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久遠ヶ原学園敷地内、某所。
多治見から訪れた企業撃退士・夏草 風太の案内で、数名の学園生がその場所を訪れていた。
時間に制限は設けられていない。
対話の時間は、こうして始まった。
●新しい風
「よう、死因ハリセン」
軽いノックのあと、ゼロ=シュバイツァー(
jb7501)が不敵な笑みとともに姿を見せる。
椅子に浅く座り、何かの本を読んでいた天使カラスは顔を上げると困ったように笑いを返した。
「その節はどうも」
ゼロは、良かれと思ったのだ。
カラスにより大切な存在を奪われた少年の気が、少しでも晴れればと貸し与えたハリセンは、魔具ゆえにゼロが手を添える必要があった。
「カオスレート補正を忘れとってな」
「それで散々わたしに落とされたのに?」
「やかましいわ。……元気そうやな」
結論を言えば、その一撃でカラスは重体の憂き目を見た。それほどに、今の彼はフィジカルに弱っている。
軽い掛け合いをしてから、ゼロはカラスの向かい側に座る。
小さなデスクを挟んでの距離は、思いのほかに近い。
「ザインエルは、死んだで」
そうして切り出した一言に、カラスの肩は僅かに震えた。それは本当に小さなもので、一瞬の表情も長い髪に隠れて見えなかった。
少なからず、心に揺れが生じたようではあった。
「お前に隠し事してもしゃあないしな。ある程度雰囲気で察しとるんかもしれんけど……ま、そういう事や」
「……そう、か。いや……事務的な報告で知るより、よほど嬉しいよ」
額から髪をかきあげ、天使が微笑する。さすがに強がっていることはわかる。
「ひとつ、気になっててんけど」
「うん?」
「多治見に置いてった剣は、ウルの墓標……って事はないんよな」
「まさか」
ウルに、心いくまでの決闘を。その舞台を。
そのための情報提供と、信じてもらうための証としてカラスは自身の命の支えにもなりうる剣を託した。
自衛の術が施されたそれは、今は多治見の街を守る形となっている。
「わたしの言葉を信じてもらうための最善の誠意だと思ったんだけどね」
「そういう奴やったな、お前は」
こちらから対価を求める前に差しだす。
いつぞや、山中で遭遇した時だってそうだった。
「んじゃ、あとは気にすることもないな。――『新しい風』の企画書や」
スッキリした表情で、ゼロは抱えていた封筒から紙束を取り出した。
「正式なスカウトや。一緒にやらんか? ここで強引に連れてってもええんやけど、見張りおるしな」
カラスはデスクへ置かれたそれへ視線を落とし、ゼロへと戻し、しばし沈黙し、
「律儀だね」
「ネタ振ったんは自分やろ!!」
こらえきれずといった風に笑い出した天使へ、ゼロは神速でハリセンを抜くとデスクを叩いた。
※本人へツッコむと死亡の可能性があることは学んだので。
「丈夫な机やな!?」
魔具やでこれ。加減はしとるけど。
「一応は軟禁場所だから、それなりにね」
ゼロへ応じながら、カラスは企画書を読み始める。
ゼロ=シュバイツァーが久遠ヶ原学園を卒業後に、考えていること。
現在の状況――どういった計画順序を立て、どこまで準備を進めているか、どういった能力を持つ仲間がいるか。
そこには明確なビジョンが描かれていた。
「あ。上司部下やなくて共同経営者的な発想なのであしからず」
「誰が誰の部下になるかと思えばぞっとする」
「笑っとるやないか」
「感心しているんだよ」
読み進めるうちに、手が止まる。
「経理」
「せや。体動かないなら頭を動かせ。得意やろ、ちっさい計算」
自身へ割り当てられた役職へ辿りつくと、カラスは真顔になる。
「資格が必要だね……」
「真面目か。ここにいる間に問題集を山積みしたるわ」
「『天界へのルート構築』というのは?」
「堕天してへんのやったらゲート開くくらいできるやろ。ゲートやなくてもええ、なんかこう……強引に作れ」
「アバウトだな。さすがに今の力では無理かな」
「……俺は堕天は薦めへんで」
「何故?」
「持っとる力を、わざわざ落とす必要なんてない。取り戻す手段かて何かあるはずや。諦める必要はないと思うとる」
ゼロは以前も、同じことを口にしていた。
「……わたしは」
――尊い人間の命を、わたしたちは糧としている。奪ったことをナシにして、協力してくれとは言わないし思わない
それもまた、かつてカラスが口にしたこと。
「天界の時の流れにおいて、ほんのわずかな間に方針は塗り替えられ、従えと指示が飛ばされ、誰もが命を懸けてきた。
辺境とされてきたこの地球で、『ほんのわずかな時間』にどれだけの天使が命を落としたか。命懸けで従ってきたか。
それを手違いでしたで受け入れるほど……わたしは わたしたちは なんのために」
『手違い』に巻き込まれた人間たちだってそうだ。撃退士もいるだろう。
「そんじゃ、どないする? 俺らと一緒に罪滅ぼしに人助けをするか、俺らと一緒に自由に生きるか?」
「……一択かい」
震える声で感情を吐露した天使へ、ゼロはあくまで悪戯っぽい調子を崩さない。
「今の戦いが終わるなら、きっとその後は味方と思われる天魔、覚醒者とかが煙たがられる可能性が高いやろ。そんなら、『何か』を起こすなら今やと思う」
「力を持ちすぎる異端は、いつの世もどの世界でも煙たがられるからね」
「そうならない世界にしたい」
「なるかな?」
「するんや。誰の手でもない、俺たちの手で。誰の命令も受けず、自分たちの意思で。面白そうやないか?」
「…………今は、まだ」
「……まずはソレ読んで、じっくり考えといてくれ。お前の案も聞いてみたい」
選び取ったはずの道、主、ザインエルの死を聞いた直後に大きな決断を迫るのも酷だろう。
少なくともゼロが知る限りの『カラス』らしくない感情的な発言から察し、それ以上は求めるのを止めた。
「ぜーんぶ話が終わったら、外でタコパすんで。久しぶりの神のたこ焼き、楽しみにしとけ」
●翼は風を巻き起こす
今回の依頼が斡旋所に張りだされ、参加申し込みを済ませた緋打石(
jb5225)は、その足で友人である少年堕天使ラシャの教室を訪ねていた。
「……カラス、と?」
「そうじゃ。ラシャ殿から、何か言いたいことはないか? 自分の同行者として面会できるよう承諾は取ってきた」
唐突な提案に対し、ラシャは赤褐色の瞳を丸く見開く。
「ヒダは、すごいナ」
少年は、何がしか思うところがあるようだが、なかなか形にならない様子だった。
「そうでもない。ラシャ殿は深く抱え込んでおるようじゃの」
「うん……。前ナ。堕天使は愚かだって言われたコトが、あって」
「ふむ」
「持っている力を削ぎ落すなんて、って。デモ、戦うチカラだけが全部じゃないって、オレは思う。思うケド、あいつには敵わないままだった」
それでは説得力に欠ける主張なので、言いにくいのだと。
「気にするな。自分もカラスとは直接対決して勝ったことがない。勝ち逃げされた」
「……ヒダもか?」
「そういやイスカリオテもそうだった。……あいつはきっと、死んだ奴に縛られている」
イスカリオテを司令とした、富士の天界勢力。結局はカラス一人が生き延びた。
イスカリオテやガブリエルたちを喪って。支えたかった上司を喪って。故に、彼の天使は『ちから』を重視したのではないだろうか。
そう胸の奥で考え、石は面会の日時をラシャに伝えた。
「あいつのことだから妙なこと言い出すかもしれんが……自分がいる。安心しろ」
ゼロと入れ違いに、小さな二人組が部屋へ入ってくる。
「久しぶりじゃな」
「おや」
意外な組み合わせの登場に、天使は素で驚いているようだ。
「見事に殺風景な部屋じゃな。時間を持て余していたのではないか?」
「監視員が気を利かせてくれて、何かと本を持ってきてくれてね。それほどでもない」
「ほう」
古今東西ジャンルを問わず大量の文芸書が、部屋の片隅に備え付けられている棚に押し込められていた。
「ああ、これなら自分も読んだぞ。トリックが実に巧妙でな」
「巧妙なトリックであろうと暴かれた途端に自首するくらいなら、胸を張って殺して自首した方が美しいよね。小賢しい悪あがきは見るに堪えない」
「黒いのう……」
カラスは笑顔で身もふたもないことを言う。
「お陰で本題を思い出した。寿命が短いと聞いたが、どういう理屈じゃ? 実は700歳だったとか言い出すのか?」
「そうじゃない。身に余るちからを使ったことと、物理的に肉体が限界なんだよ」
「身に余る?」
「ザインエル様よりお借りした剣だ。驚異的な力の反動は、この身に返る。まあ、さほど振るうこともなくこういうことになったけれど」
『天雷の剣』による負荷、それから撃退士からの攻撃。それらのダメージは根深く、自然治癒能力を上回った。
生きているだけ幸運という奴だ。
「……そうなると知っていて、京都の戦場へ戻ってきたのか」
「そうだね」
実に、あっさりとした肯定だった。
「天界では様々なものを見聞きした。力押しで制圧を続ける王権派ではあったけど、そこにあるのは忠誠だけじゃないと感じた」
容姿。生まれ。そういった、自分ではどうしようもない理由で正しい評価を得られない者たちが集っていたといったか。
石は思い返しながら話を聞く。
「『希望』はあったと思うよ。一枚岩ではなくても、願うものは同じだった。――ああ、もちろん命が惜しくて寝返ったものもいるけれど」
恐怖に依る弾圧だけでは巧くいかない、しかしそうでもして進めなければ、機がベリンガムにあると知らしめることができなかった。
「その中でも、ザインエル様は揺れが無かった。正しく王であるならば、それに仕えるのが剣であると」
「王が、間違った選択をしてもか?」
「必要とあらば糺す、そういう方だ。間違いかどうかを決めるのは後の世の仕事だ。誰もが、自分は正しいと信じて動いている」
小さな窓の向こうの、空は黒い。
開けてはいけない扉を、ベリンガムが開けたせいだ。
それを止めるために天使と悪魔と人間は協力し、彼の世界へと向かっているのだという。そして、最初の戦いでザインエルは――……
そこでカラスは目を伏せた。
ゼロが事情を打ち明けたことは、石も知っている。
(勝ち逃げされて悔しい気持ちは、あった)
けれど、と石は思う。
ならば自分はこの天使を殺したかっただろうか。再起不能と診断を下された男を前に、とどめを刺そうと思っているだろうか。
――否
愛する者を失う悲しみ。それは、石も知っている。深く深く、酷く酷く、痛いものだ。
石が知る限り、カラスは自身の使徒を始め多くを喪ってきた。
だから――だけど
「おぬしを愛している者のことを考えたことはあるか」
「?」
突拍子の無い切り出しに、カラスは首を傾げる。
「一度くらい、おぬしに勝ちたかった。じゃがな、おぬしを好いてくれるような物好きがいるのに、それを無視して死に急ぐ姿には腹が立つ」
「それは……言われても困る」
「ああ、存分に困るがいい。自分が抱える悲しみだけで手いっぱいで、今を生きている者を考えられぬのなら――……」
「カ、ラス、は」
石が言葉を切ったタイミングで、ラシャがつっかえながら声を出した。
「戦うチカラだけが、ゼンブと思うか? それ以外の、強さは、ナシ? ……オレは、アリだと思う、ケド」
堕天しても、失われることのない・あるいは更に磨かれる強さもあるのではないか。
少年堕天使は問う。
「今のわたしが、それを認めたらただの負け惜しみになってしまうね」
「惜しめ惜しめ。……失った悲しみを、否定はせぬ。じゃが、同じ悲しみを誰かに与えてはならぬ。……そう考えたことは?」
自分は『生きる』人間達の姿を見て、心を動かされたとはぐれ悪魔は言った。
「自分とおぬしは本質的な部分でどこか似ておる。もしかしたら友人になれたかもな。……遅くはないか。いっそ友になってみるか?」
石は小さな手を差し出し、握手を求める。
「友に、という感覚はわからないけれど」
伏し目がちに、天使がその手を取ろうとする。
「――ッ」
「ちょっとした仕返しじゃよ」
くくく、石が笑う。天使の白い手へ立てた爪痕は、しばらくは残るだろう。
「おぬしが蔑ろにしてきた者の痛みは、この程度じゃなかろ」
「……ふふ」
みみず腫れが浮き上がる手の甲を抑え、やはり天使は笑うのだった。
●陰たる者の、存在理由
夏が近づくこの季節。
外界は黒い空で覆われ、季節感などないけれど……天宮 佳槻(
jb1989)は、ふと振り返っていた。
(そういえばこの時期だったか。……思えばカラスに初めて見えた時から、三年が過ぎていた)
何かに固執しない――できない自分が、求められたわけでもないのに、こんなにも長く関わりをもつ相手が出来るとは思いもしなかった。
自分がカラスへ訊ねたいことはまとまっている。
はぐれ悪魔と堕天使が部屋から出てくると、彼女たちへ軽い会釈をして佳槻は部屋をノックした。
社交辞令もそこそこに、落ち着いた声で佳槻は話を切り出した。
「『風の剣』を置いていく事を聞いた時に言いましたよね、『いつかこの世が穏やかになってからでも構わない』と。
そして今度『返したかった』と話していた。少なくともあの時は、それまで生きているつもりだったのでしょうか?」
返したかった――岐阜ゲートで奪ってしまった命は戻らない。ならばせめて、加護の力を。
エルダー派が司令である地球の天界勢力において、それが当時のカラスが出来るせめてもの償いであったと。
「もちろん。勝算の無い戦いをするつもりはない。計算が狂ってご覧のとおりだけれどね」
「天界で、なすべき事はありましたか?」
「それを見極めるために戻った。そして選び取った。結果はこうだけれど、選んだこと自体に悔いはないな。……護り通せなかったことだけが、辛い」
京都ゲートを。リーネンを。ザインエルを。あらゆる手足をもがれたベリンガムは今、どうしているのか。
ザインエルさえ傍らに居ればあるいはと思った部分もあった。しかし、それも砕かれたと聞く。
「それが、故郷を守るため……だったのですか?」
「そうだね。わたしの価値観であり、天界にとって最善であるかはわからない。アテナ姫を担ぎ上げることに疑問を抱かず打倒ベリンガム様で意思統一されているなら、それはそれで見事なのかもしれない」
しかし、わたしはそんな世界に居たくない。
ゼロの時と同様に、カラスは毒々しい本音を交える。
(『故郷』が思っていたものとは違う姿を見せたから、ザインエルに付いたのか……)
権力者による『世界の作り替え』は、地球の歴史を紐解いても多くある。
勝者は自身へ都合よく『歴史』を語り継ぐ。
例えばザインエルが撃退士を蹴散らし、ベリンガムが悲願を達成したのなら、歴史はベリンガムに都合よく綴られるだろう。
神界へ至り全ての世界を創りかえるというベリンガムの野望までは、計算外だっただろうか。
『自らを正当化』という点においては、ベリンガムもエルダー派も同等ではある。
人界を拠点とする天界勢がエルダー派であり、アテナが頼りとする重要人物が日本に居て、彼らは久遠ヶ原と浅からぬ縁を持つようになっていた。
それゆえに、久遠ヶ原はエルダー派へ肩入れすることとなったに過ぎない――とは、少しばかり乱暴だろうか。
幽閉されていた正統なる後継者が傀儡から自身の力で解放された。
その事実を認める者が、どうして居なかったのだろう。
そこにおいて、『エルダー派は歪んでいる』。
「貴方と僕は似ていると思った事がありましたよ。例えば、何かに想いを掛けても、のめり込むような関わりを持てない事が」
過去形で語る佳槻の言葉を、カラスは静かに聞き入る。
「胡桃やゼロさんのように積極的に関わろうとする訳でもなく、陽波さんや緋打石さんのように共通して関わった存在がある訳でもない僕が、結構長く貴方を気にし続けた理由はそんなところかもしれませんね」
「……気にしてくれていたんだ?」
「自分でも意外です」
真顔で返す佳槻へ、天使は小さく笑う。
「今の僕は、ある意味死人が動いているようなものですが。それでも気付くのは面白い」
一言一言を、噛みしめるように。
「短いとは言え、折角それなりに時間があるなら……今まで見たものを、違う位置から見てみるのも悪くないかもしれません」
「ふむ」
「一意見に過ぎませんが」
それがどんな位置であるか、何を見るかはカラスが決めることだ。具体的な提案は避ける。
底意地の悪い天使の事だ、提案したところで真逆へ行く可能性もあるか。
「それなりに、時間か……。それもそうだね」
人界での活動が長いカラスにとって、天界での時の流れより『こちら』が計りやすい部分はある。
人界の感覚で、およそ5年ほどと切られたタイムリミット。短くは、無い。過ごし方次第だ。
●忘れない、約束を
これまでの会話をマジックミラー越しに聞いていた矢野 胡桃(
ja2617)は、伏せていた眼を前へ向ける。
(まだ)
気を緩めるとこぼれそうになる涙へ言い聞かせ、ドアをノックした。
「泣きそうな顔をしているね、胡桃」
「誰のせい、だと思っているの?」
こちらより先に声を掛けられ、少しだけ笑うことができた。
胡桃は正面の椅子へ、そっと座る。
膝の上で小さな拳を握りしめ、切り出した。
「ねぇヴェズルフェルニル。『生きたい』と思ってくれている……?」
この間までの会話から、ずっと気になってたことだった。
(死に物狂いで生きたい、っていう雰囲気じゃない……ように思えた、から)
それまでの戦いでは、自身が生き延びるために撃退士を倒す――それ故の必死さが感じられた。
けれど、今は。自分は死んでも構わないかのような、戦い方に見えて。
学園に捕らわれの身になり、それでも生きている点では安心をしているけれど。
「そうじゃないなら……ひどく悲しい、わ」
きっと、世界は変わる。
その変わった世界で、生きたいとは思ってくれないのだろうか。
喪い続ける中で、残っている自分の命に、可能性を見つけてくれないだろうか。
「かつて、わたしは自分を『駒』だと思っていた」
過去形で、カラスは話し始める。
「諾々と上司の命令に従い、疑問も不満も流し、仕事ならばと従った。大切な使徒の最期に居合わせることも出来なかった」
それ以降の経緯は、胡桃も知るところだ。
カラスは助けたいと願う相手と出会い、死に物狂いで戦うようになった。
状況は二転三転し、最終的――と言っていいのか――に選び取ったはずの主君もまた、喪った。彼自身も『戦う力』は残っていない。
この状況で生を望むことは酷だろうか。この状況だからこそ、呼びかけて繋ぎ止めなければならないのではないか。
「私、は。戦うだけが全てじゃないと思う、の。もちろん、戦わない手段を選ぶことの方が、もっとずっと難しいのは分かっている、わ」
山の中で、戦いを避け対話を持ち掛けてきたのは貴方からだった。
ウルへ決闘の場を与えたいと、信じてほしいと、命の綱となる剣を託したのも、貴方。
戦わない手段を、知っている。知っていて、貴方は戦いを選び続けてきた。
……けれど。それに。
「きっと、世界が変われば撃退士もあまり好まれる職業ではないかもしれない、わ」
ゼロと同じことを、胡桃は言う。同じ不安を、抱いている。
「夢物語だと笑われても構わない。それでも私は……ヴェズルフェルニル」
だめだ、声が震えてしまう。ぽとり。俯いた双眸から、大粒の涙が1つだけ落ちた。
「貴方と一緒に、変わる世界で、生きていきたいのよ」
諦めなければ、方法はきっとある。それを見つけるために――生きたい。行きたい。
「……、…………」
天使は言葉を探し、しかし口を閉ざす。気休めの、口先だけの言葉は発したくなかった。
形だけの優しさで触れたくはなかった。だから、いたずらに手を伸ばすこともしない。
そして、少女も。仮初の慰めを必要とせず、己の手で涙を振り払う。拭っても拭っても、なかなか止まらなかったけれど。
「と、まぁ言ってはみたけれど、ねぇ?」
声音は、一転して明るいものに。まだ少し、涙の色は残っているけれど。
「最初はバリケードごと。次は森の中。その次はシールド越し。その次はー……」
この天使は、えげつないほどに『少女』を狙い潰し続けてきた。
非常に長い射程で強烈な攻撃を仕掛ける彼女を敵として認め、要注意人物であると認めたからこそにしてはえげつなかった。
つまり、どういうことかというと。
「私、結構貴方に『貸し』があると思うの」
だからね?
少女の表情は、文字通りの小悪魔だ。
「この辺りで、利子をつけて返してくれるかしら? ……そうね。むこう5年くらい、一緒に生きてくれればチャラ、でどう?」
5年くらい。それは推定とされた天使の『残り時間』。
(聞かせて、濡羽の君)
生きたいと、言って。
「参ったな」
天使は笑い、そして。
●悲しい世界であったとしても
屋上の扉を開けると、思いのほかに強い風が吹き付けた。
黒い空が近い。それでも屋内へ押し込め続けられているよりはいいだろう。
そう考えた陽波 透次(
ja0280)により、最後の対話は屋上で行なわれることになった。
先に話を済ませたメンバーは、邪魔にならない屋上の一部にてタコパ準備中である。
「……僕が知る、サリエルとリカの話をしてもいいですか?」
先を歩いていた透次が振り返り、遠慮がちに訊ねた。
「是非。恥ずかしながら、わたしはサリエル様との面識がないんだ。君の言葉で教えてもらえると嬉しい」
応じるカラスの瞳は穏やかだ。
カラスにとって大きな分岐点となった伊豆での戦いにおいて、透次は別の側面から向き合っていた。
カラスが助けようと必死に血路を拓いた、少女使徒リカや主のサリエルと深い関わりを持っていた。
「サリエルは、情の深い優しい子だと思います」
幾度か至近で戦いを重ね、最期の最期を見届けて。最期になんて、ならなければよかった。けれどあらゆる状況が許さなかった。
「リカを愛し、仲間を大切に想い、同胞の為に戦った。情の深さ故、犠牲にした人への罪悪感も捨て切る事が出来ない性格で……内心、辛かった筈なんです。
それでも死天使として一生懸命戦い抜いた。そういう子だと……」
撃退士の言葉が、幼天使を追いつめる。その心を引き裂く。それでも『死ぬわけにはいかない』と彼女は悲鳴のように叫んだ。
「リカのことは、特に大切にしていました。戦場でも……少し過保護に見えるくらいに。リカも、自分よりもサリエルの方が大事だと、そう語るような動きで」
戦いは常に厳しいものだったが、思いあい戦う二人の姿は、いま思い返しても眩しい。
「サリエルは口では悪ぶっていましたけど、撃退士個人の事も良く見ていた子でした。僕は、サリエルに貰った一言で救われた」
――あんたホント強かったよ
何気ない一言は、透次が積み重ねて来たものを認めてくれた言葉だった。
それは表情や声音と共に、透次の胸へ深く刻まれている。決して消えることはないだろう。
「僕は、サリエルに愛されたリカが羨ましかった。そう告げたら、リカは言ったんです。
『国にお帰り、優しい人』と。彼女達に刃を向けた僕を……優しく、リカは気遣ったんです。敵わない……と思いました」
優しく、悲しく、大切な記憶を、透次はゆっくりと語る。
カラスは言葉を挟まず、静かに聞いていた。
血が流れ続ける戦場で、そんなやりとりがあったことをカラスは知らなかった。リカが話さなかったからである。
「カラスの知るリカの事、聞いても良いですか……?」
だから、透次に見上げられて困ってしまう。
「君には敵わない」
一番に、そう告げるほどに。
「あの頃、わたしは自分の使徒を喪って間もなかった。だからどこか、重ねていたところがある。主を喪ってなお、その手勢であったサーバントの為に孤軍奮闘しているという話を聞いてね」
死した主を思い、自身の意志を貫く使徒へ興味があった――といえば不謹慎だが、助力したいと感じたのは本当だ。
「警戒心は強いけれど、他者を思いやる感情は持っていた。君の話を聞いて納得したよ。そういう主と共にいたからだね」
――…………御悔やみを申し上げます
カラスが自身の事情を伝えた時の言葉が、初めてリカがカラスを認識したものだったように思う。
感情の起伏が読み取りにくい少女なりに、ほんの少しだけ雰囲気が変わったことを覚えている。
――イスカリオテ様、ガブリエル様へは、凱旋報告とともに挨拶に伺うとしよう
返したカラスの言葉に、心に、偽りはなかった。
リカを伴い富士へ戻る。
交わした言葉は少なかったが、その間にカラスはリカのことを大切に思うようになっていた。
今度こそ、喪いたくない。
使徒と主が裂かれることがないよう、共に在ってほしいと願った。
「彼女と対面したのは数えるほど、あとはサーバントを通しての情報交換ばかりだった。非常に事務的な内容でね。でも、それが心地よかったよ」
必要以上に恩を感じられるより、同志である方が良い。
天使と使徒では階級以前の隔たりがあるが、だからこそフラットにありたかった。
「君たちとの戦いの事をわたしへ話さなかったのは、わたしが関係を築けなかったということもあるだろうけれど……リカにとって、きっと大切なものだったのだろうね」
「…………」
手に残る感触を、透次は強く握る。
その手には、彼女たちの生き様が刻まれている。軌跡が確かに残されている。
「彼女達が生きたこの世界を消されたくない、と思っています。悲しい結末でも、この世界が彼女達が一生懸命生きた証だから……」
時間は不可逆ゆえに尊い。やり直しがきかないから、精いっぱいに命を懸ける。
それを侵すようなことは、どうか――……。
空を黒く染め、ベリンガムが行なおうとしているのはそういうことだ。懸命に生き切ったあらゆる命を冒涜することになる。
「……ザインエルは、本当に強かったです」
『本当に強かった』――透次がサリエルに貰った言葉であり、透次の中で最大の敬意で賛辞だった。
「彼の遺体は、アテナさんの強い希望で天界に送られました。信じたものは違っても、もとは同じ同胞であるからと」
「…………罪人扱い、か」
『信じたものは違っても』? 『もとは』? ……
敵対するベリンガムについたとなれば、そうなるのだろう。それまでの経緯を知らずとも。
彼がどれだけの働きをしても、それはエルダー派を裏切った段階でゼロになる。
ましてやアテナは彼の働きぶりを知らない。
彼の本心を知ろうとした者も、恐らくはいなかったのだろう。ベリンガムについた意味を考える者はいなかったのだろう。
それだけで、彼のエルダー派における立ち位置が推察できる。
「――いや、八つ当たりだ。すまない」
カラスは軽く首を振ると、片手で顔を覆った。
二人の間に、沈黙と――たこ焼きの匂いが、漂った。
●タコパ!!
「神のたこ焼きやでー、熱いうちに食った食った!」
屋台を構えたゼロが、景気良く声を出している。
「飲み物はこちらで。……」
「どうした、天宮殿。酒もあるんじゃろ?」
「あります、けど」
「安心せよ、こう見えて自分は実年齢3ケタじゃ。あ、ラシャ殿にはソフトドリンクでな」
132cmを前に戸惑う佳槻へ、石が大きく笑う。
(そういえば……ラシャさんの実年齢はいくつなんだろう)
人界知らずということもあって、外見年齢相応に感じていたが、天魔は容姿を好きな段階で止めることができる。
「また食べることができるとは思わなかったね」
たこ焼きを断り切れなかったカラスへ、佳槻が冷たいドリンクを渡す。
「そういえばゼロさんにワインを渡されたそうですが、多治見のワインフェスで新しいワインを仕入れるのも良いかもですね」
「ワインフェス?」
「年に一度、秋に開かれているんですよ」
学園生たちも参加するようになって久しい恒例行事の一つだ。
「多治見、ね……」
ドリンクへ口を付けながら、カラスは何か考えるように遠くを見、
「透次」
それから青年を呼んだ。
「手伝ってくれるかい、さすがに5パックは数の暴力だと思うんだ」
「聞こえてんでーー! しっかり食って体力つけろっちう話や! 心配せんでも陽波の分もあるで。早よ来い」
「え。えっ」
板挟みにあい、透次がうろたえる。
「屋台で焼きたてが良いぞ、陽波殿。これを冷酒で流すと――たまらんのう」
「ヒダ、オヤジ入ってる……」
「ラシャ殿、どこでそういう言葉を覚えるんじゃ」
賑わう屋上の、片隅で。
佳槻から受け取ったジュースを手に、胡桃は監視員や夏草まで巻き込んだ祭り騒ぎを遠巻きに眺めていた。
そこへ、歩み寄る黒い影。カラスだ。
「食べないのかい、胡桃」
「う。うーと……私は」
「熱いのが苦手?」
天使が、非常に意地の悪い笑みと共に、少女の口元へたこ焼きを差し出す。
えーと。この絵面は。
(どうしろと!?)
硬直する少女の眼前、笑う天使の手元。その間を、黒い影が掠めた。
「あーあ。ほら、早く食べないから烏に取られた」
空の色に溶け込むような、黒い鳥。食べ物の匂いに誘われ、飛んできたか。
「っっっ、ばかーー!!!」
●風が吹けばこそ旗は美しい
さて。
世界を揺るがす戦いが終わった時、天使が多治見へ来てくれるかどうかは今回の結果だけでは何とも判断しがたい、けれども。
(本音のところは聞けたかね……?)
カラスが、どんな段階を踏んで現在へ至ったか。それを生の声で知ることができたことは、良かったと夏草は考える。
(あとは……結末次第、か)
カラスが抱くエルダー派への反感が、どう転がるか。そこだろう。
天使の故郷は天界だ。天界が選ぶ未来は、果たして――……
未来は今は、闇の中。