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ザッザッ……ザザッ。
暗闇におぼつかない足音がひとつふたつ。いや、いくつも不規則な音が折り重なって、穏やかな川の音を消していた。
遠くでは、打ち上げ花火が華やかな色を夜空に広げ、時おり歓声が沸き上がる。
ぱっと大きく広がった花火の光が打ち上げ会場から離れた河原を照らすと、異様な足音の正体が浮かび上がった。
赤く炎のように揺らめき群れを成して飛ぶ蛍。
それを纏った少女のヴァニタスが、よたりよたりとどこへ行くでもなく歩んでいる。
ゆらゆらと上体を揺らし虚ろな目をした十数人の人間が、親を追うひな鳥のように後を追っている。
まるで何者かに操られているように。
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人々が異様な行進を続けている場所から少し離れた位置に、撃退士達が姿を現した。
ちらちらと妖しく揺らめく蛍の炎が目視できるぎりぎりのライン。
「以前読んだ事がある記録のヴァニタスとディアボロは、おそらく同じ存在だと思われます」
けれど、と天宮 佳槻(
jb1989)言いよどみ、ややあって言葉にする。
「今回は色々と腑に落ちないところがあります」
そう、佳槻の抱いた懸念は他にあった。
炎の蛍を纏ったヴァニタスに引き寄せられる、意思のない人々。
「あー、ありゃ、十中八九操られてますねぇ」
まるで木偶人形のような人の動きを見澄ましていた百目鬼 揺籠(
jb8361)はそう呟くと、困ったような笑いを漏らす。
ドーンと花火が打ちあがる。また歓声が上がった。
「呑気なものですの……まぁ、日常に絶望は付き物……常に隣り合わせですの」
まばゆい光は辺りの闇を切り取って紅 鬼姫(
ja0444)の姿を浮き上がらせる。漆黒の髪は緩やかに流れを作りて鬼姫の輪郭を彩り、言葉を紡ぐ度に左耳と繋がった口のピアスがしゃらりと鳴った。
佳槻がここより離れた花火会場を指し示した。
花火に浮かれた人々がまだこちらに来る様子は感じられない。が、ヴァニタスの動きによってはあるいは。
「百人以上を魅了して引き連れ盾にすることもできます。同時に魂を刈り取る絶好の機会にも関わらず―ー」
「それなのに、魅了された者達から離れようとしているようにも見える。何故か人質ひとりだけを抱えて」
美しい白磁のビスクドールを思わせる面立ちのフローライト・アルハザード(
jc1519)。その見た目に違わず、抑揚のない喋り方は感情の一切を感じさせない。努めてそうしてるのだが。
「普通人質を取るってぇのは、飲みにくい条件を飲ませる為だったりしますけど」
「その割にヴァニタスが攻撃も要求もしてこない」
考えていることは同じだと、揺籠と佳槻は顔を見合わせる。
「さてはて。何とも厄介な状況じゃがあの者の有り方は実に面白いのう」
リザベート・ザヴィアー(
jb5765)がほくそ笑む。
たっぷりのフリルを施しパニエでふっくらと膨らんだドレスはおおよそ戦闘とはかけ離れたもの。しかし、暗闇にたゆたう豪奢な金の髪にはそのいでたちが一番似合う。
「ああ、あのヴァニタス 何か様子が変だぜ」
無数の赤が不安定に揺れ動くさまを、細めた自身の紅玉の瞳に映し追う小田切ルビィ(
ja0841)。
日常から切り離されたようなこの暗闇に感じる違和感が、小さくちりちりと警鐘を鳴らす。
「――まァ、何にせよ、見物客が気づく前に周りの蛍を駆除すンのが先だがな……!」
ルビィの声に、みんなの視線が交錯し、一瞬の間を置いて一斉に闇へと疾走する。
無力な人を助けるため。感じた違和感の答えを出すために。
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「存分に楽しむにはちと外野が邪魔じゃ。大人しゅうして貰うとするかのう」
リザベートは光纏し、闇の翼で風を切り一気に上空へ駆け上がった。
「上からじゃと良う見える。百目鬼殿」
「手分けして退避させましょうかねぇ。小田切サン、蛍は任せていいですかぃ?」
飛ぶリザベートと同方向に走る揺籠の鉄下駄が河原の小石を弾いて高く鳴る。
頷くルビィ。
「俺とフローライトは蛍狩りに回る。雨宮、悪い、刻印頼む!」
ルビィの呼びかけに、すでに光纏した佳槻が右手を振り上げると、纏った光の粒子が弧を描き舞い踊る。さながら、清澄なる氷晶の結晶を含んだ雪のように。
きらきらと輝きを持った光は佳槻の指先を離れ、前を走るルビィの外形を一周くるりと巡り、次でフローライトを包むとふっと立ち消える。
少しだけそれを目で追ったフローライトは佳槻を顧み、こくりと微かにだが頷いた。
「鬼姫は人質の救助を最優先にしますの」
いつの間にルビィの後ろを走っていたのか、自身に黒羽に見まごう影を纏った鬼姫が風を切る。
「季節に合わせた蛍で魅了し襲うだなんて、よく考えましたの。何方が羽虫かわかりませんの」
丈の長い葦の向こうをヴァニタスが蛍を引き連れて走る姿が、暗い中でもはっきりとわかるくらい近づいた。
それを追う魅了された人々の不規則な足音も耳に届くくらいに。
「救助のみを最優先、他はその後ですの。その間、どれ程味方が負傷しようと関係ありませんの」
「ああ、あんたに任せる」
「『紅さん』と呼ぶのですの」
「 任せるよ、紅さん」
ニヤリとルビィが鬼姫に笑って見せると、鬼姫は満足げに猫の目のような赤目を細めた。
「四神結界で僕が守りを」
佳槻はひとり列から抜け出ると、暗い空を仰ぎ見る。星が散りばめられた中に、たなびき光る金髪は容易く目に入った。
「天宮殿、もう少しだけ右じゃ。そう、そこじゃ」
空で状況を見定めていたリザベートが指示する広い場所に佳槻は瞬時に移動すると、結界の展開を始める。それは、四神の加護からなる大いなる結界。
「魅了に注意してください」
ヴァニタスに向かって行く仲間に注意を促す佳槻の背後から、緋色の翼を広げた鳳凰が姿を見せた。
その朱く燃える翼で飛翔すると、佳槻の前髪が風で揺らぎ垣間見えたのは意志の強い緑の瞳。
「さぁて、行くぜッ!」
咆哮にも似たルビィの叫びが聴こえたのか、走っていたヴァニタスがびくりと一瞬跳ね、動きがぴたりと止まる。
そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと声の方へ向けた顔は、ほっとしたようなそれでいて泣きそうな面持だった。
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ドーンドドーンと大きな花火が上がる。そしてまた、連続して上がる打ち上げ花火が、空飛ぶリザベートの姿をくっきり浮かび上がらせる。
「終わりが近づいておるのじゃ。急がねば」
闇の翼がはためいて、リザベートの体はゆるゆるとまだ蛍のディアボロを追っている人々の先頭へと詰め寄った。
「そこから先はお主らが入って良い領域でなない。疾く去ぬるが良い」
ぐいっ、と何かに掴まれた中年男性が、虚ろな目をして上体を前後に揺らして止まる。
「それ、お主もじゃ」
フリルをふんだんにあしらったティアードスリープを優雅に動かして、リザベートが使うのは異界の呼び手。
真っ暗な空間から出でたいくつもの腕が絡みつく様子は、不気味なことこの上ない。
しかし、意思のない人に恐怖はなく、拘束され歩けなくなった者を避け蛍を追い懸けようと進もうとする。
「やあやあ今晩は、善い夜ですねぇ」
まるで花火を見物に来たかのような呑気さで、揺籠はずいっと左肩で間を割り立ち塞がった。
「ちぃとそっちには行って欲しくねぇんでさぁ」
振り向きざまに揺籠の左腕が、ぼんやりした顔の女性の目の前にかざされる。
するとどうだろう、揺籠の左腕から半身に刻まれた紋様が百の眼に変わって行くではないか。
その眼が一斉に開き瞬きを数回し、女性をぎょろりと見つめた。
「きゃああ!」
あまりのおどろおどろしさに、 一瞬で正気を取り戻した女性は叫び声を上げて走り出す。
「お帰りはあちらですぜぇ。って、聞いてませんねぇ」
「あれでは仕方なかろうて。良い、妾が運ぼうぞ。残りは頼むの」
「ありがとうごぜぇます。さぁて、残りも片づけますかぃ」
リザベートは身をひるがえし、逃げ惑う女性を持ち上げ葦で蛍の炎が見えない場所へ運ぶ。
「ほうれ、手間をかけさせるでない」
揺籠に脅かされ正気を取り戻した人がまたひとり、リザベートの元へと駆け寄って来る。
「決して後ろを振り返らず前に進むがよい。死にとうなければの」
そう耳元で意地悪に囁き、リザベートは蛍のいる方へ背を向けるようにして、とん、と背中を突き送り出した。
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鬼姫が身を隠すのを横目で確認したルビィが、立ち止まったままのヴァニタスの手前で挑発を使う。
するとそれまでヴァニタスの回りをふわりふわりと漂っているだけだった蛍が、目標を得たかのように同時にルビィへと向きを変えた。
「フローライト、反対側の蛍を頼む!」
蛍の炎を直視にないよう、ルビィが上体を屈め低い姿勢になる。
そこを後ろから走り地面を蹴り上げルビィの背中に乗り、踏み台代わりにしてヴァニタスの頭上を越えて行く。
丁度ヴァニタスの真上に来たとき、フローライトがくるりと体を回転させる。
刹那、ヴァニタスのと視線が合った。物言いたげな蒼と紅の瞳。その両腕には守るようにしっかりと小さな女の子を抱きかかえて。
「攻撃するつもりが、ない?」
どこか引っ掛かりを感じながら、ふわりと反対側へ着地したフローライトは振り向いてすぐさまタウントを使う。
ほとんどルビィに向かって飛んでいた蛍の半分が再び方向を変え、フローライトに襲い掛かった。
それを目視したフローライトは、軽やかな足取りでヴァニタスから飛び退き距離を取る。
「――おいおい、逃げやしねぇからガッつくなって…!」
蛍を纏いつかせたフローライトはワザと声の主に向かって走り、目の前まで来ると両手を広げすべての蛍を引き受けるようにタウントを使用した。
ルビィに群がっていた蛍が一転、フローライトに集まった。ちりりと何か焦げる臭いが鼻をつく。
すかさずルビィが片足を折り地面につけ体躯を低くする。
フローライトは何の迷いも見せず、ルビィの肩を蹴って空に飛びあがる。その一瞬、動きの遅い蛍はその場に留まったままだ。
それが狙い目とばかりに、すぐさま蛍の群れにルビィが封砲を喰らわせた。
赤く揺らめく炎は呆気なく、暗闇に溶けるように消えていく。
「少女は軽い火傷を負っているだけのようだ。だが、あのヴァニタスの様子をお前も見たか?」
「殺気が感じられない上、まるで何かから逃げている様な……?」
残りの蛍を始末するために戻る二人は、感じた違和感を口にする。
どうにも可笑しいとヴァニタスに目を移した瞬間。立ちつくしたままのヴァニタスは何者かに吹き飛ばされ、残った数十匹の蛍と共に河原へ叩きつけられていた。
葦の陰に潜んでいた鬼姫が迅雷を使い、稲妻のような素早さで攻撃の代わりに、ヴァニタスの手の内にいた少女を奪還していた。
結果として、蛍諸共ヴァニタスは吹き飛ばされた訳だが。
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攻撃を喰らわぬよう、少女を抱き上げた鬼姫は空蝉を実行し、そのまま佳槻が展開した結界へと移った。
少女を慎重に降ろすと、鬼姫は濡らしたハンカチを使い火傷にそっと宛がった。
何が起こったのかわからず、きょとんとしている少女に鬼姫は言う。
「折角の月夜ですの、もう少し楽しそうなお顔をなさっては如何ですの?」
紅玉の猫目をゆっくり瞬かせた鬼姫に見つめられ、女の子はやっと事態を飲み込めたのか、顔をくしゃりと歪ませ泣き声を上げた。
「大丈夫ですか? 今すぐ治療をします」
そこへ、魅了していた人々を誘導していた佳槻がすぐさま駆けつけた。
急ぎ少女に治癒膏で治療をする。
「涙は心そう簡単に流してはいけませんの。痛みは夢の彼方へ、少し眠ると宜しいですの」
すっかり傷が癒えた少女を抱き上げ、鬼姫が軽く背中を撫で上げ囁く。
「紅さん、あのヴァニタスは――」
「佳槻も気づきましたの?」
二人の目線の先には、座り込み他の撃退士に囲まれている少女ヴァニタスの姿があった。
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「さてさて、一体どういうことでしょうね」
揺籠が口を開くと、俯いたヴァニタスがびくっとしてゆっくり顔を上げる。
「蛍と戦いながら見たんでさぁ、動きも可笑しいってねぇ。で、その傷はどうしたんです?」
とつとつと語る揺籠に、ヴァニタスは力なく首を振る。その背には抉られたような生々しい傷があった。
傷を確認したルビィが問う。
「アンタに攻撃意思が無ぇなら、俺達も危害は加えない」
「今回の目的は何ですの? また天魔特有の暇つぶしですの?それにその傷……人質を取らなければいけない程の戦闘があったとは聞いて居ませんの」
遅れてやって来た鬼姫が眉根を寄せる。
「人質がいるにも拘らず、何故逃げるように移動していたのですか?」
佳槻に聞かれて、ヴァニタスはやっと小さく口を開いた。
「もう……、誰も、殺したく、ない」
でも、と少女ヴァニタスは続けた。
「死にたく、ないの、あたし。でも、どうしたら、いいの―ー?」
ひっくひっくとしゃくり上げるヴァニタスに、リザベートは大きく息を吐き出した。
「生きたいと願うは生命として当然の事じゃ。妾はその願いそのものが間違うておったとは思わぬ。お主のお陰で救われ命もおるしの」
一呼吸おいてリザベートは続けた。
「お主は、己の今の状態を生きていると言うと思うかえ?」
黙って聞いていたフローライトが言葉を発する。
「悪魔に従い続けるのは構わない。が、いずれ人に害を為すのなら……手負いである今、屠る方が良いか……。しかし、お前からは敵意を感じない。さて、どうしたものか……」
諦めにも赦しにも聞こえるその言葉に、揺籠がそっとヴァニタスに手を差し伸べた。
「人の子を助けてくれてありがとうごぜぇます。名前、教えて貰えますかぃ?」
ニコリと微笑んだその顔に、ヴァニタスは「灯……」と呟き、ためらいがちに震える指を差し出し、指先が降れた瞬間。
――ちりちりと警鐘が鳴った。
「待て、その手傷を負わせた奴は――何処に居る……?」
ルビィが叫んだその瞬間、漆黒の闇から焔の大蛇が鎌首をもたげ襲い掛かる。
「――ッ!」
大蛇は撃退士を薙ぎ払うように空を切り裂き、その巨大な炎で少女ヴァニタスを絡め取った。
戦闘態勢を解いていた撃退士達は不意をつかれ、呆気なく地面に叩きつけられる。
ヴァニタスを抱え夜空に飛び上がった焔の蛇は、次第に紅蓮の悪魔の姿を形作った。
「くくくっ、良い見世物だったぜ。しかしコイツは俺の木偶だ返して貰う」
高い笑いだけを残して、悪魔は闇に溶けて消えた。
不意をつかれ灼熱の炎に焼かれたみんなは、起き上がるのが精いっぱいで、悪魔を追うことは叶わなかった。
ひとり、鬼姫だけは咄嗟に張った空蝉で難を逃れたが。
「貴女も、助けに行きますぜ。いつか必ず」
呟いた揺籠は、指をぎゅっと握りしめた。
ドドーン、今年最後の花火が頭上に大きく花開く。
観客は何も知らず楽しめたらしい。
大きな歓声が、しっかりと立ち上がった撃退士達の耳にも届いていた。