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例えば、指に出来たささくれを、指で摘んで引張ったとする。
根元の方へ向けて少しずつ剥がれていく糸のような皮。それが身体から離れた時に走る激痛。
ささくれという、一般生活でも生じる物でも忌避したい痛みが生じてしまうのだ。
ならば、目の前で声も上げることが出来ずに地面に伏す女性が感じた痛みは、その何倍と表現すれば足りるのだろうか。
「生きながらに皮を剥ぐなんて、何て惨い…」
程度の差こそあれ、蓮城 真緋呂(
jb6120)の言葉は一般的な感性を持つ者ならば誰もが抱くはずの想いのはずだ。
故に、それ以上の被害は許したくない。
自分達から見て十字路の中央に、獲物を見定めているのか周囲を何度も見渡している皮剥。
そして、守らなければならない者は手前に一人、奥に二人、そして右手側に一人。
まずは敵を左手側に押し込んで、一般人を危険から遠ざけなければならない。
現場に駆けつけ周辺状況を把握し、臨戦態勢に入るまでの僅かな間。
けれど、撃退士達は即座にそこまで判断を下すことが出来ていた。
「に、してもけったいな趣味してるなぁ…」
戦端を切ったのはゼロ=シュバイツァー(
jb7501)。その場に居る誰よりも早く地面を蹴り、一息で皮剥との距離を縮めていく。
「うち、手当ができるわけやないからな。草摩くん、蓮城くん、よろしく頼むわ」
続くように、黒神 未来(
jb9907)が一声残してアウルの闇にその身を溶けこませれば、皮剥目掛けて走りだした。
同様に糸魚 小舟(
ja4477)も自身の気配を薄めることで急速にその場での存在感を手放し、奥で腰を抜かしている二人目掛けて駆けて行く。
二人が走り出すのと同じタイミングで、ゼロと皮剥の距離が完全に詰まる。
流石に皮剥もゼロが敵意を持って近づいてきたのは分かるのだろう。
獲物を求めるようにあちらこちらへ散らしていた視線をゼロへと向けた、瞬間。
ゼロが動いた。右手に漆黒のアウルを集めれば、皮剥の左側面から相手を突き飛ばすべく掌底を放つ。
速い。表情を浮かべるためのパーツが顔に存在すれば、皮剥は驚きに目を見開いていただろう。
身体を捻り腕を盾にすることで衝撃を殺すことが精一杯。突き飛ばされた衝撃を踏ん張る足が止めることが出来ない。
地面に二本の線を引き続ける足が、摩擦によってようやく停止。
その隙に、倒れている女性に真緋呂と草摩 京(
jb9670)が駆け寄る。
更に青戸誠士郎(
ja0994)の巨体が女性と皮剥との間に壁を作り、その身を以って女性を護る盾となる。
「私達撃退士が来たからには、もう安心ですよ」
そう声をかけながら真緋呂が女性の脇の下、止血点を強く圧迫することで、女性の腕から流れ続ける血を応急的に止める。
彼女の脳裏に浮かぶのは、かつて救えなかった誰かのこと。
今度こそ、本当に助けたい。そう願う心がアウルを介して女性に伝わったのか、青ざめ震える女性の表情が、少しだけ和らいだように見える。
「一先ずは大丈夫そうでしょうか…青戸さん、お願いします。他の方が相手を押し込み次第、移動しましょう」
「了解しました……おいで、癸」
敵の様子を観察しながら声を発した京に応じて、誠士郎が三首のストレイシオンをこの場に呼び出しその巨体で皮剥の目から女性を隠す。
そして本人は真緋呂と京に手伝ってもらいながら、そっと負担をかけないように女性を背負う。
至急の対応が必要である怪我人への接触に成功し、多少なり一般人とディアボロとの距離を取ることは出来た。
まず第一段階は成功か。
一瞬の攻防に手応えを感じたゼロが更に皮剥を押し出そうと足を踏み出しかけ、
同時に、皮剥も動く。
ゼロを迂回するように、撃退士から最も遠い場所で腰を抜かしている二人の男女の下へと。
「あ! おいコラ! こっちは無視かいな!」
元より、皮を剥ぐ事を目的に動くが故に、皮剥。撃退士の攻撃で弾かれたからと言ってそのままその場所に留まる訳も無し。
連撃で一気に押し込む事を想定していても、一度弾き再度距離を詰めるまでの間に出来ることはいくらでもある。
一般人から距離を取らせる、そして相手の動きを封じ込める。一般人の安全を確保するためにはどうしてもその二つの行為が必要となる。
前者は、十分に備えがあった。だが、後者は?
「罪を償う為…ふふ」
マルドナ ナイド(
jb7854)が皮剥の動きを止めようと、自らの舌に犬歯を突き立てる。
白い歯が、ずぶりと肉に埋まる。
甘美な痛みと共に咲き誇る緋色の彼岸花が、皮剥の脳裏から痛みを引っ張り出し現実の物と誤認させる。
想起する痛みは、何かに刺し穿たれたような、そんな痛み。
走りだした皮剥の足が、突如生じた痛みに確かに緩んだのをマルドナは見た。
けれど、痛みよりも優先することがあるのか、足の力が緩んだのは一瞬のこと。
近場にいたゼロが進路を塞ぐよりも早く身体をトップスピードまで持って行き、迷うことなく一般人へ。
皮剥の足を止めるための手立てが足りていない。一般人へ向かうその足を止めることが、出来ない。
「速い……!」
狙われた男女の護衛を担当していた小舟が皮剥の挙動に気付き、更に足を早める。
しかし、多少押し退けられた状態であってもまだ皮剥の方に距離の利があった。
守るか剥ぐかの競争は皮剥に軍配が上がる。
「ひっ」
「逃げろ!」
恋人同士か何かだろうか。皮剥に詰め寄られる中、それでも何とか男が女を突き飛ばすようにして逃す。
その結果、皮剥に向けられた男の無防備な背中目掛け。
「――サム、イ」
皮剥の爪が、振り下ろされる。
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(意識在るままに皮を剥ぐ…ですか)
まるで布を引きちぎるような乱雑さで、皮剥が強引に男の皮膚と肉とを引き剥がしていく。
筋繊維がたまらず悲鳴を上げ、更にそれを塗りつぶさんばかりに男が痛みに絶叫を上げた。
地獄のような光景。筋が外気に晒される刺激など生きている内に体験するはずもない。
だというのに、現場を見つめるマルドナの視線は何処か、蕩けたような熱を帯びていた。
「全く。足が速いのう。追いつけなんだ、腹立たしい」
「――テス、貴方の大切な家畜が啼いているようですよ。行ってあげないのですか?」
予想以上に皮剥の出足が速かった。間に合わなかった初動を忌々しく思う色を込めた呟きに、マルドナは誰もいない右の空間へ声を。
声をかけられた空間に、薄ぼんやりと黒い獣のような何かが浮かび上がる。テス=エイキャトスル(
jb4109)が身に纏う、敵意からの認識を曖昧にするアウルの衣だ。
「皮剥ぎは拷問に使われるくらい痛いからのう。
とはいえ、最終的に目指さねばならん所はもっと先じゃ。被害が出た今、皆が大挙して一箇所に押し寄せても得られるものは少ないじゃろう」
これ以上の被害を許さぬためにも、一刻も速く一般人から皮剥を引き離す必要がある。
迅速に叶えるためには、皆で皮剥へ押し寄せるよりも、仲間に合わせて動きを繋いでいくことが必要だ。
それは承知しているのか、機を待っているのはマルドナも同様のようだ。
しかし、テスが口にした『拷問』という単語に、マルドナの口から甘く熱い吐息が一つ漏れた。
まるで次は己にそれを課して欲しいとでも言うように。贖罪という建前の元、痛みに甘みを見出す雌は、ぞくりと背筋を震わせる。
「それは、とても痛いのでしょうね、辛いのでしょうね、あぁなんて可愛そうに…」
「……主は未だ欲界じゃのう、まあ嫌いではないが」
交わす言葉の先、皮剥は今剥いだばかりの皮を右手に持ったまま、今度は突き飛ばされたまま動くことの出来ない女の方へと歩みを進め、手を振り上げる。
「サムイ……」
「……それは、寒さとは違う、衝動でしょう…」
だが、皮剥の爪が女に食い込むよりも早く、追いついた小舟が割って入ることで女を庇う。
細い体躯に食い込んだ爪の先から何かが小舟の体中を巡り、身体の自由を奪っていく。
事前説明で動きを奪う術が示唆されていたが、成程、この爪か。
思い出す。被害にあった人々や獣達のこと。
震え続ける歪んだ熱への渇望者。
彼が生み出す恐怖への被害をこれ以上出さないために、今倒れてしまう訳には行かない。
崩れ落ちそうになる身体に無茶を命じ、手に持つ苦無を横に薙ぐように一閃。皮剥を傷つけることは叶わないまでも、回避行動を取らせることで一般人との距離を作る。
「これ以上のおいたはアカンで!」
そうすれば、ほら。後は仲間達に任せることが出来る。
ゼロが漆黒の大鎌、その持ち手部分を棍のように突き出し穿ち、皮剥の身体を押し出すことで一般人との距離を更に大きくする。
「オーライ、ゼロくん!」
一度弾き再度距離を詰めるまでの間に皮剥が出来ることはいくらでもある。
ならば、皮剥が動く前に二人目、三人目が追撃をかけることで、皮剥の動きを潰してしまえばいい。
突き飛ばされた皮剥の首下目掛けて伸びる未来の腕。
ゼロのように相手を綺麗に突き飛ばす術を未来は知らない。けれど、投げ飛ばすことで相手を動かしてしまうことは出来る。
皮剥の首に巻き付いた腕に力が込められ、そのまま首投げに移行。
制動の最中投げられた形ともなればまともに受け身を取ることが出来ないのか、先の皮を剥ぎ取る音とは違う方向で痛そうな音が周囲に響く。
それでも皮剥が何とか起き上がろうとする瞬間を見極め、テスが駆けた。
「何故寒いか? 主に足らぬは皮に非ず。熱とは命の放つエネルギー」
伸ばした手に、皮剥は反応出来ない。
宝物のように抱えていた皮が、最初からテスが持っていたかのように彼女の手元に収まる。
寒いとは、奪われるということだ。
テスが皮を奪ったように。皮剥が誰かの皮を奪うように。
皮剥は何を奪われ寒いと口にするのだろうか。その答えがテスには分かったような気がする。
だから。
「主には命が足りぬ、故無意味なり」
「アアア……!!」
無造作に、皮が放り捨てられる。
一般人から更に遠ざかる位置に放られた皮を、皮剥が奇声を上げながら回収に走る。
最早皮以外は眼中にないのか。先程までは多少なり存在していた筈の、撃退士への警戒がその姿から一切見られることが出来ない。
当然、その隙を撃退士達が逃す筈もない。
「あなたは寒いと言いますが…私は熱くなってしまいました」
頬を朱に染めながら、マルドナが魔導書から剣を生む。
この火照りをどう冷ませばよいのか。
いっそ剥いでもらえば少しは――…そこまで考え、僅かに首を横に振る。
そんなことをされたら、きっと更なる熱を産むことになるだろうから。
生み出された剣が、彼女の腕に突き刺さる。脳を焼き尽くす痛みの奔流が、マルドナの魔力を介して皮剥に伝わっていく。
更に、未来の暴力的な視線と誠士郎のストレイシオンが放つ雷のような呼気が皮剥を蹂躙すれば、最早その命が風前の灯であることは瞭然だった。
「サ、ム、ぃぃいいッッ!!」
身体全てを使って守りぬいた、たった一枚の人の皮を抱えて皮剥は逃走を図る。
「震えるか? 顔無き者よ」
「逃さへんで。速さには自信あんねん」
けれど、テスとゼロが、既に退路を断つべくその進路上に回りこんでいた。
二人を押し退け何とか逃げようと速度を緩めぬ皮剥の周囲、気温が急激に落ちる。
空気が凍り弾ける音。凍てつく空気が周囲を侵食し、皮剥に存在していた僅かな熱さえも奪い尽くしていく。
皮剥の足から力が抜ける。
それが寒さへの防衛本能として眠りに落ちたためなのか、最早動くことが出来ないのかは分からないが――
ひゅん、とゼロが無造作に鎌を振るう。
首と胴が離れてしまった皮剥の命が、寒さで凍りきったことだけは確かなようだ。
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怪我人は二人。出血は恐らく致命にはならない。
感染症の可能性は否定できないが、それはここで判断するよりも本職に任せてしまったほうがいいか。
考えを進めながらてきぱきと応急処置を進める京に、真緋呂がフルートとタオルを差し出した。
「草摩さん。緊縛が必要なら、これ使って」
「助かります」
迷うことなく受け取ると、それを利用して止血店の圧迫を強める。
緊縛は圧が足りなければ意味がない。布だけでは緩んでしまう為、何かしら棒のような物で圧えてやる必要があるのだ。
応急処置の知識が深い者が二人も居ると、処置の精度も跳ね上がる。
危害を受けた二人の顔色は、素人の未来から見ても落ち着いたように見える。
彼女は二人の迷いのない手立てを感心したような目でしばし見ていた。
そして、自分に出来ることもあるはずだと二人に近寄り声をかける。
「はー…二人共凄いなぁ。うちもなにか出来ること、ある?」
「朝比奈さんに連絡をお願いできますか? 救急隊の待機要請をしてあります。戦闘は終わりましたし、至急来てもらうようにと」
「おっけ、任しとき!」
その周囲では、残った撃退士達が襲われなかった一般人の保護と周辺の警戒を行っている。
「……恐ろしかったでしょう…、頑張りましたね…。協力して下さって、ありがとうございます…」
肩口から滲む血を手で隠しながら、皮を剥がれた男がかばった女へ小舟はそう語りかける。
戦闘後、まずは小舟を治療した方がいいのではないか、という声も上がりはしたのだが、彼女自身がまずは一般人を、と言って聞かなかったのだ。
存外芯が強い、と誠士郎は感嘆の念を小舟へ向けながら、皮剥の亡骸へと歩み寄る。
皮剥は、最後に一枚残った皮を抱くような格好で、事切れていた。
寒いとは、奪われるということだ。
そして、奪われていたものが、皮剥の命だったとしたら。
戦闘中のテスの声を思い出し、不意に誠士郎の脳裏にとある考えが浮かぶ。
もしかしたら、皮剥はすでに寿命が近かったのではないだろうか、と。
サーバントにしろディアボロにしろ使い捨ての兵隊であることが多く、その寿命はそれほど長くない。
寿命が近づき己の命が消えていく感覚を、皮剥は「寒い」と認識した。
例えば寒さを埋めるために、生きた熱を保持する皮を剥いで、それを纏うことで命が永らえる錯覚に自分を満たしていたのではないだろうか。
「せめて今度こそは安らかに眠ってください」
呟く誠士郎の傍らに、京が並び立つ。
その手には、ゼロが使えるかもしれないと持ち込んでいた毛皮のコート。
京は静かに皮剥の亡骸へ歩み寄ると、手に持っているコートをかけてやる。
欠落と虚無のみを植え付けられた空虚な人形が、哀れだと思う。
ディアボロの核は人間だ。どうして、彼はディアボロになってまで無意味に苦しまねばならなかったのか。
目を閉じて、祈る。
いつか悪魔を倒し、その魂を解放してみせる。
だから、今はその眠りが暖かなものであるように。亡くなったもの全てが寒さに震えることが無いように。
小さな祈りが、初夏の空に溶けていった。
(了)