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一年前の今頃は。
『これまでの天界』へ反旗を翻したザインエルが京都へゲートを開き、世界が大きく揺らいでいた。
岐阜県にある小規模ゲートに至っては、それまで『壁』となっていた伊吹山のサマエルゲートが撤収されたこともあり不安定な情勢へ放り出された。
そして、現在。
岐阜ゲートは撤収され、天界へ戻ったはずのカラスは何故かザインエルの配下となり京都へ現れたが、そこで撃退士により再起不能の深手を負って、紆余曲折を経て岐阜ゲートへの道を辿っている。
「十三階段を昇るような心持だね」
かつて上司である権天使ウルと共に岐阜ゲートを拠点としていた天使カラスは今回の依頼内容と参加メンバーを見回して、そんなことを告げた。
いずれも過去に幾度となく刃を交え、或いは言葉を交わしたことのある撃退士たちである。
「そんなにセキュリティ甘いなら、俺が盗めばよかったわ」
「それはならないと言っただろう」
まさか、保管していた剣を小学生に盗まれるとは。
今回の事態へゼロ=シュバイツァー(
jb7501)がぼやくと、カラスは間髪入れずに呆れ声を返す。
「今のところ、あの剣がわたしにとっても生命線だ。そう長く生きる必要もないかもしれないが」
「…………、」
カラスの真意を図りかね、矢野 胡桃(
ja2617)の瞳が不安げに揺れる。
「何はともあれ、まずは岸君のところまで急がないとですねー」
「僕が先行しましょう。敵を引き付け、道を拓きます」
櫟 諏訪(
ja1215)が手を鳴らし、エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)がタタッと先陣を切って走りだす。
「再起不能と聞いたけど、移動速度は大丈夫? 無理そうなら背負うよ」
龍崎海(
ja0565)の気遣いに、天使は目を見開いた。意外な申し出だった。
「それは……あの少年程は無理だけれど、人並みには歩けるよ。ありがとう」
驚異の脚力を発揮するエイルズレトラの背を遠い目で見遣ると、カラスは海へ丁寧に礼を言う。
「俺はもっと速う動けるし飛べるし遠近自在に戦闘もできるけど、お前の護衛をしたったるわ。貸しイチやで」
「どんなに利息を付けても、あの剣は抵当に入れないよ」
「チッ」
クイッと顎を上げて得意げな顔をして見せるゼロは、即答にわかりやすく舌打ちを。
「……お願い、ね。右腕」
胡桃はゼロへ一言。それからチラリとカラスを見上げ、前線へと向かって行った。
(可能な限り、迅速に、向かわないと)
敵としてではなく『同じ舞台』へカラスが立っていることに、意識を持っていかれている場合ではない。
私情を押し殺し、胡桃は最優先すべきことに集中する。
(生き物は何かを『頂く』ことでしか生きられない。けれど、それが必ず必要な『犠牲』でないならば、絶対にさせない、わ)
少年は、何を望んでいるのだろう?
何を思い描き、今回の行動をとったのか。その果てに待つものは何か。
天使のエネルギー吸収で命を落とした幼馴染。
その天使が、再起不能になったという情報。
万が一にでも可能性に賭けて、成し遂げたいことは……朧げに浮かぶ気がする。
「小学生に盗られたって……。夏草さんのところは大丈夫なんでしょうか、色々と」
「本当に。企業撃退士が増えたから平和になるってわけではないのね」
天宮 佳槻(
jb1989)は野崎の返答へ小さく頷き、陽光の翼を広げると仲間たちに続いた。
●
地上を諏訪が、最前線をエイルズレトラが、要所においては空中を佳槻が、確認しあいながらどこに潜むかわからない敵に備える。
「櫟さん、右手前方に影が――」
「居ますねー、あれは……幻狼!」
「これはスキルを使うまでもありませんね」
エイルズレトラはシルクハットのつばをクイッと引くと、わざとらしくマントをはためかせファントムウルフの射程へと踏み込む。
「さあ、一緒に踊ろうではないですか」
カボチャマスクの紳士は高らかに誘いをかけ、襲う狼を華麗なステップで避けては笑う。
「良い子、ね。そのままよ。……諏訪さん、一緒にお願い、します」
古びた魔法書を手に、胡桃がスッと他方の手を伸ばす。
美しい呪文の詠唱と共に、幾筋もの灰銀の矢が狼を襲う。
「回避が高くなるというなら、逃げ場を塞ぐのが上策ですねー?」
胡桃の合図にタイミングを重ね、諏訪の長距離射撃が狼を的確に貫いた。二人のコンビネーションは京都でも実証済みである。
「さてさて、ここで大群のお出ましですよ」
芝居がかった言葉でもって、エイルズレトラがアンデッドバタフライの飛来を告げた。
その後方に、ふわふわとライフライトも漂っている。
「お行きなさい、トランプ兵団」
アウルによって形作られた、手足の生えたトランプカードがエイルズレトラの命令に従い不死蝶へ襲い掛かる。
(……来たか)
蝶の群れは、今のところ2ユニット。ただし、これだけでは終わらないだろうと読んだ佳槻が上空へ鳳凰を召喚する。
上から威圧することで、敵の行動を制限する。それは共に漂うライフライトへの牽制も兼ねる。
「派手にかますよって、ちょっと下がっとき!!」
敵の波状攻撃が始まる前に、グイッとゼロが踏み込んで来た。
「滅びの嵐、見舞ったるわ!」
射程で狙える最奥から、超高温と超低温の風が暴れ狂う。蝶も光も巻き込んで、巻きあげて、叩き落とす。
「もう一手、先ですね」
ゼロが巻き起こした嵐の向こうに、まだまだライフライトの存在を見つけて佳槻が飛び込む。
因陀羅の矢が上空から降り注ぐ。
麻痺した個体は、海が雷槍のアウルで順次貫いていった。
●
この先二手に分かれている道を、左の方だとカラスが呼び掛ける。
「居住区は右手だが、左手は見晴らしの良い草原地帯なんだ」
「なんや、そのオススメ観光スポット情報は」
「短いながら、わたし自身も過ごした場所だからね」
それに、ここまで近づけば正確に剣の位置を把握できる。
カラスは、ゼロへそう答えた。
「この辺りは見覚えがあるな。そうか、この先が……。みんな、今のうちに負傷が深ければ手当てするよ」
ウル撃破戦へ参加していた海は記憶を繋ぎ合わせる。当時は戦うことに集中していたし撃退士の数も多くて周囲の景色どころではなかったが、なるほど走った覚えがある。
不死蝶の毒を掠めたか幻狼に軽く噛まれたか程度で大事に至るメンバーは居ないようだったが、問題はこれからだろう。
ぽつりぽつりと、崩れた廃墟が目につくようになる。
風雨に打たれ荒廃した人工物へ、草が這い花を咲かせている。
ゆったりとしていて、どこか悲しい景色。などと感傷に浸る間もなく、一行はそれを越えた草原地帯を目指す。
『低知能の魔物が安易に近づかない』という剣の効果は、即席の持ち主をどこまで守り続けるのか確証がないのだ。
「左前方、反応アリですよー!」
くるりと、諏訪のあほ毛レーダーが察知した。
なだらかな斜面を越えた向こうに、なにかが居る。
●
それは、異様な光景だった。
周囲は見晴らしのいい草原。
剣を抱いた少年を中心に、サーバントの群れが一定の距離を保っている。
無数のライフライト。3体のファントムウルフ。2ユニットのアンデッドバタフライ。それぞれが、約直径6mほどから踏み込めず、しかし殺意を明らかにしているのだ。
「……全く」
青ざめる少年の表情へ嘆息し、胡桃は口中で祝歌を唱える。
純白の剣が少年の眼前に現れ、次の瞬間に見知らぬ少女と入れ替わる。
「!!!?」
「まずは、周辺を払いましょう」
「眠らせます、その間に避難を」
戦闘を走り続けたエイルズレトラが、残しておいたトランプ兵団をけしかける。
不死蝶たちの動きが止まる、その合間を縫って胡桃が少年の手を引いて走り出した。
「胡桃、こっちだ」
「佳槻お兄ちゃん……!」
走る先には、抗天魔陣を展開した佳槻が待っている。
二人まとめて抱き留めてから、佳槻は確保しておいた退路へ誘導しようとし――……
「お、まえ、は」
青ざめていた少年の表情から、感情というモノが消えうせる。
最後方でゼロと野崎に護衛されていたカラスと、目が合ったのだ。
「あ、あ、……ああああああああああ!!!!!」
「今は余裕が無いので」
佳槻が、間髪入れずに少年の腕を軽く捻って剣を取り上げると同時に拘束。
「今それどころじゃないのは、愚かでなければ状況を見ればわかる、でしょう?」
静かな胡桃の声に、しかし少年は冷静さを取り戻すことは無い。
先ほどまで少年がいた場所にはサーバントが詰めかけ、諏訪やエイルズレトラが一網打尽の戦闘を繰り広げている。
ほんの少しでもタイミングが悪ければ、その中心で少年は喰らわれていたはずだった。
「言いたいことがあるのなら、まずは無事に帰ってからにしましょー?」
バレットストームでライフライトを消滅させた諏訪が、戦場に似合わぬのんびりとした声で視線だけこちらに向ける。
「殺す……殺してやる! なんで、おまえが生きてるんだ……!! 許さない!!!」
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「手が足りないなら、増やしましょうか」
エイルズレトラはヒリュウを召喚し、サーバントたちがカラスや少年へ向かわないよう回り込ませる。
「まとまってくれてるなら、それはそれで都合が良いんですけどねー?」
その傍らで、諏訪が幻狼1体1体へアシッドショットを仕込む。
取り囲みが整ってきたところで、エイルズレトラがケーンで幻狼を軽く叩いてゆく。
3、2、1と数えれば鳩でも出そうなリズムを取って、弱った幻狼へ確実に死を与える。
「そろそろ片付けて、みんなと合流しましょう、か」
少年を佳槻へ託し、戻ってきた胡桃がファイヤーブレイクで退路を繋いだ。
●
誰が何を言っても、少年の激情は収まる気配がない。
それと同じように、少年がどれだけ暴れても佳槻の拘束から逃れることはできない。
道すがらサーバントは倒してきたから、帰途での遭遇は今のところないから良いものの、あまり継続させたい状況ではなかった。
「とりあえず……深呼吸をしてみて」
海が落ち着いた声で少年の肩に手をあて、マインドケアを掛ける。
ほんの一瞬、少年の眼に生気が戻るも――ハッとした顔で振り払われる。……簡単に術にかかってくれるほどの感情の波ではないようだ。
「かっちゃん! そいつは任すわ。剣は預かる」
「お願いします」
埒があかないと判断した佳槻は、少年を抱きかかえて飛翔する。それと同時に、空中から風の剣をゼロへと渡した。
「ここは危険です。それから、剣が移動した事で多治見の街が襲われています。まずは街へ戻りましょう」
「いやだ! 離せ!! オレはアイツを許さない……!!! 殺すんだ、オレの手で殺してやるんだ!!!」
剣を持ち出したことを咎められても、今の少年には通じない。
「おーい。縛るとシバくとネンネとどれにするー?」
「全部、物理ですね? 大丈夫です、このまま連れて行きます」
落ち着かせること。
眠らせること。
おそらくカラスを前にしては激昂するだろうと、少年への対策としてそれぞれが考えていたことだったけれど。
(たぶん……それだと、わからないままだ)
寝て起きても、同じように暴れるだけじゃないだろうか。誰の言葉も、きっと届かない。
(強引な手を使うことで、反感を募らせるだけではないか)
泣いて、怒って、叫んで、内側の感情全てを吐き出し続ける少年を抱えながら、佳槻はそう考えを巡らせる。
――結界内へ連れ去られた人間たちは、すぐに殺されるわけじゃない
それは、昨年の今頃。
ここより少し西の山間で、カラスと対峙・対話した時のことを佳槻は思い出していた。
伊吹山ゲートの余波により、ディアボロから逃げる人々をカラスたちは『エネルギー源』として自身の結界へと連れ込んでいた時期がある。
人々の救助に出向いた先で遭遇し、互いに戦闘回避をするために対話をする流れとなった。
その時に得た答えから、佳槻は判断したのだ。
岐阜ゲートへ連れ去られた人々も、すぐに殺されるわけではない。奪還の機会は、いずれある。
実際、ゲートの精神吸収で命を落とした人々は数えるほどだったと聞くが、その中の一人が岸少年の幼馴染だったというわけだ。
少年の叫びは、当時の佳槻の決断をも責めているように感じる。
その一方で、そんなにも強い感情を自分は持っているだろうかとも思う。
だから……きっと、目を逸らしてはいけない。
(どんな理由があっても少年の行為は窃盗で、多くの人を危険に晒している。けど……自分に、そこまで為したいと思うことは有るだろうか)
少年は、自分がしでかした事実を見つめなければならない。
突き放すような考えを抱く他方で、佳槻は少年の心の動きを……そこにある何がしかの可能性を、見たいと考えた。
「ふうん」
金色の柄、凝った装飾が施された鞘。抜けばなるほど刀身は無い。
佳槻から受け取ったそれを手に、興味深げにゼロが眺める。
「で、ホンマにコレ、もろてええんか?」
「まるで最初からそういう流れだったかのように言わないでくれるかな」
手を伸ばすカラスから、ゼロはからかうようにヒョイと取り上げる。
「剣は多治見預かりだから。……カラス、これがアンタの『生命線』っていうのはどういう意味なの?」
野崎も背を伸ばし、ゼロの手から剣を取ろうとするも成らず。面白がってからかい倒すゼロである。
ひとまず奪還は諦め、野崎は天使へ向き直った。
「学園で検査してくれた通り、今の私は『体内で力を循環させられない』状態でね。栄養の摂取、血液の循環、そういった辺りの不具合とでも言おうか」
表現を探しながら、カラスは言葉を選ぶ。
「剣を手にしても、刀身を顕現するほどの魔力は流せない。ただ、剣を媒介にすることで体内での魔力の循環の補佐ができる。蓄えの消費が滞りなく行われる」
「というと」
「剣が無ければ、今のままだともって1年くらいかな、人界の感覚だと」
何がと言わずとも。
「……剣があったら?」
「5年くらい?」
「五十歩百歩やないかーい!」
問うたゼロが、ばしーと天使の後頭部を叩く。
「こうなるのは予想外だったからねぇ……」
捻った首が痛い。手をあててカラスは苦く笑う。
「長生きするか、すぐに死ぬだろうと思っていた。だから預けた」
生命線になりうる剣を、撃退士が護る人の街へ。
それは災厄を祓う力を持つ代わりに、いつか効果が切れたなら反動が襲い掛かる『祈り』と『呪い』が紙一重のもの。
「罪滅ぼしにもならないけれど、わたしなりに『返したい』と思っていたんだよ。だから、君に贈ることはできない」
「…………」
ややあって、ゼロは天使へ剣を返した。
「とりあえず『今』は、戻しといたる。多治見の街に迷惑かけたら、秋にワイン飲まれへんからな」
●
剣が持ち主の手に戻り、多治見市街へ近づくと共に街からサーバントやディアボロが引いてゆく。
夏草から連絡を受け、野崎はホッとした表情で仲間たちへ次第を伝えた。
山道の終わり。街の入り口が見える場所で、一行は足を止める。
ここからだと街の被害が一望できた。
あちこちで沈火活動が行なわれ、倒壊した家屋も幾つかあるようだ。
佳槻に支えられ、泣きはらした目で少年はその光景を呆然と眺めていた。
「恨みつらみ大いに結構。でもな、お前は関係ない他人を巻き込んだ。お前が同じように怨まれる事も覚悟しときや」
死者は出ていないと報告は受けている。それは伏せ、ゼロは少年へ告げる。淡々と。
――剣が移動した事で多治見の街が襲われて
耳には入っていたが認識できていなかった、先の佳槻の言葉が少年の耳の奥に甦る。
それは、こういうことだったのか。
自分が持ち出した『剣』は――
「けどな……その思いを乗り越えた人もおるんやで。な、姫」
「……あたし?」
「姫も大事な奴をコイツに殺されとる」
婚約者。かけがえのない人。カラスが直接手を掛けたわけではないが、ほぼ同義だ。
野崎も、乗り越えたとはいえ割り切ったとはいえ、その事実は今も胸を痛める。
「まあ、あたしはコイツの使徒を殺したから」
平静を装って吐き出した言葉は、今度はカラスの心臓を抉った。
「…………」
「…………」
「…………」
なんとも言えない空気が野崎とカラスの間に漂い、それを見て少年は初めて怯えの表情を見せた。
(これはひどいですよー?)
フォローの言葉が見当たらず、そっと見守りに徹する諏訪である。
「その剣を、どうするつもりだったの?」
今なら大丈夫だろう。海は改めてマインドケアを施した。
少年は後ずさり、異形を見るかのように海を見上げ……ゆっくりと、口を開いた。
「だいじなものを、うばってやりたかった。めちゃくちゃにしようとおもった。オレが、そうされたように」
だけど。
引き抜いてみれば剣に中身は無くて。
少女と過ごした場所は廃墟と草原だけで。
なにもなかった。なにもなかった。なにも、のこってはいなかった。
もどってくるものなど、なにひとつ。
(カラスによって被害を受けた人からすれば、学園に保護されたからってそれで納得はできないのは仕方ないよね)
少年の枯れた声による心の叫びへ、海は、ひとつひとつ頷く。
(俺も、カラスとは全く縁がないわけじゃないし)
傷つけられたこと、適わなかったこと、色々とある。
「そうだね……。学園へ、カラスについて要請すればある程度聞き入れてくれるかもしれないよ」
「ころしてくれるのか」
少年の眼は、いまだ狂気を孕んでいる。
「いや、うーん……。カラスを、幼馴染の子のお墓へ連れて行くとか」
「そこでころしていいってことか」
「とりあえず、その発想から離れてみようか……」
駄目だ。
復讐に目を曇らせている子供へ、何をどうすれば思いは真っ直ぐに伝わるのか。
子供は無垢だ。
ものごとを『まっすぐ』――時には過剰なほどに受け止める。だからこそ、難しい。
「剣もこいつの命も、俺の獲物や。生き地獄見せなあかんから、ここで殺させるわけにはいかんなぁ」
そこへ、ゼロが物騒な言動に依るフォローを挟んだ。
「生き……地獄」
それもいいかもしれない。
少年の心が揺らぐ。
「オレとおなじ、か? それよりもっと、くるしいか?」
(やっぱり)
冷ややかな目で、エイルズレトラは応酬を見つめていた。自身が口を挟むことは無い。
大切なものを無残に奪われた幼い心というのは、そう簡単に『前』を向けるわけがない。
『その場を丸く収めるための言葉』へ、果たして耳を貸すだろうか。納得するだろうか。
(僕なら――)
大切なトモダチを殺されたなら、やはり相手を殺したいと思うんじゃないだろうか。
仮に能力に絶望的な差があったとしても、一矢報いたいと思うのではないだろうか。
どうすれば引き下がるだろう、と考えたって納得いく道は見えなかった。
「君の幼馴染の彼女が、何を望んでいるかはわからないですけれど……きっと、憎しみに生きるよりも幸せでいて欲しいんじゃないでしょうかー?」
疲労もあるのだろう、少しずつ少年の様子がおとなしくはなっている。
それを見計らい、諏訪が膝を着いて視線の高さを合わせ、語り掛けた。
「恨むな、とは言いませんけれど、それだけじゃ、つらいですよー?」
「……おにーさんたちは、つよいからわからないんだ」
逃げるしかなかった。
住み慣れた場所を後に、逃げるしかなかった。
着の身着のまま走り続け、そこで差し伸べられた救いの手。
与えられた、新しい生活の場。
優しい笑顔と、声と。
信じていたのだ。『彼』は救いの撃退士なのだと。
あの子が死に、全てを明かされる時まで。
「知っていたなら、手なんか取らなかった! オレたちは逃げるしかできなくて……できなくても、それでも……あんな裏切られ方、されたくなかった!!」
「でも、彼は君のことを助けてくれたのですよー? あの剣がある場所は、カラスにしかわからないですしねー」
あの様子では、撃退士たちが駆けつけなければいずれ剣の効果は切れ、少年はサーバントに襲われていた。
多治見の撃退士は街の対応に追われ、少年の居場所を突き止めるまでには更に時間を要しただろう。
「…………」
たすけてくれたのは、これでにかいめ。
少年の表情がみるみる青ざめる。
「!」
それは、完全に予想外の行動だった。
誰より距離を置いていたエイルズレトラが真っ先に気づき、持ち前の瞬発力で手を伸ばす。
少年が隠し持っていたサバイバルナイフは、自身の白い喉を掻き切る前に地面へ落ちた。
「なに、を……」
「尊厳、というのは時に生きていく上で支えとなるんじゃないでしょうか」
たとえばそのナイフで、少年が天使を刺そうとしたならいつでも割り込めるように。そんな位置を取っていた胡桃は何が起きたか把握できなかった。
誰に対しても感情移入をしていなかったエイルズレトラは、少年が自らの命を断とうとした行為を極めて客観的に分析する。
(とはいっても、面倒なお子様ですね)
口には出さず、エイルズレトラはナイフを拾い上げる。こんなもの一本で、あの天使も今なら死んでしまえるらしい。
「屈辱ですか」
二度も、図らずも天使に助けられて。殺そうとした相手にしか、自分を助けられなかったのだと聞いて。
自分と同じくらいの年頃だろうエイルズレトラから、淡々と訊ねられて少年は唇をかみしめた。
「……貴方の気持ちも尤もだわ。けれど、ここで彼を殺せたとして。貴方が死んだとして。それは誰かの為でも誰かの敵討ちでもなく。貴方だけの自己満足だっていうのは、分かっているかしら?」
少年は、手を尽くしただろうか。
言葉を、吐き尽くしただろうか。
少年の様子をじっと見つめ、胡桃自身も己の心を落ち着けながら、届くことを願い言葉を掛ける。
「死んだ人は、なにも望まない、わ」
それは、先の諏訪の言葉と裏返しになる。
亡くなった少女が何かを願っていると思うか。
亡くなった少女は、何も『思う』ことはないと考えるか。
どちらも正解なのだろう。その段階で、『答えは自分の為』である。
「『誰かの為』の『誰か』が死んでいるのなら、それはもう『自分の為』だけ」
死者を思う。もう会えない大切な人を思う。
そのことに、身に覚えがないわけではない。
カラスも、野崎も、胡桃の言葉に耳を傾けていた。胸へジクリと刺さるものがある。
あの人は望んだだろうか。そう振り返る日々が無かったとは言えない。
「それで、いいのよ」
ふわり。胡桃は薄く笑い、少年の心を認めた。
「今すぐ赦せなんて言わないし、恨んでもいいの。……けれど、誰かの命を取るのは『赦す事』とは違う、わ」
海の時と同様に、肯定される言葉には少年も反応を見せる。そこが子供らしいといえようか。
感情を吐き出しきって、サバイバルナイフも取り上げられて、おとなしくするしかないという状況もあるのかもしれない。
「……僕に言えるのは」
最後に佳槻が口を開く。
「君はまだ生きていて、死んだ人を思って何かをすることが出来る、という事だけど。それは、他者を喰らって自分を満足させる事ですか?」
天使や悪魔であれば、人間のエネルギーを吸収し文字通り血肉とすることも出来よう。『喰らう』こともできよう。職務だからと仕方ない側面もあるだろう。それを人類が看過するかどうかは別として。
けれど、復讐による満足は何も生み出さない。
「今度の事は結果的にそういうことです。カラスだけじゃなく、多治見の街の人々に対しても」
『天使から信頼の証として預けられたもの』を、勝手に持ち出したこと自体が問題だから。
(天界ゲートによって死んでしまった少女を思う少年と、信じるものを見つけて王権派ゲートへ姿を見せたカラス……。みんな、関わりの中で生きている)
誰かと関わりがあるから、相手へ気持ちを寄せるから、行動を起こす。
相手を失っても、行動の理由が成立する。
(『喰らう事』と『受け継ぐ事』の違いは、関わりの中にあるんだろう……。岸君の今回の行動は、それを喪ったからだろうし)
カラスが生を選ぶのは、他の高位天使たちとの関わりを経て『諦めない理由』を得たからだろう。それが何であるのかまでは、わからないが。
(僕は)
ションボリと俯き、枯れ果てたかと見えた涙をポロポロ落とす少年を見下ろし、それまでの暴走とも言える彼の行動に己を重ねる。
(例えば天魔の脅威が世界から消えた時。例えば同盟が破棄された時)
世の中と自分の、関わりが切れた時。
(用無しの産廃となり、為すべきことなど持たないカラッポになるんじゃないだろうか)
だって、何もないのだ。
受け継ぐ思いも。誰かへ残したい何かも。
(カラスが、今までの越えたい壁だったけど……越えてから先を考えてもいなかった)
一瞬一瞬の判断に全力を投じていた戦場での駆け引きは、正しく『生きている実感』だった。
未来が見えない。描けない。
カラスへ問いたい気持ちもあるが、この場所ではないだろうとも思う。
迷い気味に視線だけを投じると、にこりと笑顔が返った。アレは条件反射かなんかなのだろうか。
「……まぁ、でも赦せないのも分かるから」
胡桃が少年の頭をポンポンと撫でる。
(この状況で、何をニッコリ笑ってやがるのかしら?)
佳槻とのやりとりを知らないものだから、カラスに対して、そんなことを思いつつ。
「拳の一発くらいどうぞ?」
「うん。……うん?」
「よーし、あの腹立つ顔をぶち抜け。俺の分もな」
「うん?」
がっしと外套を胡桃に掴まれ、天使の表情が少しばかり強張る。
ゼロは入念なボディチェックでスタンガン・催涙スプレー・折り畳みナイフなどなどを少年から取り除いた上で自前のハリセンコレクションを披露する。
『ライトニングハリセン』と銘打たれた特上品から、魔法攻撃力を持つ『ソニックハリセン』、ぜひ相手を這いつくばらせ肩へ足を掛けた上で使ってやりたい『札束ハリセン』、使い手を見極めると言われる『黄金ハリセン』。
「これ、このカッコイイやつがいい」
「良い眼をしとるな、少年」
迷わずライトニングハリセンを指した少年へ、ゼロが生唾を飲んだ。
ハリセンといえど魔具なので、振るうには撃退士のサポートが必要だ。
ゼロが抱き上げ、少年の手に自身の手を重ねる。
「さーあ、いったれ!!」
●
海の手から伸びた『生命の芽』が、意識を失った天使へ力を分け与える。
「ちょっとそこの大人、正座」
火を点けないまま煙草をくわえ、野崎がゼロへ冷たく言った。
「ハリセンやったら血ィも出ぇへんしセーフラインと思いますやん!!?」
「肋骨が折れてたね。大丈夫、それも治しておいたから」
丁寧にライトヒールで全開まで回復させ、海が顔を上げる。
「さすが再起不能ですね」
こんなにも弱体化するのかと、興味深そうにエイルズレトラが呟いた。
ゼロが手を添えた少年によるハリセンの一発で、天使は重体レベルのダメージを受けて倒れたのであった。
「まあ、ヒトゴロシ仮体験ということで良かったんじゃないでしょうか」
「エイルズレトラくん、言い方、言い方」
対し、冷徹な態度を崩さぬ奇術士へフォローに困る野崎である。
殺したいと思った、殺そうと思った、それは本当だったのに。
殺してしまった……手の先から伝わる感触から少年の心に湧いたのは、達成感ではなく恐怖だった。
「どうすることが『自分の為』か、わかったかしら」
胡桃の問いに、わからない、と少年は答える。
「とりあえず……帰ろうか」
海が最後のマインドケアを少年に掛ける。頑なだったこころはとうとう溶けて、疲労から来る眠りに落ちた。
「……幸せでいて欲しい、ですねー?」
少女の願いではなく、一人の撃退士として諏訪は言葉を掛け、少年を背負う。
「で、カラス。その剣、どないするんや」
「もう少し術を強めて、保管室にも封印を掛けさせてもらうよ。しばらくはそれで安泰のはずだ」
回復したとはいえ違和感の残る体をさすり、カラスがゼロに応えた。
「そんなこと出来るんか」
「半年分くらい使えば」
何がとは言わず。
「……お前が死んだら、あの剣は俺が貰うで?」
「駄目だよ。諦めが悪いなぁ、君も」
「嫌やったら生きろ。そういうこった」
「……やれやれ」
願いは、生きている者が、生きている者の為に。
その命がある限り。
命を喰らう重みを背負い、誰もが今日を生きてゆく。