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それは何処にでもある住宅地の、取り立てて言う物もない極普通の一軒家。
近隣の住民には避難勧告を通達した為、付近は静まり返っていた。
玄関の前にひとり位置した森田良助(
ja9460)は、軽く息を吸い込んだ後、ゆっくりとチャイムを押す。
扉の奥からその音が聞こえたが、誰かが此方に来る気配はない。
速やかに阻霊符を取り出し、両手の甲に赤光を放たせ光纏したと同時にその効果を顕にすると、扉に下ろされていた錠をその能力で以ていとも容易く解いた。
この間にも他の気配は感じられず、良助は用意しておいた無線機に向けて静かに声を放つ。
「玄関に異変は今の所なし。このまま侵入します」
合わせて突入する、その合図を。
荒れた庭に面した大きな硝子窓の向こう側はリビングだが、隙間なくカーテンで塞がれている為に様子を窺う事も出来ない。
雨宮 祈羅(
ja7600)は、この奥に居るだろう偽りの存在に警戒心を強くする。
敵か味方かも分からないが、確かなのは今も少年を欺いている事だ。目的が何であれ、それは許されざる行為だ。
ザ、と小さなノイズが鳴った。
同じように庭で待機していた鈴代 征治(
ja1305)が無線機の声を聞いて頷いた。
突入の為、己の背丈よりも倍近くある斧槍を硝子窓に向けて大きく振るう。
庭とは反対側には三名が待機していた。
二階にある救出対象の少年の部屋を見上げても、カーテンの所為でどのような状況になっているのか分からない。
「これは、何か裏があると見ていいね」
虹彩の異なる眸を細め、グラルス・ガリアクルーズ(
ja0505)は柔らかな声を零した。
「得体が知れないな……」
この静寂が異質さ表しているようで、月詠 神削(
ja5265)も思いを巡らせる。
何らかの企てがあるのは確実だろう。一般人の手による可能性は低いと状況が物語っているとはいえ、救出する少年以外に人間は居ないと断言も出来ない。
「――開始だ」
傍らに幼体の蒼黒の馬竜を従えた石動 雷蔵(
jb1198)が、無線からの言葉を受け短く告げた。
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光源が断たれた玄関は、予想していた通りに暗い。
そして廊下のあちこちに投げ出されているゴミの所為で臭いも酷く、広いとは言えない足場を更に狭めているように感じた。
暗視ゴーグルで視界を確保した良助は、如何なる物音も聞き漏らさぬよう聴覚を研ぎ澄ませていく。
左右から硝子の割れる音が痛い程に鼓膜を震わせる。
陽動として自分に注意を向けさせる音を立てたかったが、少し遅かったか。
どうすべきか――考える前に、視界に動くものを捉えて身構えた。
宙に浮く炎塊のサーバント、ウィルオウィスプが良助を認識してゆらりと炎を大きく揺らし、彼目掛けて突進する。
炎体が身に届くよりも早く良助は自ら距離を詰め、雷光を冠する黒鎖分銅を鮮やかな手捌きで振るう。鎖の両端に付いた小刃は、まるで意思を持ち食らい付くように炎を切り裂いた。
噛み千切らんばかりの猛撃は、だが一撃で仕留めるには僅かに足りない。
炎塊は鎖から逃れた瞬間、至近距離からその身体を叩き付ける。咄嗟の事に避け切れず炎ごと肩に食らったが軽い火傷程度だ。
一歩退いて小刃を一閃させれば、今度こそ炎は力尽きたように消え去った。
良助は小さく息を吐き、燻る肩を軽く払う。あの炎はゴミに燃え移る可能性もあった。この状況での引火は危険ではないだろうか。
抱いた危惧を皆に伝えるよりも先に、
「――誰です!」
人影がひとつ、狭い廊下の奥に見えた。
(まさか、親類の男?)
だとしたら聞き出したい事は多い。
無線で応援を呼ぶ事も視野に入れ、様子を窺う。
『っひ、ひひっ』
薄笑いでこちらを見る瞳は、正気が残っているようには見受けられない。何よりも地に着かぬ浮遊した足が人ではないと告げていた。
せめて話が出来ればいいが、狂気を滲ませた笑みと共に短剣を握る者に何処まで通じるか。良助は己が手で事を為すべく黒鎖分銅を構えた。
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踊り込んだリビングもまた、ゴミが散乱していた。積み上げられているのではなく、無造作に投げ捨てられたようだ。
征治の視界の端に、炎の輝きが揺れた。
躊躇なく距離を詰め、長斧槍の間合いに入った瞬間に走る勢いを乗せて槍部で突き立てる。
少し遅れて室内に踏み入れた祈羅は、交戦の更に奥で動く人影を認識した。
あれが少年を留めている『家族』?
ウィルオウィスプの存在と逡巡したのは刹那。
艶やかな黒から色が薄れて茶に変わった眸が定めたのは、薄暗がりで物も言わずに居る『家族』。語る口を持っているのなら、巡らせる思考があるのなら、捕らえて情報を引き出す事も出来る筈だ。
何もなかった人影の周辺に、異界を繋げる点を作り出す。そこから何者とも知れぬ腕がひとつ現ずると、爆発的に次々と腕だけが顕現し、人と思しき者へと手を伸ばしていく。
『アァア――!!』
腕を、胴を、搦め捕るように異界からの手が拘束していく中、人影から発せられたものは女の嘆嗟。
言葉にならぬ悲嘆の声は、次の瞬間に人ではないものと知る。
張り上げていく音は、瞬きひとつの間で耳をつんざく悲鳴と化した。いつまでもいつまでも終わらない、途切れない怨嗟の声が人間からのものである筈がない。
耳を塞ぎたくなる音へ眉を顰めた征治の腹にウィルオウィスプが突っ込むが、寸前で槍の柄を盾にする。あまりに長い得物は閉所では思うように動かす事も叶わず、距離を取り直して再度刺突する以外の手段がなかった。
騒音としか言えない声に目を細めた祈羅が鋭い氷の錐を作り出し、弱々しくなった炎塊を貫く事でウィルオウィスプは漸く消え失せた。
だが女の声は止まない。
異界の手を振り解こうともがく姿をよく見ると、確かに女の形をしているが、頬がこけるまで痩せて赤い眼を見開いた様子は生を感じさせない。まるで死霊のようだ。
(利くかどうか分からないけど、今の内に!)
束縛していられる時間は短い。
祈羅は暴れる女に触れ、過去三日、経験した事を知るべく共鳴の能力を発動させる。
それは、同じ事を繰り返すだけの日々。
一日三回の【食事】を、封を切るだけで済ませるレトルト食品でひとりぶんだけ用意する。
それを同じような風体の女が何処かへ運んでいく。
繰り返し、それだけの。
ただ【侵入者は排除する】という意志だけは何とか汲み取れた。
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二階の少年の部屋に向けて、外側からグラルスが深い眠りに誘う霧を作り上げていく。
一拍の間を置いて神削が助走もなく跳躍し、部屋の硝子窓に飛び込んだ。
「――っ!?」
派手な音を上げて室内に入った瞬間、慌てて身を翻す。
窓際にくっ付ける形でベッドがあり、そのすぐ傍に女が居たのだ。
咄嗟に着地点をベッドから外して転がり込むが、女は反応しない。
眠りの霧が効いたのかと息を潜めて観察するが、乱れた髪に生気をない痩せこけた白い肌、簡素な衣服を纏っただけの姿だ。人間と判じられるものだろうか。
女の足元には、空になった食器。
もし人でなくとも、少年の面倒を見る知能はあったと見える。
「巧く効いたみたいだな」
グラルスが深い眠りに就いた少年を抱え、スレイプニルに乗り窓の傍で待機していた雷蔵に引き渡す。
此処を離れて医師に委ねれば、悪夢から覚まさせる一歩となる筈だ。
『ア、うァ……』
少年が離れる時間を稼げたのは僥倖と言えよう。
女への警戒を決して解かなかった神削が、記号の刻まれた布を纏わせた拳で構える。
女は矢張り、人ではなかった。
彼の姿を見た瞬間、金切り声を上げて喉笛に噛み付こうとしたのだ。
敵意が剥き出しの相手に遠慮は不要だろう。
間近に迫る女を払うように受け流した神削は、間髪を容れず迅疾の光拳を腹部へと重く叩き込む。
「灰簾よ、弾けろ」
半透明な青紫の結晶が、グラルスの詠唱に応じて氷雨の如く女に撃ち付け、貫いた。
それはほんの一瞬の出来事だが、全てが苛烈だった。逃れる術もなく女は崩れ落ちる。
「俺は残って、この家を調べる」
「分かった。気を付けて」
留まる者に頷き返したグラルスは、無線機で少年の救出に成功した事を仲間に報告する。
目的は少年であり敵の殲滅ではないとして、成し遂げられれば撤退する事になっていた。
そうしなかったのは、神削ただひとり。
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少年を抱えた雷蔵は宙をスレイプニルで駆り、早々と家から離脱する。
まだ幼いとはいえ、腕に抱く子どもの身体は酷く軽い。
(この子も、俺と同じように家族を目の前で……)
焼き付いて消えない過去の記憶は、少年と同じものではない。もしかしたら自分と重ね合わせた同情かもしれない。
けれど痛みを知るが故に、放ってはおけなかった。
少年の全てを喪った立場を、心に大きく開いた穴を、人ならざる者が利用しているのなら尚更に。
少し離れた場所で手筈通りに停車していた救急車を見付けると、雷蔵は蒼黒の馬竜をその傍に止め、隊員に少年を預けて自らも乗車する。
サイレンを鳴らしながら向かう先は、事件が起きるまで少年が居た病院。
敵の目的が少年なら、経路で襲われる危険性も考えられる。雷蔵が同乗するのは護衛の意味もあったが、妨げるものは居ないようだ。
スレイプニルで空中を駆けていた時は、事前に避難するよう伝えていたにも拘らず遠巻きに様子を窺う野次馬がちらほらとだが見受けられた。
(このまま何も起こらず終結してくれればいいが)
病院に搬送された少年は、目覚めぬまま応急処置が施された。
ざっと診ただけでも酷い食生活による栄養失調とストレスで退院した時よりも悪化している、と主治医は告げる。命に別状はないが、当分は入院して安静にしなければならない、とも。
雷蔵は困惑気味の医師に、少年が偽りの親類によって退院してからの一ヶ月間はおそらく軟禁状態であった事、本当の親類が少年の救出を撃退士に依頼してきた事を説明した。
詳細な状況を知り当惑の色を深めた医師と看護師に、お願いがあります、と雷蔵は続ける。
「あの子が、偽りの親類に引き取られて過ごしていた時間が、夢と思えるように……ずっと入院していたと、長い間眠っていたと思わせたいんです」
一家心中ですら夢の出来事だと、関係者全てが少年にそう思わせたかったのだ。
それは、と呻くように声を漏らす医師に、雷蔵は深く頭を下げる。
「あそこまで衰弱しているあの子が今事実を知れば、きっと心が保たない。……どうか、協力して頂けませんか」
病院側は、即答しなかった。出来なかった。
それを為すなら多くの人の協力が不可欠であり、時間が必要だからだ。
ただ、雷蔵の危惧する事も理解し、事実は隠蔽して当面の治療にあたることを約束してくれた。
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良助が対峙した短剣を持つ男に手傷を負わせる事は出来たが、狂気に染まった言動から情報は何も聞き出せなかった。今も一階を徘徊しているようだが、何故か外まで追って来る事はなかったという。
祈羅が女に触れた事で感じ取れた【侵入者の排除】は、家から離れる事で対象外となるよう命が下されていたのか、知恵が回らなかっただけなのか。
女は征治と共に倒す事が出来た為、敵がこれ以上潜んでいないのだとしたら狂った男しか居ない事になる。
皆が撤退しても神削が残ったのは敵の殲滅も担う為だ。警戒を強めながら今居る部屋を見回した。
少年の部屋を出た後、姉の部屋と書室を軽く調べたのだが。
(どういう事だ?)
他は荒れているのに、この書室だけがやけに綺麗だ。
物置も兼ねていると聞いていたが、あまりに何も無く、やけに広く感じる整然とした様子に違和感を抱く。
だが、それだけだ。
推測するにも手掛かりもない以上、此処に居るだけ無駄だろうか。神削が部屋を出ようとした、その時。
バタン。
耳に届いたその音は、玄関が閉じたものではないか。
階段を下りようとした彼の目に映ったのは火。散乱したゴミが燃えていた。玄関、廊下、そこから続く部屋にまで至っているのではないだろうか。
乾燥していたとしても火が回る速度が普通ではない。これは――
「撃退士のお手並み、見事でした。お蔭で色々な事を学びましたよ」
知らぬ男の声がリビングの方から聞こえた。
皮肉気なその言葉は、神削だけに向けたものではないのだろう。であれば、奴が親類を語った男か。
企みを聞き出すべく手摺を飛び越えて距離を縮めようとしたが、ほぼ同時、間に割って入ったのは一体だけ残されていた狂気に染まった者。
「撃退士の方々にはあまりお会いしたくないですね。次は巧くやるとします」
「待て――!」
ひとりだけ残った事が仇だったのか。ひとりだったから奴が姿を見せたのか。
分かった事はただひとつ。
同じような事が繰り返される可能性だった。
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病院が用意した個室で、祈羅はベッドの上に投げ出された少年の手にそっと触れる。
(家族を大事にしていたんだよね)
流れ込んでくるものは、泣き叫んでも誰も応えてくれない恐怖。声もなく傍に居てくれた誰かへの戸惑い。考えたくもない絶望。でも此処に姉が居るなら『大丈夫』という安堵。
喪う事は辛いし、痛い。
けれど、いつまでもその中で踏み止まっていてもいいのだろうか。
(幻覚に逃げてたら、君に幸せになってほしいってきっと思っていたお父さんの祈りは、届く?)
祈羅と入れ違いに病室へ姿を見せた征治は、ゆっくりと少年の元へ歩を進めた。
薄く目を開いているのは、眠りから覚めたからか。しかし足音が聞こえる筈なのに何の反応もない。
「……これから話すのは、とても辛くて哀しくてどうしようもないけど、とても大事なことなんだ」
だから最後まで聞いて欲しい。
病室に響く声への反応もなかったが、征治は構わず言葉を続ける。
君の家族は、君を残して命を絶ったんだ。
お父さんが君の首に手を掛けたのは、ひとり残されるのがかわいそうだと思ったからで――
でも、出来なかった。君の命は絶てなかったんだ。
僕は、それはきっとお父さんの本当の心だって思う。
君に生きて欲しいから。
どんなに辛くても、生きてさえいれば、幸せに笑える日がいつかまた来るって。
……だから、君には幸せになってもらいたい。
それが、皆の願いだと、祈りだったと思うから。
薄く開いている少年の瞳に、光はない。
征治は少しの時間を置いて、言葉を願いに変えて紡いでいく。
先に亡くなってしまった家族の分まで幸せになって、早とちりしちゃった皆に、どうだ参ったか、って言って欲しい。
何も見たくない、歩きたくない気持ちは、僕には想像する事しか出来ないけれど。
それでも君は、皆の為に――君自身の為に、進まなくちゃいけないから。
少年は、何も見ず、何も返さなかった。
けれどもきっと届いたと信じて、征治は扉へと歩き出す。
部屋を出る前に振り返った先には、ひとしずくの涙を零して眠る少年の姿があった。