●
「おかあさん――」
そう呼んだ声を知っていた。
少しだけ、喜びに震えた小さな声が、言葉を向けられた女にははっきりと聞こえた。
化物の出現に、悲鳴を上げ逃げ惑う人の中、女はその声を振り切るように逃げていた。
一緒にいた友達はどうなったか、それさえ気遣う余裕さえなく。
ただただ、声を振り切るように、前へ前へともつれる足を動かして。
逃げ込んだ先が袋小路になっていると気がついたのと、追いかけて来た黒い大きな化物がその出口を塞いだのは同時で、驚いて振り向いたときにはもう逃げ道はなかった。
怪物から女を見下ろす二つの瞳は嬉しさでいっぱいなのに、女にはそれが恐怖だ。
なぜここにいるのか、なぜここに存在するのか、いるはずがないのに。
いるとしたら、それは――。
「いゃぁああああああああああああああああああああああ!!」
狭い路地に、甲高い恐怖の叫びが長く響いて、消えた。
●
真っ暗で人気のなくなった繁華街の中心よりやや外れに、眩い光の輪が熱を持ったままのアスファルトに広がった。
光は何もない空間から、数人をはじき出す。
じっとりと纏わりつくような湿気。
神埼 まゆ(
ja8130)は軽く舌打ちをして眉を寄せる。
「どうせ送り出すんなら敵のまん前に出せっつーの」
「それでいきなりバサーッとやられんのはごめんだぜ」
千堂 騏(
ja8900)はピンク色のまゆの頭を軽くコン、と叩く。
「あたっ!」
「状況があれだからな」
「零斗の言う通りだ。黒豹だけならまだしも、な」
並んで立つ長身の男達。御暁 零斗(
ja0548)と小田切ルビィ(
ja0841)は、少し先に背を向けて長い尾をゆらりゆらりと揺らす黒いサーバントの背を見つめた。
黒くしなやかな獣の背に、ちょこんと跨っているのはどう見ても幼い女の子だ。
「少女型のサーバント? ――いや。違うのか……」
初めて目にする光景に、ルビィは思わず呟く。
「……サーバントと、あれは、シュトラッサー? なんでかな?」
緋野 慎(
ja8541)も疑問に首を傾げた。
街中に天魔が現れるのは珍しいことではない。
不思議なのは、大勢の人間がいたにも拘らず、狙われているのはたったひとりの女が一人。
「確認は取れてないけど、小さな子が平気でサーバントに乗ってる訳ないだろ?」
顔を歪ませて、子猫巻 璃琥(
ja6500)は苦々しく笑う。
黒豹は、背後に現れた撃退士にはまだ気がついてない。
ゆらりと黒い尻尾を左右に揺らしながら、前足をたしたしとアスファルトに叩きつけている。
グルルル、と喉の奥で低い唸り声を出しながら。
いきなり狙った女を襲うつもりもない。だが、いつでも襲いかかれると見せつけているようだ。
「使徒、っつー割には随分ちんまいが……、だからって油断はできねぇか。しっかし、こんな歳で天使の理に身を委ねるなんざ何があったんだかな。面白くねぇ仕事になりそうだぜ」
騏に言葉に、混じるのはやるせない溜息。
後味の悪い仕事になるだろうことは、言わなくても分かる。
だが――。
「ガキだろうが関係ねぇ。あたしは撃退士で相手はシュトラッサー。敵同士、そんだけ分かってりゃ十分だ」
身に纏わりつく空気を破ったのがまゆだ。
まゆは、口に入れていたロリポップキャンディを奥歯で噛み砕くと、残った棒をアスファルトに叩きつける。
細い棒は、軽く音を立ててまゆの足元に転がった。
「――だろ?」
顔を上げたまゆが、無理にニッと笑って見せる。
「ああ、そうだな。だが、とりあえず、まずは女性に確保だな」
深く溜息を吐いて、そうして口の端を上げたのは零斗だ。
まだ黒豹が動かないことを確認してから、両手を腰に当てた。
ここからでは、通路の奥までは見えないが、恐怖に慄く女の気配は感じる。
恐怖を煽って楽しんでいるのか、サーバントもシュトラッサーも動かない。それがどうにも解せないが、軽く打ち合わせをする時間を稼げるのは有りがたい。
「先ずは救助対象の確保を最優先。俺達と違って一般人は脆い……。攻撃が掠っただけでも致命傷になるぞ」
ルビィの言葉は最もだ。
天魔と戦う術のない人間は、力のある誰かが庇護しなければ簡単に命を落とす。
幸か不幸か、依頼はその一般女性の保護。他の人間は上手く逃げたようで、対象はひとりのみ。
「あの子が思ったより強かったら逃げるよ」
依頼にサーバントとシュトラッサーの撃退は含まれていない。
もちろん、慎が言うように逃げるのもありだ。
「俺と緋野で女性の確保。その後、女性は緋野に任せて俺は戦闘に参加する」
「零斗と慎は確保担当、残りは攻撃担当でOK? 俺が背後から先制攻撃をしかける、その間に壁走りで一気に敵を突破して女性を保護してくれ」
「了解!」
ニカッと笑って慎は白い歯を見せた。
「さぁて、それじゃ気張らずにいきますか」
掲げた零斗の手は、銀色の後ろ髪を撫でるように緩い風を起こす。ふわっと流れる銀糸の向こうには、黒い邪悪な揺らめき。
歩み始めた撃退士達の耳に、温い風が女の子の微かな声を届けた。
それと同時に、女の絶叫が木霊する。
●
弾かれるように、次々に駆け出す撃退士達。
一瞬で光纏し、零斗と慎の姿は街並みに掻き消える。
「まずは足を潰す。黒豹に薙ぎ払いをぶち込ませてもらう。正面はルビィに任せた!」
駆けるルビィのやや後ろにいる騏が言う。
「私はあの子を異界の呼び手で抑える」
全身に淡い金色のオーラを纏った璃琥。
「それで――、あの子に声をかけてみる。どうしても――気になるんだ」
そう思ったのは、黒豹の上に跨った女の子が発した言葉がきっかけだ。
多かれ少なかれみんなが感じていた違和感。
なぜ、あんな小さな子が、たったひとりの女性を追いかけるのか?
「まぁな、ガキの面をいきなりひっぱたく気にはなんねーや。見た目、弱い者いじめみたいだしな」
「だが、手加減はなしだ。俺達は善しも悪しくも撃退士だ」
ルビィがぴしっと釘を刺す。
「分かってるさ! サーバントとシュトラッサーを倒す、もしくは追い払う事が出来りゃ十二分だ」
ニッと笑うまゆは構え、あ、でもとつけ加える。
「ヤバくなったら逃げる事も考えるぜ!」
「安心しろ、その時は逃げるだけの時間は稼いでやる。――行くぞ」
祖霊符を取り出したルビィの顔に淡く発光する銀色と緋色の紋様が浮かび上がった。
それはまるで、彼が装備している品々に施されている精巧な細工に似ていて、彼もそのなかのひとつの芸術品のように見える。
続けてシールド、それからケイオスドレストを発動し黒豹の背後に突っ込んで行く。
ザシュッ!!
ルビィが振り下ろしたブラストクレイモアは、無防備なビロードのような黒豹の背を裂いた。
「グオオオオオオオオオオッッ!!」
ルビィに後方から真一文字に切り付けられた黒豹は、大きく叫び声を上げた。
黒豹が、ぱっくり開いた口から長く伸びる鋭い二本の牙を剥きだしにして振り向く。
「喰らえ!」
騏が横っ腹に薙ぎ払いを食らわすと、黒豹はそびえるビル群を震わすような咆哮を上げた。
そこに僅かな隙が生まれる。
狭い路地の入り口に待機していた零斗と慎は瞬時に目配せをして、それぞれ左右の壁に足を掛けた。
一気に壁を走りぬける二人の後姿を目の端で見送り、愉快にまゆがステップを踏む。
見上げた視線の先には、サーバントの背にしがみつく女の子。
わざと目立つように、女の子の気を引くように声を張り上げた。
(ヒヒ、目立つんなら大得意だぜ!)
「HeyHeyHey! 嬢ちゃん、ニャンコちゃんよ! んなケバい女と遊ぶよりあたしらとイイ事しようぜ!」
「グルルウウ……」
ゆっくりゆっくりきびすを返した黒豹は、頭を低くして金色の瞳でまゆを睨んで低く唸る。
ぎらぎらと刺すような尖った殺気がまゆの背中を這い回る。
殺意を孕んだ視線とは正反対な怯えた瞳に、まゆの視線が留まる。
ちりっと感じたちぐはぐさに、まゆは歪んだ笑いを浮かべた。
「ハハッ! いいぜいいぜ……、斬り合おうぜ、お嬢ちゃん!」
片手を大きく振り払い構えなおしたまゆは、熱を持ったアスファルトを蹴った。
足先につけたシルバーレガースに力を込めるように。
●
「よぉ、災難だったな……、まだ生きてるかい?」
「ひっ!!」
路地の一番最奥に頭を抱え込みしゃがんで丸くなって震えている女性をぽんと零斗が肩を叩くと、引きつれたような悲鳴が聞こえた。
ふたりの撃退士を見上げ交互に動かす瞳は怯えて虚ろだ。
「助けに来たぜ。俺達は依頼を受けた撃退士だ」
すっかり腰が抜けたのか、零斗に言われても女性はぱくぱくと口を動かすだけだ。
「お姉さんを助けに来たんだよ。あの化物からね」
慎の人懐っこい笑顔に、女はやっと頭を激しく上下に振って見せる。
「た、たす、たすけっ、たすっ助けて!」
女性にひしっと抱きつかれた零斗は思わず苦笑する。
ぽんぽんと慎の背中を軽く叩くと、どうにかしろとばかりに目配せをした。
「え、っと……。あ、あそこの屋根なら駆け上がれそうだ」
慎の指差す先は、並んだ店のビルの波がそこだけ一際低くなり、錆が浮き出たトタン屋根があった。
なんとか人がふたりは並んでいられそうなくらいな僅かな隙間。
だが、今はそこが最も安全に思える。
零斗は女を引き剥がし慎に預けると、もう黒と金色の瞳は戦闘の始まっている通路の先に移された。
「それじゃ、その女は任せた」
スラリと長く伸びた両手には白色の双剣が握られている。
攻防一体の剣だが、同時に扱うには高い技術を要する直剣だ。
零斗の戦闘スタイルは我流だが、どんな状況でも武器になりそうなものは片っ端から試した経験がある。
そのため、扱いにくいとされているこの双剣もなんなく使いこなしているのだ。
両利きなのも、この剣を操るのに利点となっている。
武器を構え、戦闘体勢に入る零斗は自分の後ろで、壁を蹴る音を聞いた。
「あっちは任せましたよ」
「きゃあああああ!」
慎の声にかぶる女の悲鳴。
「ったく、めんどくせぇ」
だるそうに言いながら、零斗はニヤッと笑う。
笑うと長い犬歯が白く光る。
そのまま疾風のように駆ける零斗は、しなやかな獣の姿を連想させた。
●
黒豹を相手にしている本体は、やや苦戦を強いられていた。
鋭い爪を持つ前足の攻撃も威力があったが、前方に向けての咆哮が発せられると、否応なしに喰らった者は麻痺になる。
騏もルビィも、足を使って立ち回り、背後や側面から攻撃するが、背に乗る女の子を拘束する璃琥はそうもいかない。
咆哮の餌食になり動けない璃琥をルビィのシールドが守る。
「うっ、くっ――。悪い、助かる」
びりびりと痺れる璃琥の体の前を、守るように立ち塞がるルビィ。
璃琥が歪んだ表情でその背中を見れば、クレイモアでサーバントの攻撃を防いでいるルビィが少し振り向いてふっと微笑むのが見えた。
「お互い様。ああ、騏、積極的にスタンお願い。防戦一方じゃこっちは分が悪い」
キキキキッと剣と爪が擦れる嫌な音が響く。
「言われなくても薙ぎ払いを横っ腹にぶち込んでやるぜ!」
騏の声が黒豹の真後ろから聞こえる。
「こいつの足を潰す!」
ズドッ!
鈍い音がする。
すると、それまで爪で押し込まれていたルビィの剣先が軽くなった。
ルビィの目に、黒豹の足に薙ぎ払いを炸裂させた騏が距離を取るように転がって離れるのが映る。
遅れて騏の声が聞こえた。
「決まった――か?」
「バッチリ、騏。璃琥、動ける?」
動きが止まった黒豹から剣を引いて、自分の後ろにいる璃琥に声をかけるルビィ。
「ん、なんとか」
ふたりは顔を見合わせると、黒豹の脇に回り込む。
璃琥は一度切れた異界の呼び手を再度女の子に向ける。
「きゃぁぁぁっ! いやっ、いやっ!」
何処から現れたのか、無数の腕に拘束された女の子はか細い声を上げた。
それをなだめるように、璃琥は優しく話しかける。
「見た目は怖いが痛くないだろう?」
璃琥は両腕を、離れた女の子にそっと伸ばしてみせる。
それはまるで、無数の腕と一緒に抱きしめるかのように。
「こわい、こわいこわいこわい」
今にも泣き出しそうな女の子に伸ばした腕は届かない、璃琥の思いもまた――。
「お前さんは何がしたいんだ?」
「こわいよぉ、こわい、こわい……」
璃琥が聞いてはみても、女の子は絡みつく腕を怖いと、動かせる頭を振っているだけで。
それでも、忙しなく動かす大きな瞳はなにかを探している。
「ちゃんとお話してくれるなら攻撃はしないさ」
少女のあまりの怖がる様に、璃琥は思わず叫んで戒めを解いていた。
霧散する無数の腕。
もがいていた女の子は、黒豹の上に倒れ込んだ。
そうしてすぐに起き上がると、探していたものの名前を呼ぶ。
「こわい、こわい、おかあさん――!」
その声は、そこにいる者の耳にしっかりと届いて、もちろん、屋根の上に逃げた慎と女性の耳にも聞こえていた。
「え――?」
誰もが耳を疑い、瞬間、視線は屋根の上の女に集まった。
「……うぜぇ」
回した足を黒豹の腹に食らわすまゆは、苛立ったように独りごちる。
敵はサーバント、それとシュトラッサーだ。
それは変わらない。
倒すか倒されるか、それしかないのに。
「んだよこの状況」
璃琥の拘束に、本気で怖がる女の子。
それを目の当たりにしたら、まゆの気持ちもぐらついてきた。
まるでただの小さな女の子そのもののシュトラッサーなど見た事もない。
(善悪の区別も判断もできねぇガキがシュトラッサーなんざおかしな話だ。しかも狙われてんのはただの女)
「クソッタレ、どうなってやがる!?」
蹴り上げたまゆの足が空を切る。
そのままの反動でくるっと後ろに一回転したまゆの目に、恐怖に引きつる女の青い顔が見えた。
●
「あぁ……、一気になんかめんどくさくなった。……わりぃが速攻で刈らせてもらうぜ」
零斗が走り込みながら、サーバントの目の前でトンッと飛び上がる。
両手を左右に流すように動かせば、双剣の切っ先が黒い毛皮を綺麗に切り裂いていく。
「グワアアアアアアアアアアアッ!!」
振り下ろした黒豹の前足の爪に零斗の足が掠る。
やや叩きつけられるようにアスファルトに転がる零斗の頭の上から、咆哮が浴びせられた。
「くそっ!」
にわかに痺れが全身に広がって、零斗が顔をしかめた。
歪んだ頬に降ってきたのは、黒豹の爪ではなく、ごつい人の手の平だ。
乾いた小気味いい音がする。
「ってー!! なにする、ルビィ!!」
咄嗟に零斗は張られた頬を褐色の自分の手で押さえた。
「頬を張ったら戻せるかと思って。まぁ、治ったみたいだな、零斗」
しれっと言ってのけるルビィ。
「くそったれが……」
目にかかった前髪を掻き上げる零斗の顔は、なぜか嬉しそうにニヤリと笑う。
「んじゃ、いつものとおり、気張ってけよダチ公」
背中を見せ走り出したルビィは、零斗の呼びかけに軽く手を上げて振って見せた。
攻撃で大分弱ってきた黒豹。
よろよろとよろけるように動く背に、女の子はしっかりとしがみついていた。
その様子を屋根の上にいる慎はずっと黙って見ていた。
時折、側に震えて頭を抱えている女に目を走らせながら。
最初ここに女を連れて逃げ込で、どこか怪我があるか慎が確認したが、恐怖に震えているだけでどこも怪我はなかった。
ちょっとした好奇心が慎に芽生える。
天魔に襲われて無傷だった人間は珍しい。
運良く襲われる前に自分達が到着したのか、それともまったく別の理由があるのか。
「狙われた心当たりってある?」
たまたまか?
それにしては、あのシュトラッサーの動きは可笑しい。
慎の問いに、女は真っ青になり激しく頭を左右に振る。
「し、しら、知らない、知らない、あの子なんて――」
目を逸らして、女は慎の顔を見ようともしない。
深い溜息が慎の口から漏れる。
「あのさ――、俺さ、父さんも母さんも知らないんだ」
静かに、慎は自分の生い立ちを話し始めた。
「赤ん坊の頃、山に落ちてたのを爺ちゃんが拾って育ててくれたんだ。――家族ってどんなのか知らないけどさ、俺と爺ちゃんの関係も家族って言えるのなら、それはすっごく大切なものだと俺は思う」
きっと温かく優しい人だったのだろう、その老人は。
今ここにいる純粋無垢で天真爛漫な慎の性格を知れば、大切に育てられたのが良く分かる。
自分の子供でもない慎を慈しみ、育んだ老人と、自分の子なのに捨てた母親。
そのどこに接点があっただろう?
いや、捨てる前に、愛情は確かにあったはず。
今の女にそれを思い出させるほど余裕はない。
慎の女を思いやる言葉は、虚しく風になる。
女は知らないの一点張りだ。
悲しそうに瞳を曇らせて、慎は下の様子を伺った。
「俺達はあの子を倒さないといけない。それが――、俺達の役目だから」
最後通告のような慎の言葉は、それでも少しの希望は残していた。
女が逸らしていた目を、慎の顔に向けたから。
その先に、女が何を思っているか感じ取れないかと慎はじっとその顔を見つめた。
もし、彼女が女の子と会いたいと願うなら、慎は拒否しなかっただろう。
例えそれが作戦に反することでも。
なにより、家族の存在を大切に思う慎だから。
それが慎自身の願いでもあるかのように。
「――おかあさん、おかあさん!」
女の子の呼ぶ声に、はっとして女は下を見た。
慎と女が目にした光景。
そ れは、倒れ込んだ黒豹の背から転げ落ち、母親を呼ぶ小さな女の子の姿。
立ち上がり、女の子は空を見上げる。
そのふたつの大きな瞳に映る慎と女性。
「おかあ、さん――」
「いやああああああああああああああああああっっ!!」
慎がその叫びに、悲しく笑う。
示されたひとつの道は、あまりにも最悪で、悲しくて。
●
「Alber(愚者)――これで最後だ」
立ち上がり前足を振り上げた格好で、サーバントは動きを止めた。
ルビィが顎の下から脳天までをクレイモアで刺し貫いたからだ。
ビクビクッと黒豹は断末魔の痙攣を繰り返す。
その拍子に、背にいた女の子は後ろに大きく弾き飛ばされた。
アスファルトに叩きつけられ、ころころと転がった女の子は埃にまみれになる。
「……いた、いたいよ。おかあさん……」
ふらふらっと立ち上がったところを、ルビィが構えた長剣を振り下ろした。
「だめ――!!」
ルビィの攻撃が当たるはずだった場所には、女の子はいなかった。
咄嗟に飛び出した璃琥がその小さな体を抱きしめ、横に転がっていたからだ。
「だめ、だよ。まだ理由を聞いてない」
璃琥は女の子をしっかりと抱きしめながら、じりじりと後ずさりして距離を取る。
「どういうつもりかしらねぇが、もうこうなったら倒すしかねぇ。璃琥、お前も分かってんだろ?」
苦々しい表情をした騏が苦無を構える。
「こわい、おかあさん……」
ぎゅっと自分にしがみつく女の子に、璃琥は少しだけ笑うように囁いた。
「落ち着けよ。怖い事なんてなんいもねーから」
璃琥の声に、女の子は微かにこくんと頷いた。
「私は――」
他のみんなと距離を開けながら、璃琥は声を上げる。
「人間か天魔か、罪の有無で助けるか否かなんて考えない。私は、この子を助けたいと思うから行動したんだ。命だけでなくその魂や未来も助けたいと。だから――、理由を聞きたいんだ」
「……ガキ斬っても楽しくねぇ」
まゆは気がそがれたように、ぷいと横を向いてピンク色の頭をかりっと掻いた。
「ああ、くそっ。……使徒ってもこんなガキじゃ、力の自慢する気にもならねぇや」
仕方ないといった風に、やれやれと手を広げて見せる騏。
「理由を聞くくらいの時間はあるか、なぁ、零斗?」
「は……いいぜ。思いのままいってみろや」
璃琥の熱意に諦めたような声を出して零斗は双剣を鞘に収めると、苦笑する。
「胸を張って前を向いていたいから、今日より少しだけでも平和な明日が見たいから、だから私は私が正しいと思う事をただやるだけ」
ぎゅっと璃琥が抱きしめる腕の中には、敵、だけど無垢な魂を持った女の子がいる。
「おねえちゃん――」
だいぶ落ち着いたのか、まだ璃琥の服をしっかりと握っているが、璃琥を見上げて口を開く。
「どうした? お前さんは何がしたい?」
「あのね、めい、おかあさんに――」
「お母さん?」
「うん、めいのおかあさん」
すうっと握っていた服を放し、女の子は空を指差した。
小さな指が指し示す先には、恐怖が凍りついたかのような顔をした女性が屋根の上に動けずにいる。
「知らない、知らない」
そう言いながら女は頭を振り続ける。
「……何故、あの女の事を『おかあさん』と呼ぶ……?」
ルビィが眉をひそめて呟く。
もし、親子だとしたら、どうしてあの母親は、この子を拒否するのだろうか?
そして、なぜ、幼くして使徒となったのか?
「おかあさんに――」
璃琥の腕の中で笑った女の子は、精一杯両手を伸ばして母親に笑いかけた。
「きゃあああああああああああああああ!! し、知らないわ、あんな子! ね、ねぇ、アンタ、助けてくれるんでしょう? あの子は化物よ! 早く倒してよ! ねぇ!!」
ぐいぐいと慎は腕を引っ張られ、苦しそうに女の顔を見下ろした。
「話を、聞いてやれって!!」
「止めてよ! アンタ達、化物の味方なの? 知らないって言ってるでしょう」
璃琥が叫んでも、母親の気持ちが変わるはずもなく、ナイフのような鋭利な言葉が浴びせられるだけだ。
「芽衣はただ――」
さらに言葉を続けようとする璃琥。
だけど、その言葉は最後まで聞かれることはなかった。
璃琥の腕の中で大きく膨らんだ力に、吹き飛ばされたからだ。
一番近くにいたルビィと零斗は、その体を受け止めるが、強大な力は三人まとめてダメージを与えた。
「ぐはっ!」
アスファルトに倒れ込んだ三人は、低く呻き声を上げる。
「うそ、だろ……?」
呆気に取られた声を上げたのは、飛ばされた三人の後方にいた騏だ。
あれほど弱々しく、小さな子供にしか見えなかった芽衣が、眩いばかりの光の玉に包まれている。
いや、まだ玉の中心にいる芽衣は、見るからに弱々しく、ぽろぽろと涙さえ零しているのだ。
だが、芽衣を包む光の玉から、新たにサッカーボールほどの光が次々と生み出され、その中のひとつがこちらに向かって飛んで来る。
「なんだよ、これ?」
まゆは自分に向かって飛んで来た光を、後ろに飛んで避けた。
アスファルトには、焼け爛れた大きな穴が開けられる。
まともに喰らったら、撃退士と言えども無事では済まない力。
芽衣は、それを次々に繰り出そうとしているのが分かる。
「ヤバい……下がれ!」
聞こえたのは零斗の声だ。
零斗とルビィは、璃琥を助け起こし、ビルの陰に逃げ込んでいた。
「ちっ!」
まゆと騏も、反対側のビルの陰に逃げ込んだ。
ここにきて、シュトラッサーとしての力が目覚めたのか、芽衣は光りの中でゆらりと足を踏み出していた。
「ダメだ……、どんな理由があっても、殺しちゃダメだ。そんな事したら、……天国へ行けなくなるんだぜ、めい! めーい!!」
璃琥の悲痛な叫びが芽衣に聞こえることはなかった。
ゆらり、ゆらり、と芽衣は進んでいた。
どこに行こうとしているのか、なにをしようとしているのか。
芽衣自身も分からぬまま――。