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「アレ、退治してもらうで!!」
蛍の形相は鬼気迫っていた。
じりじりと斡旋所の隅に追いやられる数人の撃退士たち。
逃げられない! 数名がそう覚悟した瞬間、凛とした声が聞こえた。
「その依頼受けるよ」
礼野 智美(
ja3600)だ。
彼女自身、決してゴキブリが好きなわけではない。
智美の姉妹、知人の女性のほとんどが嫌いで怖がるので退治するくらいは全然平気だ。
「うわーーーー、ありがとうーーーー!!」
ぎゅーーーーっと蛍に抱きつかれる智美、と逃げ遅れた数名。
ここはもう観念するしかない雰囲気が漂いまくる。
「はは、帰ってもよろしいでしょうか?」
ダメもとでレイル=ティアリー(
ja9968)が引きつった笑いを浮かべる。
「あ、り、が、と、うーーーー!!」
ぎゅううううううううう!!
さらに強くなる蛍の抱擁まがいの拘束。
放してくれる気配など微塵も感じられず……。
「……NO? そうですよね知ってました」
引き受けるまでこの手は離さない!
レイルを見上げる蛍の目はそう言っている。
同じく逃げ遅れ捕まったクチの柴島 華桜璃(
ja0797)はぶるぶると震えた。
「ごっ、ごきぶりっ……」
こくりと蛍の頷くのが華桜璃の潤んだ瞳に映る。
「分かりました。引き受けます」
蛍が全身を使って囲い込んだ人の輪の中心の見えない位置で声が聞こえた。
きょとりとした赤く澄んだ瞳で雫(
ja1894)が見上げる。
「苦手ですが、依頼なので頑張りますよ」
やや緊張した声を出したのは、久歩 志人(
ja9683)だ。
彼はこれが初だという、なんとも可哀想な依頼デビューだ。
「どうにも他人事とは思えんのだよな、この依頼……、出来ればさっさと片付けてしまおう」
やや苦笑気味に笑いながら、ルドルフ・フレンディア(
ja3555)が観念したように言う。
「うわーーーーーー、みんな依頼受けてくれるんやね?!」
やったーやったーと小躍りする蛍。
その背中に突き刺さるような静かな雫の声が――。
「もちろん、蛍さんも一緒に退治しますよね?」
大きく目を見開き振り向いた蛍に、雫はにこっと微笑む。
しかし、目は少しも笑っていないのだった。
そう、ここで嫌だと答えようものなら、せっかく依頼を引き受けてくれた面々がそれはもうちりじりに散って行くことだろう。
あのお弁当の上にいたヤツらのように。
みんなの視線が蛍に集まった。
「え、っと……ぉ、あ、あの、は、……はひぃ」
そうして、がっくりと項垂れる蛍を入れて七名の戦士は、黒い悪魔のいる戦場に旅立って行くのである。
●
「ええと、ここなんやけど……」
一時間後、黒い悪魔を退治するために色々と用意をしてきたみんなを自分の寮に案内した蛍は、久遠ヶ原で一、二を争うような古い建物を指差した。
そこはまるで時代劇に出てきそうな、木造の古めかしい長屋だ。
今でこそ玄関はアルミでできた引き戸になっているが、本当に数年前までは玄関も木造だったらしい。
あまりにも古すぎて、三軒続きなのに、真ん中に蛍が住んでいるだけで、両隣はずっと空家だ。
「これは、目張りのし甲斐がある」
ざっと長屋の周りを見て来たルドルフは、ううむと唸るように呟いた。
それもそのはず。
長年の雨風に耐え忍んできた長屋は、あちこちに板の節目の穴がある。
空家の壁は、崩れている部分もあった。
「夏はけっこう涼しいんやけどな、あはは」
「あはは、じゃありませんっっ!」
むぅーっと口を尖らせてまだ涙目の華桜璃は、持ってきた荷物をぎゅっと抱きしめ蛍の顔を恨めしそうに睨む。
わたわたと逃げ遅れたせいで、まったく酷い仕事が回ってきたものである。
「とりあえず、火事と間違われないよう学園と風紀委員には連絡を入れておきました」
蛍よりずっと年下の雫が言いながら、持参した新聞紙を置いた。
真夏の室内に弁当を置き忘れる、うっかり者の蛍とは比べ物にならないほどしっかりしている。
「回ったついでに、ご近所にも警告しておいた」
ルドルフがてきぱきと仕度をしつつ言う。
「ち、力仕事はまかせたって! 目張りでもなんでも!」
ばばっと素早くルドルフが持参した目張り用のテープを奪い去る蛍。
「だ、だから、部屋の中は……」
「弁当以外に開封して置いてある食品はあります?」
くるくると新聞紙を丸めて主武器にしている智美が、仕方なく助け舟を出してくれた。
あれだけ怖がっている蛍を連れて部屋に行ったとしても、邪魔になるのは目に見えている。
ここは余計な時間はかけたくない、そう誰もが思っていることだ。
「あ、食べかけのお菓子があった、かな? ははっ」
「徹底的にやるしかないですね」
ゴキブリ退治の依頼は、退治に蛍の部屋の大掃除の嫌なオプションまでついてしまった。
(た、大変な依頼に参加してしまった!)
真夏の暑さに汗を滲ませながら、初参加の志人はさらに緊張を増していた。
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燻蒸式殺虫剤の煙を逃がさないために、男子+蛍が隙間を目張りしている間、女子組は空部屋で着替えをすることに。
「と、とにかく着替えないと……。ゴキブリの最後の反撃(肉片飛び散り)とかお気に入りの服についたりしたら、しばらく立ち直れそうにないもの」
華桜璃は捨てても良い古着に着替え、100円ショップで買った伊達眼鏡とマスクをすちゃっと装備する。
雫はマスクにゴム手袋で、智美と同じようにくるくると新聞紙を丸めている。
智美は持って来た、粘着シートのついた置型式ゴキブリ退治の箱をいくつか組み立てた。
「蛍さんのあの様子では、洋間の掃除が大変そうです」
ゴミ袋を一枚広げて雫がちょっと溜息をつく。
「数が数だから気持ち悪くなるのも無理ないが、女性は苦手な人も多いし。このままじゃ寮も困るだろうし」
「はぅぅ、ひどい仕事ですぅ」
しょぼんとする華桜璃は、背後に異様なプレッシャーを感じて咄嗟に振り向いた。
「ひぃっ!!」
ばっちりと目が合った先には、丸い穴に目張りをする前にこっそり覗く蛍の目が!
これは寧ろゴキブリより怖い。
「よろしくお願いしますぅぅ……」
「が、頑張りますぅ〜!」
これは、嫌でもそう言うしかない。
一方男性陣は蛍の妨害もなく、順調に目張りが進んでいる。
レイルはガムテープで穴を塞いで、ちらりと屋根を見上げた。
「ないとは思うが――」
こんなときに撃退士は便利だ。
普通の人がハシゴがなにかで登らなければならない屋根へも、ひょいと登れる。
屋根もチェックし終えたレイルは、上から下のみんなに声をかけた。
「こちらレイル、封鎖完了確認しました」
「こっちもOKです!」
下から志人が手を上げて答える。
「一先ずはコイツの出番だ。皆の衆、フォローを頼むぞ」
殺虫剤を部屋に設置しているときに、いきなり出てこられても困る。
慌てないように心の準備は怠らない。
ルドルフの手により部屋に置かれる燻蒸式殺虫剤。
それはすぐにもくもくと白い煙を上げ始めた。
清浄なる白い煙。しばしの休息。
「ああ、あおの煙がヤツらをどこかに消し去ればいいのに……」
ちょっとだけ漏れた煙を見つめつつ、蛍がぽつんと呟く。
それは都合が良すぎる。
黒い悪魔退治はこれからが本番のようなものだ。
ヤツらは消え去ったりしない。
耐性のあるやつはもしかしたら部屋の片隅でまだかさかさと動いているかもしれないのだ!
蛍の横で同じように煙を横目で見ながらレイルも呟く。
「さて、スーパーのタイムセールがあるので私はこれで……」
「逃げんといてーーーー!!」
すがりつく蛍。
「はいすみません冗談です最後まで頑張ります」
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煙が収まったのを確認し、女子は蛍の部屋、男子は空部屋に向かう。
こちらは逃げてきた残党が多いと思われる空部屋。
志人は持参の掃除機を片手に、死骸を探す。
空部屋は、蛍の部屋と違って雑多なものがないだけゴキブリを探すのは楽だ。
コロコロと転がっている黒い死骸を掃除機で吸っていく。
「これの中身は想像したくないです」
志人がそう言うのはもっともだ。
自分の部屋にいたゴキブリならまだしも、他人の家のゴキブリを自分の掃除機で始末しなければならないとは。
なんの罰ゲームか。
はぁーと溜息混じりに吸っていると、ルドルフの喜々とした声が聞こえた。
「とうとう現れたか。黒い悪魔め……英雄部、家庭科筆頭の俺様が見事討ち取ってくれる!」
プシューッと放たれる殺虫剤。
弱ったところでルドルフの手に握られた新聞紙が振り下ろされた。
バチン!!
「貴様に恨みはないが……許せ!」
すかさずヤツを掃除機で吸い込む志人。
見事な連係プレイだ。
サッサッカサカサッと奥から軽い音が聞こえる。
レイルが箒で死骸を掃き集めている。
それも志人の掃除機はなんなく吸い込んでいく。中が怖いが、掃除機最強。
しかし、やはりまだカサッと動くヤツもいる。
半分ヤケ気味で、レイルは箒をさっと構えると、逃げるヤツらを追いかけた。
「我ら撃退士に匹敵するその生命力と俊敏性、相手にとって不足なし――いざ!」
バシバシバシ! カサカサカサ!
「なかなかの回避力……! しかし、速さなら私とて!」
「うわっ、こんな所にもいます!」
掃除機片手にライトで隙間を照らしていた志人が叫ぶ。
「くっ……、隙間に逃げ込むとは卑怯な!」
バシバシバシと箒で叩くレイル。
ルドルフは丸めた新聞紙で動くヤツを追いかけパシンと叩く。
古い長屋はそれに合わせて賑やかにぐらぐらと揺れる。
それは隣の蛍の部屋にももちろん響いていたが、それよりもっと大変なことが数分前に起こっていた。
●
ガラガラガラ、開かれる開かずの間ならぬ、蛍の部屋。
白い霧のような煙が晴れた先に現れたそこには――。
「「「うっ!」」」
華桜璃、雫、智美の声が重なった。
開けなければ良かった。
そう思うほどの蛍の部屋の中はカオスだった。
部屋の隅にはもっさりと……。
「室内に見た事も無いキノコが群生してますよ!」
「本当だ」
「ひぃっっ!!」
「なんか大きくなるの見とったらかわいくなって、はは」
キッチンの流しにはどよんと……。
「樹海が出来てる……」
「本当だ」
「ひぃっっっ!!」
「流し詰まってるんかなぁ、流れが悪いねん、はは」
冷静な雫と智美と、びくつく華桜璃。
それをあっけらかんと得意気に説明する蛍。
「なんかメルヘンチックやない? あ、そのキノコ、夜光るんやで! 夜に明りいらんなんてエコやろ?」
ここはどこの異界か異次元か?!
「だからゴキブリが発生するんですよ。ゴキブリがいるメルヘンなんて聞いたことがありません」
雫が嫌〜な顔を蛍に向ける。
「はひっ、キノコさんのせいだったなんて!!」
「「「違います!!」」」
「ううっっ、で、でも、負けませんっっ!」
ふるふるふると震えながらも、華桜璃はスリッパを持ち前へ進む。
「これは掃除もした方が良いかもしれませんね……。むしろ、掃除しながら、『きるぜむおーる』の方がはかどるかもしれませんね〜」
あまりの部屋のすごさに、華桜璃のなにかがぷっつんしたようだ。
すっごく良い笑顔で、い・い・で・す・よ・ね!?と口を動かした。
華桜璃の背中に、めらめらと燃える炎が見える。
「は、はひっ!」
良いも悪いも、華桜璃のあまりの気迫に、玄関のドアに隠れている蛍はこくこくと頭を動かしていた。
まずカオスの根源の腐った弁当は、雫が用意したゴミ袋にポイ。
次にその辺に置きっぱなしになっている蛍の非常食の食べかけお菓子もゴミ袋にポイ。
蛍が栽培して愛でていた(?)キノコも雫の無常な手によってあっと言う間に収穫された。
雫はゴミ袋にキノコを入れる前にちらりと蛍の顔を見る。
「ぁぅぅぅぅっ」
悶絶する蛍。
嫌な顔をしていた雫の目が一瞬だけ細められ、そうしてキノコを掴んでいた手はゴミ袋の上で広げられた。
「キノコさんーーっ!!」
「エコは別のことでしてください」
そうして、きゅっと口を結ばれたゴミ袋は3つも玄関に運ばれた。
「真夏にご飯室内に置いてたら半日で駄目になるよ」
諭すように智美が言いながら、食器棚の中身をてきぱきと出していく。
それを受け取って、雫が樹海の消えた流しで洗う。
「あと、箪笥にもいるかもしれないから」
智美はドレッサーを開いて隙間にいないか確認してくれる。
「ん、いないみたい。それじゃ、生き残りを退治したり隙間に殺虫剤を噴射して掃除しちゃおう」
すちゃっと智美に装備される古新聞紙。
「力加減間違うと後始末困るが、これが一番使い易いし」
やはり新聞紙丸めたのがヤツらには最強のようだ。
華桜璃は人が変わったように、生き残りも死骸も見つけ次第ぺしぺしと叩く。
「叩け! 叩け! 叩けぇぇっ! ですっ!」
パシパシ、パシパシ、パシパシッ。
新聞紙を手にヤツらを殲滅していく女子三人。
「女神さまやわ〜!」
蛍がうっとりして見つめている間に、カオスな部屋は普通の女子の部屋と変わりないほど綺麗になった。
蛍の部屋が終わった頃には、空部屋を担当していた男子陣も終わったらしく、かなり消耗した表情の男子が現れた。
「俺はこれ設置するよ。ホウ酸団子を設置してもらってもいいかな?」
粘着シート型のゴキブリ駆除剤を持った智美はエアコンの近くにそれを置いていく。
ルドルフはホウ酸団子設置しつつ、呟く。
「……業者か、俺達は」
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すべて終了したのは、もうそろそろ夕方の時間。ホント、お疲れ様なのです。
「はふぅー、終わったですっっ!!」
「初依頼はなかなかに手ごたえがありすぎました」
「みんな、ありがとうーー!!」
「河野さん、ここに」
あたかも自分も駆除したかのようにみんなの輪の中にいた蛍を玄関の廊下に正座した雫が呼び、自分の前をぱんぱんと叩く。
「は、はひっ?」
「ゴキブリは水気を好むのです。生ゴミはこまめに捨てて家は清潔に保つこと。得体の知れないキノコ栽培などもってのほかです」
「うむ、気が抜けたのは仕方が無いが食べ物を粗末にするのは関心せんな」
ちょこんと座った蛍を、目の前から雫が頭の上からはルドルフが蛍の生活態度を改めさせるためを説教を始める。
「ス、スミマセン……」
「無駄なく清貧が俺様のモットーだ。……しかし働いたらちと小腹が空いたな。どうだ、皆で食事でも?」
ルドルフが思い出したように自分の腹をさする。
「……今日は疲れましたね……主に精神面で。食欲も無いですし、帰って寝ることにします……」
それを断るレイルは見るからにぐったりしている。
「あ、私、行くでー! おなかペコペコや」
はいはーいと手を上げ、あっけらかんと笑う蛍。
「「「「「ちょっとは反省しろーーーー!!」」」」」
赤く染まる夕焼け雲に、撃退士の叫びが大きく木霊した。