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「ああ、ダメね。全然ダメだわ」
拳を繰り出す樹裏 尚子(jz0194)の耳に、その言葉は確かに届いた。
戦う両者の表情は対照的だった。
腕が、拳が、ぶつかり合うたびに、痛みに顔を歪める尚子。
激しい戦闘とは裏腹に、涼しい顔の『朱い髪の女』。
倒せる、とは考えていなかった。
一人で友人を――真木綿 織部を救出することは不可能。
彼女を救うためには、援軍が到着するまで、戦わなければならない。
「あなたさあ、やる気ないでしょ? 最初の威勢はどこ行っちゃったの?」
はあ、と女は息を吐く。尚子に答える余裕はない。
「お仲間の到着まで時間を稼ごうって魂胆よねえ。あたしとしては構わないけど……」
わざとらしく言葉を切り、女は笑った。
「早くしないと、あの子死んじゃうわよ?」
「ッ!!」
わかっている。そんなことはわかっている。尚子は焦った。
どうしようもないのだ、一人では。たとえ全力を出したとしても――
「あの四人は違ったわ」
恍惚とした表情で、女は言った。
その瞬間、銃声が響く。
正面。林の中から数発。女が腕を振るうと、鈍い音がした。鋼に弾かれ、ひしゃげた銃弾が地面に落ちた。
「あはっ、やっと来た♪」
女は獰猛に笑った。月明かりの下、最初に姿を晒したのは神凪 宗(
ja0435)だった。
拳銃を手にした灰里(
jb0825)がその背を追う。防火服に身を包み、マスクに覆われた彼女の表情は見えない。
女は尚子を一蹴した。
文字通り、一度の蹴りで突き飛ばした。
後退する尚子と入れ替わるタイミングで、宗が女と相対する。
(おいそれと攻撃を受ける訳にはいかないが、この状況ではやむを得まい)
相手の情報が圧倒的に不足している。まずは出方を見る必要があった。
「さ、はじめましょ?」
女は真っ直ぐ拳を放ってきた。回避するのは容易い。
続いて逆の拳。アッパー気味に放たれたそれも、宗に命中することはない。
(――ここだ!!)
宗が持つ一対の曲剣が闇を纏った。
次の瞬間、女の右肩から血が舞う。斬られたことを女が自覚する前に、今度は左肩に紅が走る。
「あ……?」
女の口から呆けた声が漏れた。
間を置かず追撃。女の腹部を狙った刃先は、金属音を響かせた。
「ちぃッ!」
女の右腕が、曲剣の軌道を変えていた。宗は相手と距離を取る。
代わりに前に出たのは灰里だ。
拳銃から鎖鞭に持ち替えた彼女は、マスクの下で天使を睨んだ。
「狩り尽くしてやる……!」
苦々しく呟く。
アウルを纏った鎖鞭が振るわれた。女はそれを飛び退いて避ける。
「壊れろ、砕けろ、このまま、狩られろッ!!」
唸る鎖鞭は怨嗟そのもの。それらを回避する女は、織部から離れざるを得ない。
「当てる気がないの? 中途半端ねぇ」
女がそのことを気にしている様子はなかった。
鞭の射程ギリギリから繰り出される攻撃。見ずとも避けられる、と元の余裕を取り戻している。
「――あと四つ?」
女が呟くのと、林の中から二つの影が飛び出すのは同時だった。
先に声を上げたのは天使の左側、雫(
ja1894)。
「あなたの学年は!?」
「……はあ?」
怪訝な顔をする女。その顔面を狙う鎖鞭は、またも軽々と避けられる。
(この反応……あの樹裏さんは本物、ってことですね)
女が幻覚を操る、という情報は事前にもたらされていた。
どのような幻覚なのかが、まったくわからない。
雫は『尚子や織部が朱い髪の女に見える幻覚』を警戒していたが、杞憂に終わったようだ。
一方、天使の右側。全力で移動するのは隻腕の悪魔。すれ違い様、インレ(
jb3056)は尚子に声をかけた。
「よく頑張ったな。あとは僕らに任せるといい」
「……ああ」
尚子は曖昧に返事を返した。
●
――頑張ったと言ってもらえるだけの『最善』を、自分は尽くしたのだろうか。
女に蹴り飛ばされて以降、尚子は動こうとしない。
「僕の力よ! 仲間の傷を癒す、光になれッ!」
傷だらけの彼女を、アウルの光が包んだ。回復魔法を唱え終えたレグルス・グラウシード(
ja8064)が、尚子に並ぶ。
「兄さんのお友達だって聞きました。僕が助力します!」
「……そか。ありがとな」
尚子は短く息を吐いた。止まってはいられない。戦いは続いている。
天使の注意は、完全に逸れていた。宗、灰里、雫、インレの四人への対応で手一杯のようだ。
織部の拘束を外す、絶好の機会と言えた。
「よし……!」
織部の元へ向かう尚子を守るために、天使と彼女の間を駆ける。
状況は悪くない。それでも万が一に備え、レグルスは盾を構えたまま尚子に並走した。
織部の拘束は、細い糸によって為されていた。光纏状態であれば素手でも引き千切れた。
倒れ込んできた織部の体を、尚子が抱える。レグルスは、すぐさま織部に回復魔法を施した。
「……して……や、る」
織部の口から漏れるうわ言。尚子の表情が険しさを増した。
「……ころ……す……かなら、ず……こ、ろして……」
息を飲んだレグルスは、尚子の目に戦意が戻っているのを見た。
織部を抱えたまま天使を睨む視線。それを遮るように、レグルスは前に立った。
「無茶をしてはいけません。その思いが強いなら、なおさら」
「そうそう、怪我人は大人しくしてなさいよぉ」
木の陰からErie Schwagerin(
ja9642)が顔を出した。
っていうか、と彼女は続ける。
「私も怪我人だし、早く帰りたい……」
肩を竦めるErie。
ドレスの下には傷が残っている。痛みも引いていなかった。
自分に出来るのは、撤退中の護衛程度。Erieに戦意は皆無だった。
「後はあいつらに任せましょ。危ないし」
「……せやな。すまん、頼む」
「わかりました」
レグルスは頷き、後退する三人と天使の間に立ち続けた。
「――さて。そろそろ『正義の味方』に敬意を表さないとね?」
Erieの足が止まる。
「どないしたんや。下がるんやろ」
尚子の言葉に、彼女はにこりと笑った。
「……そのつもりだったんだけどねぇ。気が変わったわ」
先に退いて。そう言い残し、Erieは踵を返した。
●
時はやや遡る。
雫とインレの挟撃。灰里の攻撃が止むと同時、天使の左側方から雫が斬りかかった。
乱れ雪月花。
破壊力を増すために刃へ込められたアウルが、粉雪のように舞う。
冥魔の力を宿した一閃。両腕を交差させた女は、その威力を受け止めきれずによろめいた。
インレの右袖が翻る。振り返った女の視界を塞ぐ。
薙ぎ払いに繋げようとして、反射的に左手が動いた。重い衝撃。
天使の右脚と、インレの左腕が競り合った。
「お前も拳が武器か。奇遇だな」
「あら、最近どこかで聞いたセリフね」
相変わらず、女の口調に焦りはない。
二度、三度と殴打の応酬が続く。
「気分の問題だが――月夜の僕は手強いぞ」
「へぇ? 奇遇ね。あたしも月夜は大好きよ」
口の減らない小娘だ。インレはこの天使が気に入らなかった。
その態度、やり口、全てが『禍』に満ちていた。迅速に断たねばならない。
大剣を具現し、一閃する。女は上体を逸らしてかわし、そのまま後方に跳んだ。
レグルスと尚子が織部に向かっている。それを視界の隅で確認し、宗が女に打ちかかる。
「二人は返して貰うぞ」
「人命救助が優先ですが、今のうちに倒してしまいましょうか」
雫が大剣を構えた。相手の武器は腕と脚だけではない、と聞いていた。
数の優位は大きいが、だからといって油断はできない。
「…………」
灰里は杖を持っていた。前衛が多い今、魔法攻撃が有効かどうかを確かめるためだ。
双剣の宗、大剣の雫、拳のインレ。三人を同時に相手取る天使は押され気味だった。
軽口を叩く余裕もないらしい、と灰里は鼻で笑った。
銃弾は弾かれた。では、魔法の弾ならどうだろう?
杖から魔法弾が放たれる。前衛の三人は、一斉に距離を取った。
灰里は見た。
三本の炎が、魔法を切り裂くその刹那を。
「さて。そろそろ『正義の味方』に敬意を表さないとね?」
クス。女は笑った。両腕の鉄爪が、月明かりで鈍く光った。
金の瞳が、背を向ける三人を見ていた。追う気配は無い。
女は、怪我人たちを見逃すつもりらしい。
「それじゃあ名乗りましょう。私は『エゲリア』。天使よ」
女は――エゲリアはそう言って、にこりと笑った。
(なんだ……? 雰囲気が変わった?)
宗は違和感に眉をひそめた。エゲリアがこちらを見ている。
不意に右手が振るわれた。無造作に投げつけられたのは、投げナイフ。
飛来した刃はスクールジャケットに刺さった。スキル、空蝉を使った宗は無傷だ。
鉄爪が目前に迫っていた。
「ッ!?」
再度、空蝉。スクールジャケットが魔法炎に焼かれた。距離を詰められたのは、一瞬だった。
クスクス。エゲリアの笑い声が聞こえた。近い。
「ぐっ!?」
宗の両肩を熱が貫いた。ナイフが突き立てられている。至近距離から投げられたものだ。
膝をついた。体が言うことをきかない。
(……毒、か……!)
ひひひっ。エゲリアが声を出して嗤った。
「はあい、まずひとつ♪」
ほんの数秒。その間に、味方一人が動きを封じられた。
だが、無駄ではなかった。エゲリアの視線を、雫は真っ向から睨み返す。
炎を纏う鉄の爪。痺れ毒が塗られた投げナイフ。そして、驚異的なスピード。
得られた情報は多かった。相手の実力がわかれば、対処の仕様はいくらでもある。
エゲリアがおもむろに左手を振った。先ほどと同様の動き。
同じ手は通用しない。雫は冷静に投げナイフを弾いた。
急接近。ここも一緒だ。次は爪の一撃か、或いは――至近距離でのナイフ投擲。
刃が二本、大剣に弾かれた。読み通り。
「ネタがバレた暗器使いの脅威は、かなり落ちますね」
「暗器使い? あははっ、面白いこと言うわねえ?」
雫の挑発に、天使は心底愉快だと笑った。
灰里の銃が吼える。またも銃弾はひしゃげた。わずかに生まれたその隙に、雫が刃をねじ込もうとする。
まずは薙ぎ払いで動きを止める。足を狙った一振りは、たしかに標的を捉えた。
雫には、そう見えた。
命中した感触は無い。刃は草を薙いだ。雫の体勢が大きく崩れた。
「え……?」
思わず声が漏れる。『当たったように見えた』。それだけだった。『攻撃は当たっていない』。
ひひっ。笑い声が雫の頭上を飛び越えた。
「教えてあげる。あたしはねえ、暗器使いなんかじゃないの」
慌てて振り返ろうとして、左腕に激痛が走る。鉄の爪が赤く濡れていた。
「『拳闘士』よぉ。ファイター。アサシンじゃなくてね?」
回し蹴り。右腕一本では受け切れないほどの衝撃が、雫を襲った。小さな体が草の上を転がる。
ダメージは小さくない。雫に駆け寄るレグルスを気にも留めず、エゲリアはこきりと首を鳴らした。
「んー。とりあえず、これでふたつ?」
幻覚に距離は関係ない。灰里はそう踏んだ。
銃では足りない。杖も無意味。ならば、と鎖鞭を手にして、マスク越しに金の瞳を睨む。
炎。エゲリアが扱うのは、炎の魔法だ。灰里の脳裏に忌々しい景色が浮かぶ。鎖鞭を握る手に力が籠もった。
視界の隅で、インレが拳を構えていた。
遠当て。触れずに敵を倒す、気功の技。
それから逃れるように、エゲリアは灰里に向かってきた。
「死ねッ!!」
鋭い言葉に答えるように、鎖鞭がしなった。
蛇の如く蠢いたそれが、エゲリアの右腕に絡みつく。
「捉えた――!」
「どっちが?」
込められた冥魔の力を無視し、エゲリアはおもむろに左手で鎖を掴んだ。
熱した鉄を水に放り込んだような音がした。痛みに顔を歪めながら、それでも天使は不敵に笑った。
「惜しいわねぇ。良い殺気よ?」
その細腕からは想像できない強さで、鎖鞭が引かれた。
灰里は、離さなかった。天魔を屠るという強い意志が、武器を失うことを恐れさせた。
「お顔を拝見しちゃいましょう♪」
「――ッ!!」
体勢を崩した灰里は、眼前に迫る鋼を見た。
形容しがたい音がした。顔面を襲った衝撃に、意識が朦朧とした。
何かが焦げたような、不快な臭いがした。忘れたくても忘れられない、その臭い。
(……あのときと、同じ――)
人間が焼ける臭いだ。
「はい、みっつ♪ ……ちょっとやりすぎたかしら?」
マスクを砕かれ、防火服ごと切り裂かれ、倒れ伏す灰里。
それらを見下ろして、朱い髪の女は嗤っている。
ひっひひっ。耳障りな笑い声が、インレの憤りを増幅させた。
冷静に現状を受け止める一方、インレは己が内の猛りを鎮めるのに苦労した。
奴は、遊んでいる。弄んでいる。彼が愛する、尊きモノたちを。
「楽しみは最後に取っておかなきゃね? ヒーローさん♪」
はあ、とエゲリアは艶やかに息を吐いた。熱の籠もった視線がインレに向けられている。
インレは、視線を返さなかった。聴覚に意識を集中していた。
戦場が音を失ったのは、一瞬。
エゲリアが距離を詰めた。
爪が躍る。袖が閃く。脚が迫る。腕が防ぐ。
先ほどとは比較にならない速さで、両者は打ち合った。
インレの視覚には『ずれ』があった。
『耳で聞こえた』動きが、数瞬遅れて『目で見える』。
速さも相まって、攻撃を当てるのは至難の技と言えた。
防戦一方のインレ。一瞬できた隙を、エゲリアは的確に突いた。
鉄爪が腹部を貫く。鮮血が舞った。
エゲリアが笑う。――インレもまた、笑った。
隙は、作られたものだった。
「捕まえたぞ」
インレの左手が螺旋のアウルを纏った。
飛び退こうとしたエゲリア。爪は抜けなかった。腹筋が締められている。
――絶招・禍穿。
必殺の一撃は、エゲリアの右脇腹を抉った。
咄嗟に体を捻り、直撃を避けていた。
もう三本の鉄爪が、インレの右太腿に突き刺さる。
「やっぱり、あなたが一番ねぇ♪」
ひひひひっ。
鉄の爪が燃える。体内で暴れる激痛に、インレは呻いた。
エゲリアの腕から爪が消えた。穴の開いた腹部に鋭い蹴りが放たれる。
よろめくインレの頬を鋼が打った。
傷を負う以前より、エゲリアの動きは速さを増していた。
「――っと」
不意に、エゲリアがインレから離れた。
直後、地面に杭が突き刺さる。
「あら、外れちゃったわぁ」
Erieが不敵に笑っていた。
「……横槍は感心しないわねぇ。萎えちゃった」
エゲリアが、はじめて不快な顔を見せた。
曲剣が閃いた。麻痺から復帰した宗の不意打ちは、空振りに終わる。
回復した雫が退路を塞ぐべく動く。レグルスは灰里を庇うように立っていた。
そして――インレもまだ立っている。
「ダメよぉ、ヒーローさん。命は大事にしないと」
過量のアウルを体に流すインレを、エゲリアは笑った。
何かを空に放り投げる。五人の視線は、無意識に投擲物を追った。
まばゆい光が炸裂し、視界を白く塗り潰す。
「あなたたちの顔は覚えたわ。また遊びましょうねぇ?」
クスクス、と。
耳障りな笑い声を残して、朱い髪の女は姿を消した。