●case.1 「邂逅」
十数年前のことである。
魔界を飛び出した饗(
jb2588)は、人界の山中を彷徨っていた。
ときおり人間に出会ったが、饗はそれらを相手にしなかった。
否、相手にならなかった。
天魔である彼にとって、人間など吹けば飛ぶような存在だった。
とはいえ、耳元の五月蝿い羽虫は不快の種である。
饗の姿を見た人間らは、皆悉く命を落とした。
ただ一人を除いては。
かつての日々と同様に、饗は深緑の中を歩いていた。
向こうの藪が揺れた。ほう、と饗は声を漏らした。
「存外早い再会となったか」
「そうでもないさ、久方ぶりだ。あんたは変わらねぇな」
現れた男はそう言って、ニッと笑った。
もうすぐ還暦を迎えようかという歳でありながら、がっしりとした体格は老いを感じさせない。
しかし、饗が記憶する彼の姿と比べれば、その差は歴然としていた。
古門 勇作。それが男の名であった。
人界の常識、さらには排除されずに生きていく術を饗に教えたのが、この古門という男。
戦闘中という状況ではあったが、饗は古門の言を理解し、そして信じた。
こうして言葉を交わすのは、人を襲わないという約束を交わし、共に人里に降りて以来となる。
変わっていないと評された饗は、くつくつと笑った。
「貴様は随分と老けたようだな」
「人間なんでね。体にガタがきちまって、まいってるよ」
「よく言う。未だその得物を引き摺っているのだろう?」
「持ち歩かなきゃ落ち着かねえのさ。相棒だからな」
古門は両刃の大剣を掲げた。
ぶつけ合った戦意と、交わした言葉。
それらを脳裏に浮かべつつ、饗は煙管をくわえた。
「59など若造だろうに。まだ引退には早いだろう」
「悪魔と一緒にされちゃ困る」
「久遠ヶ原で貴様と共に過ごすのも面白いか、と期待していたのだがな」
「ほう? あんた、今はあそこにいるのか」
人間を「降り来る火の粉」と呼び、問答無用で殺めていた彼が、撃退士になった。
こいつは愉快だ、と古門は破顔した。
何が愉快か、と饗は鼻を鳴らす。その口元は綻んでいた。
古門が尋ねる。
「どうだ? 学園生活は」
「そこそこだな。貴様の教えを活かせば渡れる世の中だ。ちょろいものよ」
「そうかい、そりゃ良かった」
饗は古門に、己の日常を語った。
他愛のない話である。古門はそれを、相槌を打ちながら聞いていた。
語りはしばらく続いた。聞き終えた古門は、「何よりだ」と笑った。
夢の刻限が近いせいか、古門の姿は朧気であった。
饗が短く尋ねた。
「時間か」
「らしいな。まあ、今後も楽しく学生やってくれ」
「そちらも精々老後を楽しめ。ではな」
片手を上げて、饗は古門に背を向けた。
●case.2 「万華鏡」
紀浦 梓遠(
ja8860)は花畑にいた。
紫苑に蝦夷菊、百合水仙にサルビアといった花々が揺れている。
夜空が広がっていたが、周囲ははっきりと見えた。
丸机がひとつ。椅子がふたつ。人影がひとつ。
胸にまで伸びた黒髪は見覚えがあった。
目が合った。黒みがかった紫の瞳。
「兄さん……?」
呟く梓遠の言葉が聞こえたのか、その男性は薄らと微笑んだ。
血の繋がっていない兄だった。名前を「明日汰」といった。
6年前、梓遠が最後に見た姿をしていた。
「……久しぶりだな」
頷き、梓遠は改めて兄の姿を見た。
今の自分とかつての兄。
年齢はほぼ同じだが、身長は兄の方が高かった。それが少し悔しかった。
「座るといい」
明日汰が引いた椅子に、梓遠は腰を下ろした。
丸机を挟んで兄弟が向かい合う。
最初に口を開いたのは明日汰だった。
「さて、聞こうかな。梓遠の今を」
時間が動き始めた。
梓遠が語るのは、久遠ヶ原学園での出来事。
特に「新しい家族」のことが話の中心となった。
「僕にも弟が出来たんだよ!」
「へえ? 俺に泣きついてばかりだったお前に、ね」
「……あ、あの頃は、まだ小さかったし……」
顔を赤くした梓遠を見て、明日汰は笑った。
語りに合いの手を入れるように、明日汰は昔を振り返り、ときには弟をからかった。
その都度、梓遠は赤面して閉口したが、決して嫌な気分ではなかった。
依頼。イベント。出会いと別れ。何気ない日常。
梓遠が語ると、花畑はぐるぐるとその景色を変化させた。
蒼い月と金の月が夜空に現れ、彼方へ沈んだ。
灰色の大鷲が上空を旋回し、丸机の上に鴉の羽根が一枚落ちた。
薄紫の蝶が花畑を舞う頃、梓遠は空が明るくなってきていることに気づいた。
「……ずっとこのままがいいな」
ぽつりと梓遠が呟いた。
本音だった。こうして兄と話す時間が、もっと続けばいいと思った。
しかし、明日汰は苦笑を浮かべて首を振った。
これは夢だ。夢は、いつか醒めるもの。
「お前には帰る場所がある」
明日汰は丸机に手を伸ばした。
紅紫色の柘榴石がふたつ、卓上に転がっていた。
それらを手に取った明日汰が、片方を差し出す。
「家族が待っている。そうだろう?」
無言で頷いた。
家族。仲間。大事な人。
皆が居るあの場所へ、帰らなければならない。
「……さようなら。明日汰兄さん」
「違うよ、梓遠。こういうときは――」
残念そうに別れを告げた弟に、兄は笑った。
柘榴石が、梓遠の手に落ちた。
「また会おう、って言うのさ。今度は、向こうの世界でね」
夜が明ける。
言葉を返そうとしたときには、明日汰の姿は消えていた。
その微笑みを脳裏に焼き付けて、梓遠は花畑を後にした。
●cace.3 「約束」
「ここは……」
クリス・レイバルト(
jb6069)は、ぐるりと周囲を見回した。
小さい頃、みんなで遊んでいた場所。家の近くの原っぱ。
懐かしさに目を細めていたクリス。その視線が一人の少女に留まって揺れる。
「よぉ。久しぶりじゃん」
ライラ。
彼女の名前を呼ぼうとして、クリスは言葉に詰まった。
夢なんだ。夢だけど。目の前に彼女がいるという状況が、クリスを動揺させていた。
「なんだよ、でかくなったと思ったら。返事もできないお子様のままかぁ?」
ずかずかとクリスに歩み寄ったライラは、軽口を叩いてニヤついていた。
しかし急に訝しんだ表情に変わると、クリスを眺めて眉根を寄せた。
「そういう格好って嫌いじゃなかったっけ?」
「い、いたずら心を忘れてないだけだぞ! って、今はそんなの関係ないじゃないかっ!」
顔を赤くするクリスを見て、ライラはニヤついた顔に戻った。
女の子のような見た目のクリスと、男勝りな性格のライラ。
昔、容姿が原因でいじめられていたクリスを助けてくれたのが、ライラだった。
その彼女は、もういない。
クリスは妹に頼み、ライラそっくりな人形をつくった。
性別がわかりづらい服を着るようになった。女性的な口調を使うようになった。
成長と共にクリスは変わった。
だけどライラは、変わっていない。死んでしまったから。
こほんっ。わざとらしく咳払いをして、クリスはライラを見つめた。
「今日は言いたいことがあってきたんだよ、だぞ」
今と昔の口調が混ざっていたが、クリスの顔は真面目だった。
ライラは、そんなクリスを真っ直ぐに見つめ返した。
「おう。あたしにどーんと言ってみろ」
小さく頷いて、クリスは目を閉じた。
深呼吸。伝えなきゃ。少しだけ、怖いけど。
「今は撃退士をやってる。
ライラを殺した奴を見つけて復讐するためだ。
弱い人を助けたいって理由じゃない。
こういうの、ライラは……その、嫌いになったり……というか、幻滅したり……」
気持ちがぐちゃぐちゃだった。上手く言葉にならなかった。
情けなくて、涙が出て、クリスの口が止まった。
小さな手が、金色の髪を撫でた。
「いいんじゃないか」
凛とした声だった。
「やり遂げなくちゃ納得できないんだろ?
だったら人の顔色なんか気にしないで、突っ走ってみな。
つか、負けてこっちにこられる方が迷惑だ。
当分くんな。あたしと約束しろ」
ライラが小指を突き出した。
涙を拭う。指を絡めた。彼女の真似をして、クリスも笑った。
「わかった。約束、するよ」
「おう。頑張れよ」
ニッと笑って、ライラは表情を消した。
そして再び、クリスの腕に抱かれた。
●case.4 「血」
古びた木造の校舎。
教室と思しき場所で、芹沢 楓(
jb6399)は目が覚めた。
体を起こし、状況を確認する前に、頭上から声が降ってきた。
「やっと起きたのね」
楓は動きを止めた。
怯えた瞳で、言葉を発した女性を見やる。
「……おかあ、さま……?」
元気で明るい普段の楓からは想像もつかないような、震えた声だった。
呼ばれた女性は、苛ついた様子で息を吐いた。
「あんたみたいな子、知らないわよ」
小さく息を呑む。
いつだってそうだった。
親子としての繋がりも。自分の存在そのものも。
楓の母は――芹沢 碧は、ただの一度も娘を認めることをしなかった。
「なんで、そんなこと……私……私は……っ!」
楓の手に、大鎌が現れた。
認める。認めさせる。私は、お母様の娘だから。
小さな影が迅雷の如く碧に迫った。
一閃。あたらない。さらに薙ぐ。あたらない。
碧は楓を見ていた。少女の見た目にそぐわない禍々しい得物。
似合っていない、と碧は呟いた。その手には1mの物差しが握られている。
「あああああッ!!」
苛立ち。焦り。それらが声となって、楓の喉を駆け抜けた。
刃はひたすら空を裂いた。いくら振ってもあたらなかった。
「もういいわ」
碧が消えた。楓が目を見開く。速い。
最初は右手に衝撃を感じた。大鎌が手を離れる。
間を置かず左足の脛に痛みが走った。膝をつく間もなく胸部を叩かれた。
激しくむせた。頭上から声が降る。
「私の娘が、あんたみたいな無能なわけがないでしょう」
拳を握った。唇を噛んだ。悔しい。悲しい。涙が止まらない。
痛い。立てない。鎌を握ることもできない。
勝てなかった。私は、弱い。
それでも、認めてほしかった。
「私、は……!」
涙声で何かを告げようとする楓。
その姿を、碧は見ようともしなかった。
教室を出ていこうとする碧は、寂しそうに呟いた。
「どうして、あの人に似ちゃったのかしらね……」
「……え?」
教室の入口。
立ち止まった母は、呆然とする娘を振り返った。
今にも泣きそうな顔をしていた。
「本当はね。あんたのこと――」
嫌な音がして、碧の言葉は遮られた。
天井が落ちた。床が抜けた。
母の姿は見えなくなった。
娘は、落ちていった。
●case.5 「問答」
「ということで、来てみました」
にこにこ。石田 神楽(
ja4485)は、いつも通りの笑顔を浮かべてそう言った。
溜息を返した老人は、すぐさま視線を手元に戻した。
「まずは座れ」
「はい」
老人の言葉に従い、神楽は彼の正面に陣取った。
昔、神楽がよく入り浸っていた図書館。
大きなテーブルに座る老人の周りは、常に空いていた。
その正面に神楽が座り、本を手に二人で世間話をする。
別段珍しい光景では無かった。
神楽が冊子を開くと、ほどなくして老人が尋ねた。
「今は何をしている」
「撃退士を少々」
「歳は幾つだ」
「23ですね」
そうか、という応答すらなく、会話は途切れた。
神楽が世話になった、元講師である老人。
言葉数が少なく、いつでもこんな調子だった。
その顔つきと低い声のせいで、他人どころか孫すら寄ってこないと聞かされていた。
生きていれば卒寿に近い歳だが、神楽が久遠ヶ原にくる少し前に世を去っている。
止まった会話は、主語の欠けた質問から再開された。
「後悔は」
「無いと言えば嘘になり、有ると言えば誇張になります」
「そうか」
「はい」
短い会話だった。以降、二人は読書に没頭した。
或いは、文章を目で追うふりをして、思考に耽っていたのかもしれない。
話したかった人物と、普段通りに言葉を交わした。
神楽の目的は果たされた。
再確認は済んだ。自分は、まだ戦える。
不意に老人が立ち上がった。
本を閉じ、神楽を一瞥する。視線を返す青年は、相変わらず笑っていた。
お互いに察していた。時間が来たようだ。
「達者でな」
「先生もお元気で」
別れの言葉も多くはない。
そんないつも通りの――夢となってしまった日常が終わった。
去っていく老人の背を、神楽は笑顔で見送った。
●case.6 「悪夢」
その女性は、昔の宇田川 千鶴(
ja1613)とよく似ていた。
アウルが発現するまでは、千鶴も黒い長髪だった。
自分と同じ茶色の瞳を持つ女性――自身の母の目を、千鶴は見ようとしなかった。
ことり、と音を立てて、コーヒーカップが目の前に置かれた。
「元気にしてる?」
穏やかな声音で、母は尋ねた。
「しとるよ」
千鶴は、淡白に答えた。
母の視線から逃げるように、ぎこちなく周囲に目をやった。
賃貸マンションのリビング。
テーブルを挟んで、母と向かい合っている。
学園に来る以前は、ここが千鶴の帰る場所だった。
母は、質問を重ねた。
「無理はしてない?」
「しとらんよ」
「我慢は?」
「大丈夫」
淡々と、千鶴は答えた。
母は笑っていた。千鶴は、目を逸らしたままだった。
「いつでも帰ってきていいのよ」
ああ、これは夢や。千鶴は思った。
この人はもう、私にそんなことを言わない。
千鶴の髪が銀色になった日。
慈しみの視線は、拒絶に変わった。
以来、一度も会話をしていない。
目を合わせることすら、してくれなくなった。
辛くて。哀しくて。怒りに我を忘れそうになって。
千鶴は家族を捨てた。帰る場所を捨てた。
それでも、どこかで会いたいと願っていた。
千鶴はコーヒーを飲んだ。
母がこちらを見ていた。
愛おしそうに、娘を見ていた。
優しい夢だった。
怖い、夢だった。
●after 「余韻」
宇田川 千鶴は、ソファの上で目が覚めた。
事務所代わりに使っている、とあるビルの一室。
「おはようございます」
「……ん。おはようさん」
千鶴が起きたことに気づき、石田 神楽が声をかけた。
彼もうたた寝をしていたようだ。小さく欠伸をもらしている。
そんな神楽をぼんやりと眺めて、千鶴は何気なく口を開いた。
「夢、見たんよ。変な、怖い夢」
ひどく穏やかな夢だった。
息を吐く千鶴の頭に、ぽんと手が乗った。
「……なんで撫でるん」
「何となくです」
唇を尖らせる千鶴に、神楽は微笑んだ。
彼につられて、千鶴も口元を緩めた。
変な夢やったけど。
死ぬ前に顔見れてよかったかな。
例え夢の中でも、会えてよかった。
神楽の手が、千鶴の頭から離れた。
「さて、学園に行きましょうか」
「せやね。……おおきに、神楽さん」
神楽は、いつものように微笑みを返した。
●Dreams Seller
へっへっ。毎度どうも。
如何です? いい夢はご覧になれやしたか?
さて、今宵の『夢売り屋』はこれにて店仕舞いにございやす。
旦那方。姐さん方。いずれまた、どこかでお会いいたしやしょう。