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あれだけ雨続きだったのが嘘のように空は晴れている。しかし、大事なBL本をディアボロに襲われた司書の心はどしゃぶりの雨が降っていた。
「うわあん、わ、私の大切なBL本がぁー」
ひしっと司書に抱きつかれ、彩・ギネヴィア・パラダイン(
ja0173)は一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。が、すぐにその表情を戻す。
「紙魚、か。趣味・読書の人間としてはほっとけない依頼だね」
ぶっきらぼうな話し方だが、相川零(
ja7775)の手には持参した小型の空気清浄機がしっかりと握られている。
「紙魚かー、うちにもそこそこいたけどね……、あれは良くないっ」
氷月 はくあ(
ja0811)は、大掃除の時に持ち上げた畳に見かけたあの姿を思い出し、ぶるっと身震いをする。
「……しみ、って、あの本とかにつく?」
二人の言葉に少しびっくりしたように声を発したのはレグルス・グラウシード(
ja8064)だ。今回の依頼について、漠然としたイメージしか持っていなかったが、ここにきてやっと結びつく。
「ふーん、ディアボロにもいろいろいるんだなー」
ややのん気なレグルスの呟きに、声を荒げたのは興奮したフレイヤ(
ja0715)だ。
「BL本は世界の宝……! 乙女の生きる糧……! 魚なんかに指一本触れさせてやるもんですか!」
どこか思い違いをしてそうなフレイヤ。だが同志の言葉に司書はすがり付いていた彩の胸から顔を上げ、今度はフレイヤの胸に飛び込んだ。フレイヤと司書の間に、怪しいピンクの空気が漂い始める。それを気にした様子もなく、舞草 鉞子(
ja3804)は図書館の入り口に進み出る。
「学園近くにディアボロが住み着くのは看過できませんね」
そう言うと、持っていた古雑誌の束を地面に置いて霧吹きで水をかけて湿らせ始めた。続けて司書をくっつけたままのフレイヤと零も、ディアボロをおびき出すための餌となる古雑誌や新聞の束を並べる。零の持参した雑誌は、二日ほど温室で寝かせ湿らせる念の入れようだ。趣味が読書というだけあって、さすがとしか言いようがない。
「さて、ここに用意したのはおびき出すための餌ですが、これを置いても食いついてくるか不安です。ディアボロがいる奥の方が湿度が高いみたいですし、それを下げるためにも奥から本を運び出してついでに虫干しをしようかと」
彩の提案に、はっと我に返った司書は顔を上げて何回も頷いた。
「時間をかけている暇はありません。効率良く運び出す方法はありますか? 見ちゃいけないものとかは?」
「寧ろ良く見て私の大事な本! 奥の書庫にブックトラックと台車があるから、どんどん運んで」
これが書庫の鍵と彩に手渡しながら早口で説明する司書の目は、どことなく血走っている。その様子に少々押されながらも彩は鍵を受け取る。
そのやり取りの間にも鉞子が霧吹きで水を吹きかけていた雑誌が程よく湿り気を帯び、準備が整った。
「それでは、全部纏めて片付けるとしましょうかっ!」
無邪気な明るい声で、ぴょんと小さな体を飛び上がらせるようにして片手を上げたのは、はくあだ。ウェーブのかかったふわっふわのくせっ毛は若草色で、草花の新芽のように柔らかそうに見える。そうして一番に飛び込もうとしたはくあを、鉞子が手を伸ばしてそっと制する。
「一応逃げられないように阻霊符を使っておきますね」
言うが早いか、鉞子は指に取り出した阻霊符をかざすと、鉞子の体はたちまち美しい光を纏う。
光纏を初めて目にした司書は、目を丸くして感嘆の息を吐いた。
「ああん、TLにもハマリそう」
司書の呟きにぎょっとする一同に対して、ひとりレグルスだけはきょとんとした顔をして首を傾げる。純真な中学生男子には、まったく理解不能な世界のようだ。
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「あぁ、知的空間TOSYOKAN……。やっぱりいつ来てもいいものね」
学園に来る前、ぼっちだったフレイヤにとって図書館は特別の場所だ。毎日毎日嗅いでいた本の独特な匂い。それを、懐かしく思う反面どこか複雑な気持ちだ。
「ん……、少し、ムシムシしますねっ」
はくあはそう言うと、額に滲んだ汗を手の甲でぐいっと拭う。
「図書館は良く利用しますが、ムシムシどころじゃない。この湿気は異常です」
まるで体に纏わりつくような湿気に、零も顔を曇らせる。
「餌を置いて除湿しつつ急いで本を運び出しましょう」
指で預かった鍵を回しながら、彩は書庫へと歩き出した。
「そうですね。ディアボロはともかく、本が腐っちゃうしね」
寧ろ司書の大事な本は別の意味で腐ってる。そう言いたそうな視線の中、レグルスは壁に設置されたエアコンのスイッチを入れる。すると、一気に乾いた風が本棚の間を吹き抜けた。
彩がブックトラックを運んでくる頃には、最初に感じた異様な蒸し暑さは多少軽減されたような気がする。それと同時に、一番湿度が高い図書館の奥、司書の職権乱用本が並べられている辺りから、微かな物音が皆の耳に確かに聞こえた。撃退士達の反応は早い。体に染み付いていると言ってもいい。
「入り口付近と中央読書スペースに餌は置いたわ」
フレイヤはそう言うと、彩からブックトラックを受取り、一目散に音が聞こえた方へ駆け出していく。
「BL本の保護を最優先するわ! ……他の本? 知ったこっちゃないわ!」
「僕は紙魚が出てきたらすぐ分かるよう感知を使いますから台車に本を積んでいきます。……力仕事をしないのは若干心苦しいですが」
零はフレイヤの背中を追いかけるように走る。言ってからすぐ後ろに台車を押しながらついて来る彩の視線を気にして、申し訳なさそうに目を逸らした。
「私もスキルで紙魚の居場所を探るので、本の積み込みをしますねっ。それに、運んでて見つけた場合は、突発的に対応できる、彩さんや鉞子さんが適任なのですっ!」
とことこと駆けて来るはくあはにこっと笑う。
「私とエツコ、それにレグルスには唯一の男性として力仕事を頑張ってもらうしかありませんね」
「分かりました! 頑張りますね!」
台車を押して走るレグルスは、任せて下さいとばかりに元気に返事を返した。
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問題の奥の本棚は、大判の画集が綺麗に並べられている上の段にずらっとBLが並んでいて異様な光景だ。驚いた司書が取り落としたのか、何冊かBL本が床に落ちている。そして破り取ったようになくなっている部分もあった。それを食い破ったであろうディアボロの姿は見えない。
「運びます!」
一番に声を上げたのはレグルスだ。彼は手近にあるBLを無造作に掴むと、てきぱきと台車に積んでいく。
「……私もやしっ子だから力仕事苦手でちょっと憂鬱」
そう独り言を言いながら、フレイヤが落ちているBL本に手を伸ばした瞬間、重なった本の間からしゅるりと何かが飛び出してきた。
「イヤー!!」
フレイヤの甲高い叫び声に彩が飛び出てきた者を足で踏んづけ動きを止める。
「ここ、お願いします」
言われて、鉞子が畳んだ武投扇を手のスナップを効かせてシュン!と弾けば、逃げようと蠢いていたものは動きが鈍る。そこを鉞子は数回同じように打ち据えると、彩に踏まれていたものは動かなくなった。彩が足を離し、上から見ればどう見ても巨大化した紙魚そのもの。だが、厚みというものがまったくない。踏み抜けるものならそうしようと考えていた彩も、うっと低く唸る。
「潰せ、ない、ですね……」
少し落胆したはくあの声。
「うん、あんまり触りたくないです」
彩も表情は変わらないが、声はがっかりしたかのようにも聞こえる。いや、触りたくないのは彩だけではないはずだ。フレイヤは泣きそうに表情を崩している。
「……敵は魚じゃなくて虫じゃないですか! 紙魚って名前だから魚だとずっと思ってたのにー!?」
BL本をぎゅっと抱きしめ、フレイヤはぶるっと震えた。
「紙魚って名前の虫ですよ、フレイヤさん」
苦笑する零は座り込んだフレイヤに手を貸しながら、巨大化はしていますがねとつけ加える。助けられながら、よろよろと立ち上がるフレイヤ。でもBL本は放さない。そこには彼女なりの信念があるから。
「BL本は身を挺してでも守るわ。だって……私も後で読みたいもの!」
ほんのちょっぴり邪なる信念が――。
「本には興味はないです。実物のほうが好き。……運び出します」
それはおおよそ彩から出る言葉とは思えない。表情も変えない彩の心は読めないが、多分言葉どおりだろう。そう皆が納得する。が、純真なレグルスだけは、何も知らずに彩の背中を追いかけて台車を走らせる。
台車を押して図書館を出ると、司書が待ちかねていた。もちろん、待っていたのは台車に乗った大事な書籍だ。ほぼ無事と言えるが、数点は食われている。食われた本にショックを受ける司書。しかし、今はそれを慰めている暇はない。ぐずぐずすれば、もっと被害が及ぶだろう。彩とレグルス、鉞子はまた台車を押して中に戻る。
「そ、それにしても……。よ、よくわからないよ、こういうのって」
戻りながら、レグルスはBL本を降ろすときに、ぱらぱらと覗き見た中身を思い出して呟いた。
「青臭い小僧同士の絡みに興味はありません」
それを横にいた鉞子が聞いて言葉を返す。その言葉に別の意味が含まれていることは、レグルスには分からない。いや、知らない方が彼のためだ。
「あと、四匹ですよね?」
中に入ると、レグルスは注意深く辺りをうかがった。
「向こうから飛び掛って来てくれた方がやりやすいのですが」
日々武術の鍛錬に勤しみ、ストイックなまでに技量を磨き続けている鉞子は自分自身が一番強力な武器でありたいと常に思っている。だから、この依頼も「武器」として完遂しようと望んでいる。
だがそれも、敵がいてこそだ。もどかしい鉞子の思いが彩とレグルスにも伝わってくる。
「ハクアの索敵と鋭敏聴覚に期待しましょう」
彩は鉞子に目配せをしてから静かに言った。
「ほらほらぁー、みんな第二陣行くわよー」
さっきのショックもなんのその、すっかり立ち直ったフレイヤが、山に積んだBL本を乗せたブックトラックを押して笑って手を振って見せる。そうして三人は辺りを警戒しつつ、また本を運ぶ地道な作業に戻っていった。
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数回書籍を運ぶと、一番湿度の高い奥の本棚は、大判の画集を数冊残しすっかり空に近くなる。
すると、次ははくあの出番だ。ディアボロがいつ飛び出してきてもいいように、はくあは大きく息を吸ってから、きゅっと口を真一文字に結ぶ。本を運び出しているときに見つけた紙魚の化物は一匹のみ。きっとどこかまだ触れていないところで隠れているに違いない。
ふわっとくせっ毛が波立つように揺れると、はくあの全身からオーラが噴き上がりスキルを発動させた。
「ん……、あ、あれ! なんかごそごそ言ってる気が……」
あそこ、とはくあが指差すが早いか、側にいた零が感知を使いながら走りディアボロの姿を探す。と、本棚の隙間から、銀色の巨大な虫が姿を現した。
「逃がしません!」
そう叫んだ零は、片手に掲げたスクロールから力を放出させる。パラパラと次々に捲れるページから生み出され放たれる薄紫の光の矢。それが次の本へと飛び上がったディアボロの体を貫いていく。
「これで二匹!」
いくつもの穴が空いたディアボロが、まるで紙切れのようにひらっと落ちる。ホッとしたのもつかの間、死骸となったディアボロの陰から、新たなディアボロが零の目の前へと飛び出して来た。咄嗟に彼は体を捻り、床に身を伏せる。
そこへ、書籍を運び終えた彩が素早くかけていた眼鏡を外す。するとどうだろう、眼鏡はまるで手品のように魔具へと変化し、彩の四肢へと纏う。瞬時にディアボロの前へ移動した彩は、薄っぺらなその体を片手で横になぎ払う。
「三匹目ですねっ!」
シュッっとディアボロの体が空中に投げ出された。
「うまくいってくれよ……それっ!」
少し遅れて追いついたレグルスは、そう叫ぶとロータスワンドを紙魚の体に振り下ろす。しかし、紙のように薄くなったディアボロは、当たったワンドを中心にふたつに折り曲がっただけに見える。
「う〜ん、難しいなあ……もっと練習しないとなあ」
実戦経験の少ないレグルスは頬をかきながら呟くと、そのままワンドでディアボロの体を巻き込みながらまた空中へとほおり投げる。
「速く、正確にか……こっちの方が良さそうだね」
ディアボロから少し離れた場所にいたはくあは、即座に装備を蛍丸に持ち替える。できる限り、書籍や施設は破壊したくないとの考えからだ。
「でも、傷つけたら、ごめんなさいっ!」
宙で体を伸ばした紙魚。その体は測ったようなはくあの精密殺撃で、見事に無数の穴が空けられていた。
「魔女様が本気をだせば、ディアボロなんてちょちょいのちょいってもんよ!」
青紫の焔のようなオーラに包まれたフレイヤは、まるで青薔薇の花びらが舞い散る中に佇んでいるようにも見える。だが、フレイヤの足元では、餌の湿らせた雑誌から逃げた紙魚が、薔薇の棘に似た土の針を無数に突き立てられ、断末魔の痙攣を繰り返していた。
「これで、最後です」
静かな鉞子の声と共に、雑誌の周りにぴんと張り巡らされたカーマインがディアボロを捕らえる。
「大きくなるのはいいとして、何故こんなに平べったく……?」
キュキュキュッとワイヤーは金属を擦り合わせる音をさせて、鉞子の手に巻き取られていく。逃げようともがくディアボロを切り刻みながら。
「ん……もう、いないっぽいですっ」
すべて退治したかどうか、本棚をノックしながら一周したはくあは、そう言ってにこっと笑う。ふぅーっと息を吐いて眼鏡をかけなおした彩は、つくづく肌を這われなくて良かったと思う。
「さすがに凍ります。ひぎっと」
「えっ? 何か言いましたか?」
彩の独り言を聞き返すレグルス。それに彩は軽く頭を振るだけだ。
「さて、虫干しが終わったら戻すのもお手伝いしますか。今度はしっかり運ぶ方に」
零は今度は顔を上げ、彩の横顔に話しかけた。鉞子はもう餌としていた雑誌をはくあと一緒に片づけ始めている。
「思い出すと、気持ち悪いですねっ」
「さすがに、真上から見たら巨大な虫ですから」
お互い気持ち悪かったと話し合う女子ふたり。その後ろでは、今日一番のテンションできゃあきゃあとはしゃぐフレイヤ。思わぬところで同じ趣味の人物に巡り会えたことが嬉しいようだ。
「司書さーん、ぜひお友達になって下さい!」
そう声を上げながら図書館の出口に我先へと走り出す。
残った撃退士が外へ出ると、すでにフレイヤと司書はオススメのカップリングの話で盛り上がっている。が、破れてしまったBL本を目にした彩の一言でびきっと固まったのは言うまでもない。
「それ、保険はかけてますか?」