカップに唇を寄せた。
(もし姿を見せてくれるのなら、一緒にお茶でもと誘ってみたい気分だね)
―― ……ぎゅっぎゅっ
木に縛り付けた縄が解けたりしないか念入りに確認するのは、飛び込む気満載でいる水着姿の月彦。
必ずや、幽霊の正体とやらを突き止めてやると意気込み、件の霊が落ちるのを待つ。夕時に集めた情報では、胡散臭さは隠せないが……ここより奥の地に、小さな城があったのは本当らしい。
ならば、丸っきりのデマというわけでも……ないはずだ。
月の綺麗な夜だ。
散歩道にある灯篭の明かりよりも月の方が明るい。
岩肌に沿ってとめどなく流れ落ちていく、滝は、一本、二本、三本……水の上には月光が落ち川面全体が淡く光り、山全体に幾つもの光の帯を引いたようだ。
これほど幻想的な姿はなかなか拝むことは叶わないだろう。
賑わっている宿から離れ、一人散歩道を散策していた九十九は、その声がはっきりと届かなくなる場所まで来ると足を止めた。
そして、幾つも天に向かって伸びている木の一本に背中を預け笛子を取り出す。
優しく頬を撫でていく涼しい風に、そっと瞳を伏せて構えた笛に息吹きを与える…… ――
風に乗った笛の音は、山びこの様に辺りに反響し、優麗に谷を渡る。
ぱくりと口にお菓子を運んでいた雅も手を止め、空を仰ぎ。
岩の上で寝転がっていた、恭弥も組んでいた足を組みなおし、ゆっくりと深呼吸。
明日の朝一番に、確認に来ることを誓い、餌を仕掛け終わった龍仁もふとその音に顔を上げ。
滝の上で飛び込み損ねていた月彦も耳を澄ました。
宿の傍でも
「―― ……」
ふぅ、と鍛錬にひと段落、汗を拭っていた神奈に届きそっと耳を澄ます。
館内では……もちろん、並んで正座。
お説教を頂戴していた枕投げの面々も、部屋や各施設で寛いでいた面々も、ふと窓の外へと気を逸らした。
***
「…… ――」
身を包む風は心地良く、一曲終えた九十九も細く長い息をゆっくりと吐く。
(今詠うなら……『西山爽気、在我襟袖』って所かねぇ)
●学園に戻るまでが遠足です
「こういうのも懐かしいな……」
ぽつと呟き、昨夜仕掛けた餌にくっ付いている昆虫を捕まえて籠へ。かさこそと動く音がしてまだまだ元気そうだ。帰路は少しあるが、元気でいてくれるだろう。
満足気に頷いた龍仁は宿へと戻る。
結局怪異と呼ぶに相応しい現象には出会うことが叶わなかった月彦は、僅かに肩を落とす。
あのあと「これか」と思い滝に飛び込んだものの、どこで放流したのか月明かりが大きな鯉の鱗に反射したものであったし(その際、滝壺付近にいた雅を驚かせる結果になった)それらしい妖しい光は、この時期にまだ生きながらえていた幾らかの蛍だった。
何が起こっても、何が徘徊していてもおかしくない。
そう思わせるだけの材料・幻惑的な雰囲気は確かにここにはあったと思う。
(……それなのに)
集合していた宿の前から、その奥を流れる滝を見上げる。
今日も変わらず、心地良い音を反響させて水は流れ続け涼を運んでいた。
一晩世話になった宿の女将と話していた楓が戻って点呼OK。
「全員、揃っていますね?」
では……という、合図に揃えて
「お世話になりました」
「ありがとうございました」
が谷に響く。
品良く微笑んだ女将に見送られ、また長い道のりを学園へと戻った。
わいわいと賑わうバスの中。
「女将さん、お姫様みたいな人だったよね」
「直系かどうかは分かりかねますが、廃城の関係者ではあるようですよ」
誰の声か聞こえた台詞にハンドルを握っていた楓が答えた。
え、と月彦は振り返る。
女将はまだ静かに手を振っていた。
白滝の宿。
また涼を求めて訪れるのも良いだろう…… ――