●山の麓――防衛線にて
前に山、後ろは田畑と、のどかな風景が広がっている。太陽から暖かな日差しが降り注ぎ、春の到来を感じさせる穏やかな天候に、防衛線の面々は緩やかに流れる時を過ごしていた。
「いい天気ですね」
ユイ・J・オルフェウス(
ja5137)は目を細めながら呟いた。これから人類の宿敵とも言えるヤツらと対面すると言うのに、緊張や恐怖は無い。ただ、虚ろな瞳を虚空に彷徨わせていた。
「本当にネー、任務が無ければ絶好の花見日和ヨ」
すぐ隣のシノブ(
ja3986)もそれに同意しながら、遠い目で山を見つめている。それでも任務を忘れてはいない。ユイも任務と聞いて、現実に引き戻された。
「そうは言ってられないだろ?」
二人をたしなめながら、槙名 レン(
ja6769)は事前に準備しておいた弁当を並べる。もしヤツらが食べ物に釣られるのであれば、その隙に殲滅してしまおうとの魂胆だった。
たしなめつつも、誰だってヤツらに接近したいとは思わない――槙名も同じだった。できることなら、遠目から攻撃し続け、殲滅したいのだろう。
そんな現実逃避気味の三名から少し離れた所に、青戸 誠士郎(
ja0994)、フローラ・ローゼンハイン(
ja6633)と土方 勇(
ja3751)の姿があった。
サイズが増した相手に対し、青戸が準備したのはハンドアックスだった。
「うん……分かった、気をつけてね」
その横の土方は通話を終えて、携帯電話をポケットにしまった。武器の弓を担ぎなおし、青戸とフローラを見やる。
「どうだ?」
青戸が尋ねると、土方は頷く。
「もう動き出したって」
いつしか姿を消していた遊撃の四名は既に動き出した。ただ、防衛線はやってくるヤツらに集中すれば良い。青戸は風に揺れる木々を見つめ、その時を待った。
「じゃあ僕は行くね」
そう言い残すと、土方は青戸の下を離れる。その少し後方に位置するフローラは、土方の背中を見送った。
フローラと青戸は防衛線の中心に位置するため、全体の把握が容易に行えた。右手にはユイ、シノブ、槙名の三名がいる。左手――土方の向かった先には郷田 英雄(
ja0378)とディアーヌ・ド・ティエール(
ja7500)の姿があった。土方は今回が初依頼となる新人の中でも、ディアーヌを主に援護する。
「ふむ、遂に人類種の天敵は巨大化を手に入れたのか。胸が熱くなるな」
そんなことを言う英雄は堂々と待ち受ける。その少し後ろで、ディアーヌは写真を見つめながら息を呑んだ。
「ほ、本当にこんな禍々しい姿なのかな……?」
ディアーヌが呟くと、英雄が頷いた。がっくりと項垂れるディアーヌを一瞥し、英雄は大剣を片手で器用に振るう。
「まァ、俺が守ってやるさ」
空気を切り裂き、英雄は刃先を地面に突き立てた。
●遊撃、隊?
作戦の開始と同時に別天地 みずたま(
ja0679)は姿を消した。アレクシア・エンフィールド(
ja3291)と暁 海那(
ja7245)の二人は山を挟むようにして反対側に待機しているはずだ。
遊撃とは言え、防衛線の届かない位置のターゲットを殲滅するのだから 、取りこぼしがあってはならない。土方からの電話を終えて、一人残された阿岳 恭司(
ja6451)は途方に暮れた。
ホウ酸団子が大量に入っている寸胴鍋を抱え、空いている手で頬を掻く。
「どうすっかなぁ……」
とは言え、既に敵地に入っているのだ。悩んでいても仕方が無い。阿岳はマスクを取り出し、それを被った。戦闘スイッチオンだ。
「ゴキちゃんめ……ちゃんこのお兄さんが引導を渡してやるさ!」
先ほどまでの迷いはどこに行ったのだろうか。阿岳――否、チャンコマンが猛烈な勢いで、山へと突入していった。
同時刻、火のついていないタバコを咥えた暁も、ショットガンを手にして山に入った。先ほどまでアレクシアと同行していたた火をつけなかったが、彼女の姿が木々の中に消えていったのを確認してから、ライターを取り出した。一息吸い込んで、ため息混じりに煙を吐く。何も言わない。ただ行動で示すと言わんばかりにショットガンを肩に担いで、ターゲットの探索に入った。
●体液舞い散る防衛線
穏やかな陽光を浴び、ユイは緩みきっていた。ヤツらのことすら忘却しかねないほど、平和な時が過ぎてゆく。
ディアーヌも、このまま何事も無く済めばいいのにと考えていた頃、相方の英雄が地面に突き刺していた剣を抜いた。
「さァ、心の準備は大丈夫か? 奴さんが来たぞ」
英雄の言葉で空気が張り詰める。否、木々の合間から見えるヤツらのプレッシャーだろうか。全身から冷たい汗が噴き出してくるのを感じながらも、ディアーヌの視線は釘付けになっていた。
のそりと土を踏む重厚な足、陽光を帯びて不気味な輝きを宿す羽、獲物を探すべく小刻みに震える触角――圧倒的な存在感に、ディアーヌは思わず悲鳴を上げた。
静寂が続いたため、それは他の防衛線のメンバーにも届く。穏やかな空気は一瞬にして冷めた。
後ずさるところか、そのまま背を向けてダッシュしたい衝動に駆られるが、前で構える英雄のために、とディアーヌは目の端に涙を溜めながらも踏み止まった。
「来たか」
英雄、ディアーヌ、土方とは反対に位置する槙名の言葉に、ユイがびくりと跳ね上がった。シノブもやれやれと言わんばかりに肩を竦めながらも、刀を抜く。木々の合間から姿を現したヤツらの姿にユイは後ずさった。想像以上の数に、槙名とシノブの顔も引きつる。
「こ、これは――」
ヤバイ、見た目的に――防衛線のメンバーの気持ちが一つになった瞬間だった。
しかし、いつまでも怯んでいるわけにはいかない。青戸は斧を構え直した。陽光の下に姿を現したヤツらの節足が地面に突き刺さる。確実に接近するヤツらを前に、青戸は斧を振り上げた。
事前の情報通り、巨大化に伴って素早さを失っている。目の前の一匹にアックスを振り下ろすと、難なく叩き割れた――が、体液が飛び散り、青戸は僅かに顔をしかめた。
特に臭いがあるわけではないし、浴びた瞬間に害があるわけでもなかった。それでも斧から糸を引く体液に、嫌悪感が無いと言えば嘘になる。実家が農家のため、ヤツらとの戦いは日常茶飯事であった青戸でも悪寒が背筋を抜けていった。
しばしの硬直。悪寒をぐっと堪え、更に進もうとするヤツらに斧を振り下ろす。一撃で砕け、体液を飛び散らす相手が楽なのか厄介なのか、少し迷いが生じた。
一人では抑えきれない――必死に斧を振るっても、目の前の敵だけを叩くのが限界だった。数が多すぎる。
「足止めを――」
青戸が叫ぼうとしたと、ほぼ同時に左右のヤツらが動きを止めた。銃弾がヤツらに襲い掛かったのだ。青戸は振り返らない。後衛のフローラを信じ、目の前の敵を殲滅していった。
そんな中、英雄も体液でネトネトになりながら、大剣のリーチを活かした豪快な一撃で確実に仕留めてゆく。
とは言え、やはり数が多すぎる。防衛線に押し寄せる数は予想を遥かに上回っていた。守ってやると豪語しておきながらも、数の暴力を前にした英雄は少しずつ後退せざるをえなかった。
押し寄せるヤツらにディアーヌは涙目になりながらも援護を続けた。土方も矢を射るが、数が減らない。
思わぬピンチに誰しもの顔が歪んだ、その刹那、何かが飛来する。それはヤツを叩き潰し、体液を派手に撒き散らした。しかし、その姿は一瞬にして消える。英雄が目を凝らすと、また別のヤツを叩き潰す残像は水色の何かだった。
刹那、英雄の中で一人の名前が思い浮かぶ。遊撃を志願したあの少女の名が。
「みずたま……!?」
一撃離脱を繰り返す別天地は、ヤツら相手ではモチベーションが上がらないのか、無言でヤツらを踏み潰してゆく。体液は踏んだ地点から放射するように飛び散るため、別天地はほとんど汚れていなかった。最初は蹴りを主軸に殲滅していたが、如何せん数が多い。飛ぶように跳ね、踏み潰してゆくと汚れることなく、殲滅できることに気づくと、あっと言う間にヤツらの数を減らしていった。
別天地のフォローを受け、英雄は一気にヤツらを押し返してゆく。攻めてくる数が減ったため、防衛線を維持することが可能になったのだ。
フローラはその光景を一瞥するが、手を止めている暇はない。青戸の奮闘で、何とか防衛線を保つことができているが、酷い有様だった。英雄に負けずとも劣らずなネトネトっぷりで、自らの姿に開き直りながら斧を振るっている。
その様は丸で鬼神の如し、次々とヤツらを叩き割ってゆく。突然、飛び上がったヤツは斧の側面で叩き落して、トドメの一撃を振り下ろした。
不意に森の中で何かが動いた。先ほどより数が減っているため、青戸は目で追う。影は黒いが、ヤツらとは違った。
「……流石に数だけは多いな。全く面倒な事だ 」
そう呟きながら、ヤツらを斬り捨ててゆくのは、遊撃を担っていたアレクシアだった。しかし、まとうオーラが違い過ぎて、青戸は戸惑う。作戦前に「虫螻相手もこれで二度目か……まぁ、別に構わぬがな」 とクールに言い放ったアレクシアの姿は無い。接近戦を主にする者の宿業か――彼女もまた体液の餌食となり果てていた。剣呑な光を瞳に宿し、ヤツらを斬り捨てる動きに鈍さは無い。しかし、どこか自棄になりながら、アレクシアは掃討してゆく。顔も髪も体液塗れ、それを拭う袖も既にネトネトだった。
無言で戦うアレクシアは、触れると斬られかねない鋭さがあった。青戸も黙って斧を振るう。身なりを気にせず戦うアレクシアを見習おうと、体液を浴びながらヤツを叩き割った。
その頃、防衛線の一翼を担うシノブも半ば諦めながら、ヤツらの殲滅を続けた。淡々と作業をこなす彼女の瞳に力は無い。虚ろな視線を彷徨わせながらも、次々とヤツらを倒してゆくシノブの姿に、ユイは戦慄を通り越し、恐怖に震えていた。援護すべきだと分かっていても、飛び散る体液を前にすると身体が竦んだ。
顔にかかった体液を面倒くさそうに拭い、シノブは更に刀を振るう。それを援護するように槙名は銃弾を放つが、やはり彼も無言だった。シノブもアレクシアと同じ雰囲気をまとい始めたのだ。触れてはならないと自戒し、槙名は援護を続けた。
そんな光景を遠くから眺めながら、ショットガンを放つのは暁。彼もまた体液の餌食になっていた。接近してきたヤツに対し、容赦なくショットガンを向けた結果がこれだ。それからは距離を取って、トリガーを引いているため、前衛で諦めながら戦っている者よりは遥かにマシだった。それよりも体液のせいでタバコの火が消えてしまったことに苛立ちながら、数を減らしてゆく。大半は防衛線に向かっていったようで、作業は簡単に済んでゆく。
そんな中、暁は信じられない光景を目にする。ヤツら相手に素手で奮闘するのは、マスク姿の男――この場にいることから遊撃であることを察し、その中から同性を絞り込むと名前は一つだけだった。
「阿岳か?」
機械的な音声に、マスクの男は反射的に振り返る。
「阿岳? 何を言っている。私の名は正義の味方チャンコマンだ!」
そう言いながら、ヤツの頭を叩き潰し、体液をまともに浴びるが、怯むことはない。また別の相手に飛びつき、次々と潰してゆく。
何十年も生きてきた暁だが、これほどの驚愕は久しかった。形容しがたい感情を諦めて、最終的には呆れを滲ませるが、阿岳のフォローに入る。自分の見える範囲で人を殺させはしない――そう呟くと、ショットガンを炸裂させた。
「チャンコクラッシャー!」
ヤツの頭をそれぞれの手で掴み、叩きつけるダブルフェイスクラッシャーをお見舞いすると、阿岳――否、チャンコマンの動きが止まる。辺りからヤツらの気配は消え、木の根にもたれてタバコを吸う暁の姿だけがあった。
「終わった?」
阿岳が呟くと、ちょうどタバコを吸い終えた暁が立ち上がる。山火事にならないよう丹念に火を消すと、阿岳と累々と横たわる死屍を一瞥した。
「悪いが、こいつらの墓を作る気はない。先に帰らせてもらうぞ」
仕事は済んだ――そう言わんばかりに、暁は下山していった。
●事後
ネトネトだ、数名を除いては。
青戸は諦めて、そのままの姿で屍の後片付けを行っている。アレクシアも同じく黙々と作業をこなすが、全身から放つオーラは禍々しい。シノブも普段の明るい雰囲気は微塵も無く、目が据わっていた。
あまりにも凄惨な光景に、ユイは涙目になって震えている。しかし、今は恐怖する対象が違った。ネトネトの体液まみれになった女性二人が凶悪なオーラを放ち続けるため、恐ろしくて仕方が無かったのだ。
槙名は、そんなユイを連れて現場を離れる。あの場にユイを置いていくのは酷だった。とは言え、槙名は自らも避難できたことに安堵する。彼もまた体液の餌食になっていない数少ない一人であったからだ。嗚咽を漏らすユイの背中を擦ってやりながら、槙名は苦笑を漏らした。
阿岳は既にマスクを外しており、豪快に屍を片付けてゆく。常にヤツらと触れ合って戦ってきた彼に、もはや嫌悪感は無かった。
「うへぇ……」
そんな光景に思わず声を漏らしながら、土方も片付けを進める。軍手をしているにも関わらず、隅っこを摘んで持ち上げると、体液が糸を引いた。
その横でフローラは顔色一つ変えてはいないが、こんなことを言う。
「こういうのは死体処理班の仕事でしょうに……久遠ヶ原にはいないんでしょうか」
やはり嫌らしい。当然だよねぇと土方も賛同する。学園に帰ったら相談してみようかと思案したぐらいだった。
そんなところにダンプカーの如く死屍を持ち上げた阿岳が現れた。屍のせいで前が見えていない阿岳が、すぐ目の前でしゃがんでいる土方に気づくはずもない。
「……あ」
唯一それに気づいたフローラだったが、時既に遅し。躓いた阿岳は、手に持っている屍を土方に向かって降らせた。
響き渡るのは悲鳴。何事かとアレクシアやシノブ、青戸も駆けつけるが、体液にまみれて気絶している土方を見下ろして、嘆息するだけだった。
そんな惨劇から少し離れた場所で、英雄は途方に暮れていた。
「俺も片付けを――」
「動かないでください」
ディアーヌの言葉で、英雄は黙って大人しくなった。丁寧に顔を拭われて、すっきりとしたが、後片付けに参加していない罪悪感が英雄の身を焦がす。
どうしてこうなった――ディアーヌの本当の性別を知らない英雄は内心で叫ぶ。
今もせっせと英雄の身体から体液を拭き取ってゆくディアーヌだが、こうも懐かれるとは思いもしなかったのだ。
時折、遠くから向けられる冷たい視線を敏感に感じて、英雄は身を震わせる。ディアーヌはそれに気づかないのか、黙々と体液を拭き取り続けていた。
早く帰りたい――そう願いながらも、清掃活動に勤しむ撃退士たちの犠牲によって、花見会場は美しい姿を取り戻した。