●突入の前に
暮れかけの日の光を反射して、双眼鏡の分厚いレンズがぎらりと光った。
眩しさに目を細めて双眼鏡を下ろしたのは千葉 真一(
ja0070)。ばたばたと風にはためくヒーローの証、赤いマフラーの口元を片手で押さえながら、手元の地図に目を落とす。
アマランタイン討伐のために風上、風上から見て左右、風下の四組に別れて行動することになった撃退士たちだが、彼らは一度アマランタインの毒花粉の影響の及ばぬ場所に建つビルの屋上に集まっていた。というのも、集まった撃退士の殆どから情報収集と事前準備が願い出られたからだ。
屋上の出入り口の上、屋上より更に一段高くなった場所に立ち、双眼鏡で状況を見ていた真一は、一通りアマランタインの影響下にある街を眺めると、屋上から自分を見上げる皆の所に飛び降りて戻る。
「千葉、何か解ったか?」
そう言って真一の隣に立ったのは、決して背の低くない真一が更に見上げなければならない程の長身。青戸誠士郎(
ja0994)。真一はこくりと頷いて、手にしたこの街の地図を皆に差し出す。その地図には何カ所か×印が記されている。
「薄くもやがかかっているように見えるところがあった。多分、あそこが毒花粉の濃い場所なんだろう。あくまで目測だが、この×印のあたりは花粉が濃いように感じられた。あと、当然だが街の中心、アマランタインに近づくほど花粉は濃いようだな」
その地図をつま先立つようにしてのぞき込んだのは氷月 はくあ(
ja0811)だ。そして、自分の持つ二種類の地図と突き合わせる。
「そうですね、私の予想とも大体合致しました」
はくあが持っていた二つの地図は、等高線などの詳しい地理が解るものと、建築物の表記が解るものの二つであり、はくあはこれらを用いて事前に花粉の溜まりやすいだろう場所を割り出していたのだ。
「つまり、このバッテンのところを避けていけばいいんだよね!」
「そう、上手くいけばいいんですが…」
楽観的に言うのは鴨志田楸(
ja0181)。その手には空になった「ねむねむ妖精を打破しちゃうぞ!」という眠気覚ましが握られていた。
その隣で同じく空になったコーヒーの缶を手で弄びながら苦笑いしたのは紫藤 真奈(
ja0598)だ。
と、その時、しゅこーという空気の漏れるような音がして、楸と真奈の肩の隙間からにゅっと地図を持った手が生えた。
「…これ、それぞれのスタート地点からゴールまでの最短距離ルート」
だるそうな声でそう告げたその手の持ち主は、未だ毒花粉の及ばぬ場所だというのに既に防護マスクをつけて素顔が見えない篠木 柚久(
ja8538)。どうやら地図から最短であろうルートを割り出していたようだ。
「よし、じゃあこれらの地図をよく頭に入れて、行動しよう」
真一、はくあ、柚久の提供した地図からそれぞれのベストルートを模索しつつ、撃退士たちはそれぞれに毒花粉対策を始めた。
「それでは、いきましょうか」
真奈がそういって、手近に設置されていたくずかごにコーヒーの空き缶を投げ込んだ頃には、撃退士たちは防護マスクやゴーグルなどで顔を覆い尽くした奇妙な一団となっていた。
●ねむねむ妖精打破計画(スタート地点・風上班)
近づけば近づくほど、街は異様な様を見せた。風景はありがちな街の商店街だ。だが、活気はなく、どこか薄暗い。あちこちで眠りに陥ってしまった人たちが折り重なるように倒れ、死んだように静かに眠っている。
「これ、寝てるだけだよね?」
楸は寝ている人たちを避けながら、ぽつり呟く。
風上班になったのは、真一、楸、柚久の3人だったが、楸の呟きに反応したのは、珍しく柚久だ。
「今はまだ、な」
言外に自分たちが失敗すればこの人たちの命も危険に晒されるのだと言われたようで、楸はマスクの下で口の端を引きつらせた。
「うわー、プレッシャーかけないでよー!もういいもんね、ねむねむ妖精に打ち勝つために、私の小粋なトークで盛り上げちゃうから!」
じゃーん、と口で効果音をつけて、楸は携帯電話を取り出す。そして、得意げにふふんと鼻を鳴らした。
「みんなと携帯の番号交換したのは、このためだったのでーす」
どや顔の楸だったが、まるで空気を見るように無反応の柚久と、どう反応していいのか迷っている風の真一にハートブレイクしかけた。だが、そこはすぐに真一がフォローに走る。
「あ、でも各班の状況を把握するのにも役に立ちますよね!」
「そう、そうなのよ!じゃあ、とりあえず手始めに青戸に連絡とってみようかー!」
●熱い視線(2分経過地点・風上から見て右班)
「もしもし、鴨志田先輩ですか?はい、こっちはまだ大丈夫です。花粉もまだ薄いみたいですし…」
油断はできませんけどね、と電話口で誠士郎は薄く笑った。
誠士郎が担当する風上から見て右のルートは、その道程の大半がオフィス街であり、それほど高くはないもののビルの建ち並ぶ界隈だった。見上げれば、ビルの窓際で不安そうに外の様子を見守る人々がいる。
どうやらこのあたりは花粉の濃度があまり濃くないこともあり、気密性の高いビルに残った人々は未だ眠りにはついていないようだった。だが、ビルから身動きがとれない以上、状況は変わらない。
花粉症用のマスクを二重にして、隙間にウェットティッシュを挟むというスタイルとはいえ、この毒花粉の中を行く誠士郎は一見して撃退士と解るらしく、人々の彼を見る視線は熱い。
(熱くて熱くて、焼けてしまいそうだ…)
じんわりと胸を焦がすその感情は、使命感か、それとも焦りか。
どちらにせよ、誠士郎は彼らの目を振り切るようにして、先を急いだ。
人目のないところまでたどりつくと、そういえば、と耳にあてたまま忘れかけていた電話に気が向いた。電話の向こうではまだ楸が多彩なトークを繰り広げている。
ふと、マスクの下の口元が緩む。確かに、この電話にはプラスの効果があるらしい。
「そういえば鴨志田先輩に聞きたいことがあったんですけど」
思えば久しぶりになる誠士郎の言葉に、電話の向こうで盛大に食いつく気配がした。
「俺、彼女持ちなので、よかったら女性が好きそうな…その…デ、デートスポットとかが聞ければな、と……あれ?鴨志田先輩?」
突如として切れてしまった楸との通信に、誠士郎はどうしたのだろうと本気で首を傾げた。
●キケンなやりとり(5分経過地点・風上から見て左班)
真奈の担当する風上から見て左のルートは古くからの住宅が密集している地域を通るルートだ。毒花粉が充満しはじめた日中には歩いている人が少なかったのか、道で眠り込む人も少なく、一見ゴーストタウンのようだ。
(やはり車で来なかったのは正解でしたね)
実は車を使うということも考えていた真奈だったが、居眠り運転で事故を起こす可能性を考えて、己の足に全てを託したのだ。結果、この狭くて複雑な道を眠気に耐えながら運転することにはならなかった。
あとは縮地を場所を見極めながら使って進めば、時間の短縮になるはずだ。そう思った矢先。
ポケットに入れてあった携帯がぶーんと独特の音を出して震えた。
「…はい。鴨志田さんですか?ええ、こちらもまだ大丈夫です」
状況報告の一環とはいえ、なかなかこちらから積極的に電話をかけるということが出来ないでいた真奈だったもので、楸が親しげな様子で電話をしてきてくれたことはなんだか嬉しく感じていた。
だからなるべく状況報告だけではなく、雑談で眠気を緩和しようという楸の試みに乗るつもりだったのだ。
「全く、街一つを沈めるなんてアマランタインという花はどれだけ盛っているんでしょう」
はあ、とため息混じりに何気なく言った一言。その言葉に、電話の向こうでは盛大に慌てるような気配があった。だが当の真奈はどうしてなのか解っていないように首を傾げる。
「え、そんなこと言っちゃダメ?なんでです?だって…」
真奈が追い打ちをかけるように言葉を発しようとした瞬間、電話の向こう側の焦りは頂点に達し、そこで通話が切れてしまった。
「…??」
天然爆弾発言少女と肉食系に見えて意外とウブなアスパラベーコン巻き系女子の会話は、少々危険である。
●ねむねむ妖精、来る(8分経過地点・風下班)
はくあが担当する風下からのルートは、新興住宅地が主なコースであった。風の流れは比較的良好で、花粉が溜まるような窪地も少ない。だが、風下だけあって、全体的に花粉の濃度が濃いのは否めなかった。
「はい、こちらもまだ大丈夫ですよっ」
楸からの電話に、そう元気に答えるはくあ。
しかし、すでに花粉の影響範囲内に入って8分。防護マスクできっちりと花粉対策をしたつもりだったが、ここまで花粉が濃くなってしまうと、防ぎ切れていないのをひしひしと感じる。
(あとは、スピード勝負ってとこだねっ!昨日はいっぱい寝たし…きっといけるっ!)
ぐっと手に力を込めて、はくあは神経を集中する。細かい風の向きや眠りに陥っている人々の状況など、新しい情報をその都度取り込んでここまでやってきたのだ。
だが。
「きゃっ!?」
その時、急な巻き上げ風が起こった。たい積していた花粉が一気に吹き上げられて、はくあを襲う。途端、ホワイトアウトする思考。電話の向こうから楸の気遣う声が聞こえたが、その声も真っ白な頭の中をぐわんぐわんと反響して、意味をなさないただの音となる。
強烈な眠気だった。
よろ、とはくあはその場でたたらを踏むと、近くの民家の塀に倒れるように寄りかかる。
(あ、これ…また、寝ちゃう…かも…)
依頼中に寝ちゃうの何回目だっけ…と軽い疼痛を伴って重くなる瞼を必死に上げながら考えたが、更に眠くなる行為だと気づいたのか、あるいはそうでないのか、ふるふると首を軽く振って辺りを見回した。
その今にも閉じてしまいそうな視界に、住宅街の真ん中に申し訳程度にあつらえられた小さな公園が映る。
(あそこまで…)
言うことをきかない体にむち打ち、引きずるようにしてなんとかその公園までたどり着いたはくあは、片隅に設けられたベンチに倒れ込む。ここならば、道ばたで眠りこけるよりははるかに安全だろう。
「5分だけー…いいよね?」
そう言って吸い込まれるように眠りに落ちたはくあは、すぅすぅと気持ちよさそうに小さな寝息を立て始めた。
●共倒れ(10分経過地点・風上班)
「…真っ先に……氷月が落ちるとは思わなかったな…」
真一はそう言って小さく唸った。だが、その彼のゴーグルで隠された目元にも、既に深い隈が刻まれている。
風上といえども既に中心地に近い。彼らも一番花粉の濃度の濃いエリアに入りつつあった。
「ここで…倒れる訳にはいかねぇぜ」
そう言って強がってはみるものの、既に限界が近いだろうことは、その蹌踉めく足取りにも表れていた。その隣で、楸は立ちながら浅い眠りと覚醒とを行き来するという器用な芸当をこなしている。だが。
「もう…駄目…ね、眠い…ねむねむ妖精が来ちゃった…ようね…」
ついに我慢が出来なくなったらしい楸がよろりとよろけ、その場にばたーんと倒れ伏した。
「……あとは…任せた…」
そう言って気持ちよさそうな寝息を立てて眠ってしまった。
「おう…任され……ふぁ…」
任された、と言おうとしたのだろう。サムズアップを決めようとした真一だったが、その言葉尻は欠伸でかき消えた。そして。
「…わ、悪い。後よろし…ぐぅ…」
その場にへたりこむようにして真一も眠ってしまった。
取り残された柚久は、一瞬、片手を胸の前に置き、祈るようなポーズをしてから、すぐ近くまで迫ったゴール地点、アマランタインの咲くビルを見上げた。
●回る空(11分経過地点・風上から見て右班)
必死に走りながら、誠士郎は己の限界と戦っていた。花粉症用マスクの隙間にウェットティッシュをはさみ、こまめに目、鼻、喉を洗浄するという彼の策は一定の効果を上げていたが、花粉の濃度が濃くなってくると一瞬でもマスクを外すことが命取りになりかねない。
(もう、長くは持たない。眠ってしまう前に…辿り着かなければ…!)
だが、次第に視界は眠気に歪み、今自分がどこを走っているのかすらおぼつかなくなってくる。
誠士郎は苦しさに喘ぐように顎を上げた。だが、その瞬間、バランスを崩して地面に大の字に倒れ込んでしまう。見上げた空がぐるぐると回っていた。
誠士郎はざっくりと前髪を掻き上げてから、目を閉じる。
「くそ、これは二度寝の誘惑よりキツイな……」
そして、誠士郎も意識を失うように眠りについた。
●エレベータの罠(同11分経過地点・風上から見て左班)
薄ぼんやりとあたりを埋め尽くす濃い花粉を切り裂くように真奈は走る。
しつこい眠気はあった。だが、すぐに眠り込んでしまうという程ではない。それに引き替え、自分の目の前には目標である8階建てのビルが迫ってきているのだ。
(いける!)
ビルの入口に設置された自動ドアが開くのを待つのももどかしく、ビルに転がり込んだ真奈は、視線を巡らせてあるものを探す。それは。
(あった!エレベータ!)
急いで登り方面のボタンを押すと、待つこともなくあっさりとドアが開いた。
だが。
「!!」
開いたドアから漏れ出たのは大量の花粉。
どうやら、このビルは気密性があまり高くなかったらしい。屋上からビル内部に漏れ入った花粉が、エレベータの縦穴を通じてエレベータ内部に溜まっていたのだ。
花粉の直撃を受けた真奈は、その場に膝を突いた。あまりに濃い花粉に、逆らうことも出来なかった。
「…不覚…」
その言葉だけを呟いて、真奈はその場に頽れ、眠りについた。
●Good Child(ゴール地点)
ガチャリ、と屋上の扉を開けてゴール地点であるビルの屋上に出てきたのは柚久だった。夕焼けの赤い光が彼の防護マスクのゴーグル部分に反射し、その表情は伺い知れない。
柚久はゆっくりと屋上を見回し、そして屋上フェンスの近く、アスファルトの裂け目に咲く全ての元凶、アマランタインを見つけた。
眠いのか、それともそれが彼の常なのか。柚久はゆっくりとアマランタインに近づき、しゃがみ込む。
そして。
ぶちっ!
なんの躊躇もなくむしり取った。
「とったどー」
柚久は赤い夕日に向かって手にしたアマランタインを掲げると、そう呆れるほどの棒読みで宣う。
しかし、それが鬨の声であったかのように、アマランタインの毒花粉によって眠りに落ちていた人々があちこちで目覚め始めた。アマランタインが刈り取られたことによって毒花粉が無力化したのだ。
ざわざわとざわつく街をアマランタインを握ったまま一望する柚久の表情は、相変わらず防護マスクによって隠されている。だがその後ろ姿は、どこか満足げであった。