歩き出した下一結衣香の後を、秋野=桜蓮・紫苑(
jb8416)と百目鬼 揺籠(
jb8361)が追いかける。マフラーや耳当て、手袋でもっこもこの温かさに包まれた紫苑は愛らしいものの見ていて危なっかしく、よろりと揺れた様を見て「どこも怪我はねぇですかぃ?」と百目鬼が顔を覗き込んだ。
「ちと膝すりむきやしたがそれくらいですよぅ、心配性ですねぇ、どーめきの兄さん」
鈴のように笑う。百目鬼は苦笑いした。
『ここじゃ珍しいことでもねぇんですけど、このちびっこいのが戦場に出んのは未だどうにも慣れませんねぇ』
苦手な寒さで震えていた礼野 真夢紀(
jb1438)が姉を見上げた。
「ねー、あたし達もお蕎麦食べて帰ろう」
くー、とお腹が小さく鳴く。
妹を見下ろした礼野 智美(
ja3600)は『ああ、言うと思った』と胸中で呟く。美味しい物に目がない妹がこの手の話を聞いて我慢をする方が珍しいというものだ。
「だめ?」
智美は携帯電話を取り出した。
「この時間なら姉上まだ起きてるかな……連絡入れて、ご飯食べて帰るから少し遅くなる、って言っておくか」
「じゃあ!」
「行くよ。仕事の後で、小腹も梳いたことだしね」
この雪降る寒空の下で空きっ腹を抱えるのは宜しくない。何か食べてから帰る方が賢明だと言えよう。家電話へ連絡を一本入れてから「じゃ、食べに行くか」と後に続いた。
暖簾をくぐった店内は温かかった。
客席の中央につり下がる自在鍵、大きな囲炉裏、なつかしの茶釜。そして部屋の隅には煌々と燃える薪ストーブが動いている。
紫苑と百目鬼は雪まみれのコートを脱いで、ストーブの傍に補させてもらった。帰りにはまたぬくぬくの状態で纏って、温かさと共に帰りたい。いつもの着物姿になった百目鬼は、まるでマトリョーシカの如く衣類を脱いでいく紫苑を微笑ましげに眺めつつ手伝った。
智美は黒のロングコートを壁にかけた。ぱらぱらと肩や服から雪が落ちる。
「まゆ、コートかけるよ」
終い揃って黒の外套だったが、下に着ている服はまるで違う。
智美は男性用の儀礼服でかっちりとしているのに対して、真夢紀は女子儀礼服の上着とブラウスの間に藍色のカシミヤのセーター着て厚めの黒のタイツで露出を極限まで押さえていた。寒さに震えていたものの、座って薪ストーブの熱を感じてほっと一息。
「……注文はいかがしましょう?」
老婆の問いかけ。
真夢紀はお品書きを持ってざっと目を通す。
「えっと。下一さんおすすめの……これ、この鶏蕎麦にゴマ餅ぜんざい、炙り餅も大きさを見て醤油餡と味噌餡をひと皿ずつ、飲み物はほうじ茶で!」
次々と注文を繰り出す妹の様子を眺めて「そんなに入るのか」と確認をとった。最終的に残すのはもったいない。智美は鶏蕎麦だけを頼むと、お品書きを閉じた。
『多分というよりほぼ間違いなくサイドメニュー半分程度俺が食べる事になるのだろうし』
静かな店内では、ぱちぱちと炎の爆ぜる音が響いていた。
「今時、薪ストーブなんて珍しいですね」
「ええ、主人の趣味で」
下一たちの会話を耳に拾いつつも、蛇蝎神 黒龍(
jb3200)と七ツ狩ヨルは炎から少し距離を置いた席に腰掛けた。寒くても、なんとなく視線を逸らしてしまうのは色々と考えてしまうからだろう。
肌寒い位の気温で身震いしてしまうのは、きっと長時間外にいた所為だ。だから噂の鶏蕎麦を胃袋に入れると、苦手な寒さも何処かへ吹き飛んでしまう。口から鼻へぬける蕎麦の香り。沈黙続きで表情の変わらない七ツ狩と蛇蝎神の間に蟠る空気が和やかに感じる。
樒 和紗(
jb6970)と砂原・ジェンティアン・竜胆の二人は、窓辺の席に腰掛けた。
砂原が頼むのは鶏蕎麦で、樒はごま餅のぜんざいを注文する。自分で食べないにも関わらず、甘いもの嫌いの砂原は露骨に嫌そうな視線を向けた。苦手なものは致し方ない。
「和紗は、鶏蕎麦食べないの?」
「余りお腹は空いていないと言うか、そもそもが少食ですし、ぜんざいで丁度良いのです」
注文を変える気はゼロだ。
砂原にとって正面から漂う甘い匂いに耐える未来が確定した。仕方がない、と腹をくくってお品書きを元の位置に戻す。樒もお品書きを片づけたが、ぼんやりと外の景色に瞳を向けた。思慮深い樒は果たして何を考えているのだろうかと砂原が黙ったまま様子を伺う。
「昔は」
「ん?」
「雪が冷たい事も、知らなかったのですよね」
「んー、まぁ和紗は雪の日に外とか絶対無理だったろうし……思い出せば、初めて和紗と会ったのも、雪の日だったよね」
硝子越しに積もりゆく白銀の雪は、遠い思い出を呼び覚ます。
思い出を連れてくると言えば聞こえが良いが、遠い日の樒にとっては冬ほど憎い発作の季節は無かったかもしれない。外で雪遊びをするという概念を持たない、寂しい幼少時代だった。
「竜胆兄は発作で苦しむ俺の呼吸を聞きつけて、部屋に飛び込んで来てくれましたっけ」
運ばれてきたぜんざいや鶏蕎麦を頂きながら昔話に花が咲く。
「よくおぼえてるねぇ。確かその頃の和紗は、小さな体で我慢してたなぁ」
「ええ。我慢していたのに……皆に迷惑かけないようにって、声を殺していたはずなのに、竜胆兄はよく気づきましたよね」
雪降る庭に舞った金の髪を覚えている。
綿毛のように降りそそぐ牡丹雪を美しいと思った日。
そして雪の冷たさに驚き、雪兎の愛らしさに魅せられた時のこと。……等と話していると余計な思い出も出てしまうもので。
「和紗はさ、小さい頃は素直で可愛かったよね!」
心温まる空気にピシリと亀裂が走る。
「竜胆兄……あまりごちゃごちゃ煩いと、これを押しつけますよ?」
「ぜ、ぜんざい圧迫はやめて! 匂いが甘い!」
二人の様子は何処から見ても子供じみていた。
琥珀色の出汁からは湯気が立ち上っているが、冷え切った身体に温かい蕎麦は嬉しいものだ。丼に両手を添えて蕎麦を呷ろうとした紫苑は、出汁に浮かぶ静寂の刺客に気づいて眉を顰めた。
「ねぎぃ……」
肩を竦めたのは百目鬼だ。
「そのネギもちゃんと食べなせぇよ」
助けの手を拒まれた紫苑は「うっ」と呻いて縋るような眼差しを向ける。
「ちゃんと食べたら、ぜんざいも頼んで良いですぜ」
「えっ、ぜんざい、えっ」
「さあどうしやす?」
虚空で行き場に困る煮えた葱。紫苑は他のテーブルを見回して、美味しそうなぜんざいに喉を鳴らした。艶々と飴のように照る小豆や栗が羨ましい。
「……んぐ」
喰った。心頭滅却して葱を咀嚼し、のみこんでいく。
「葱だけ拾って食べなくても」
「た、食べきりました! どうです、どーめきの兄さん! ぜんざい!」
はいはい、と言いながら甘味のお品書きを渡す。
約束は果たさねばならない。
「くりのぜんざいと、お餅、お餅も一皿頼みややしょう」
「かまいませんがね、食べきれるんですかい?」
「食べきりますよぅ、半分こならいけやすって! おばあさーん、注文ー!」
嬉々とした声が店に響く。
礼野達の席にも品が届き、真夢紀は「おいしー」と次々口に運んでいる。
蕎麦を啜る智美は、妹の様子を静かに観察していた。
『ああ……あの顔、また何か考えてる。醤油餡や味噌餡が家でできるか考えてるんだろうなぁ』
考えが手に取るように分かってしまうのは、間違いなく今までの経験からくるものだ。旅先で食べた料理、デザート、それらを参考にした料理が度々夕餉の膳に並ぶことがある。成功したものもあれば、失敗したものもあるし、料理というのは奥が深い。
『家でできるか、か』
智美は手元をみた。小さな焙り餅を眺めて『そういえば実家が送ってきた餅が余ってたな』と台所の在庫を思い出す。正月の残骸は、残るとなかなか処理に困る。
『まぁ薄く切って干して、かき餅やあられ風にして食べても良いし……そっちの方が消費し易いしなぁ』
ぼんやり考えていると妹の声が智美を現実に引き戻した。
「お腹に食べ物入れるとすきっ腹より体温かくなるよねー…家だとどうしてもグリルやオーブントースターになりがちだけど、やっぱり炭火で焼いたのは格別だよ」
真夢紀の言葉を智美が真顔で切り返す。
「七輪入手して、焼き鳥や秋刀魚をベランダで炭火で焼いているのは……誰だっけ?」
「にゃはは……冬は寒いからどうしても台所使いがちだもん。鳥はたれ炙るのも美味しいけど唐揚やクリーム煮やチキンソテーも美味しいし、冬は鍋も美味しいし」
美味しい話になると色々考えずにはいられない。
「ごちそうさまでした」
一足早く。店を出る。
外は相変わらずの大雪だった。
舞い降りる真綿のような雪が、百目鬼の手袋にも降りそそぐ。
「考えてみれば……風花だの牡丹雪だのって、雪がやたら花に喩えられんのは春が恋しいからでしょうかねぇ」
百目鬼の口元に笑みが浮かぶ。
「そうなんですかぃ? でも俺、本で見たことありやすぜ、雪をずっと大きく見たやつは、花みてぇな形してるんですぜ!」
百目鬼と紫苑が話をしていると、下一結衣香も店から出てきた。
「みんなー、先に神社のとこにいるから。さ、いきましょっか」
結衣香に連れられて先ほどの参拝道を目指す。
黙々と歩きながら百目鬼は紫苑を一瞥した。並んで歩くと身長差がよく分かる。
『少し背が伸びたような? まだまだ子供ですけどねぇ』
「はーい、到着。電車の時間まで自由行動ね。後で声をかけるから」
そう言い残し、結衣香は参拝道の果てに消えていく。
見事なまでに消えてしまった。
「雪が濃いですねぇ」
百目鬼はぼんやりと赤い鳥居を見上げた。
古いものは倒壊の危険があるからと撤去される時代になったけれど、ここの鳥居には寄付をした遠い昔の人の名前が彫られたまま静かに佇んでいる。
「こういうものも残ってるとこにゃ残ってるんですねぇ」
『雪と氷灯篭のおかげで真っ暗じゃなさそうですが……』
感慨深い。しかし百目鬼が哀愁に似たものを覚えたのに対して、紫苑は百目鬼の陰でびくついていた。夜の神社は静寂に支配されていて、不気味さが増す。つまり少し怖い。
「とおりゃんせとおりゃんせーって、向こうに行くために歌うんでしょう?」
誰が読んだ分からぬ古い童謡を口ずさむ。
鳥居は現世とあの世の境だとも言われている。
「兄さんも、いつか向こうに帰っちまうんですか?」
「どうでしょうねぇ。少なくとも、此処で紫苑サンを置いて消えたりしませんぜ。さ、氷灯をなおしていきますか。手を」
『……雪にのまれてしまいそうですねぇ。こんなとこで迷子になったら多分見つけられねぇ』
「いいですよぅ。でも手繋ぐのは兄さんが迷子になっちまわないようにですからね!」
どや顔で手を添える。
「いや……迷子になんのは俺じゃなくて紫苑サンですよ」
「どーめきの兄さん、あそこ壊れてますよぅ!」
きいちゃいない。
黙々とバケツに雪を詰めてくり抜くと、不格好ながら氷灯ができあがる。
仕上げは蝋燭に火を灯す訳だが、百目鬼はひらりと手を差し出した。
「火ぃつけんのはあぶねえから俺がやんますよ」
「火くれぇつけられますよぃ、子供じゃねーんですから!」
ぷくっと頬を膨らませる様が愛らしい。はいはい、と怪我のないように見守りつつ、完成した氷灯は、白銀の道に蜜蝋色の輝きを添えた。紫苑の表情がぱっと華やぐ。
「これなら神様がどんだけ鳥目でも迷子にゃなりやせんよ!」
「ははは、そうかもしれませんねぇ」
目印になれば、と思っての行動なのか、紫苑は謎の雪だるまを作って氷灯に添える事があった。それはさながら想像力豊かな怪物であったが、本人はクマを作っているつもりである。
樒と砂原も参拝道を歩きながら氷灯を作り始めた。砂原がにこにこ笑う。
「人の顔をじろじろ見ないで下さい。ほら、そこも直して」
「えー? 眺めるくらい、いいじゃん。ここ直すの?」
せっせと砂原が氷灯作りをしている間に、南天の木を見つけた樒は一対の雪兎をこしらえて鳥居の下に飾った。
鶏蕎麦で身体を温めても、やはり外は雪降る寒さだ。
蛇蝎神の身体にぴったりとくっつき「黒。寒い」と訴えていた七ツ狩であったが「ヨル、ごらん」と氷灯の道を促されると、まるで吸い寄せられるようにヨルは銀盤を歩き出し、氷灯を追い始めた。やがて見つけた、光のない氷のあと。
「此処のから作っていこか」
七ツ狩は蛇蝎神が作りなおした氷灯の上に、ちいさな雪だるまをのせた。
ぼんやりと滑らかな蜜蝋色の光に照らされる雪だるまは何処か愛しい。
引っ込めようとしたヨルの手を蛇蝎神が握った。
「冷えてしまったみたいやね。休憩して温まろうか」
神社の境内へ七ツ狩を導いた蛇蝎神は魔法瓶を見せた。今回の掃討仕事になる前に、家で作ってきたカフェオレで、ミルクを弱火でコトコト煮詰めて、濃厚で甘く優しい味にしあげていた。どうぞ、と差し出したカップから白い湯気が立ち上る。
神社の軒下から眺める境内は、とめどなく白花が積もっていく。
「思い出すよ」
急に話をふってきた蛇蝎神の赤い瞳が、七ツ狩の姿を捕らえる。
「あの日、夜空の星を見上げた時間を。雲のない夜と違って、今夜は雪空やから導がない」
屋根の色も、道路の模様も、見慣れた景色すらも白に染め変える世界。ここを見つける為に、人々は何を導にするのか。境内を眺めているとよく分かる。きっと氷灯が無ければ、此処は単なる裏路地の不気味な通りでしかなかったに違いない。
けれど。
「ここの氷灯は、人が迷わないように創られた道しるべやね。人々は光がないとバラバラに彷徨ってしまう。ここにいるよと、ここで元気で過ごしてるよと、伝えるためのメッセージでもあるんや。そう考えると……これも綺麗やね。歴史の欠片やから。先祖とか親族とかそういう人に祈る為の焔でもあるかもしれん」
話をきいて。
こくりと飲み干したカフェオレのカップを返した七ツ狩は、それまで見ているだけだった氷灯作りを始めた。丁寧に白銀の雪をバケツへ詰めて、中身をくり抜く。ひっくり返すだけで氷の囲いができあがる。氷の囲いに蝋燭を仕込んで、蛇蝎神が燧火で火をつけた。
氷灯がぼんやり輝きを取り戻す。
七ツ狩の口元がうっすら弧を描いた。破壊でない光は温かく朧に二人を照らす。
一通り作り直しが済んだところで、下一結衣香が皆に声をかけて回った。
雪道を歩いて、電車に向かわなければならない。
百目鬼は手を繋いで歩く紫苑を「寒くねぇですかぃ?」と覗き込んだ。もこもこの完全防寒である紫苑は寒くはなさそうだったが、こしこし目を擦って「んむ……」と微妙な返事をしている。
疲れているのだろう。百目鬼は手慣れた仕草で前にかがみ「おぶさりなせぇ」と告げた。
ふんわりと背負った身体は小柄で。
けれど少し前より重くて。
『子供の成長っていうのは、早いもんですねぇ。嬉しいやら寂しいやら』
そんな思いが心をくすぐって、雪のように儚く消えていった。