人々が避難を終えたホテルは、しんと静まりかえり、外で吹く風の音だけが聞こえる。
電源は正常であったが、館内の通常の照明、暖房も共に落とされて、弱い光の非常灯だけが無人の館内を照らしている。
廊下、階段、エレベータ、ホール。管理室のモニターに映し出される防犯カメラの映像の全ては、まるで時が止まったように動きがない。そんな中、十三階のホールに飾られた観葉植物の葉だけが、不規則に揺れていた。
(人的被害がなくてよかったけど‥‥これ以上好きには、させません!)
事件発生時から現在までの映像を確認し、その揺れに気づいた、ソフィア 白百合(
ja0379)は、それが二人の避難後の変化であると判断する。窓ガラスが割れ落ちたという証言とも合致するから間違いはないだろう。
ディアボロが逃げた二人を追わなかったことや、他に人を襲っていないこと、映像の履歴の中で姿を見せたディアボロが、再び部屋に戻っていることを考え合わせると、敵が今でも十三階に居る可能性が高い。
「今のところ動きはない、か。大人しくしててくれれば、いいんだけどね」
「今から命のやり取りをすると思うと‥‥怖くなって、きました」
グラルス・ガリアクルーズ(
ja0505)が憂いを込めて言うと、エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)は、息を一つ飲み込みんで、畏れを表すように身体を震わせた。決して畏れているわけではなく、むしろ彼にとっての戦いは、生を実感できる場であったが、その気持ちと真逆に振る舞うことは、経験上身につけた処世術であった。
(なーんてね)
「‥‥や〜れやれ‥‥これまた面倒だねぇ‥‥でもまあお仕事はキッチリとやるかねぃ」
撃退士・九十九(
ja1149)は、愚痴にも似た呟きを漏らすと、備え付けのパンフレットを閉じた。
十三階の大部分を占めるロイヤルスウィートルームは、普通の家よりもずっと広く豪華であった。料金の桁も普通とは一桁違った。もとより得られる情報に多くを望んでいたわけではないが、追加で得られた情報に戦いに役立つものは無く、色々な意味で裏切られたような気がして、一行の間には泥濘に踏み込んだような空気が漂った。
「‥‥カメラに映っていないなら、『それ以外』の場所に、いるってことだろうし」
「ミツクビだかミツウデだか知らんが、ようは叩っ斬れば、ええだけの話よ」
分からないことをくよくよ考えても仕方がない。鞍馬 理保(
ja2860)は屈託の無い声で言うと、輝くような笑顔を見せ、六角 結次(
ja2382)が、豪快に言い放つ言葉がもやのように漂う不安を吹き飛ばす。
「あはは、確かに。でも、露天風呂って言ったら、普通ナマケモノじゃなくて、ニホンザルの方が絵になるんじゃないかなあ?」
そんな二人の言葉に、ステラ・七星・G(
ja0523)は、ルール無用だからディアボロなのかと、不思議と納得する。
かくして一行はエレベータと階段、五人ずつの二手に分かれて十三階を目指すことを決断し、移動を開始する。
エレベータに乗り込むと、〆垣 侘助(
ja4323)が、十三階のボタンを押した。
金属の擦れる軽い音と共に、上の方からワイヤーを巻き取るモータ音が振動と共に五人を乗せた狭い空間に響く。息を呑むような緊張した時間が1分ほど続き、幸い何事もなく、エレベータは十三階に到着した。
その後数分を待たずに、階段からのメンバーも続々と到着。最後に到着したエンキ(
ja3923)が、敵の痕跡が無いことを告げた。
軽い音を立てながら、きらびやかに装飾された扉が揺れている。ホールからその扉までの間に遮る物はない。
ホールに置かれた観葉植物の葉が風に揺れていて、その扱いに侘助は複雑な感情を抱く。
ふかふかとした絨毯は綺麗だったが、よく見つめれば、ディアボロが、部屋から出てUターンした足跡が湿りとなって残っている。
「やはり、扉は閉まりきっていませんね。ディアボロが歩いて階を移動した証拠もありません」
言葉と共にソフィアが祖霊陣を発動する。アウルを発動すれば潜む敵に撃退士の存在を告げる可能性も高いが、自由な動きを制限することもできる。
――まだ敵の動きはない。
ディアボロは部屋の中だ。確信に近いものを得て、各々は互いに頷き合き、息を合わせたように光纏を纏う。
その直後、正面の扉が軽い音を立てて押し広げられ、外気を含む風が吹き込んでくる。それを無言の号令として、一行はロイヤルスイートルームに突入した。
部屋の中は冷え切っているものの、高い天井と広々とした空間。和洋折衷の煌びやかな内装は華麗で、正にロイヤルだった。
だが視線を見渡せば、窓ガラスの一部は無残に割れ落ちていて、雪混じり寒気と共に露天風呂の湯気が、もくもくと流れ込んで来ている。
その風呂から水柱と共に飛び出した三つの敵影が、急速に迫ってくる。
「ここがロイヤルスウィートルームかぁ。実際に入るのは初めてだよ‥‥」
素直な感想を漏らしながら、グラルスが左右にスクロールを引き開くと、空中に集まった光が球を形作る。
「悪いけど、ディアボロは、お客として扱うわけにはいかないんだ。早急にお引き取りを願うよ!」
声と同時に、発射された光弾は直線の軌跡を曳いて、先頭のディアボロに命中する。
それは結次の目の前に迫るディアボロであった。瞬間、白い光が爆ぜる。
「腕が長かろうが、こんだけ近かれば、意味もなかろ!」
閃光と湯気に黒い瞳がかすむ。だが瞬きと同時に袈裟懸けに振るった片刃の曲刀が、濡れた敵の身体に一条の傷を刻みつけた。
直後、肩に激痛が走る。生温かい血が腕を伝う感覚に、結次は敵の爪が、高速で振るわれたことを知る。
「せーの、覇ッ!」
かけ声と共に投じられた理保の苦無が、結次の眼前、敵の脇腹に突き刺さる。
敵は身体にめり込んだ苦無を、払い除けるように腕を振ると、足を止め、室内に展開した一行を見渡し、鬨の声の如き咆哮を上げる。
(‥‥首が無い)
高速で突き出された左のディアボロの爪撃を躱すと、侘助は複雑な気持ちを抱く。
ミユビナマケモノの見た目が、胴に頭がめり込んだような姿であるから。ため息に似た呼気を吐き出して、身を翻すと、続く動きで、苦無を敵の背に突き立てる。苦無は確実な手応えで敵の背にめり込んだ。続けて刃を振り抜こうとした侘助の腕を敵は身体を器用に回転させて、弾き飛ばす。
軽く刃を交わらせただけでも、多少は敵の力は読めるだろう。
「‥‥このルールブレイカー」
呟きと共にステラは侘助の狙った敵と対峙した。直後、後方へ向かう動きを留めようと盾を前に突きだして体当たる。その後方でソフィアは魔法の呪文を唱えると、生み出された光弾は真っ直ぐに発射される。
瞬間、光弾は敵の真正面に命中し、広がる閃光が室内の暗部を光で白く染めた。
刹那の光が広がる中、互いの位置を意識し、手近な敵に狙いを定める一行の内、エイルズは値踏みするようにディアボロを見比べた。直後、鋭い手の動きから放たれた苦無は、空気を切る音と共に右のディアボロに突き刺さる。
「まずは数を減らす。攻撃を集中させるぞ」
エンキは片刃の刀を構えると、エイルズに注意を向ける敵の前に躍り出る。横薙ぎの腕の動きに刃を乗せて、描かれた軌跡は空を切る音と共に敵の身体に一条の傷を刻む。
「そなたの相手は、我輩だ」
自信に溢れた声と共に後ろにステップを踏む。僅かに間合いを開けると、正面から敵と向き合った。
瞬間、敵の腕がふわりと宙を舞って、超高速の爪撃がエンキの胸を撫でる。刺されるような激痛と共に鮮血が溢れ出る。
「まぁ‥‥うちに援護は任せるのさぁ」
後ろの方から九十九の声が飛ぶ、引き絞られた弦から放たれた闇色を帯びた矢が敵の胸に突き刺さる。
一撃で相手を屠る力は敵味方共に無く、戦いは持久戦の様相を呈す。
手数の多さで、結果として敵の攻撃を散らす撃退士たちと、躱す以外にダメージの蓄積を防ぐ術のないディアボロ。
「‥‥おまあの相手はおいぞ、脇見はおいを殺しからにせ」
声に振り向いたディアボロの顔面を、結次の上段からの大太刀の一閃が捉える。
「覇っ!!」
「‥‥せいぜいもがきなさい?」
一拍の気合いと共に振り下ろされた反り身の片刃刀は、ダメージを重ね続けた敵の顔から胸までを、深々と斬り裂いて鮮血を噴出させた。間髪を入れずに、緑の放った光弾が命中して、その身を深く焼く。
「これで、終わりだよ!」
脚を踏み込みと同時に、理保の手先から放られた苦無が、広がる閃光を切り裂いて飛ぶ。
直後、悲鳴の如き咆哮を上げながら、飛来するそれを防ごうとする腕を切り裂いて、刃は鈍い音を立てて突き刺さる。
強固な肉体に守られていた敵も度重なる連撃を受けて、遂に限界の時がやってくる。
胸に深々と突き刺さった苦無を残したまま、敵は前に一歩を踏み出そうとして、蹌踉めくように膝を着いた。
轟音と共にステラがシールドで体当たる。敵の身体がぐらりと傾く。確かな手応えを感じた瞬間、鋭い腕の一振りがステラに襲いかかる。少女の背に突き立った爪が無造作に振り下ろされて、赤い燐光を放つ血液を噴出させる。
「ステラさん!」
スクロールに手を添えて叫ぶソフィア。だが攻撃の手は止めない。生み出された光る玉がそのまま弾丸と変わる。射出されたそれを防ごうと敵が翳した腕をすり抜けて、閃光と共に身体を焼く。
無骨な苦無を握りしめ敵の後ろに立つ侘助。振り上げ、振り下ろす動作の度に肩と繋がったような敵の首から赤黒い血が飛び跳ね、さらにグラルスが放った光弾が命中と同時に白い光を広げる。
瞬間、敵の口から血の塊が溢れ出た。それは身を焼く白い光に照らされて、石榴石の如くにキラキラと輝きながら床に零れ落ちる。
「‥‥仕方ないな」
円らな青い瞳で今にも倒れそうな敵を見据え、ステラは無造作にハンドアックスを振るう。薄れて行く白光の元、無骨な斧刃の白が儚く煌いて、深傷を負った敵の脇腹を深々と抉った。
束の間の沈黙の後、敵は小さく円らな瞳を瞬かせると、力を失って崩れるように倒れ伏した。
残る敵は一体。
ナマケモノは温泉には似合わないと思いながら、ステラは右側の敵に視線を向けた。
そこでは眼前に両手を翳したエンキが敵の爪撃を食い止めていた。三連の爪に刻まれた左手から血が零れ落ちる。
瞬間、闇色を帯びた矢が敵の身に突き刺さり鈍い音を立てる。
「――ありがとう。良い仕事だ。つーさん」
軽く突き飛ばすような腕の動きに続いて、振り抜かれた打刀の一閃。風に乗って、切れ飛んだ敵の毛が舞い、斬り裂かれた傷口の奥から赤黒い血が溢れる。
「あとは任せて良いかね?」
「忍んでばかりじゃ芸が無い」
エイルズは呟きと共に前に出ると、側面から敵に襲いかかる。敵の注意は正面側にはエンキに向いている。そう確信して器用に苦無を握り直すと、下から突き上げるように光纏を帯びたひと突きを放つ。瞬間、皮が裂かれる音と共に、抉り取られた肉片が宙を舞う。直後、円らな瞳を瞬きさせながら、血を吐き出し大きく身体を傾けて膝を着く敵。
「たまには、見せ場をいただきます」
勝利を確信したエイルズは、膝を着く敵の背を踏みつけて宙に跳び上がると、急落下の勢いを加え、頭上からの突きを見舞う。瞬間、鈍い衝突音を響かせて、ディアボロは倒れ伏して、動きを完全に止めた。
(‥‥今日の敵も、『敵』ではなかった、か)
かくして戦いは終わる。足下の亡骸に向かって、心の中で呟くと、エイルズは顔を起こして笑顔を見せる。
見渡せば、深傷を負っている者も居ないようだ。
室内の方は戦った分だけは相応に荒れていてが、柱や床が破壊されている訳では無い。恐らくは調度品を入れ替えて、床を張り替える程度で復旧は可能だろう。
戦果を確認すると撃退士たちは、互いの健闘を讃えながら、庶民に取っては夢の空間――ロイヤルスウィートルームを後にする。
「とこいで、おんしもまだ、暴れ足らんと違うか」
「吾輩が、か?」
後で手合わせを願いたいと笑う結次に、エンキは気さくに応えた。
やがて勝利を報告の報告を終えた一行は、人々は盛大な拍手と感謝の言葉に送られて帰路につく。
侘助も言いたいことは伝えることができたようだ。
吹雪き始めた雪は、春がまだまだ先であることを告げているようだった。