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降り続ける雪の中、女の姿をした何かはずっと海の方を見つめている。
周囲には何も無い。雪しか無い。雪女として生を与えられ、今に至るまでその在り方は殆ど変わらない。
ふ、と。雪女は小さく嘆息する。それが何を意味するのかは、雪女自身にもよく分かっていないのだが――…
不意に、視線と身体の向きを左へ90度ずらす。先程追い払った存在とはまた違う存在の姿。
降りやまない雪の向こうで無尽の光、六つ。
周囲に風は吹いていない筈なのに、心なし雪が横方向に流れたように、雪女には見えた。
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ざくり、と雪を踏んだ時のくぐもった音だけが、世界の全てだった。
雪は周囲の音を吸い取る。故に雪の降る日は静かだと相場は決まっており、止む事の無い雪が続くこの場所は当然、静寂に包まれている。
「うおおおお、さむーっ、でござるー?!」
「なんだよもー、さみーよバカー!」
……そこで能動的に音を発する者が居なければ、の話ではあるが。
エイネ アクライア(
jb6014)とカマル・シャムス・カダル(
ja7665)は防寒具の上から袖を擦りつつ、歯をガチガチ言わせて凍えていた。
事前に防寒具は着こんできたが、それでも寒いものは寒い。
エイネが用意していたカイロで暖を取っているのを見ながら、ディザイア・シーカー(
jb5989)もぼやくように呟く。
「出る時期と場所、間違えてんだろ……」
「だから、天魔なんでしょ」
ディザイアの言葉に被っていた笠の雪を落としながら相槌を打つ八神 翼(
jb6550)の表情は固い。一体でも多くの天魔をこの手に。気を抜いたら飛び出して行ってしまいそうな激情は、意識して抑えなければ溢れ出してしまう。
(首を洗って待っていなさい)
手元の磁石で方角を確認する。先遣隊の報告で敵を見つけた位置まで、あと少しだ。
「季節外れの雪を降らすたあ迷惑極まりねえぜ! 早くとっちめてやらねえとな!」
こつん、と両の拳を合わせて獰猛に笑うのは崋山轟(
jb7635)。南北を天使と悪魔に抑えられている種子島の住民のことを思えば、早急に事態を収束しなければ、と考えるのは当然のことだ。
「轟殿の言う通りでござる。拙者達は、そのために種子島に馳せ参じたのでござるから」
時代がかった口調で鳴海 鏡花(
jb2683)も頷く。足場が悪い、視界が悪い、寒いと悪条件が三拍子揃った異質な世界。
戦う術を持たぬ人間に、これ以上不安を抱かせる訳にはいかない。
「――いたでござる」
メンバーの中で唯一ゴーグルを着用している為、雪がどれだけ降ろうが目を思い切り見開いて周囲を見渡す事が出来るエイネが、白い世界に黒を見つける。報告通り、白い着物に黒い髪。雪女の姿だ。
各々が足を止め、光を纏う。更に、ディザイアとエイネはそれぞれ翼を顕現させて低空飛行を始めた。これならば、雪に足を取られず動き回る事も出来る。
戦闘準備を終えたのとほぼ同時に、雪女がこちらを向く。
「臨戦態勢、上等だ! 行くぜ皆!」
轟がそう叫んで一歩、足を踏み出して。
静寂の世界に、刹那の暴力が響き渡る。
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寒さも足元の悪さも事前準備によって対策が出来ていたが、視界に対する事前準備はやや不安が残っていた。その不安は、動き始めてからより具体的に撃退士達の目に突きつけられることになる。
「くっそ、動きながらだと余計に雪が邪魔だな…!」
まずは距離を詰めねば話が始まらない。走り始めた轟であるが、忌々しげにそう毒づいた。
風が殆ど吹かない状態でも、自分が動き回っていれば相対的には吹雪の中に居ることと同じだ。降り続ける雪が目に入ってしまえば、反射的に目を閉じてしまう。
それを回避できるのは、ゴーグルを着用しているエイネと、笠を被ることで目の前の空間に雪が存在しない空間を作った翼くらいだろう。
それ以外のメンバーは、戦闘中に完全に視界が閉ざされる事を避けるために自然と目を細めてしまい、結果視界がより悪くなってしまう。
「おーい! ゆっきーのばかちんやーい!」
雪女へ接近しながらカマルが声を張り上げる。
ゆっきー、とは雪女のことだろうか。翼は前衛をフォローできるように立ち位置を調整しながらカマルの視線の先を追いかける。見ている限りではカマルの目は雪女を捉えており、翼の仮説は当たっているように見える。
まさか雪女も自身をゆっきーなんて愛称で呼ばれる日が来るとは思っていなかっただろう。くつり、苦笑を一つ浮かべて改めて意識を研ぎ澄ます。
呼びかけられた声に反応したか、雪女の視線がカマルへ。
右手をかざす。雪女の頭上に現れたつらら、三つ。それらが意思を持っているかのように、降り続ける雪を切り裂いてカマルへ飛んでゆく。
当然、それを黙って見ている撃退士では無い。鏡花がつららを迎撃すべく符から雪玉を生みだし、翼がカマルに意識が向いた隙を縫い、雪女へ雷の刃を飛ばす。
割り込むように命中した雷によりつららの速度は緩み、雪玉がつららを一本、破壊する事に成功する。更にカマルも自身へ攻撃が向く事は想定しており、回避のための立ち回りは意識し続けていた。
「ぃ、ぎ……!?」
だが、カマルの身を包む冥界の力が強すぎた。天界の従者たる雪女との間に生まれる磁石のような力がつららをより早く、強力な物と成す。襲い来るつららの内一本が、カマルの脇腹を貫いた。
「カマル殿!」
「だいじょぶ……! やったなゆっきー! ボコボコにしてやるからな!」
鏡花の声に痛そうな声で応じたものの、カマル自身はまだまだ動く事が出来る。手刀で刺さったつららの内邪魔な部分だけを叩き落とし、つらら自身で血が外に溢れないよう栓をする。
「だ、そうだぜ、ゆっきー? だがその前に、俺の相手をして貰おうか。他所事に手が回らないくらいに、な!」
生じた一瞬の攻防の間にも状況は動き続けている。ディザイアは飛行によって雪に足が取られない利を活かし、一息で雪女へと肉薄。懐に収めていたペイントボールを握りつぶしつつ、拳打を見舞う。
「気を惹いてくれたかまる殿に感謝、でござるな」
同様に飛行で足元への負担を無くしたエイネも、右側面から雪女へ接敵し、ペイントボールを投擲する。
攻撃の後に生まれた隙を縫うように放たれた二つの挙動に回避が間に合わない。雪女が纏う衣服の側面、そして心臓部に鮮やかな朱色が生まれる。
あたかもそれは、血のようで。
ぽたりと雪原に零れた赤は、一つの命の終わりを予期しているようだった。
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ペイントボールによって白の世界に朱が生まれた。とはいえ、雪によって瞼が狭まってしまう状況には変わりがない。咄嗟の判断の一助には間違いなく成り得るが、視界が悪いという状態には変わらない。
けれど、その状況は鏡花によって一変する。
「雪女を攻撃する者達、遠慮なく参られい!」
左のみの黒翼が僅かに震える。アウルを練り上げ極寒の世界に顕現するは、巨大な炎球。
鏡花はそれを雪女では無く、その周辺の中空へ向けて放った。
まともに食らえば身体の動きが鈍ってしまうレベルの熱量を持つ火球。空間に放たれたそれは降り続ける雪を溶かしていき、周囲の視界を急速にクリアにしていく。
勿論、熱が振りまかれたのは一瞬。相変わらず頭上には雲が立ち込めており、そこから降る雪はまたすぐに、視界を白に閉ざしてしまうだろう。
けれど、その一瞬があれば撃退士には充分だ。
まず雪女に武器を振るったのはカマル。先程のお返しだ、と言わんばかりの勢いで肉薄し、深紅に染まる大剣を叩きつけるように振るう。
先程のつららが彼我のレート差によって加速された一撃ならば、カマルの一撃もまた然り。
咄嗟、右手に氷の剣を生みだして防御姿勢を取った雪女だが、振り下ろされた大剣を受け切れない。直撃こそ防いだが、全身を襲う衝撃にその動きが硬直する。
「さぁ、いきますよ。覚悟してもらいましょう」
それに追随したのは、翼。無防備な雪女の背中へ回り込み、全身に流れる電気を増幅させる。
「喰らいなさい、雷帝虚空撃!!」
大気を容赦なく切り裂くは雷帝の名を冠した彼女の得意技。見た目の派手さ以上に目につくのはその制御の緻密さか。敵味方が入り混じる空間で解き放った術だと言うのに、彼女の雷は雪女以外を撃たない。
「カ……っ!」
一瞬、意識が飛びでもしたか。びくりと身体を震わせた雪女の口から、苦悶に満ちた声が絞り出される。
一対多の状態でこれ以上足を止める事は出来ない。既に出来上がりつつある包囲網から逃れようと足を動かし――、
「逃がさねえ!」
轟が、それを阻む。雷撃の後に追随するように雪女の背面へ肉薄し、雪女が足を動かしかけたその瞬間に人間ならば心臓がある部位を目がけ、トンファーが突きささる。
「へっ、手も足も出ねえ気分はどうだぁ!!」
確かな手応えに轟の口から飛び出したその言葉に答える手段を、雪女は持っているのだろうか。
仮に持っていたとしても、体中に痺れが走り動けないほどの痛打を受けてしまった以上、答える事は出来ないのかもしれない。
雪が、再度視界を覆い始めた。それは純白の世界を構築するパズルの欠片。出来あがった世界の中では、誰もが寒さから目をそむけるように視界を狭めてしまう。
「ちっと寒いんでな。燃えてくれや」
「往生するのでござるよー!」
けれど、動かぬ相手を狙い撃つだけなら、目を閉じていたって出来る。
ディザイアとエイネが両の側面を取り、焔を顕現させた。示し合せた訳ではないが、作り上げた焔が放たれたのは、同じタイミング。
放たれた焔の槍が、振るわれた刀から形成された焔の矢が、一直線に雪女を射抜いて行く。
雪女の着衣を燃して更なる目印に――とも期待していたが、雪の世界の住人が纏う衣装だ。着火までには至らない。
それでも。両側面から身体を貫く刃は雪女から抵抗する為の力を奪い去っていくには充分過ぎて。
「終わりだよ、ゆっきー」
最早身体を動かす余力も無いのか、その声に雪女は視線だけで反応した。
視線の先は、真正面。大剣を構えたカマルだ。既に体内でアウルを燃やし、蓄えられた力が解放されるのを今か今かと待ちわびている。
「…………」
目が、合う。
そして雪女は、合わせた目線を外し、カマルの後ろを見遣った。
その動きがトリガーとなり、大剣が横薙ぎに振るわれた。舞い続ける雪ごと世界を断ちかねない勢いの一閃が、雪女を上半身と下半身に両断する。
宙を舞う雪女の身体が最後に見た景色は――
褐色の少女の背後、降り続く雪の向こうに見える海だった。
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断ち切られた雪女の上半身が地面に着き、初雪が消えるように融けていく。
それと同時に、一際強い風が周囲に吹きこんだ。
撃退士達は思わず身構えたが、その風には最早冬の冷たさを帯びた空気は含まれない。秋晴れの日にふさわしい、暖かな快風である。
天魔が消滅すれば、それによって引き起こされた異常気象もまた消滅する。吹き込んだ風は世界に生み出された歪な雲と雪を掃き流してしまう為の物だったのかもしれない。足元を見れば、あれだけ動きを邪魔していた雪も既に存在しない。立っているアスファルトは乾燥しきっていて、一瞬前まで雪があった事を疑ってしまう程だ。
「……とにかく、これでこの辺りの天候も回復したわね」
菅笠を外しながら、確かめるように呟く翼。身体に差し込む日差しに、直に暑くなる事を悟って羽織っていたコートも脱ぎ始めた。
それに倣う様に巻いていた赤いマフラーを外しながら、緊張の糸が切れたか緩く息を吐き出しつつ鏡花はぽつりと、
「無事に依頼も終わったし、熱い茶が飲みたいでござるなぁ……」
「持ってきているでござるよ? 鏡花殿も飲むでござるか?」
「準備良いでござるな!?」
持ってきていた水筒に詰められた熱いお茶を飲みながらそう告げるエイネに思わず声を上げてしまう。
けれど、冷え切った体に熱いお茶の誘惑は強すぎる。お願い致す、と迷うことなく両手を合わせる。
「……おいカマル、どうした? 大丈夫か?」
そんな中、不意にディザイアはカマルの様子がおかしい事に気が付く。
端正な顔立ちは歪んでおり、その視線は雪女が消滅した地点を見つめたまま、動かない。
「そういえば、最初につらら受けてたな。それが痛むのか?」
轟も慌てたようにカマルに駆け寄って様子を見るが、撃退士の基準でいえばそれ程大したことの無いような傷に見える。
轟の問いに、カマルはふるふると首を横に振って。
「最初っから気になってたんだ。なんでゆっきー、海なんか見てたんだろうって。
元は海が好きな奴だったんかな……とか。そんな事考えちまうと、ちょっと悲しくなってさ」
戦いの最中でも抱き続けていた疑問が、最後の一合の瞬間、溢れてしまった。雪女は最後に、命を奪う脅威に抗うことよりも、海を見つめる事を選んだのだ。
それが何を意味するのか、最早知り得る術は存在しない。
「……思う所は人それぞれ、だからな。例えサーバントでも俺達が人を守る為に戦っていたのと同じで、戦う為の何かがあったのかもしれないな」
ぽん、とカマルの頭に手を乗せてやや乱暴に頭を撫でながら、ディザイアはぶっきらぼうにそう告げた。
(……私は、あまりそうは思いたくないけれど)
翼は、ディザイアの言葉を頭の中で反芻し、目を閉じる。
天魔は肉親の仇であり、憎むべき対象だから。
そうである為に、共感を覚えてはいけないと思うのだ。刃が鈍らぬように、心が迷わないように。
「とりあえず、そろそろ戻りませぬか。雪がやんだとはいえ身体が冷えている事には変わらないでござる。お風呂でも借りて一服するでござるよ」
「お風呂!?」
鏡花のその言葉に、カマルが顔を上げる。先程までの悲しげな表情は何処へやら。きらきらと目を輝かせるその様子に、一同は思わず笑ってしまう。
「そうと決まれば、行くでござるよ! 拙者、先に行って話をつけておくでござる!」
エイネが地を滑るような勢いで駆けて行き、それを追うように一人、また一人とこの場から立ち去っていく。
最後に残った轟は先程カマルが見ていた地点、雪女が最後に倒れた箇所を一瞥し――
「――せめていい夢見ろよ、雪女さん!」
踵を返し、仲間達に追い付くべく走りだす。
秋晴れにそぐわぬ雪の軌跡は、最早欠片も存在しない。
もうすぐ冬になる。種子島に今年、雪は降るのだろうか。
帰路に向けて足を進める六人は、そんな事をふと考えるのだった。
(了)