●風見鶏
地上40階以上、高さ150メートルオーバーの高層ビルの屋上。
現在その摩天楼の頂には、モノクルを装着した九十九 遊紗(
ja1048)の姿があった。
「ふえ〜、高いよ、遠いよ、速いよ〜!」
少女の泣き言も無理は無い。
縦の高度もそうだが、数百メートル以上隔てられた横の距離は、高速で飛び回るその天魔――風見鶏の追跡を困難なものにしている。
それでも、そんな悪環境の中懸命に天魔の動きを追い続けた遊紗の瞳は、とある雑居ビルの谷間に天魔が降下していく姿を捕捉した。
「デニスさん、日下部さん、そのビルの角を曲がったら、たぶん、すぐに敵が待ち受けているから気をつけてね!」
前衛達の威勢のいい応答を無線越しに聞きながら、小柄な少女は内心で、仲間に助言する事しか出来ない己の非力を嘆いた。
普段はその持前の明るさで周囲を元気づける事も多い九十九遊紗らしからぬ、心底悔しそうな表情である。
別段、彼女に責は無い。
ビル風が吹きすさぶ件の駅前で、この距離、この高度から、遠く離れた主戦場に干渉出来る様な撃退士の方が稀であろう。
誰かがこの場に留まり、天魔の動きを追跡する必要がある以上、火力で劣り策敵能力に優れた遊紗がこの場に留まるのは必然と言え、その代償として彼女が戦闘に参加出来なくなったとしても仕方がない事なのだ。
遊紗とてそのあたりの理屈は理解している。
理解していて尚、少女は己の非力を悔やむのだ。
――何故ならば彼女の視線の先では、今正に仲間達が血まみれになって戦っているのだから。
突風に吹き飛ばされた瞬間、咄嗟に己の槍を地面に突き刺す事で日下部 司(
jb5638) はノックバックの距離を最小限に留めた。
「日下部さんっ」
彼に庇われる形になった陰陽師の少女、久遠寺 渚(
jb0685)が悲鳴の様な声を上げるが、今の黒髪の少年にそれに反応するだけの余裕はない。
二発目、三発目の風の攻撃が彼らに迫っていたからだ。
五感を研ぎ澄ませた司は、眼前から迫る不可視の斬撃を二撃目まで捌いて見せたが、先の攻撃の影に隠れる様にして放たれていた三撃目によって、腕を切り裂かれ、槍を取り落としてしまう。
「くっ」
畳み掛ける様に風の弾丸を発生させる風見鶏。しかし、それらが着弾するよりも先に巫女装束の陰陽師が司の傷を癒した。
腕の動きが回復した黒髪の少年は、何とか槍を拾いそれらの追撃を凌ぐ。
「ありがとう久遠寺さん。助かった」
敵の攻撃から仲間を守り切った司は、険しい表情を少しだけ緩め、本来の明るさを感じさせる笑みを浮かべて治療の礼を言った。
「こ、こちらこそ、ありがとうございます!」
対して巫女装束の少女も、地のどこか人見知りな雰囲気を醸し出しつつ、カウンターから自分を庇ってくれた少年に感謝の言葉を口にする。
とは言え、会話を交わしながらも、少年と少女は決して敵から視線を外さなかった。
その判断は正しい。
風見鶏の外見をした天魔は、二人を目がけて更なる追撃に出ようとし――雑居ビルの屋上で雷の槍を掲げる堕天使、エリーゼ・エインフェリア(
jb3364)の動きを捉え、攻撃優先順位を瞬時に切り替えた。
既に雷光の集束を終えているエリーゼに対しては最速の疾風を放ち、間合いを詰めようと走り出した司は吹き飛ばしを狙った突風で牽制する。
天魔の繰り出す様々な形の暴風は、圧倒的な手数と、凶悪なイニシアチブで、これまで撃退士達のあらゆる攻め手を阻んできた。
とりわけ、中・遠距離戦を得意とする渚やエリーゼにとって、この風見鶏の能力は非常に相性が悪い。
巫女装束の少女は周囲に『壁』となってくれる仲間が存在するため、彼らと互いに協力し合う事で何とか天魔との攻防を成立させているが、現在『とある検証』を行うために独りで戦場を飛び回っているエリーゼの場合、攻められたらかわすしかない。
上品な微笑を浮かべた少女は、もう少しで投擲が可能になる雷槍を躊躇なく手放すと、物陰に駆け込み天魔の攻撃をやり過ごした。
――やり辛い相手ですね。
強い、以上に、やり辛い。
その評価は、妥当と言えた。
今回の依頼に参加した撃退士達は皆、大なり小なり今のエリーゼの独白と似た感想を風見鶏に対して抱いている。
例えばそう、現在、猛然と天魔との間合いを潰そうとしているデニス・トールマン(
jb2314)もそうだ。
後衛職にとっての天敵であり、司の様なタイプの前衛にも強力な牽制となり得る天魔の暴風をデニスがいかにして突破しているかと言うと――何もしていない。
正確には、先程黒髪の少年が行った様に自らに飛んでくる風の攻撃を打ち落としてはいるが、これまた同じ様に被弾して体中から鮮血を撒き散らしている。
それらの損傷に対し、粗野な外見の巨漢は只管耐え続けているのだ。
あるいはこう言った方が正しいだろうか、耐え続ける事が可能なのだ、と。
天賦の耐久力と、戦場の中で鍛え抜いた鋼の如き巨躯は、疾風の刃や突風の弾丸の直撃を持ってしても、易々とは打ち砕けない『鉄壁』なのである。
己の血霧を身に纏いながら、殺戮の暴風地帯を踏破していくデニス。
そんな恐るべき重戦士に対して、風見鶏が行った対応は実に単純だった。
「――チッ、このチキン野郎がっ!」
吐き捨てるデニスの眼前で、天魔はその風を支配する力を存分に発揮し――逃亡したのだ。
●チキン
エリーゼが『やり辛い相手』と称し、デニスが『チキン野郎』――『臆病者』と吐き捨てるこの天魔の戦術は一貫している。
――敵の不審な行動を感知したならば、機械的にそれを攻撃し、攻撃に失敗した場合は躊躇なく逃げ出す。
ただ、それだけ。
それだけであるが故に、その戦術を打ち崩す事は難しい。
天空からの雷槍も、ライフルの弾丸も、槍の切っ先も、全て天魔に届く前に使い手を狙われ潰されてしまった。
例外は、使い手を狙われても強引に攻撃を続行する事が出来るデニスぐらいのものであったが、件の重戦士に接近を許した場合風見鶏は躊躇なく逃げの一手を打ってくる。
恐らく今日、撃退士達は敵と戦っている時間よりも、逃げ出した天魔を追っている時間の方が長い。
高層ビルの屋上で孤独な索敵を続ける遊紗の存在がなければ、今回の依頼は『逃げる敵を見失った』という理由で破綻していた危険性すらある。
普通の人間であれば、終わりの見えない追走劇に心身ともに疲れ果て、戦わずして疲弊していった事だろう。
しかし、今この場所にいる彼らは『普通の人々』等ではなく『撃退士』だ。
どれ程過酷な状況下でも、勝利への執念、撃退への思考を絶対に放棄しない。
――だから、エリーゼは『その解答』に至った。
「恐らく、攻め続ければ敵は逃走を止めます」
遠方に着地した天魔を追う道すがら、堕天使の少女は自らの推論を仲間達に伝えた。
戦闘序盤から『とある検証』――『撃退士から攻撃を受けた際の風見鶏の対応の分析』を行っていた彼女は、天魔の能力や性質に関して何点か気付いた事があるのだ。
例えば、逃走の際に使う飛行能力。
「速度は何らかの方法で加速している様ですが、飛べる高度の限界等から考えて、私が普段使用しているものと同じスキルを使って飛んでいる可能性が高いです。だとすれば――」
いずれ使用限界に達し、飛べなくなる。
「じ、持久戦、ですか」
道路を疾走する巫女装束の少女が、戦いの過酷さを予想しやや緊張した声音で呟いた。
渚に並走している司も、その言葉に続く。
「俺達の体力が尽きるのと、敵のスキルが尽きるの……どちらが先かという話ですか」
「少しだけちげーな。あの野郎、スキルが尽きる前に仕掛けてくるぜ」
外見、言動共に粗野な印象が拭えないデニス・トールマンではあるが、決してそれだけの男ではない。熟練した戦士である彼の知性と観察眼は、今回の天魔を『慎重かつ狡猾な敵』として認識していた。
デニスの予想では、戦場の兵がそうである様に、風見鶏も銃弾を撃ち尽くすまで戦いはしない。残弾が残っている内に決死で『決めにくる』はずだ。
「……奴が勝負を急いだ瞬間、ソコを狙う訳ですね」
黒髪の少年は、その瞬間そ想像し無意識の内に槍の柄を握る手に力を込めていた。
「――そうは言っても、殺せるものなら、とっとと殺してしまいたいものね」
美しい声音で物騒な発言をしたのは、今回の依頼に参加している撃退士の最後の一人、ナヴィア(
jb4495) であった。
綺麗な緑髪と大人びた容姿を持った魅力的な少女であったが、口元に浮んだ好戦的な笑みは彼女の内面の獰猛さを物語っている。
「持久戦って、柄じゃないのよね」
その言葉通り、次の接敵時、ナヴィアは膠着した戦況を動かした。
はぐれ悪魔である彼女には、数百メートル以内の大気の動きを完全に感知する風見鶏の、死角を突く術があったのだ。
これまでは、ソレを行える間合いに踏み込めなかったのだが、緑髪の少女は今回デニスという名の鉄壁を利用する事でその問題をクリアした。
巨漢の背中に隠れる様にして接近してくる少女の存在には、天魔の側も気付いていた。視覚上の死角に入ったとしても、大気の動きは誤魔化せない。
故に、風見鶏は驚愕したのだ。
一瞬前まで確かにそこに存在していたはずのナヴィアを、見失った事に。
――物質透過スキル。
その行使によって地中に潜った今の緑髪の少女は、完全に風見鶏の知覚範囲外にいると言って良かった。
状況としては、水中に潜っている様なものであったが、ナヴィアは今、息継ぎ無しで敵の真下に潜り込める間合いにいる。
ならば、その奇襲の成功は必然であろう。
風見鶏が感知した瞬間には既に、影から浮かび上がる様に姿を現した緑髪の阿修羅は大斧を振り抜いた後だった。
今回の戦闘において、初めて撃退士側の攻撃が通った瞬間である。
鉄柱にその一撃を受けた天魔は為す術も無く吹き飛んだ。
――軽い、そして脆いわ。
会心の一撃と言ってもいい手ごたえは、あと数発も今の攻撃を叩きこめば、この天魔を撃退出来る事をナヴィアに教えた。
あわよくば、戦斧に纏わりつかせた闇による拘束で、相手の動きを封じ様ようと考えていた緑髪の少女は、吹き飛んだ先に落下せずにそのまま飛び去った風見鶏の姿を見て、目論見の失敗を悟るが、それでも勝利の道筋が立った事に満足気な笑みを浮かべる。
……残念ながら、その笑顔はすぐに曇る事になった。
「――っ、なんてチキンッ」
影から浮び上がる様に姿を現したナヴィアは、もう何度目になるか分からない悪態を吐く。
一度目の奇襲の成功以降、風見鶏は徹底してナヴィア対策を行ってきた。例によって、はぐれ悪魔の少女を風の知覚能力で捕捉出来なくなった瞬間、問答無用で逃げる様になったのだ。
結果として、それが持久戦の決着を速める事になる。
遊紗の誘導によって、いい加減通い慣れた感のある道を撃退士達が進んでいたところ、小柄な少女が「降りていったよ!」と言った場所に天魔の姿はなかった。
彼らは一様にそれを訝しがり――渚とエリーゼが吹き飛んだ。
同時に攻撃されたナヴィアは地中に潜る事で耐え、司とデニスは自力でその場に踏み止まる。
そして前衛達は目撃した。
十数メートルの高さを持つビルの『側面』に突き刺さった風見鶏の姿を。
――奇襲、それも後衛を先に潰してきたかっ。
デニスは瞬時に敵の『意図』を悟りショットガンを撃ちまくるが、天魔はそれを意に介さず猛禽の速度でそこから飛び去り、今度は雑居ビルの屋上に着地した。
もはや前衛からは視認さえ出来ない様な位置である。
ことその段階に至り、ようやく天魔は切り札を切った。
風見鶏のシンボルである、鶏の鉄板が高速の回転を始める。
「竜巻が来るぞっ」
視認出来ずとも、これまでの敵の動きから『次の一手』を予想したデニスの叫びは、撃退士達全員に現状の理解を促した。
ナヴィアが翼を広げ屋上に向かおうとするが――遅い。
風見鶏の感知能力は見切っていた。
渚のライフルも、司の槍も、エリーゼの雷槍も、デニスやナヴィアの斧や銃も、最早竜巻の発動には間に合わないと言う事を。
数百メートルにも及ぶ天魔の知覚能力は、その範囲内で足掻こうとしている人間どもの動きを完全に捕捉していた。
故に、風見鶏は勝利を確信したのである。
――そして故に、天魔は見落としたのだ。
数百メートルよりも尚遠い、遥か摩天楼の頂に潜む『その狙撃手』の存在を。
●暴風を凪ぐ者達
エリーゼが行った検証の一つに、風見鶏の攻撃範囲の確認というものがある。
結果、件の高層ビルの屋上に関しては、天魔の知覚範囲外であるという確認が取れていた。
あるいは、そこからの援護に頼らざるを得ない場面も出てくるかもしれない。そんな話を堕天使の少女からされて、実戦経験の少ない遊紗は震え上がった。
実際問題、現時点の彼女の技量と装備では、例え無風状態であったとしてもここからの狙撃に成功する確率は五回に一回といったところだろう。
とてもではないが、誰かを援護出来る様な自信はなかった。
なかった、はずだった。
「竜巻が来るぞっ」
デニスのその言葉を聞き、今仲間を救える者が自分しか存在しない事を理解し、少女は己の非力を自覚した上で覚悟を決めた。
――絶対に、みんなを死なせたりなんてしないんだから!
銃口を標的に向けて構えても、遊紗の体の震えは止まらず、心の怯えは消えなかった。
だから、彼女はそれら『狙撃の成功に不要なもの』を全て殺す事にした。
震えを殺し、怯えを殺し、そして――己自身を殺す。
九十九遊紗という名の少女は、その刹那において、一個の狙撃装置と化した。
そして。
天魔が竜巻を発動させる直前。
駅前から全ての風が消えた瞬間。
『摩天楼の狙撃手』の指は静かに引き金を引き――風見鶏が吹き飛んだ。
ビルの屋上から地上へ落下する羽目になった風見鶏の混乱が、如何程のものであったかは不明だが、事実のみを述べるならば天魔はこの時、風の感知能力に支障をきたした。
そこを見逃す撃退士達ではない。
まず、渚によって巻き起こされた砂塵が風見鶏を包み込んだ。
風によってそれらを打ち払う天魔だったが、砂塵を煙幕とし間合いを詰めていた司の槍の衝撃波によって突き飛ばされる。
そして飛ばされた先では、エリーゼが上品な微笑を浮かべたまま、凶悪なまでの火力を誇る雷槍を構えていた。
風見鶏は堕天使の少女を狙って風の刃を放つが、全身を血まみれにしながらも尚不敵な表情を崩さない巨漢によってそれを阻まれる。
極大の雷光が駅前の大通りを駆け抜け、嵐を呼ぶ天魔は、嵐を呼ぶ事も許されず、この世界から消滅した。
●???
実験No.27 風葬の風見鶏 失敗
※備考:昨今、学園の撃退士による実験の妨害が相次いでおり、上層部におかれては何らかの対処を検討されたし。