●
(一難去ってなんとやら…なんて生易しい話じゃねえな…!)
じりじりと包囲を狭める虎と、その奥で今にも飛びかかってきそうな狼面を見遣り、後藤知也(
jb6379)は小さく歯噛み。
だが、必ず生きて帰らなければならない。
後ろで怯える三人にも帰るべき家があり、出会うべき家族が居る。
「引いてもらうことって、出来ない?」
一歩、レイガーの方へ歩を進め、Robin redbreast(
jb2203)の澄んだ声が喫茶店に響く。
そんな声が飛んでくるとは思っていなかったのか、レイガーの瞬きの回数が増し、司令塔の変化を感じたか虎達も足を止める。
「考えてみてよ。あたしたちは人間を逃がすことに専念しないといけないから、逃げの一手で本気で戦うことはできないよ。
戦うのを楽しみたいなら、人間を逃がすまで待っててくれないかな。魂3つ分逃がすだけで本気で戦えるなら安いでしょ?」
その声に重ねるように、龍崎海(
ja0565)が懐から携帯電話を取り出し、レイガーへ放る。
「戦いたいならこれをやるよ。学園に登録されているから、その携帯から連絡くれれば暇な奴が相手しに来てくれるぞ」
敵意のあるものではないと判断したのか放られた携帯を受け取ったレイガーの目が、海の声に嬉しそうに輝いた。
「本当ですかい! ありがとうごぜえやす!
そんな物があるならもっと早く教えてくれれば良いのに皆様方意地悪ですなぁ」
いそいそとポケットに携帯を仕舞いこむレイガーであったが、しかし話はやはり、それで終わってはくれない。
仕切りなおすように咳払い一つ、改めてRobinへ視線を向けて。
「…とは言え、あっしは言いやしたぜ。「皆様方は護るものがあると力入れてくれる」、と。
本気で戦えないと思っていても、そういう状況で出せる力もあるもんでさ。全力はまたの機会で構いやせん」
それに、と。首をコキリと回し、レイガーの視線はRobinの奥――狩りの対象である三人に。
喋る狼面が先程襲われた虎とは比べ物にならないほど危ない相手であることは分かるのか、視線が向けられた彼らが息を呑む。
「全力で戦いたいのにそれらが邪魔だって言うなら、皆様方が魂三つを諦めれば良い話でさ。
急いだが間に合わなかった、その一言で済む話じゃありやせんか? 何、あっしは一々お上にチクリやしませんぜ」
ここで相手が納得するようならば、今後狼面が能動的に一般人を利用しなくなるかもしれない。
そんな期待は有ったが、そこまで単純な相手でもないようだ。
「まあ、俺からすりゃ、この子ら抱えてずらかるのは簡単なんだけど…それじゃあ、あんまり格好がつかない」
言葉だけでは矛が収まることはないと判断すると、ルドルフ・ストゥルルソン(
ja0051)はRobinに撤収の準備を行うよう目線だけで告げて彼女よりも更に一歩前へ。
「俺達は『正義の味方』。あんたは『悪役』」
ならば、映えるシナリオと言われればこれ一つしか無い。
ぱちん、と指を鳴らす。光纏――ルドルフの身体の周囲に、白銀の粒子が舞い散る。
「『こいつは俺が引き受ける、その子達を無事に逃がしてくれ』」
嵌めていた手袋を外すと、それを投げつけ、挑発的な笑み。
「と、いうわけで…サー・レイガー。
不肖弱小の身でございますがあんたの事はこの『銀閃』、ルドルフがお相手致しましょう。
奇しくも名に同じく『狼』を冠した者同士。一対一の決闘を持ち掛けられ、無下に断るほど無味乾燥なご趣旨の方とは伺っておりませんが…如何か?」
その言葉に、その行為に。レイガーが獰猛に笑う。
「まさか。まさかまさか。そこまでお膳立てをして頂いて乗らなかったら男が廃るってもんでさ」
その言葉は仕切りなおし。止まっていた時間が再び時を刻み始める。
五体の虎が一斉に床を蹴り、各々がそれに応じるべく動き始めた。
『正義の味方』たれ。そう在るべく。
●
「これ以上、好き勝手はさせません」
ドルトメイル・ペークシス(
jb9458)やなつなと共に東方から迫る虎への警戒を続ける水無瀬 雫(
jb9544)はそう呟く。
巻かれたマフラーに静かに触れる。
それだけで、少しだけ勇気が湧いてくる。
水無瀬の名にかけて。かつて護れなかったから、今こそは。
「そちらは任せた。きっちり仕事を果たして来い、相棒…死ぬなよ」
「当然。抗ってやるさ。後ろは任せたよ、相棒」
戸蔵 悠市(
jb5251)が言葉と共にその背中を押したのがスイッチだったのか、ルドルフが跳ね飛ぶようにレイガーの方へと走りだす。
目にも止まらぬ速度を視線の隅でわずかに追いながら、悠市も自身の為すべきことに意識を向ける。
「必ず助かる! 慌てず恐れず俺らの指示に従うんだ」
知也が発した言葉に、三人は縋るように頷く。
言葉で敵が足を止めている間に、既に三人を囲うように展開することはできている。
留まるか逃げるか、撃退士達が選んだのは、後者。
知也が視線を北部の窓へ向け、三人がそれを追った直後、海、Robin、そして悠市の喚び出すヒリュウが動いた。
Robinが生み出す影の刃が知也が向けた視線の先から一気呵成に突っ込む二体を襲う。
回避行動を取ろうにも広範囲を一息で刻む影色の刃。
レッドブレストを冠すに生まれる赤はまだ足りないが、皮膚を切り裂く痛みで虎達の速度が緩んだのは事実。
即座、海がアウルの槍を、ヒリュウの外見に似合わぬ力強い羽ばたきが生む真空波を放ち、二体への追撃。
ヒリュウに狙われた虎は痛みからの復帰が遅れ、全身を衝撃に刻まれる。
他方、海に狙われた虎は奇跡的に横っ飛び、高速で走る槍の進路軌道上から全力で逃れる。
圧倒的な破壊力を秘めた槍が脅かす生命の危機に、身体が目先の痛みを凌駕したのかもしれない。
しかし、ヒリュウに狙われた一体は既に重ねられた攻撃に立っているのが怪しい程の消耗具合だ。
それを逃さぬ理由はない。東方から迫る虎への壁となるべく配置しているドルトメイルがすかさず銃を構え、即射。
叩きつけられるような衝撃に耐えることが出来なかったのか、銃弾が胴にめりこんだ虎はそのまま、動き出すことはなかった。
一瞬の攻防。それだけで虎が一体倒れ、衝撃波と槍の進路上にあった窓は破壊される。
「人命には代えられん。多少の破壊行動は許してもらおう」
「わっ」
悠市が三人の内の一人を抱え、すぐにでも飛び出せるようにと身構える。
そこで、三人も撃退士がこれから取る行動を察したようだった。
「窓から…?」
「ああ、俺らの動きに合わせて動け。目の前に虎が迫っててもこの輪から絶対外に出るなよ」
突然窮地に放り込まれた一般人には酷な注文だったかもしれないが、それでも三人ははっきりと頷く。
流れるように敵の一体を倒した撃退士達を目の当たりにし、従えば助かるという信頼が生まれたからだろう。
仲間が早くも一体倒れたことに慎重になったのか、虎達は一気に飛びかかってくることはせず、包囲を狭めるように動き始める。
その中を撃退士が作る人の檻が、少しずつ北上を始めていく。
●
一歩目から、全速力だ。
椅子を蹴り、テーブルへ上がり、背の高い仕切りに着地。
足に纏う壁走りのアウルも手伝い、ルドルフとレイガーの間を繋ぐ直線上から障害物が失せてしまったような錯覚。
仕切りから更に跳躍、天井に足をつけばそこだけ重力が逆転したのか、落下すること無く天井を蹴り更に疾駆。
「健脚ですなぁ。あっしと追っかけっこも出来そうだ」
その踏破力に口笛一つ、レイガーは待ち受ける体勢。
金色のオーラを纏ったままの右腕を腰だめに構え、破壊を解き放つ瞬間を待ち受ける。
彼我の地力差は知っているつもりだ。
けれどもルドルフは無謀とも言える行動に踏み切った。
このままレイガーを自由に暴れさせるのはまずいし、ああ挑発すれば確実に乗ってくるであろう相手であることも予測できた。
けれども、それ以上に。
「人間として、アンタを前に尻尾撒いて逃げるのは、どうにも腹に据えかねるんでねぇ!」
「大事ですぜそういう感情! あっしとしても大歓迎でさ!」
高さを稼いだなら、その高さを威力に上乗せするだろう。
レイガーはそう読み、天井を蹴るルドルフを空中で迎撃するつもりでいた。
しかし、ルドルフが取った行動はその予想を裏切った。
天井を蹴る。その勢いが彼の身体を持っていく先は、レイガーではなく、その背後。
取られた、背面。
即座に振り返るが、移った視界には既に拳を振りかぶるルドルフの姿。
咄嗟、左腕をかざして盾にしようとするが、それすらもフェイント。
放とうとしていた裏拳を直前で止めると、盾と為したその左腕を掴むと、そこを起点に腕の力だけで跳躍。
二度意図を外され、レイガーは動けない。
銀閃。
稼いだ高さを加え、とんでもない速度でルドルフの足刀が狼面の頭部へ振り下ろされる。
「ガ、ぁ――…!」
レイガーの右腕に宿る金色が、霧散する。
直撃を受けた頭部から広がる衝撃が狼面の意識を曖昧にする。
(継戦でも損耗は軽微だ)
だから、相手がレイガーとは言え戦える。
槍を放ち窓を破壊した直後、遠くで金色が消えたのを認め、海はそう判断する。
ルドルフの援護に向かうべく一歩目を踏み出した、が。
「ガァアアアッッ!!」
「ちっ!」
直後、槍の一撃を避けた虎が、お返しだと言わんばかりに飛びかかってくる。
三色の糸を緊急活性。編み上げた糸を盾に牙の一撃を受け止める。
元々魔具の装備容量を超える装備編成だ。その上に糸を追加で活性させたことによる消耗もあるが、おかげで被害は殆ど存在しない。
だが、踏み出しかけた足が止まってしまったことは事実。
「っつぅ…、今のはちょっとクラっと来やしたぜ」
「そのまま寝てろよ…!」
「生憎、兄さんのお話が面白すぎやしてね。夜更しには最高のお供でさ。
だから、お休みの時間にゃまだ早いですぜ!」
牙の一撃を受け止めたままの姿勢の視線の先、己の拳で頭部を小突きながらレイガーがルドルフに向き直っている。
朦朧が効かなかったわけではないが、復帰が早い。
レイガー。単騎で100の撃退士を平らげるとも称される悪魔。
そんな存在に、一瞬でも一対一の状況を作ってしまったらどうなるか。
ルドルフの初手は奇襲じみた行為であったからああも素直に刺さった面も在る。
真正面、一対一。
握りしめた右手が放つ直突きに、ルドルフは自ら突っ込むようにぶつかっていき、衝撃を強引に殺す。
緩衝のために用いられたジャケットが壁に叩きつけられ、ボロ雑巾と区別がつかなくなる。
「厄介な技ですなぁ。ですが、タネの無い手品は存在しやせんぜ。あっしはタネが切れまで殴らせていただくだけでさ!」
戦狂い、まだ止まらない。すかさず距離を取ろうと動くルドルフを逃すまいと放たれた蹴撃が腹に突き刺さり、ルドルフの意識が飛びかける。
連戦の影響がレイガー相手には顕著に出る。鬼札とも言える絶対回避は、もう使えない。
「そこを退け!」
「行って」
「ありがとう」
知也が迅雷が如き速度で海の動きを阻害する虎目掛けて切り込むと同時、Robinが虎の背面目掛けて闇色の逆十字を叩き込む。
ヒットアンドアウェイで退く知也に意識が向いていた虎は、Robinの一撃に反応らしき反応が出来ない。
十字を背負う虎の動きが目に見えて落ちた隙に海は虎を振り切り、レイガーとルドルフの元へ走る。
足元がふらつきかけているルドルフだが、それでもレイガーが一般人に背を向けるように立ち位置を調整しながら手に持つ刀を振るい続ける。
ここで張り付いていなければ一般人へ意識が向く可能性がある。それを防ぐためには、退くことが許されない。
振るわれた刀は、受け止めようと翳された右腕を避けて狼面の腹部を浅く裂く。
真正面からの攻防に置いて悪魔の受けをすり抜けた技術は見事だが、魔力硬化の盾の先には悪魔の頑健さが待ち受けている。思うように傷がつけられない。
「捕まえたぁ!」
「っ!?」
伸ばされた右腕が、ルドルフの襟首を掴む。
ぐいと引き寄せる挙動で体勢を崩されれば、直後大型トラックが突っ込んできたのかと錯覚してしまうような衝撃。
左足の一撃がルドルフの胸部に突き刺さり、彼の意識が急速に遠のいていく。
「次はそっちの兄さんですかい? 歓迎しやすぜ」
ルドルフが倒れ伏したことを確認し、レイガーは海の方へ視線を向ける。
こちらに意識が向けば、海は走る速度をわずかに緩めた。
もう少しの間ルドルフに意識が向いていれば背面攻撃も出来ただろうが、真正面から相対するには勢いだけの突撃は自殺行為だ。
あるいは窓の破壊は他の味方に任せ、海も最初からレイガーへ向かっていれば話は違っていたかもしれない。
少なくとも、たった一人でレイガーと相対する瞬間はまだ来ていなかったはずだ。
「それにしても兄さんも律儀ですなぁ。こんな悪党に一対一を順守する必要なんざ無いんですぜ?」
「嫌味なやつだな」
「ハハ、お気に触ったなら申し訳なく。ただ、一つ恨み言を言わせていただけるなら、あっしとしちゃ一辺に食って達成感を跳ねあげたかったんですが、なぁ!」
振るわれた拳を、アウルで作り上げた鎧が受け止める。
がぎ、と硬い物同士がぶつかり合う時の音。
カオスレートの開きによる威力増加が存在しないこともあり、この一撃は耐えられないものではない。
足元を狙って薙ぐように振るわれた槍の一撃をバックステップで回避すると、レイガー自身も手応えから有効打に至らなかったことを悟ったのか、小さく首を傾げて。
「さっきは避けて立ち回るタイプだったみてえですが、兄さんは受けて立ち回るタイプですかなぁ。
それなら、今度はこいつを受け切れやすかい?」
言葉と共に、レイガーの右腕に再度、金色のオーラが宿る。
拳の威力を跳ね上げると報告のある技だろう。言葉の通り受けきれるかは、分からない。
ちらとルドルフの方を見やる。
神の兵士の有効射程圏内に収めている筈だが、起き上がる気配がない。
あるいは治癒のスキルで傷を塞げば話は別かもしれないが、それをするだけの余裕を目の前の狼面が与えてくれるかどうか。
内心の緊張を表すように、海が構える槍を持つ手に小さく力が込められる。
●
「柏木さん!」
「任しとけってんでい!」
雫の声で意図を察したのか、なつながテーブル上で機を伺う一体の虎目掛けて布槍を振るう。
ごく単調な一撃は跳ねるように攻撃を避ける虎を捉えられないが、それこそが狙いだ。
テーブルを飛び上がり着地した直後、すかさず雫が距離を詰める。
冷気に変質させたアウルが虎を襲い、その身体を凍結させる。
「ガァッ!」
「雫さん、もう一体!」
「くぅ…!」
けれど、虎も頭数はある。
雫が攻撃を仕掛けた直後、近くに居たもう一体が店内の障害物から障害物へ飛び石を渡るように雫に急接近すると、彼女を叩きのめさんと爪を振り下ろす。
攻撃の直後こそが最大の隙。身をよじって直撃は避けたが、左の腕を切り裂かれ闇夜でも分かる朱が飛び散る。
慌てたようになつなが布槍を振るい、虎をその場から飛び退かせる。
東方から迫る二体はふたりの連携と時折飛んでくるドルトメイルの援護射撃によって接近を防げている状態だ。
他方北方、Robinが架した十字架の重圧を振り切った虎が邪魔になっていてまだ逃走のための進路がクリア出来ているとは言い難い。
加えて、レイガーの近くに居た虎も程なくやってくるだろう。そうなってしまえばまた包囲の状況は振り出しに戻ってしまう。
だから、何とか北方に陣取る虎を排除しなければならない。
「こっちだぜ」
ドルトメイルが呼びかけるように虎へ声を投げかけ、同時に構えた銃が火を吹く。
椅子やテーブルを蹴る力で避ける勢いを得ようとした虎ではあるが、初手の範囲攻撃の嵐で周囲に使えそうな物が存在しない。
吸い込まれるように胴体に叩きこまれた銃弾に、たまらずうめき声。
だが、その攻撃が逆鱗に触れたのか、あるいは狙うべき獲物までの道を塞ぐ存在を排除しなければ話が進まないと判断したのか、虎はお返しとばかりにドルトメイル目掛けて襲いかかる。
振り下ろされる爪の一撃を左に飛び退くように避ける。その行為によって一般人と虎との間にドルトメイルという壁が出来た。
行け、とドルトメイルが顎で示す。
意志を向けられた悠市は一瞬だけ倒れているルドルフの方へ視線をやって、けれど頷くとこちらに近づいてくる虎を牽制させていたヒリュウを呼び戻す。
「ちょっとだけ我慢していてね」
Robinが言葉と共に一番背の低い少年を背負う。
悠市は戻ってきたヒリュウの足を掴む。逃がすものを悠市が抱えている分普段より人一人分重い勘定だが、それでも短距離を駆け抜けるには足りる。
「後詰めを頼む。5秒でも10秒でもいい。奴をここから出さないでくれ」
この場に残るドルトメイル、雫、なつなが悠市の声に頷く。
残った一人を知也が抱えれば後は走るだけだ。
「行くぞ。走れぇぇぇ!!」
叫び、三人が窓目掛けて駆け出した。
数多の範囲攻撃により、窓までの直線進路上に走る障害となる物体は存在しない。
それでも、普段は意識しない僅かな距離が、千里の道とも思えるほどに長い。
走る。
虎がそれを追おうとする。残った者達が壁となり、それを許さない。
走る。
右手の方で金色を纏うレイガーの一撃が海に叩きこまれ、彼がこちらへ向けて吹き飛ばされる。
走る。
最初に辿り着いたのはRobin。小さな身体で背負う少年ごとするりと割れた窓から外へ飛び出す。
続いては悠市。ヒリュウも彼を抱えての移動は慣れているのか、少々重い荷物が存在する現状でも特に慌てずに外へと脱出。
最後に知也。抱きかかえた少年に縮まれと指示を出すと、自身もボールのように身体を丸めて引っかかること無く脱出に成功する。
この瞬間、第一段階はクリアできた。
しかし、
「あっちゃぁ…逃しちまいやしたかね。お前達、追いかければまだ間に合いやすぜ!」
海を吹き飛ばした張本人、レイガーが発したその言葉で、場に残る四体の虎が三人を追うべく窓へ向けて走り始めた。
●
ほんの少しだけ時間を巻き戻す。
金色のオーラを纏う一撃が叩きこまれた瞬間、先程までとは桁外れの衝撃が海を襲った。
単に威力が跳ね上がっただけではない。これは、そう。
自身の防御能力が十全に機能していないような、そんな感覚。
身体の中を暴れ回る衝撃が足の踏ん張りを許してくれない。地に足をつくことすら出来ず、刹那、海の身体が宙を舞う。
着地点となったテーブルを左腕で叩きつけ、受け身と同時に起き上がる。
知也の叫びと視界の隅に移った窓から逃げる三人、そしてレイガーの声で状況は即座に判断できた。
ならば、レイガーの相手をする前にまずやらねばならないことがある。
懐から発煙手榴弾を取り出し、手早くピンを引き抜けば割れている窓の方へと放る。
窓の足元で突如生まれた煙に動揺したか、虎達が一瞬速度を緩めたように見える。
「あんまりよそ見しちゃ駄目ですぜ、兄さん!」
海が逃走阻止に割くことの出来た余裕はここまでだった。
距離を詰めてきたレイガーによる金色の一撃が再度海を襲う。
受けこそ間に合いはしたが、防御が十全に働かぬ効果と吹き飛ばしは軽減できない。
再度吹き飛ばされた先には、店の壁。
人の体重がとんでもない速度で壁に叩きつけられれば、その衝撃は相当なものだ。
相手の拳の威力と込みで息が詰まり、そのまま意識を手放しかける。
それでも意識を保つ事が出来たのは神の兵士であるが故の矜持か、あるいは逆に、叩きつけられた痛みが気を失うことを許さないのか。
「随分と数が減っちまいやしたなぁ。さ、次はどなたがお相手してくださるんで?」
海を吹き飛ばした位置から身体の向きを残る三人に向けて笑いかけるレイガー。
その位置関係を把握しなおし、雫の表情が強張る。
北側の窓へ向けて四体の虎が今も走り続けており、それらを止めなければ喫茶店の外に出た三名への追手が発生することになる。
だが、今のレイガーの位置は自分達と窓とを結ぶ直線を塞ぐ位置だ。
迂回している余裕など存在せず、さりとてレイガーが素直に隣をすり抜けることを許してくれるとは思えない。
「全力で殺り合おうぜレイガァァァ!!!」
直後、隣に居たドルトメイルが地を蹴った。
ほんの一瞬前までの彼からは想像出来ない豹変具合に、なつなが場も忘れて目をぱちくりと瞬かせるが、そんなことは知ったことではない。
手に持っていた銃をヒヒイロカネに戻すと同時、中空に氷の幻影を生み出しそれを掴む。
その行為によって彼の手に収まったのは赤兎の槍。強く地面を踏みしめると同時に必殺を確信したくなる速度で突きが放たれる。
「良いですなぁ兄さん。そうやって真正面から向かってきてくださる気概、大好きですぜ」
顔面を穿たんと放たれた一撃を両手で十字を作るようにして受け止めたレイガー、十字を弾くようにドルトメイルの槍を押し返すと、そのまま槍の分だけ存在するリーチを詰めて拳を放つ。
お返しだ、と言わんばかりに顔面を埋め尽くした拳の痛みに、ドルトメイルは実に楽しそうに笑った。
「ハ、ハハ、ハハッハハハハ! いいぜこの気分! 格上と戦うのはやっぱり最高だ!」
「分かりやすぜその気持ち! こんな所で意気投合できる方と出会えるたぁ思わなんだ!」
下から上へ振るわれた槍の一閃をレイガーはバックステップで回避。
一歩退いた分だけ広くなった視野の端、ドルトメイルとの交戦を機と見た雫となつながレイガーのすぐ隣をすり抜けるように走っているのが分かる。
その歩みを邪魔するか、否か。
虎に追えと命じたのは自分だ。そうである以上、ちょっと手を伸ばして撃退士の邪魔をしてやった方が良いのかもしれない。
「おいおい、あんまりよそ見したら駄目だぜ?」
「仰る通りで。こいつは失礼しやした!」
しかしドルトメイルの声に即座、仕事意識が揮発する。
まるで気付いていなかったかのように雫となつなを無視し、ドルトメイルが次にどんな一撃を放ってくるか、その一点に意識を注ぐ。
そこに海が合流した。ドルトメイルに治癒を施すと、二人並び立ち槍を構える。
「兄さんも頑張りますなぁ。寝てれば楽になれやすぜ?」
「皆が頑張ってる中、俺だけ寝ているわけにはいかないよ。お前も言っただろ、お休みの時間にはまだ早いのさ」
「ッハ、こいつは一本取られちまいましたなぁ…」
ドルトメイルと海、二人がレイガーの注意を引いている内に虎への肉薄が叶った雫となつなは、一般人を追わせはしないと疾走の勢いを含めて武器を振るう。
「通行止めです! そこを動かないでください!」
「止まれってんでい!」
雫が一体を氷の牢へと繋ぎ、なつなが雷を纏う拳を別の一体に叩きこむことでその身体を麻痺させる。
だが、既に窓に近い四体を二人で全て抑えろというのは到底無理な相談だ。
残った二体も同様に動きを止めようとするのだが、それよりも立ち込める煙を振り払い外に出るほうが早い。
「逃してしまいましたか…こうなった以上、あの二体は逃げている皆さんが上手く対処してくれることを祈りましょう。
私達は、残った虎をこれ以上外に出さないように」
「おうともさ」
二人は虎が窓から外に出れぬようにと窓を背に虎に立ち塞がる。
頼まれた。5秒でも10秒でもいい、ここから敵を出すな、と。
力及ばず二体の追手を生んでしまったが、それ以上は許さない。
麻痺から回復した虎が、その歩みを邪魔されたことに腹を立てているのか不機嫌そうに呻った。
通しはしない。その意志を示すように、二人は再度身構えた。
●
「後ろ。二体追いかけて来てるみたいだね」
「ど、どうするんですか?」
「このまま逃げるさ。無理に戦う必要はない」
Robinの声に彼女が背負った少年が怯えたような声を出し、それに悠市が事も無げに返す。
だが、むしろ戦う余裕がない、と言ったほうが正しいかもしれない。
いくら撃退士とは言え、高校生男子を一人抱えている状況はそれだけで大きな負担だ。
事実、互いに全力で走っているのだが荷物が多い分こちらの足が少し鈍い。
彼我の距離が少しずつ縮まっているのが分かる。
「ち、近づいてきてる!」
「大丈夫だ。お前達はこんなとこで死んでられないだろ? 家族を思いだせ」
知也が抱えている一人を励まし宥めるが、事実何か一手が欲しいのは事実だ。
外に出た直後、本部と連絡を取り応援を求めてはいるが、それが来るのが何時の話なのかはまだ定かでない。
どうするか、とRobinと悠市にアイコンタクト。少し考えた末、悠市はヒリュウから手を離し自身の足で走り始める。
「店の中で相棒が命を張っていたんだ。私も多少無茶をせねばならないだろう」
その言葉と共にヒリュウが虎の方へと突っ込んでいくと、突如現れた妨害手に二体の虎の速度が緩んだ。
悠市が最初からこうしなかったことには理由がある。
一般人一人につき撃退士一人が割り当てられている現状、何かが起きて撃退士側が脱落すれば、一般人へのフォローが難しくなる。
一人抱えているだけでも負担が大きいというのに、二人、三人と抱えることになれば虎に速度で勝るのは難しくなるだろう。
そして、ヒリュウで虎の足止めを図るという行為は、「撃退士が脱落する」可能性が存在する一手である。
「……っ、」
「だ、大丈夫ですか?」
悠市が抱えていた一人が突如脂汗を浮かべ痛みに顔をしかめる悠市に恐る恐る問いかける。
召喚獣へのダメージは召喚主にフィードバックされる。
後方では鼻を尻尾で打ち据えられたお返しだと言わんばかりに、虎の爪がヒリュウの腹部を捉えていた。
しかし、鋭い痛みが体中を襲っていても、悠市は走る速度を緩めはしない。
後ろは任せたと、相棒は己に託してくれた。
その信に応えるためにも、ここで無様を見せるわけにはいかないのだ。
走る、走る、走る。
一度は埋まりかけた虎との距離が離れていき、やがて虎が諦めたように速度を緩めていく。
●
最後まで立っていた雫を拳の一撃で昏倒させたことを確認すると、レイガーはその身体を無造作に放り投げる。
破壊されたテーブルの上で既に意識を失っていたなつなの上に雫が着地するが、けれどその衝撃でも二人は起き上がる気配が無い。
「あぁ〜…撒かれちまいやしたか」
追手として外に飛び出た二体の虎からの報告にわざとらしくため息一つ。
結局、この場で人間の魂を狩ることは出来なかった。
こうやって自分は五人の撃退士と戦い勝利を収めはしたが、プロホロフカとしての動きとしては敗北もいいところだ。
「試合に勝って勝負に負けたって奴ですかな。また猫娘にドヤされちまいますな」
自己再生を働かせてあちこちの傷を塞ぎながら、残った虎に撤収指令を送る。
自身もそれなりに楽しめた。それに、魂以外の収穫もなかったわけではない。
ポケットから海に渡された携帯端末を取り出し、しげしげと眺める。
これで連絡すれば、暇な撃退士が相手をしに来てくれると彼は言った。
自身の趣向を捉えすぎている嬉しい贈り物。
当然、何かあると考えるのが当然ではある。
例えば、こちらの人狩りが続く昨今、そろそろ撃退士側もこちらの根城を特定するために動き出すだろう。
もしもこれに発信機か何かがついていて。それを自分が持っていることでプロホロフカの根城が特定されたならば。
「……楽しいことになりそうですなぁ」
攻めこんでくる数多の撃退士達。それらを相手に力を揮う自身の姿を思い描き、レイガーの口元が嬉しそうに弧を描く。
もしも己の考えが正しければ、この端末は己にとって本当に素晴らしい贈り物だ。
そうでなくともこれを使えば撃退士が来てくれるというのだ。軍団の戦略を考えれば拒む必要はあるのかもしれないが、自分自身にとって拒む理由など存在しない。
「まあ、掟には撃退士から何か物を貰うな、なんて文言はありやせんですしねぇ」
白々しく口笛なんて吹きながら、再度携帯をポケットに戻す。プロホロフカ・デビルの唯一の掟は『汝、真に自由たれ、汝が欲する事をせよ』それのみである。
使い方は後でこっそりヴァニタスの娘にでも聞けばいい。
兎角、今日はこれで店じまい。
こきりと首を一つ鳴らして回れ右。足取りも軽く入り口の扉に手をかけて。
「お見事でしたぜ皆様方、流石正義の味方ですなぁ」
悪役も負けてられねえですぜ、と冗談めかした言葉を残し、レイガーはその場を去っていった。
動くものが居なくなった喫茶店。
未だ意識の戻らないルドルフのポケットの中にある端末が、小さく震える。
三人の保護を無事に終えたという、悠市からの連絡だ。
「――」
端末が震えたその理由を、途絶えた意識は理解できては居ないのだろうが。
それでもルドルフの身体は、右手の親指を立てるように動いた。
親指がわずかに持ち上がり、何処かへ何かの意志が向いたのはほんの数瞬。
無意識すらも力を失い、持ち上がりかけた右手が小さく冷たい床を叩き、再度の静寂。
けれど、それは確かに、何かをやり遂げたことの証左であった。
(了)