●美食家の一驚
寒気が幾許か和らいで暖かな陽射しを見せた、とある日。
久遠ヶ原学園の一室に集まった者たちは、依頼主である高草木タケルにひとつの提案を聞かせていた。
「はあ……野菜の収穫、ですか」
そこから始まるとは微塵も考えていなかったのだろう。彼は目を瞬かせて首を傾げる。
「自分でとってきたのは、すっごくおいしいんだよ」
「農家の方には連絡してありますから、タケルさんさえ良ければご同行をお願いします」
無邪気そうな笑顔を浮かべて説明する真守路 苺(
jb2625)の言葉に、クリフ・ロジャーズ(
jb2560)も眼鏡の奥で目を細めて微笑む。
「今日はお鍋を作りますので、是非高草木さんにも調理など準備にご一緒していただきたいです」
味付けの好みなどもお尋ねしたいですから、と鎭守 永久(
ja0270)がこれからの予定を口にすると、成る程と得心が行ったようにタケルが頷いた。
「私にどこまで出来るか分かりませんが、頑張ってみます」
「高草木さんにも楽しんでもらえれば、と思います……」
自分のサイズより大きなベレー帽で顔を隠しながら、おずおずと桜庭 ひなみ(
jb2471)も声を掛ける。彼女自身にとっても、料理について学ぶ機会になるのではないかという考えもあったのだ。
「収穫している間、ボクたちの方でも準備は進めておくから、急がなくても大丈夫だ」
水鏡(
jb2485)の清澄な瞳がタケルを映すようにじっと向けられる。
思わずたじろいでしまった彼の背中を、穂原多門(
ja0895)が軽く叩いて笑ってみせた。
「貴方にとって一大事だ、俺たちも全力を尽くさせてもらう」
その巨漢からくる頼もしさからか、タケルは少し安堵したように小さく息を吐く。
「……皆さんに全てお任せします」
そして、改めて宜しくお願いしますと頭を下げたのだった。
「それじゃ、あたしたちは家庭科室で準備かな」
「はい。鍋だけというのも何ですから、箸休めになる物も作りますね」
収穫に向かった者たちを見送ったユリア(
jb2624)が歩き出すと、或瀬院 由真(
ja1687)も頷いて調理場に向かう。
永久も彼女たちの後へと続きながら、どうすればタケルの悩みが解消するのか思案する。
料理はただ食べるだけのものではなく、目と舌を経て、篭められた心を伝える手紙のような交流だ。
それが食べる人に通じると、永久は胸がほんわり温かい気持ちになる。
なら自分は心を尽くそう。
幸せな気持ちになれるように、そして楽しんでもらえるように――。
作ろうとしている料理は鍋だが、必要な物がもうひとつあった。
食べる時に皆で囲める炬燵だ。
美食の限りを尽くしたという依頼主が求めているのは何気ない料理であると同時に、仲間と賑やかに食す雰囲気ではないだろうか。だとするなら、本人はそれに気付いていない。
そう推測する多門は、九人全員が一緒に食べる事の出来る場所を探す。
この冬という時期に、温かい鍋料理だ。炬燵も加われば家庭的で日本人らしい空間となるだろう。
となると、やはり畳敷きの部屋が好ましい。
事前にクリフが今日空いている茶道室を見付けてくれたお蔭で、後は交渉するだけだ。
教師に事情を説明すると快く部屋を提供してもらう事が出来、多門は室内が炬燵を設置するに充分な広さである事を確認する。
「さて、次は……」
その肝心の物は、というと。
「勿論、タダとは言わない。その炬燵を貸してくれたら――」
艶やかに微笑んだ水鏡が自身の胸元に手を伸ばすと、「ええっ!?」という喚声と「おおっ!」という歓声が交じり合った。
彼女は豊満な胸の谷間からスルッと出てきた十枚の紙を、健全な男子生徒の前でひらりと揺らす。
「この学食無料券、十枚組をあげよう」
どちらかと言うと少年たちの視線は胸へと向かっているのだが。
更に言うなら、水鏡の腰の括れだとか、大きくスリットの入った服から露出している脚だとかにも視線は集まる。
そんな妖艶なる女性に見詰められると、彼らだって頷く他ないではないか。だから後日渡された食券が期限切れだと気付いても、瑣末な事になっていたという。
数ある部室を回っただけあってかなり大きな炬燵を調達出来た水鏡は、多門に運んでくれるように連絡を取る。
彼女なら無理でも、巨躯と膂力をを持つ彼なら、力仕事は御手の物だろう。
残りは、食材だ。
●美食家の疲労
農家の元へ辿り着いた者たちは、広々とした畑へと案内されていた。
「必要な野菜は、白菜にネギ、人参、それとホウレン草です」
「そ、そうですね。今が旬の、野菜ですし……」
何処となく途方に暮れているタケルに、そんなに沢山は採りませんよとクリフは言葉を加える。細い身体のこの美食家に体力は期待出来ないと承知の上での申し出だったのだから。
「ましゅろはここでおうえんするね! おやさいさんがまってるよ、がんばれ!」
そんな二人よりも更に小柄な苺は、おくつがよごれるから、という理由で畑の外からの応援だ。
繊細なフリルやリボンが重なった白のロリータファッションで畑の傍に立ち、ピンクのメガホンを手に全力で応援するその姿は、場違いのようにも思える。
けれど可愛らしい彼女に精一杯の声援を送られると、頑張らない訳にはいかない。
顔よりも大きくずっしりと重い白菜ひとつを穫り入れるのにも時間がかかり、何をするにもクリフの手を借りる事にはなったが、不思議とタケルの表情には笑みが浮かんでいた。
「これで全部です、お疲れ様でした……大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫です」
見るからに立っているのもやっとの様子のタケルを案じ、クリフは収穫したばかりの野菜を入れた袋を担ぐ。
「この後、タケルさんにも料理の下拵えに参加してもらいたかったんですが、お疲れのようなら……」
「い、いえ。やらせてください」
無理には言いませんから、と続ける前に返答が来る。
「……分かりました。でも少し休んでからにしましょう」
クリフが犬歯を僅かに覗かせる笑みを浮かべると、タケルも釣られて微笑んだ。そこに、
「疲れたー。たける、おんぶしてー」
苺がぺたっとくっついてきた。
幸か不幸か、身嗜みを気にする性分であった美食家の服はあまり汚れていない。
「いいでしょ。おやさいさん、くりふがぜんぶもってるもん!」
「わ、わかりました」
こうして休み休みの帰路についた収穫班は、予定より少し遅れる事になるのだった。
「えっと、魚介は海老と鱈、蟹にハマグリ。野菜は春菊に蓮根に……」
「デザートのみかんも忘れないようにしないといけないな」
収穫する野菜以外のものを買い出しに向かったユリアと水鏡は、食材リストを確認しながら魚屋と八百屋を巡る。
材料費は依頼主や学園側が負担するのだが、ユリアは高級な物は避け、店先に並んでいる物を吟味していく。
「美味しさを感じなくなるとは不思議なものだな。ボクは色々な物がどんな味なのか興味深いんだが」
悪魔である水鏡にとって、食事は冥界で暮らしていた頃の娯楽のひとつだった。その為、人間の事はよく分からなくても、料理の知識は有している。
「家庭料理だと、高価すぎる材料は使わないからね」
同じ悪魔でもユリアは人界に対しての知識は深く、料理もまた好んで作っていたので中々の腕前だ。
食材をその目でじっくりと見て、新鮮で味の良い印が出ているものを選び出せば、金銭はかけずとも好味の物は沢山ある。
「本職の料理人が作るのとは違った方向性の、美味しい料理にしたいね」
目指すは『普通』で美味しいもの。
腕に縒りをかけて作らなければと、ユリアはひとつひとつ丁寧に選んでいく。
●美食家の追憶
食材が揃うと、家庭科室の賑わいが増していく。
ひなみと苺は、食器を茶道室へと運ぶ為、行ったり来たりの繰り返しだ。
「えっと、おちゃわんがきゅうこでしょー」
「ま、ましゅーちゃん待ってください。ゆっくり持たないと落としちゃいます……」
「ねえ、ひなみ。ましゅろ、フォークでもいいかな? まだおはし上手にもてないから……」
落ち込む様子を見せる苺に、大丈夫ですよ、とひなみはフォークを探し出してふんわり微笑む。
姉妹のように仲良く話をしながら食器が運ばれていく傍らで、鍋の用意も着々と進んでいく。
「ええと、材料を切るんですよね」
ぎこちなく包丁を手に取るタケルに、永久は抜き型を差し出す。
「華やかになりますから、人参はこれで抜きましょう。高草木さんのお好みはどんな形でしょうか?」
それではと花弁と梅の型を選んだタケルが人参と格闘している間に、由真はさっぱりとした食欲増進に繋がる一品料理を手際よく作っていく。
辛子を仄かに利かせたカブの浅漬けは早めに下拵えをして味を馴染ませる。香りの強い春菊は微塵切りにしたにんにくで炒めて、香りが出てきたら完成だ。
「高草木さん、次は白菜をお願い出来ますか?」
「は、はい」
人参を抜き終えた事で気持ちが落ち着いたのか、タケルはゆっくりとだが由真に教わる通りに白菜を切っていく。
「高草木さんには、何か思い出のある食べ物がありますか?」
おひたしにする為の分を取り分けながら由真が口にした言葉に、タケルは顔を上げる。
「思い出……ですか?」
「些細な物でも良いのです。何か心の中に残っている品があれば、教えていただけませんか?」
思い出、とタケルは手を止めてもう一度小さく呟く。
彼が返答するまでには、隔てられた記憶を喚び起こす時間を要した。
やがて、ぽつりと、今まで考えた事がなかったのは不思議ですね、と声が零れる。
「ロールキャベツでしょうか。母が作ってくれた物は醤油で味付けされていました。今思えば一般的な物と外れている筈なのに、味が思い出せない……」
もう届かないものへと滲ませた苦笑を見て、クリフは彼が幼少の頃に家族を亡くしているという情報を思い出した。
もしかしたら彼は『家族でご飯を食べる』という思い出が少ない為、それが遠い事のかもしれない。
なら今日集まった皆と一緒に料理を食べながら、追懐や、今日あった他愛のない出来事を話したりする事で思い出せるものもあるのではないだろうか。
『皆で食べるご飯は楽しくて、美味しい』ものだと。
「それが分かった事で、貴方の求めていたものに近付いたのかもしれないな」
多門もまた、皆で賑やかに食卓を囲んで楽しみながら食べる事が解決法だと考えていたひとりだ。
共に食する事の出来る仲間の存在に勝る調味料はないと、信じているが故に。
「すごーい! こたつおっきかったー!」
静まり返りそうになった家庭科室に、興奮気味の苺が飛び込む。
「ましゅろがもぐっても、だいじょうぶなくらいおっきいの!」
「ましゅーちゃん、炬燵を見たらお鍋がもっと楽しみになってみたいで……」
少し遅れて戻ってきたひなみは、先程までと場の空気が変わったように感じ取ったのか、思わずベレー帽を目深に被る。
「あ、あの……どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありませんよ。もうすぐご飯の用意が整います」
咄嗟に出た言葉と共に永久が微笑むと、タケルも同じように笑った。
「食器はもう運び終えたか? まだなら急がないといけないな」
何しろ七人がかりの準備だ。整うまで時間はかからないと水鏡も笑みを零してひなみたちを見遣ると、食器係たちは慌てて運んでいくのを再開したのだった。
●美食家の破顔
具材がぎっしりと詰め込まれた大きな鍋が火にかけられると、やがてくつくつと音を立て始める。
タケルの好みに合わせた薄口の醤油と鶏がらで作ったスープが煮立ったところで、魚介、鶏団子、野菜を入れていく。アクを丁寧に取っていき、もう少し待てば完成だ。
刻まれた蓮根が入っている鶏団子、海老や鱈に蟹とハマグリといった魚介に加え、旬の新鮮な採れたて野菜がそれぞれに溶け込みあって味に深みを出していく。
「いただきます」
「いただきます!」
永久が食べ物への感謝を篭めて手を合わせると、皆もそれに続いた。
それからは思い思いに箸を伸ばし、口へと運んでいく。
「つけだれが足りなくなったら、いろんなのあるからね」
好きな味で食べられて飽きないようにとユリアが用意したタレは、定番のポン酢や生姜醤油、紅葉卸しや刻みネギの薬味など揃えられている。
由真が作っておいた春菊の炒め物やホウレン草と白菜のおひたし、カブの浅漬けの小鉢も口直しに最適だ。ユリアも自作の春雨のサラダの小鉢を出して、彩りと味を加える。
食が細くなっていたタケルのペースは緩やかだったが、それに合わせるように今日この日あった出来事を話題に、ゆっくりと食事が進められていく。
突然野菜を採りに行くとは思わなかった。
茶道室で鍋なんて考えもしなかった。
皆が料理を作れるようなのに自分だけが出来ないのも恥ずかしかった。
依頼主からの言葉は、常に笑顔で語られる。
それに応える皆もまた、笑顔で返していく。
この場にあったものは、何の変哲もない日常にある光景と何ら変わらないだろう。
ただ、それに気付けた者がひとり増えた。
皆で食べる事が楽しいのだと、ただそれだけだったのだ。
「皆さん、ありがとうございました」
締めの雑炊が振る舞われた後、タケルはもうこれ以上は腹に入らないと嬉しそうな顔で言ってから、深く頭を下げた。
「た……高草木さん。えっと、今日、楽しかったでしょうか?」
少しだけ躊躇いながら問うひなみに、彼は大きく頷いて「とても」と一言加える。
「ボクもこっちの世界に……最近になって分かった事だが、こうやって会話を楽しみながら食べると雰囲気も併せられてより美味しくなるから、料理が完成するんじゃないかな」
「うん、『おいしい』は『たのしい』とセットなんだよ。たのしくなきゃ、おいしくないんだよ」
水鏡と苺の言葉にも、タケルは何度も頷く。
どうしてこんな簡単な事が分からなかったのだろう、と。
「貴方が本当に欲しかったのは、こうやって食卓を囲む仲間だったのかもしれないな」
穏やかに笑う多門に、作り損ねた笑みで「ありがとうございます」としか返せないタケルだが、永久にはそれが幸せを思い出せた表情に見えた。
「……最初は、撃退士の方々に、こんな私的な依頼をするのはよくない事だと思っていたのですが……」
彼が頭を上げると、蟠りが消えた欣快の顔があった。
「美味しかったです。本当に、心から」
その言に、クリフはほっと息を吐いて目を細める。
自分たちが作った料理も雰囲気も間違っていなかったと、ユリアも朗らかな笑顔を見せる。
「高草木さん。お話いただいた品を作ってみました」
由真が、どうぞお持ちください、と弁当箱をそっと差し出した。
思い出として口にした、醤油味のロールキャベツだ。
「美味しく食べる上で重要な事――思い出せて、良かったです」
それはきっと、幸せを噛み締めるのと同じ事に違いない筈で。
そこに、皆の笑顔があった。