●六月某日
「いらっしゃいませ!」
訪れた学園生がまず聞いたのは、少年が発した元気な声だ。その姿を認めて、あ、と礼野 明日夢(
jb5590)が声を漏らす。
「ケータさん?」
「アスム! 久しぶり!」
にこにこと笑う圭太に釣られて、明日夢もまた顔を綻ばせる。
明日夢は以前、この旅館を訪れたことがあった。圭太にとって「一人になってから最初にできた友達」というのが彼である。あのときは、他にも何人か子供たちがいた。しかし今、旅館から飛び出してきたのは圭太だけだ。他の子たちはどうしたのかな、と疑問に思ったが、何か事情があるのだろう、と明日夢は考えた。
はしゃぎ気味の圭太と笑顔を浮かべる明日夢。彼らを眺めるエル・ジェフェ・ベック(
jc1398)は頷く。
(こういうところで大事なのは、現地の人と仲良くなることだよな)
全く馴染みがないというわけではないだろうが、青森から久遠ヶ原まではかなりの距離がある。まずはここで暮らす人たちに歩み寄る必要があるだろう。
圭太を追うようにして、旅館から着物姿の女性が出てきていた。この旅館の女将、安見 吉香だ。
「皆さん、ようこそお越しくださいました」
「こんにちはーです。駐留任務の交代に来ましたです」
頭を下げる吉香に挨拶を返したのはマリー・ゴールド(
jc1045)。学園から遠く離れた場所での仕事とあって、遠出の経験が少ない彼女は気合十分。ただ、ふんわりほわわんとした普段同様の雰囲気からは、あまりその気合は伝わってこなかったりする。本人は気づいていないようだが。
一方、長田・E・勇太(
jb9116)は、まじまじと吉香を眺めていた。観察していた、と言った方が正しい。
(アノマスター、一見大人しそうだけど、注意ネ)
吉香の風貌は人畜無害を体現したものと言って間違いないが、どうも勇太にはそう見えていないようだ。というのも、最も身近なお婆さんが非常に強くて怖いのである。外見に惑わされてはいけない、あの着物のババアも中身は恐ろしいものに違いない。勇太は一人、気を引き締め直した。
「久しぶりだな」
ぽつりと呟いたのは礼野 智美(
ja3600)。彼女は義弟である明日夢と共に、この旅館へ滞在しながら仕事をこなしていたことがある。だいぶ前の話だった。あれから一年半以上は経っている。
智美の隣に立つ龍崎海(
ja0565)もまた、過去に思いを馳せていた。
(あの時からこれだけ経ったというべきか、まだそれだけしか経ってなかったというべきか)
歴戦の撃退士と言って遜色ない経験を積んできた海にとって、九魔侵攻の一件は記憶に残る出来事だった。いつの間にか昔の話になっていたような気がする一方で、自分の感覚以上に最近の話だとも感じる。この旅館に至るまでの道々をバスの窓越しに眺めてきたが、当時の被害の痕跡は、未だあちこちに残っていた。
「長旅でお疲れでしょう。どうぞこちらへ」
柔らかく微笑む吉香に先導され、一団は移動を始める。明日夢の手を引く圭太、その後ろに智美とエル、海が続き、マリーはきょろきょろと周囲を見回しながら皆の後を追う。……最後尾を歩く勇太は、依然として吉香を警戒していた。
旅館に入った一行は、ロビーにて諸々の説明と注意を一通り聞いた。吉香が質問等の有無を尋ねると、はじめに智美が手を挙げる。
「前回同様、義弟と同じ部屋を希望します。大丈夫でしょうか?」
「ええ、もちろん。その方が、ご家族とのご連絡に都合が良かったのよね?」
「はい。それからひとつお願いが。大広間の一角をお借りしたいのです」
この旅館にいる撃退士は総勢12名。それらが一堂に会して引継業務を行うとなると、一般の客室である八畳間は少々手狭になる。前任の6名は夕方にはここを発つので、その前に一度機会を設けたい。智美がそう説明すると、吉香は微笑んで頷いた。
「わかりました。何か必要なものがあれば、お申し付けくださいな」
「ありがとうございます」
頭を下げる智美。続いて口を開いたのは海だ。
「旅館の近くにお店はありますか? 折角なので、見て回りたいと思っているのですが」
食べ歩きついでにお金を落とせば、多少は地域経済にも貢献できるだろう。どうせなら名物を堪能したいところ。そう考える海だったが、吉香は残念そうな表情で答えた。
「ここの近くに、それらしいお店はないですね。少し前ならあったのだけど、店を閉めてしまって……」
店主と付き合いがあった吉香が何度か説得したらしいが、結局首を縦に振ってはくれなかったらしい。それならば仕方ない、と思う一方で、やはりこの近辺にも影響は出ていたのか、と思うと言い様の無い気持ちになる。
その後は数点の質問が出た後に解散となり、各自が割り当てられた部屋へ荷物を運んでいく。そのうち最も入口から遠い部屋に案内された勇太は、室内で吉香から説明を受けていた。ひと通り話し終えた吉香が、お部屋について何か聞きたいことは、と問う。内心この状況にビビりながらも、勇太は平静を装って尋ねた。
「マダム。少し聞きたいことがアル。良ければ話してもらえないカナ?」
「何でしょう?」
「マダムの娘さんは、撃退士だったと聞いたネ。本当カイ?」
小さく息を飲んだあと、吉香は苦笑いを浮かべて頷いた。娘は――香子は親の反対を振り切り、誰かの力になるのだと言って、家を飛び出した。それから数年、たまに電話で声を聞くことはできたが……結局、彼女が再び吉香と直接会って話すことは無かった。安見 香子が無言の帰郷を果たしたのは、九魔よりもさらに前の話になる。
「――でも、今は全然寂しくないのよ。圭太くんがいてくれるし、こうして皆さんとお話しできることも多いから。……ごめんなさいね。こんなおばあちゃんの話を長々と聞かせてしまって」
「構わないヨ。ミーから話を振ったわけダシ」
涼しい顔で首を振る勇太。しかしやはり、内心ではビビっていた。未だに。
ビビってはいたが、これで少しは気が楽になってくれれば、とも思っていた。勇太が思う復興とは「マインド」のケアである。不遇な状況が続けば負の感情は溜まりやすい。精神的な負担を他人に漏らすだけで、気持ちは軽くなるものだ。
ありがとう、と微笑む吉香は、去り際に入浴を勧めて部屋を出ていった。一人になり、ようやく緊張が解けた勇太は、大きな溜息を漏らして呟く。
「HOT SPAを満喫できるのはイイネ。ババアの目も届かないし……ネ」
さて、その大浴場では。
「はふぅ〜、きもちいいのですぅ」
湯船に浸かったマリーが、上機嫌に鼻歌を歌っていた。時間が早いこともあり、大きなお風呂は貸し切り状態だ。そこへもう一人、部屋の片づけを終えた笆 奈央が現れる。
「お、先客か」
「こんにちは〜です。もしかして、前任の撃退士さんですか?」
「ああ。そう言うからには、そちらは私たちの後任かな?」
頷きを返したマリーはいそいそと浴槽を出て、髪を洗い始めた奈央の隣に陣取った。矢継ぎ早に質問を繰り出そうとして、まあまあ、と宥められる。
「仕事の話は大広間でしよう。二度も同じことを喋るのは面倒だ」
「じゃあじゃあ、このへんに美味しいスイーツとかあるですか?」
「スイーツ?」
予想外の質問に首を傾げつつ、奈央は泡だらけの髪をシャワーで流した。スイーツ、スイーツねえ、と呟きながら、石鹸を手に取る。
「あまりそういう情報には詳しくなくてな。すまない」
「そうですかぁ……」
「だがまあ、青森と言えばリンゴだ。今の時期は旬ではないが、ここのリンゴジュースは美味いぞ」
リンゴジュース! そう返したマリーの瞳はキラキラと輝いていた。お風呂から上がったらフルーツ牛乳を一気飲み、と考えていたが、そちらでも良さそうだ。
――大広間の一角に集ったのは、6名の撃退士。
後任班のうち、明日夢は義姉に断りを入れて圭太の元へ。勇太は入浴中。エルは駐車場でバットを振り回しているところ。この場にいるのは海と智美、マリーの3人。
前任班は、大浴場から戻った奈央の他、制服を着崩した不満顔の男子が一人。タブレット端末を抱えた眼鏡の女子が一人。残りの3人は旅館を発つ用意がまだ整っていないらしく、そちらを優先するらしい。
6人は、旅館側が用意した長机を囲んで畳に座った。悪いな、出席率が低くて。苦笑と共に奈央が謝罪し、智美が首を振って口を開いた。
「それはこちらも同じです。後でしっかり伝えておきますので」
「そうしてくれ。……で、早速だが。何か聞きたいことは?」
「まずはどんなディアボロが出てるのか、かな」
「敵さんが、まだ、たくさん残ってるかどうかも、聞いておきたいですね〜」
海とマリーがそう言うと、奈央は眼鏡の少女に視線を送った。こくりと頷き、寒江と名乗った少女は、手にしていたタブレットを卓上に置いた。
「十和田ゲート跡から出現するディアボロの種類は、多岐に渡ります。ただし数はそれほど多くないです。また、九魔侵攻の際に多数見られた敵は、当時に比べれば激減しています。近頃は発見報告すらありません」
寒江のタブレットには、かつて青森の地を蹂躙したディアボロたちの写真が表示されている。今はこっちです、と寒江の指が動くと、写真が消えて文字の羅列が画面に現れた。それらを眺めた智美は眉をひそめる。
「本当に多種多様ですね」
「はい。あらゆる相手に対応できる装備をお勧めします」
「強力そうな敵の名前はないけど、九魔で退いた悪魔たちは?」
「少なくとも、このあたりで目撃されたという情報はありませんね」
海からの質問に淡々と答えながら、寒江はタブレットを傾けた。画面が反転し、文字の向きが逆さまになる。それが一生懸命ノートにメモを取っていたマリーに差し出され、少女は思わず寒江を見やった。ゆっくりでいいですよ、と小さく笑う。それに小声でお礼を述べたマリーは、そういえば、と別の質問を口にした。
「生活環境は、どのくらい戻ってるですか?」
「復興の程度は地域によってまちまちだ。ほぼ元通りの姿になった街もあれば、未だに瓦礫だらけの街もある。被害が大きかった街は立て直すのに時間がかかっているな」
奈央が答えると、それまで黙っていた男子生徒が、フンと鼻を鳴らした。
「立ち直る気がないヤツらが集まりゃ、無駄に時間がかかって当然だろ」
「……倉内。そういう言い方は」
「言い方も何もあるかよ。お前らも、嫌な思いをしたくないなら気をつけるんだな」
吐き捨てるようにそう言って、倉内と呼ばれた男子生徒は大広間を出ていく。宥めようとして言葉を切られた奈央は肩を竦めた。彼は、と智美が問うと、あれは前からあんなだよ、と返す。
「『撃退士は故意にゲート跡を残している』。そういう噂があると、彼は言っていましたね」
寒江が補足した。諸々のストレスによる苛立ち、その矛先が撃退士にまで向けられているのだという。
故郷に帰りたい。その気持ちはわかる。だが仕事が無ければ生活できないし、危険が残っている場所に戻るわけにはいかない。失ったものが多すぎて、大きすぎて、潰されてしまう人だっているだろう。難しい話だ。明日夢に聞かせなくてよかったかもしれない、と智美は思った。
「――ボクの家でもね、猫飼い始めたんですよ」
姉さんが依頼の後で、子猫を四匹引き取ってきて。そう話す明日夢に相槌を返しながら、圭太は膝の上に乗る縞猫を撫でた。
ロビーのソファに座り、テーブルにトランプを広げていた二人は、遊ぶよりも話すのに夢中になっていた。二人が出会う前のこと。二人が出会った後のこと。以前一緒に過ごした時間が短かったせいもあり、互いに知らなかったことはたくさんあった。
明日夢が飼い猫の話をしていると、大広間から出てきたマリーがロビーへやってきた。それに気づき、明日夢や圭太から程近い位置に座って新聞を読んでいたエルが顔を上げる。駐車場での素振りは何やら上手くいかなかったらしく、その表情は不機嫌そうだ。そんな彼に、はい、とマリーが手にしていたお菓子を差し出した。
「よかったらポッキーどうぞ、です〜」
「いいのか? サンキュ」
と、手を伸ばしたエルがそれを掴むより早く、彼を踏み台にした黒猫がポッキーを強奪した。「あー!!」とマリーが声を上げ、逃げる猫を追いかけようとして――盛大に転んだ。ひらりとスカートがめくれあがり、男子三人は一様に顔を逸らした。
「うぅ……ポッキー……」
「こら、シャミー!」
圭太が声を張ると、黒猫は一目散に逃走した。後に残されたのは、食べかけの残骸である。嘆くマリーにぺこぺこと頭を下げてから、圭太は掃除に取りかかった。箒を片手にエルにも謝る。
「すみません、うちの猫が」
「いいって。気にすんな」
元々俺のじゃないし、と言いながらコーラの缶を傾けるエル。そんな彼を、圭太はじっと見やった。新聞を読むのを再開しようとして、その視線にエルは気づく。
「なんだ?」
「……お兄さんも撃退士なんだよね。ボクもなれるかな、って」
「撃退士ねえ。ま、難しいよな。俺とかは、昔――」
かつてのエルは、兄弟と共に自警団に所属していた。当時について、ふんだんにオノマトペを用いながら話すと、圭太は掃除も忘れて聞き入っているようだった。一番の思い出は、エルの兄が家族を守るためにとある組織を壊滅させたことである。
「――奴らは悪党中の悪党だ。そいつをドッカーンとやっちまったわけ」
「すごい! ボクも頑張ったら、悪い人たちを懲らしめられるかな?」
「撃退士になりゃ、できるかもな」
うんうんと頷くエル。よーし、と圭太はやる気を漲らせ、しかしすぐに難しい顔になった。
「でも、どうすれば撃退士になれるんだろ……」
彼を手伝おうとちりとりを手にしていた明日夢が、その呟きに答える。
「ボクみたいに検査で判る人もいますけど……それ以外の理由で目覚めたって人も学園にはいますね」
それから、部活の先輩から聞いた話ですけど。そう前置いて笑顔を浮かべた。
「一般人だけど、天魔と会ったときの対応を学んだり、出来る限り体を鍛えてる人もいるそうです。
撃退士としては戦えなくても、志はボクらと同じように、って」
「こころざし、かあ」
難しいなあ、とぼやく圭太に、明日夢は苦笑を返した。
程なくして。ロビーには学園生たちと、吉香、圭太の14人が揃っていた。前任班が学園に戻る時間だった。お気をつけて、と吉香が告げ、また来てください!と圭太が元気に言う。5人が先に旅館を出て、最後に残った奈央が、後任班一人ひとりの顔を見やった。
「……よろしく頼む」
語りたい諸々を呑み込んで、奈央は小さく呟いた。
どこまでが復興か。答えは見えない。それでも、自分たちに出来ることを、精一杯やっていくしかないのだ。わざわざ伝えることではない、と判断した。あの6人なら大丈夫だろう。そう信じて、奈央は青森を後にした。