●
シマイが生み出した紫色の蝶が戦場を舞う。
蝶の正体が何かは分からないが、シマイが生み出したものだ。
まかり間違っても観賞用の物では無いことは確かだろう。
悪魔の尖兵となっているのは赤い靴を履かされた一般人。
それを護ることを考えるのならば、あの蝶への警戒も行わねばならないはずだ。
始まる前から厄介な条件が重なり続ける戦場。誰もが身体中に緊張をみなぎらせる中、
「うおーシマイだー! 相変わらず変態な笑顔してるね! 流石だね!」
各々の緊張感を吹き払うように声を上げたのはファラ・エルフィリア(
jb3154)。
傍らのヘルマン・S・ウォルター(
jb5517)の上着の裾を引きながら、指までさしている。
動物園の見世物を目の当たりにした時のような声に、流石の悪魔も間を狂わされたように見えた。
かくり、小さく肩が下がる。
「…ファラ殿。その笑顔は何ですかな?」
「おじいちゃんも、負けてないと思うのよ?」
すっとぼけた顔で親指立てつつそんな事を言ってのけるファラを後ろへやり、ヘルマンは咳払い一つで仕切り直し。
はい、テイク2。
「随分と久しぶりだね。いや、悪かったね。
もっと遊んであげられれば良かったんだけれど、俺も色々忙しくてさ」
「お気になさらず。こうやってまたお会いできたのです。それで、帳消しでございましょう。
お会いできて非常に嬉しく存じますが…また、邪魔させていただきますぞ」
「へえ、何で?」
緩い微笑の奥。楽しそうに歪む眼がヘルマンを睨めつける。
その目線を真っ向から受け止めると、彼は愛用の大鎌を構え、一歩前へ。
「貴方が楓殿の様を見るのが好きなように、私も貴方の嫌がってくれる姿が好きでございますので」
「ははは、嬉しいこと言ってくれるね。そんなに想われているとは思っていなかったなぁ」
「梓殿は諦めてもらいますぞ。かの君の望むことなら全て叶えましょう。
彼を縛る茨は――不要でございます」
二人の会話を尻目に、アンジェラ・アップルトン(
ja9940)は梓の移送部隊と再度連絡を取り合う。
盗聴対策に移送部隊とは進行方向を偽装して連絡しあうことが打ち合わせられている。
向こうが盗聴するかまではわからないが、打てる手は打っておくに越したことはない。
今の所はまだ、予定通りのルート。
(それにしても)
一度ならず人類に先手を打たれ、守りを固められているこの状況。
なぜ、シマイは攻め入ってくることを選んだのか。
天使ほど必死ではない、と言ったのは本人だったはずなのに。
そこまで考えかけ、楓か、と。彼女はその理由を推測する。
何故、それ程までに楓に執着するのか。
それを問うてみたくはあるが、緩い笑みの奥にある本心を引き出すのは、後でもいい。
「さ。いい加減通らせてもらうよ。眠り姫も待ちくたびれているだろうしね」
シマイの声に呼応し、赤い靴を履かされた五人の男女が槍を構え、少しずつ前進を開始する。
改めて各々が構える中、ヘルマンのイヤホンに流れてきた陽動班からの言葉、一つ。
今眼の前に居るあの悪魔。彼に、きつい一撃を。
「ええ。可能であれば、是非にとも」
その言葉と同時にシマイの指先から再度、紫の蝶が生まれた。
●
護り抜く。その一念で戦場に立つのはファリス・メイヤー(
ja8033)。
未だ動かぬリーン四方を固める赤い靴をちらと見遣り、そして視線の先で動き始めた赤い靴に意識を戻す。
リーン周辺の靴達は今の所動く気配が無い。
動きがあればすぐに対応に当たる必要があるだろうが、まずは目の前の五体だ。
彼我の距離、おおよそ20m。
ディアボロ相手ならば射撃の一つでも入れる所だが、操られている一般人にそれを行う訳にはいかない。
盾を構えるアンジェラと並んで前進開始。撃退士という壁をより前方に作る必要がある。
勿論、この時誰もが赤い靴や悪魔の動向に加え、シマイが呼び出した蝶の動向には注意を払っていた。
しかし、最初に呼び出された蝶は赤い靴達に近すぎる。
不確定な要素は除いておきたいが、蝶が何をもたらすのか見えない現状、一般人近くの蝶を迂闊に処理することは出来ない。
三匹の蝶は赤い靴を追うように進み、彼らが構える槍の穂先に静かに止まった。
「言わなくても分かっているだろうが、敢えて言っておくぜ。
ここを通りたければ、俺を倒してからだってな」
蝶が付かなかった二体が一息早く撃退士を射程圏内に収める。
それに立ち塞がったのは向坂 玲治(
ja6214)。
肩に白い豪槍を担ぎ、空いた左手で中指を立てて挑発するように二体の赤い靴の前で不敵に笑ってみせる。
その挑発を受けたのか、あるいは彼を除けねば進めないと判断したのか。
二体はタイミングを合わせると左右から同時に踏み込むと共に、強烈な刺突を繰り出してくる。
迫る二閃を担ぐ槍を盾に受け止める。
岩に刃を突き立てたような手応えが二足の靴に返った。傍目でそう確信できるほどに玲治は微動だにしない。
「オラ、どうしたよ。その程度じゃ周りを囲う茨も切れねえぜ?」
他方。蝶の付いた槍を構える赤い靴達も次々と交戦圏内へ踏み込んでくる。
紫色の蝶。その意味を真っ先に理解したのは、アンジェラ。
蝶の止まる槍の穂先を構える盾で受け止めた次の瞬間。紫色の焔が爆ぜた。
「――っ!?」
強烈な熱と衝撃に目を見開く。
治癒を自身に施し痛みを和らげるが、その側面からもう一体。
咄嗟に盾を構えようとするが、身体が麻痺したように動かない。
受けが間に合わず、腹部を抉る刺突の痛みの直後に生じた爆発で早くも意識を失いかける。
歯を食いしばって意識を繋ぎ止めている間にファリスが更に治癒を施し、痛みが意識を繋ぐレベルまで立て直すが、体の中に違和感。
蝶の爆発に、毒のようなものが含まれていたかもしれない。
「爆弾、か…!」
外部からの衝撃の他、内部からも身体を蝕んでいくやり方はシマイという悪魔のイメージ通り、嫌らしい物だ。
三匹目の蝶が付いた槍は靴の進路上に居たファリスへと狙いを定める。
彼女は盾ともなる籠手でそれを受け止め――アンジェラと同様、爆発。
強烈な一撃に弱気になりかける心と痺れる身体を、青銀色の髪を揺するように顔を振るい、奮い立たせる。
通さないと。護り抜くと決めているのだ。己の矜持のために。誰かの願いを叶えるために。
「傷つけるワケにも行かないけれど通すワケにも行きません、ってね!」
三回の爆発が収まった直後、言葉と共に玉置 雪子(
jb8344)がアンジェラを襲った二人を真横へ押しのけるように冷たい風を巻き起こす。
突如発生した冬を思わせる冷たい風に踏ん張りが利かず、二体は風の吹く方へ流されるように位置を動かされる。
丁度、玲治が二体を相手取っていた方向だ。
「今ですぜ向坂先輩!」
「いい位置だ。派手に蹴散らせてもらうぜ…!」
射程内に四体、一網打尽の位置。
玲治は槍を大きく振りかぶり、次の瞬間にはそのまま叩きつけんばかりの強い眼差しで四体の靴を睨めつける。
咄嗟、槍を盾にしようと靴達は武器を構えるのだが、最上段に構えたまま1秒、2秒、必殺が振るわれない。
「……なんてな」
「悲しいけど、これ保護対象なのよね」
玲治と雪子のからかうような声に靴もようやく二人の意図に気がついたようだが、もう手遅れ。
こつん、と。
玲治の槍の石突が小さく地面を叩いた直後、四足の影から無数の手がそれぞれの足を掴みその歩みを拘束する。
一方、雪子の風に巻き込みきれなかったもう一体は、風の吹く方とは逆の方角から突破を図ろうとしていた。
「美少女はあたしが守る! ってね!」
だが、その進路上にファラが立ち塞がる。
それにまごついている間にファリスも到達して1対2。
両手で抱きとめるように抱えれば一人でも止められるか、ともファリスは少し考えたが、こちらを払い除けるように槍を振るう靴に、難しいかと考えなおす。
撃退士相応の身体能力を持つ相手だ。
自分と同等のスペックの存在を相手にそれが為せるかと問われれば、やはり少々無理な相談。
「いやあそれにしてもお姉さん良いおっぱいしてるnベファ!?」
赤い靴を履かされた女性の進路を塞ぎながらファラが何事かほざいた直後、靴を履いた女性のぐーが彼女の顔面を埋め尽くしていた。
持っている槍でも、命中精度が高い蹴りでもないその一撃。
わざわざ拳を選んだ理由は靴に聞かねば分からぬが、おそらく殴っておくべきだと判断したのだろう。
だが前が見えないような状態になりつつもファラ、めげない。
「ご褒美ですっ!」
心なし、赤い靴を履いた女性が怯えたような気配が見えた。
一緒に抑えに回るファリスが小さくため息。
これに付き合わねばならないのは別の意味で難儀ではあるが、4足の足止めが叶っているなら二人で止めるのがやはり確実だ。
「離れろ! 蝶が来ている!」
その直後、玲治の声に全員が空を見上げた。
ほんの一瞬の攻防の間に、シマイが追加で呼び出した三匹の蝶はすぐそこまで迫ってきている。
「近すぎるか…!」
アンジェラが歯噛みする。
蝶の爆発範囲内に誰も居ない状況ならば、撃ち落すという選択肢もある。
だが、これまでの攻防の中でそれに割けるだけの余裕が存在していたかといえば、殆ど無い。
撃退士といえど身体は一つ、一瞬の間に取れる行動も一つ。
靴を抑えに動くと同時に奥から迫る蝶を撃ち落とせというオーダーには、些か無理が存在する。
玲治と雪子がここまで綺麗に靴達を止めることが出来たのならば、一人くらいは蝶の処理に専念する者が居ても良かったかもしれない。
だが、後悔する暇も存在しない。二匹の蝶は既に一般人を爆発の範囲内に収めていた。
人を護るという制約下では、この時点で蝶への対処手段が全て奪われてしまっている。
先程と同様に槍の穂先へ止まる蝶を、ただ見ていることしか出来ない。
幸いなのは止まった槍の持ち主が玲治によって動けない状態であることか。槍の射程外に逃れれば一先ず難は逃れられる。
歩兵が居なくなって困るのは向こうも同様。勝ちを狙う状況下で闇雲に一般人を巻き込み爆発させたりはしないと信じる。
そしてもう一匹。
こちらはファラとファリスが抑えている一足の方目掛けて進んでいたが、赤い靴が僅かに先に進んでいたため若干余裕がある。
ファリスがチョコバナナを当てることで、難なく撃墜。
「何でそんなの持ってきてるんだよ…」
「シマイたん居る時点でシリアスなんてログアウトしてるんだから気にしないの」
呆れたような玲治の声に、投げたファリスではなくファラが答えた。
要は当てて爆発させればいい訳で、確かにチョコバナナを投げても構わないのだが肝心の本人が玲治の問に答えようとしない。
ともあれ。
「ささ。アンジェラ先輩、存分にやっておしまいなさい!」
びし、と雪子が指さしたのはリーンの居る方角だ。
赤い靴を履いた一般人に手を出せないという厄介な条件。これをクリアしなければ撃退士の側に勝ち目はない。
そのためには、一刻も早く一般人の眠りの原因――リーンをどうにかする必要がある。
ヘルマンと紅香 忍(
jb7811)がその対応に向けて動いているが、二人が事を成し遂げるのは5秒後だろうか、10秒後だろうか。
現状、五体の靴の進行を抑えることはできている。
ならば、リーンへの対応へ回る者を増やす余地もあるか。
「…すまない、こちらは頼む!」
蝶の麻痺も毒も、とうに彼女のアウルが打ち勝っている。
痛む身体に鞭打って、アンジェラはリーン目掛けて走りだした。
●
「リーンに……シマイ…」
首を狙い続けていた標的が目の前に二体揃い踏み。その状況で殺意を漏らすなという方が無理な相談だ。
リーンの周囲を旋回しながら、忍は銃弾を放つ隙を求め続ける。
彼の後ろにはヘルマンが背中を護るように追随し、同じく機を伺っている。
近くで様子を伺うとより見えてくるが、リーン四方の靴達は、リーンの護衛に専念するようだ。
こちらの動きを追いかけるリーンと一瞬目があったかと思えば、靴が構える盾がすぐに彼女を覆い隠してしまう。
この状況では、リーン目掛けて射撃を仕掛けたとしても靴が盾となって攻撃が届かないだろう。
ならばどうするか。
背後のヘルマンへ目線。それだけで通じたのか頷き返してくる彼を確認すれば、リーンの周囲を半周した辺りで一気に距離を詰める。
「邪魔するな…殺すぞ…?」
放たれるだろう攻撃を受け止めようと靴が重心を落とし盾を構える。
それ目掛けて銃のトリガーを引きかけ――、銃口に靴の意識が向いた刹那、その足を払う。
鮮やかな一閃にバランスを崩した赤い靴は何とか体勢を整えようと必死で制動。
完全に動けなくなるような事態に陥りはしないだろうが、それでも陽炎のような鉄壁が崩れたことは確かで。
「お任せいたしますぞ」
靴が死に体の体勢を無理やり持ち直した直後、側面からヘルマンが力加減しつつもタックルを仕掛け、リーンの目の前から靴を押しのける。
その合間に彼女は既に忍の方を向いていた。足を払った体勢から復帰する一瞬、視線が交錯する。
「…やっと…会えたな…」
「…」
リーンは応えない。
だが、構わない。その身体に銃弾を叩き込む瞬間を思い浮かべ、構えた銃の引鉄を――
「随分、彼女にお熱みたいだね」
「っ!」
引く前に、真横から白い光線が忍を貫いた。
圧倒的な熱と痛みに倒れ伏しそうになるが、何とか耐える。
「悪いんだけど、あの子は借り物のお人形さんだからさ。あんまり傷物にされても困るんだよ」
撃退士側が歩兵を取れない状況を作る最大の鍵はリーンにある。
そして、一般人開放のため撃退士がリーンを狙ってくるだろうともシマイは予測していた。
故に、シマイは前進するよりもリーンへ向かう撃退士を迎撃するために、その場に留まることを選んでいる。
「紅香殿、大丈夫ですか?」
「…クククッ……!」
靴がリーンの傍らに戻ろうとするのを阻害しながら発したヘルマンの問いかけに、押し殺したような笑い声が返る。
一体がヘルマンに押しのけられた事によって生まれた空隙を埋めるように残った三体が立ち位置を変えたのを認め、再度リーンの周囲を旋回するように移動を始める。
シマイの攻撃を受けたことなど意に介していないのか、悪魔への警戒こそあれどその敵意はリーンにのみ向けられている様に見えた。
「無視とは寂しいね」
「それ以上はやらせねえぜ!」
忍の様子に小さく肩を竦めたシマイは更に追撃をかけるべく彼へ左手を向けかけたが、横薙ぎに振るわれる大剣の風切音に防御を選んだ。
盾にするように右手を掲げると、そこに青色の着色。右腕に生まれた青の魔力壁が、大剣の一撃を受け止めた。
その攻撃の持ち主は、ロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)。
シマイが初期位置から殆ど動かなかったため、俊足の忍とヘルマンから僅かに遅れる形で悪魔の元へ辿り着いた彼は、ヘリポートまでの直線上を塞ぐような位置に陣取り斬り込む隙を伺う。
「遅かったね」
「ヒーローってのは遅れてやってくるもんだ。
折角檀が一歩踏み出しかけた所だってのに、邪魔されてたまるかってんだよ」
それに、彼の父親――八塚柾にも託されてしまった。
家を護るという役目を曲げてまで久遠ヶ原を信じ、眠り姫を託してくれた八塚の主。
ここで取りこぼしが生じてしまえば、檀にも柾にも合わせる顔が無い。
「あいつの父親に会ったのか。ねえ、どんな人だった?」
「…頑固だったが話は出来る人だったよ。少なくともアンタよりはずっとな」
「ははは、酷いな」
言葉を交わしながらも、ロドルフォはシマイの挙動に目を光らせる。
シマイが右へ動くなら右を、左へ動くなら左を。
ただひたすらにヘリポートまでの最短距離を塞ぐように位置を保持すべく意識を集中させる。
「君の相手するのはもう少し待っててもらえるかな。
まずは借り物のお人形にべたべた触りたがる子を黙らせたいんだよね」
だが、シマイは突破よりもリーンに対応する二人の排除を優先した。
相手の行動を見てから動き始めることを選び続けるということは、常に悪魔に先手を与え続けることと同義だ。
その先手が自身に向かうなら耐える用意はいくらでもある。しかし、他人へ向かう害意を止める手立てが、無い。
シマイの指からまた三匹の蝶が生まれる。
生まれた蝶は指元で一度大きく羽ばたくと、誰かに邪魔されることのないままヘルマンや忍が居る方へと飛んでいく。
「させませぬぞ!」
靴を押しのけて一瞬の隙を作ったヘルマンは、懐からマヨネーズを取り出すと一匹の蝶目掛けて放り投げた。
綺麗な放物線を描くマヨネーズの容器は、三匹の内一匹に命中。
この日何度目かの、爆発。
悪魔が生み出した蝶が抱える魔力は、容器の中身が飛び散る前に全てを蒸発させてしまうほどの威力を誇る。
爆発に巻き込まれた容器は跡形も残らない。
「なんで君そんなの持ってきてるの…」
「シマイ殿がマヨネーズまみれになる様を見たいからに決まっておりましょう」
「……俺、君らのそういう所素直に凄いと思うし嫌いじゃないけれど、締める所は締めた方が良いと思うよ…?」
思わず呆れ顔。
とは言え、赤い靴の動きを妨げながら蝶への介入を行うことが出来たのはそれだけだ。
完璧に対処するのならば赤い靴への対応を捨てなければならない。しかし、それを行ってしまえばまたリーン四方に一般人の盾が出来てしまう。
紫色の蝶が迫り、悪魔本人も必殺の瞬間を狙い続ける中、偽りの死を呼ぶ都は未だ消えず、赤い靴は踊り続ける。
●
リーンを赤い靴三人で守る状況を作り出したともなれば、彼女の顔も先程より見やすくなる。
忍の旋回速度に慣れてきたのか、無機物のような表情無き瞳は静かに彼の動きを追い続けている。
殺すと決めた。その一念のみで忍はここに立っている。
想う。彼女の頭蓋に弾丸を叩きこむ瞬間を。心臓を穿ち命を砕く瞬間を。
彼女の血は、一体どれほど朱いのだろうか。その身体が倒れ伏す時、あの無表情はどう歪んでくれるのだろうか。
知りたい、見てみたい。彼女の何もかもを奪って自分だけのモノにしてしまいたい。
忍の口元が、歪に弧を描く。
来るか、とリーンが身構えた刹那、忍がもう一段階ギアを上げた。
「!」
無表情の奥、リーンの瞳が大きく見開かれる。
忍は今までずっと、以前リーンに見せた速度と同程度まで速度を抑えていた。
伏せられた札に気が付かぬままにその速度を全速だと錯覚し、彼女が追い切れたと確信する、その瞬間まで。
一定の速度に慣れた目が、忍の姿を追い切れなくなる。
「…くらえ……」
凍蛇の舌が、ちろりと耳元を舐め上げたような錯覚。
赤い靴の身体を避けるように銃弾がばら撒かれ、リーンの側面に叩きこまれていく。
横殴りの弾丸の雨に曝されながら防御を固めるべく彼女は動こうとするが、
「っ、!」
リーンの身体と共にその足元にも放っていた弾丸がその影を縫い止め、動きを束縛する。
「一枚噛ませてもらうぞ、忍殿!」
背面。アンジェラの声と同時にアウルが彼女へと収束していく気配。
リーンに振り返る術はないが、その背面。アンジェラが右手の紋章に一つくちづけを落とす。
続く動作でリーン目掛けて突き出された紋章から流星を思わせる光の奔流が放たれる。
リーンのみを呑み込んで流星が戦場を切り裂き、強い風が衝撃の残滓となって戦場を揺らす。
だが。
――りいん。
小さく、鈴の音。靴を履く人々にも目覚めの兆候は見られない。
それなりにダメージは与えられているはずではあるが、まだ一手、二手足りていないか。
「その子傷物にされて後で怒られるの俺なんだよ? 言って聞かない悪い子には、お仕置きだぜ?」
ため息混じりの声と共に、光条一閃。
光の進む先には、更にリーンの背面を抑えようと動いていた忍。
リーンへの執着が強すぎたが故にそれ以外への対応が薄くなりすぎたか。
鬼札とも言える絶対回避を切ること無く光が彼の腹部を貫いて――倒れる。
そして、それを皮切りに3つのことが同時に発生した。
一つ。アンジェラの背を襲う、強烈な衝撃。
赤い靴の槍に止まったまま誰も手を出せなかった紫の蝶が、アンジェラの背後へ辿り着いて爆発したものだ。
一匹は何とか雪子が叩き落としたが、一般人を盾にするような軌道を選び舞う蝶を抑えきることが出来ない。
元より幾度も蝶による爆発に身体を蝕まれていたアンジェラだ。その衝撃に今度こそ耐え切れず、意識を失う。
一つ。ロドルフォがそれ以上シマイを動かすまいと大剣を横薙ぎに振るう。
忍へ光を撃ち込んだ直後ではあったが、それでも右手で魔力壁を展開しその一撃を受け止める。
「っととと…痛い痛い。あんまり乱暴は好きじゃないんだけれどねぇ」
衝撃から逃れるように後ろに退くシマイ。
シマイが突破を狙っていたならば有効手であるかもしれない。しかし現状はこちらの妨害を優先しているため、ただ後ろに下がられた以上の意味合いを見出すのは難しい。
余裕を崩さぬシマイの声に、ロドルフォの表情に焦燥の色が灯る。
一つ。撃ち落とせなかった二匹がヘルマンを爆発の射程圏内に収める。
彼が取れた選択肢は幾つか。
一度爆発圏内から逃れる。あるいは防御を捨ててでもリーンに仕掛ける。
けれど、投げかけられた声が、ヘルマンから総ての選択肢を奪い去る。
「君が守ってあげなかったら、その子がどうなるか分からないよ?
いいのかい? あいつを縛る茨は要らないなんて言った君が、あいつを縛る茨を増やす真似なんてしちゃって」
「――ッ!」
目の前。リーンの元へと戻ろうと抵抗を続ける赤い靴。それに寄生された一般人。
楓を開放するための戦いの最中新たな犠牲者が出たとなれば、それは楓が背負う十字架と成りうるものだ。
押し倒すように一般人を突き飛ばし、その上に覆いかぶさるようにして自身を盾にした直後、二匹の蝶が爆ぜた。
その甲斐あってか、あるいは爆発に巻き込まない術が在ったのか。
ヘルマンに組み敷かれた一般人は無傷で彼の下から這い出ると、リーンの盾となるべく元の位置へと戻っていく。
「はは。これでチェックメイトかな?」
爆風が収まった後、ヘルマンが立ち上がらないのを認めてシマイは愉快そうに笑う。
リーンへの対応を予定していた三人が倒れた。
それはつまり、一般人に手を出せない状況が解決できなくなってしまったということだ。
今から誰かがリーンへ向かうか?
確かにダメージは与えている。もう一手あればこの状況を打破することも出来るかもしれない。
だが、今この場で策もなく動いた所でシマイに撃ち落とされるだけだろうし、赤い靴の束縛も無限には続かない。
足止めを担当する四人の内一人でもリーンへ向かえば、再度靴が動き始めた時、その侵攻を抑えることは難しい。
「君も疲れただろ、寝てるといいよ」
忍を見て、ヘルマンを見て、そして最後にアンジェラへ視線を投げたシマイが、労うようにそんな声を。
だが、その状況下でも一同は、まだ諦めない。
「あーんな事言ってますよアンジェラ先輩。でも、先輩はまだ、立つんでしょう?」
氷のアウルが雪子の手に杖を生み出し、それを持って彼女はアンジェラへと駆け寄る。
杖の先に灯る青白い光を倒れ伏すアンジェラの背に押し当てると、光の持つ冷たさからかアンジェラの身体が一瞬びくりと動き。
「……そうだ、な。私はまだ…戦えるよ」
「…起きるのかい。何なんだい、君らは」
地面に爪を立て、硬いアスファルトをひっかくように指を動かして立ち上がる。
その最中に飛んできたシマイの呆れたような声に、何のことはないとばかり。平然と告げる。
「――撃退士だ」
誰も殺させはしない。誰の心も弄ばせやしない。
それが、撃退士たる者の努めだから。だから、立ち上がれる。
「て、ことですサーセン! まだキャスリングしてませんでしたね!」
せせら笑うような雪子の声に、僅かにシマイの表情が変わった。
彼女が支える今にも倒れてしまいそうなアンジェラが、再度紋章に光を宿している。
遠距離攻撃を何処かへ飛ばす術の射程内にリーンが居ないのか、あるいは己の周辺にしか入り口が作れないのか。
真偽はわからないがリーンのフォローに回ろうとシマイが地面を蹴り、
「通行止めだぜ! 勝ちを確信した直後にそれをひっくり返された気分はどうだい?」
「最悪だね。後で相手してあげるって言ってるのに何で君は我慢できないかなぁ」
「知らないのか? しつっこいのも粘着質なのもアンタの専売特許じゃねえぜ!」
それを許すまいと、ロドルフォが再度大剣を横薙ぎに振るい、その進路を刃が塞ぐ。
大局を考えればどれだけの傷を負おうと無視しなければならなかった彼の一撃に、シマイは反応してしまった。
咄嗟、魔力壁を右腕に生み、それを受け止める。
ぶつかり合う力がシマイの速度を大きく落とす。
障害を取り除こうと、空いた左手に白い剣を生み出しロドルフォを狙うが、瞬間的にカオスレートをゼロに戻して受け止めたロドルフォは怯まない。
間に合わない。放たれた星屑が再度リーンを呑み込んでいく。
再度強烈なエネルギーの奔流に放り込まれたリーン、両腕を盾にそれを何とか凌ごうとしたが――
――りいん。
まるで限界を告げるように、リーンの右ブレスレットに取り付けられた鈴が一つ音を立てると、静かに地面に落ちた。
●
戦場に小さな鈴の音が響いた瞬間、びくりと赤い靴を履いた人々が痙攣するように震え、その動きを鈍らせる。
術が解けた。誰もがそう確信した。
「危険です、今すぐ起きてください!」
「……ん。え…?」
赤い靴の持つ槍の攻撃を幾度と無く浴び続けていたファリスが、自身の治療さえ忘れて靴に寄生された女性の肩を掴み、揺する動作と共に大声を張り上げる。
その行為によって、女性の手から槍を持つ力が抜ける。
からん、と地面に槍が転がる音と女性が戸惑ったような声をあげたのは、ほぼ同時。
「ごめんねっ、ちょっとおねーさんが履いてる靴危ないシロモノだからあたしたちが没収させてもらうよ!
いやあそれにしても合法的におねーさんの太もも触れるってこれ役得? 役得だよね?」
「ひ…!」
何処までもシリアスからは程遠い口調で女性の靴を脱がすファラに、裸足になった彼女は怯えたようにファリスの背後に隠れる。
「すみません。後でよく言い聞かせておきますので……」
「おらぁああっ!!」
落ち着かせるように女性に語りかけるファリスの目の前で、ファラが手間取らせやがってとばかりに赤い靴目掛け雷の刃を叩き込み、靴の真横に大穴を開けた。
「おっはー! お出口は右側でーす」
同時に、玲治によって束縛が続いていた靴達目掛け雪子が氷の結晶を舞い散らせた。
氷の結晶が瞬く間に彼ら周辺の温度を著しく下げていく。
冬場の眠りの最中、突如布団をひっペがされたようなものだ。
靴に寄生されていた四人は揃って身震い一つ、やがて目覚めを迎える。
玲治と雪子はそのまま四人の靴を次々に処理していく。
撃退士達が流れるように一般人を解放していく中、落とした鈴を拾い上げたリーンの脳内にシマイの声が響いた。
(リーン、退くよ)
(よろしいのですか?)
(悔しいけれどね。今の状況じゃ、もうお姫様を迎えに行くどころじゃない)
確かに、リーンはまだ戦えるだろうし赤い靴も残ってはいる、が。
残った靴もすぐに無力化されるだろうし、いくら悪魔とヴァニタスといえど、目の前の撃退士を振り切ってヘリポートまでたどり着くには時間がかかる。
もしも、その時間で他の撃退士が迎撃体勢を整えていたら。
浪費した時間は、撃退士が守りを固めているこの場においては自身の命を削り取っていく毒と等しい物だ。
(……承知しました。申し訳ございません)
(謝る必要はないよ。君はよくやってくれた)
事実、ほんの一手前までは勝っていたのだ。
それが覆されたのは己の慢心か。それとも撃退士側の執念か。
確かな理由は分からぬが、この場での敗北が種子島での活動においてかなりの痛手であることは間違いない。
残った赤い靴達に突撃を命じると同時、シマイ自身も紫の蝶を喚び出し、一般人の群れへと放つ。
もはや凌がれることが見えている行動だ。
雪子が冷気を放ち突撃する赤い靴を次々に無力化させていき、放った蝶は余力のある者が次々と撃ち落としていく。
何とか一匹が一人の少年を爆発の射程に収めはしたが、玲治がすかさず爆発に割り込み少年を護り抜く。
直後、ロドルフォが振るう一撃をシマイは青い盾で受け止めると、その勢いに乗って後退。そのまま走り去っていく。
それを追うようにリーンも踵を返し足を踏みだそうとしたが――ボロボロの外套の裾を掴む小さな手に、一瞬動きを止める。
首だけで後ろを見る。外套を掴んでいた手は忍のものだ。意識が無いにも関わらず這って来たのだろうか。
何が彼をここまで駆り立てるのか、リーンには分からない。
しばしの間、地に伏せる彼を見つめる。
思えば、この少年は出会った時から今に至るまでずっと己を明確に敵として見てくれていた。
悪魔の人形。人の敵としての己。
それを確立するためには、命を下す悪魔の他に、それを阻む敵の存在が必要不可欠だ。
だからだろうか、言葉が自然と唇から漏れ出ていた。
「あなたのことは、嫌いではありません」
外套を掴む手を、僅かな身じろぎで振り払う。
「またお会いしましょう」
足元にそんな言葉を落とし、今度こそリーンもこの場から去っていく。
遠のいていく足音が、この場での戦いの終わりを告げていた。
それから間もなくのことだっただろうか。
ヘリポートからヘリが離陸するのを撃退達は確認した。直後、隠密班から任務完了の連絡が入る。
思わず、安堵の息が漏れた。
陽動班の状況も報されていたが、あちらも相応の被害が出ているとはいえ、ここが最も苦戦した戦域だったと言えるだろう。
後一手、何かが違っていれば負けていた。
まさに薄氷を踏むようにしてもぎ取った勝利は、微かな希望を繋ぐことができただろうか。
そうであればいい。
梓を乗せたヘリは緩やかな軌道を描きながら、飛び去っていく。
既に陽は高く登り切っていた。
(了)