水族館の館内は禁煙だと聞かされていた。
そこで坂本 桂馬(
jb6907)の下した決断は、水族館の外に設置された喫煙スペースで思う存分煙草を吹かしてから入場することだった。
待ち合わせまでは少し時間がある。
集合場所に一人、また一人と集まる中で、恋人の川知 真(
jb5501)が現れるのを待った。
「ケイ、お、おまたせ。おはよう」
坂本が振り返る。
初めての水族館でクリスマスデート、という状況に浮かれた川知の格好は、白いタートルネックセーターがチャイナのように胸元だけ穴が開いていて、雪がちらつく寒い中でジーンズのホットパンツを纏い、キャメルのトレンチコートを羽織っていた。
黒のニーハイソックスと黒のショートブーツもおろしたて。
「スカート姿しか見たことない、って言うから店員さんに進められるまま買ってみたけど……に、似合う?」
「……珍しい恰好してんな、お前」
ぷかぁ、とふかした煙草を灰皿に入れる。
「だがな。寒いのか暑いのかハッキリしろよ。局所的な流行に踊らされすぎだろ。ま、似合っちゃいるけどな」
くどくどと言われつつも『似合っちゃいる』の言葉が嬉しい。
「ケイ、あのね。アクアケイヴに行きたいな」
「大水槽の中を横切る奴だっけか。分かった」
そろそろ集合だ。
特別な日だからとおめかしをしている者は多い。
普段の服と違ってシックなスーツでビシッと決める!
そう決意していた楼蜃 竜気 (
jb9312)は、確かにスーツ姿だったが、やはり着慣れない服は違和感を感じるらしく、早くも襟元がはだけていた。それでも糊の利いたシャツにお洒落な白の革靴を纏っていると別人に見える。
待ち合わせていた末摘 篝(
jb9951)は楼蜃を探すのに苦労した。
「蜃ちゃん、みつけたー」
めかしこんだ末摘も、やはり普段の格好とは違う。
襟にふわっふわのファーのついた白のピーコートの下は、シックでレトロな千鳥格子の膝丈ワンピース。ぴっかぴかの黒のロングブーツが、真綿のような雪に足跡を残していく。
「どう? どう? 蜃ちゃん。かがり、にあう?」
『お姉さんっぽく見える? それとも』
期待と心配に胸を膨らませた末摘の頭を、楼蜃がやわらかく撫でた。
「篝ちゃんも今日は洋装だね。かわいい」
普段は妹のような子。
でも精一杯の背伸びが嬉しいと感じる。
『今日はレディーとして甘やかそー』
手繋いで列に並んだ。
本日のお目当てはアクアケイヴだ。
本来ならば休館日だった水族館では、下一結衣香が団体手続きを取っていた。
撮影に協力する者達がずらりと並ぶ内、半数以上がカップルだと言うことに気づいた美森 あやか(
jb1451)は、仲の良さそうな恋人達に目を留める。
『あ、あれいいな』
指と指を組みあわせる恋人繋ぎ。
じんわりと大切な人の体温を感じられる様が羨ましい。
下一からパンフレットと入場券を渡された美森 仁也(
jb2552)が妻へチケットを渡そうとして視線に気づいた。見ているものを辿って『なるほど』と納得。
入り口でコートを脱いで左手に持った仁也は妻に右手を差し出す。
「この方がお好みかな、お姫様は」
「うん……ありがと。そういえばあなたと水族館は初めてよね」
「そう、だったかな。遠足で出かけたりしたんだけど、覚えてない、か」
「もう! 学校行事とデートは違うでしょ、お兄ちゃん!」
うっかり言ってしまってから「ふ、夫婦二人で水族館デートは初めてだもの」ともごもご小声で異議を唱える。俯いたあやかは、地面が揺らめいている事に気づいた。
水の感触はないのに、歩く度に波紋が生じる。
「うん、そうだね。ごらん、あやか」
仁也に促された壁面には、ふよふよと幻の魚が泳いでいた。
パンフレットとチケットを手に入場した樒 和紗(
jb6970)と砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)は、何故か入場早々に係員に止められた。
思わず「え、え」と困惑する砂原に対して、樒は『着物は拙かったでしょうか』と真剣に悩み出す。藍のセーターに白のパーカージャケットを着た砂原も格好を気にし始めた。
『撮影にあわない、とか?』
係員が樒の前に立った。
「おめでとうございます! あなたは5万人目の入場者です!」
受付の制服レディーと館長ネームプレートを下げたおっさん、そして案内の若者が総出で拍手し、待機していた撮影カメラが回り始め、同じ入場者の学生達は撮影の邪魔にならないよう無駄に遠巻きになり……
つまり二人はフラッシュの雨を浴びながら緋色の絨毯に取り残された。
「あ、……ありがとう、ございます」
困惑君の樒に花束が贈呈され、さらに一抱えもあるペンギンぬいぐるみが渡された。
砂原が「すごいね、和紗」と話しかけていると、係員は「こちらもどうぞ」とトラフグのぬいぐるみ帽子を樒の頭に乗せてくる。
隙のない完璧な常盤色の和装に花束。
そして百歩ゆずってぺんぎんのぬいぐるみは良いとして……頭上のトラフグぬいぐるみ帽子は頂けない。砂原が「ぶっ」と笑いを堪える。
「竜胆兄」
「あはは、ごめんごめん」
「おっと、失礼しました。お連れ様もどうぞ」
係員の余計な気配りで砂原にまでトラフグのぬいぐるみ帽子が贈られた。
旅は道連れである。
散々撮影とインタビューと記念撮影をされた後、砂原と樒は解放された。
依頼人こと下一結衣香が顔を出す。
「やほー、凄かったね」
「こんな仕事は聞いてません」
「いや、さっきのマジだから。記念品は受付に預けて家にでも発送してもらうといーよ」
結衣香が嵐の如く去っていった。
ひとまず荷物が邪魔すぎるので、いらない物だけ発送を頼む。
「やー、凄かったね。偶然、5万人目だって」
「騒ぎで入場口の映像や水槽を見逃しました。それにしても手の込んだ映像ですね」
樒は壁に近づいて、ふーっ、と息をかけた。
すると壁に揺らめく海の映像が泡立つ。
幻の水なのに、センサーが変化を与えるのだ。
「如何して反応するのでしょう? 綺麗です」
「うんうん、映像凄いねー。でも本物の負けてない。折角の水族館だから、水槽見に行こうよ。はい、和紗」
スッと差し出された骨張った手に、樒が白磁の手を乗せる。
あまりにも自然な流れだった事に砂原の方が驚いた。あれ? という顔で手と樒を交互に見やる。
「何か問題でも?」
「いや、問題はないよ、はい。いこうか。足下の段差、気をつけて」
スムーズなエスコートに導かれ、迫力満点の大水槽に向かう。
雪降る冬に町並みやイルミネーションを見ることはあっても、深い海の中を見る機会は少ない。
『冬の水族館は、そう言えば行った事がないかもしれません』
『え、そうだったっけ』
『他に相手もいませんし、竜胆兄、良ければ一緒に如何ですか?
確かそんな経緯で此処へ来た。水槽を眺めながら樒の言葉を思い出した砂原が何とも言えぬ気持ちになる。決意をこめて、きゅ、と手を握りしめると、樒は握り返してきた。
「和紗?」
「竜胆兄、ペンギン、ペンギンです! うしろ!」
よちよち歩くぺんぎんはお散歩の最中だった。
やや興奮気味の樒が「可愛い」とか「こんなに近くに」とか「さ、触ってはいけない、のでしょうか?」等と落ち着きがない様を見て、砂原の頬が緩む。
『可愛いなぁ、やっぱり年頃の女の子だよね』
「竜胆兄、にやにやしない」
「あはは、つい。ごめん」
笑顔を浮かべつつ頭を撫でた。
「きゃー! お水いっぱいなのに、ぬれないですにゃん!」
薄暗い館内に賑やかな声を放っているのは真珠・ホワイトオデット(
jb9318)だ。
いくら冷暖房完備の施設と言っても海の生き物を扱う都合上、どうしたって気温は低い。
外の極寒に比べればまだマシではあるが、上着やショールが手放せない館内の中で、驚くべき薄着のまま走り回っている。
そして後ろを追いかけるのは、一緒に歩くことになった下一結衣香だ。腕に抱えているのは、真珠が放り出した外套である。
「し、真珠ちゃん、まってぇ!」
懇願する声も虚しく響く。
「ざっぷーんですにゃん! あ、真っ赤なお魚さんですにゃん! まつですにゃーん!」
たし、たし、たし!
立体映像が作り出す水面や魚に前足……ではなく両手を突きだして向かっていく。
「こんなに面白い水族館ははじめてですにゃーん! こっちも動くですにゃん!」
「真珠ちゃん、水族館きたことあるの?」
追いついた結衣香が首を傾げる。
「にゃ? すいぞくかんはお友達と一緒に来たことあるですにゃん! すいぞくかんはおさかなをみてキラキラするところですにゃん! 真珠知ってるですにゃん!」
ふふん、と胸を張るホワイトオデット。
少し意味合いは違う気もするが、楽しみ方は間違っていない……はずだ。
ぴょんぴょこ通路を跳ね回るように動くホワイトオデットは、やがて館内一を誇る巨大水槽に辿り着く。
スーパーや鮮魚屋で見かける魚が、悠々と動き回っている。
「真珠ちゃん、しってるー? あの蛇みたいなのは魚の一種で美味しいんだって。私は食べたことないんだけど、他にも向こうのサメのヒレって調理するとこりこりしてて……」
隣で親切にも解説する結衣香のせいか、ホワイトオデットの喉が鳴る。
未知の味を想像しつつ、じゅるりと溢れる唾を飲み込む。
『おいしそーですにゃん』
ぽふ、ぽふ、ぽふ。
ぺしぺしぺし。
分厚い硝子の壁に阻まれて手が届かない。
食べたい。後でレストランで食べられるだろうか。
「真珠ちゃん。真珠ちゃーん?」
「は! ぼんやりしてたですにゃん。次はあっちにいくですにゃーん!」
身を翻して歩き出した。向かう先には海老と蟹コーナー。空腹感との戦いが始まる。
深海魚というものは大抵が浜に打ち上げられるか漁のついでにかかる。
当然異なる圧力環境の中で生きられるはずもなく、数時間から数日で死亡することが多いが、稀に生き残る個体があり、研究対象等として水族館に運び込まれる。
「おー、近くで見ると巨大団子虫みたいだなぁ、正面から見た感じはシャコ海老?」
藍那湊(
jc0170)が生きたオオグソクムシの水槽をガン見している。
あまり動かない。
傍らに立つ胡桃 みるく(
ja1252)は……何故か味の情報を伝えていた。
「最近では深海魚の利用法も増え、深海魚漁なるものも確立されてきていますが、オオグソクムシは長らく邪魔者扱いだったそうです。ところが偶然漁師が丸焼きにしてみると意外と美味しいそうで、カニよりも濃厚な味がしますよ。蟹や海老ほど身がないので腹を割って吸い出すそうです」
浪漫の欠片もない解説。
「へ、へぇ」
若干の困惑を隠せない藍那。
「あ、みるくちゃん。面白いのがいる!」
「そのウナギのようなのはゲンゲです。46属230種確認されている内の一種で、幻魚と書くです。日本海側で水揚げされ、天麩羅や吸い物への利用が一般的ですが、コラーゲンたっぷりで刺身でもいけますね」
図鑑や案内版を超える知識が、すらすらと胡桃の口から出てくる。
「隣の水槽で泳ぐ瞼があるサメは、ユメザメ。身に旨味は少なく、美味しくありませんが、卵は美味で……」
「あ、ユメザメ知ってる。魚類で目を閉じるのは確かサメとマンボウさんだけだったっけ」
「今度海釣りに行きませんか? 新鮮な魚を獲って、船の上で捌いて食べるの、憧れなんですよね」
楽しそうに語る胡桃が眩しい。
深海魚も楽しいが、こうした時間も貴重だ。
『夢鮫、かー……夢なら醒めないでって、こういう事かなぁ』
「湊君? 釣りは、嫌ですか?」
「え、あ、ううん。喜んで。君と一緒なら海でも空でも」
何処へでも一緒に。
「そうだ。僕、ピラルクさん好きなんだ。古代魚のコーナーにいるかな?」
瞳を輝かせる藍那に対し、胡桃による追撃の手は緩まない。
「古代魚コーナーと言えば、ダイオウイカの模型とシーラカンスの剥製があるそうです。場所は、向こうです。ちなみにダイオウイカは巨体を浮かせる為、水より比重の軽いアンモニアを筋肉に保有しており、この世で尤も不味いイカと言えます。またシーラカンスの寿命は100年以上と言われていますね。人には消化できない脂身が多く、共に食用に適しませんです。かつて其れを食べ……」
延々と味知識が実況される。
「シーラカンスの味……い、いや味は兎も角、古代魚はロマンだから! ね!」
「そうですか? では次の」
ずる、と足下が滑った。
胡桃の視界が斜めにぶれる。
足下の段差を踏み外した胡桃を、反射的に藍那が抱き留めた。
二人は暫く、無言で固まっていた。薄明かりが赤面した二人の顔を隠していたが、危ないからと繋いだ手から感じる脈拍はごまかしのきかないものだった様である。
ただ水槽を見ているだけだと退屈かもしれない。
そんな不安を吹き飛ばすように、通路に施されたセンサーの映像はドニー・レイド(
ja0470)達を館内の奥へ奥へと誘っていく。
手を翳せば揺れるアクアの水面。
息を吹きつければ偽りの泡が生まれ、壁の端から現れた魚の群がドニー達を除けるように泳いでいく。
カルラ=空木=クローシェ(
ja0471)は興奮気味に映像を追いかける。
「ドニー! 次の順路こっちだって!」
映像はきちんと順路に従うよう設計されていた。違う道に行こうとすると、どこからともなく生き物が現れて『こっちだ』とでも言いたげに客を待つのだ。
「今行くよ。確かこの先は」
大水槽の内部を横切れる、スケルトン・アクアケイヴのある場所だ。
はしゃいでいるクローシェが巨大な門を潜る。
足下も、右も左も、天井も。
全てが青に満ちた輝ける海の世界だった。
『わ、すごい……ほんとに海の中みたい。ドニーと一緒でよかった。一人だと怖くなりそうだもの』
驚きの通路の中で立ちつくしていると、ドニーが追いついてきた。
思わずクローシェがドニーに寄り添う。
一体、何百トンの海水が此処にあるのだろう。わからない。
海底の底を歩く不思議な感覚を楽しんでいると、急にレイドに抱きしめられた。
幸い誰も見ていない。
「ど、ドニー? 具合、悪い? 医務室に、いく?」
「いや。……悪い、カルラ。少しこのままで、頼むよ。少しでいいから」
沈黙は時を忘れそうになるが、視界を横切る魚たちが時を忘れることを許さない。
ぎゅう、とこめられる力。
聞こえる心音。
吐息が首筋にかかる。
その全てが心地よい。
「カルラ」
「な、なに?」
ドキドキしながら微笑んでレイドを振り返ると、唇に何かが掠めた。
「いくか」
「……い、いま、いま、ちょ、ドニー!?」
真っ赤になった顔が透明な壁面に写り込む。まるで鏡のような通路から逃げるように、恋人の後を追いかけた。
スケルトン・アクアケイヴ……透き通った海の洞窟。
そう題された厚い強化ガラスの通路は、大水槽の内部を通っている。
360度遮るものは殆ど無く、階段に敷かれた点字ブロックや手摺りがなければ、何処が上なのか忘れてしまう程に不思議な空間を演出していた。指紋一つない透明な洞窟は、今日の為に磨き抜かれたのだろう。じっと目を凝らすと、通路がしっかり透明な柱に支えられているのが見えた。
繋いだ手が温かい。
常名 和(
jb9441)はアクアケイヴに魅せられている狭霧 文香(
jc0789)を見た。
『文香と付き合い始めて一か月かー……、あっという間だったな〜。時間が経つのは早い……』
水族館入場前、手を繋ぐことすら照れが隠せなかった。
『えーっと……手、とか繋ぐ……か?』
他のカップル達からみれば、さぞぎこちなかっただろう。
しかし。
たかが一ヶ月、されど一ヶ月。
デートの暇もないほど戦いに巻き込まれた忙しい日々ではあったが、一ヶ月前と比べれば着実に関係は近づいている。その証拠に狭霧の見せる表情は特別なものになった。
今日は実質二度目のお出かけデートだ。
「見て。あの魚、可愛い。赤珊瑚も綺麗だね……本当に海のなかにいるみたい」
狭霧が常名の腕にもたれかかる。
「これからも、こうして一緒に色んな所に行きたいね。沢山遊んで、沢山話して、仲良くしようね」
屈託のない微笑みに常名の目元も弧を描く。
「うん。二人で色んな体験したいな。まだまだ時間あるし、ゆっくり少しずつ楽しんでこうな」
心臓の鼓動が相手に伝わりそうな位置から、狭霧は常名の頬にキスをした。
「メリークリスマス。和、大好きだよ」
言葉では言い表せない気持ちをのせて。
「……メリークリスマス。俺も、大好きだよ。文香」
ひそ、と耳元に囁く。
初々しい恋人達は、二人とも顔を朱に染めて幸せそうに笑いあった。
階段を三歩登り、スケルトン・アクアケイヴの奥へ進む。
この場所は海中散歩にふさわしいと言えるだろう。
鈴木千早(
ja0203)は琥珀色の瞳を輝かせる苑邑花月(
ja0830)を微笑ましげに見ていた。木漏れ日のように差し込むアクアマリンの光、群を成して泳ぐ魚、悠然と通路を横切るウミガメやエイが赤珊瑚の方へと泳いでいく。
苑邑は右や左、上から下へと視線を動かして忙しい。
「透明な、海底の気分……キラキラ、と……していて、幻想的。……素敵……ですわ、ね」
夢見心地の声は、海の虜になったようで……鈴木は少し寂しさを覚えた。
『花月さんは、何を考えていらっしゃるのだろう』
まるで時が止まった様な海底の洞窟。
近くにいるはずなのに、アメジストの髪を靡かせた苑邑を遠く感じる。
「こんな、風に……思えるのは……多分」
「……え?」
「きっと、千早さん……が、隣に居て下さるから、でしょうか」
苑邑が照れたように微笑む。鈴木は「俺も」と言って傍らに立った。
「この夢のような、花月さんとの時間、とても大切で、永遠と感じでいたいです」
時よ、とまれ。
永遠にこの安らぎとともにありたい。
もう言葉はいらなかった。鈴木と静かに微笑みあう苑邑は、再び海底から上を見上げる。水面が遠い。数えきれない魚に阻まれた先にある水面の向こうは何も見えない。
『……何だか、人魚姫……にでも、なった……気分』
地上に焦がれ、王子に愛を乞うた、悲しい御伽噺のマーメイド。
『でも。人魚姫、じゃなくて良かった。……人魚姫、だったら……花月の王子様、の千早さん、とは……絶対に、こうして一緒に……ずっと一緒に……居られない』
想像するだけで胸が詰まった。
切なくて、悲しくて、寂しくて、……苑邑は泣きそうになりながら鈴木の手を見る。真っ黒な手袋を常に身につけている鈴木の潔癖性を知らぬ訳ではないが、苑邑は躊躇いがちに手を握った。流石の鈴木もアウィナイトの瞳に驚きの色を浮かべた。
「何を、考えていらしたのですか?」
「千早さん、が…………いえ。千早さん、と……こうして居られる、なんて……本当に、夢のよう、で。花月……は、本当に……幸せ、です。人魚姫の王子様でも、人魚姫でも、無くて……良かった」
苑邑が何を想像したのかやんわりと感じた鈴木が「人魚姫……そうですね」と足下に広がるごつごつした岩場を指さした。穴からウツボが覗いている。
「でも、きっと俺は魔女……ですね。人魚姫のお相手に嫉妬して、でも、願いを叶えてあげたくて……せめて、声だけでも、と。なんて……」
きゅ、と掌に力を込める。
苑邑は「千早さん、と……花月で……良かった」と微笑んだ。
童話の中の人魚姫に憧れた頃もあるけれど、今は幼い夢よりも傍らの王子様がいい。
「大好きです、千早さん」
「有り難う、ですね。花月さん……貴女と居れて、良かった」
願わくば、ずっと、このままで。
広い館内で酒守 夜ヱ香(
jb6073)は何度か迷子になった。
その度に志塚 景文(
jb8652)は酒守を探す試練を課されたが、酒守は大抵好奇心に導かれるまま移動し、映像による順路案内の通りの場所にいたので、さほど発見に苦労することはなかった。
白タートルとケープ、緑地チェック柄スカートの裾を揺らして。
黒ブーツとリボンデザインのバッグを持った酒守は、大水槽の中を見ることが出来る道に辿り着いた。
「志塚さん。すごい……ね。海の中を歩いてる、よ」
「うん」
『圧倒的だな』
志塚もスケルトン・アクアケイヴの中から天井を見上げた。色々歩いてみて、館内には充実した小さな水槽がある事にも気づいた。酒守が非常に楽しそうだったので『また来てもいいかもしれない』とぼんやり思う。
魚たちは表情を変える。
きっと次来る時は、仕事でなく純粋に遊ぶ為だろう。
なにせ。
「あっ……サメが、行っちゃった、ね。もう少し、見たい、な」
酒守が惜しむ姿を見ていると、二度三度来ても飽きないような気がするからだ。
「戻ってくるよ、きっと」
「志塚さん、カメラの……人、きた、みたい」
「そうだね。少しよけてようか、ポーズ取るのは向こうのカップルに任せよう」
入場口の騒ぎで、あれこれ頼まれるのは目に見える。
酒守を気遣い、志塚はアクアケイヴの奥へと進む。撮影ポイントはアクアケイヴの出入り口だからだ。丁度中央まで来て、死角にもたれかかる。きっと撮影隊には、背中くらいしか映らないだろう。魚や亀が邪魔して、そもそも写り込まない場合もありうる。
「何もなくて、まっさお……綺麗」
酒守達は海の底を漂うような不思議な感覚を覚えた。
「今日が終わっちゃうの、もったいない……ね」
酒守の言葉を聞いて、志塚がポケットの中の包みに手を伸ばす。
しかし今此処で渡すと……撮影隊の餌食が目に見える。
「あの、夜ヱ香さん」
ひっそり、と耳元で囁かれて酒守の肩が震える。なあに、と視線で訴えると何やら言い淀んでいた志塚が決意を固めて話しかけた。
「後で渡したいものがあるんだけど……良かったら、受け取ってもらえる、かな」
「渡したい、もの?」
頭を傾けると、ピアスのサンタとトナカイが揺れる。
「そんなに大したモノじゃなくて、えっと……髪留めなんだけど、クリスマスだし。年末も近いし。夜ヱ香さんに似合いそうだなって思って気づいたら買ってて……迷惑、かな」
しどろもどろで様子を伺う。
迷惑、と言われたら渡せそうもないが、酒守はぼんやり志塚を見上げて浅く頷いた。
『その合図はどっちだろう』
「ううん……嬉しい」
志塚の悩みを吹き飛ばす、控えめな微笑み。
寄り添った酒守が志塚の腕に頭を預ける。この温もりは安らぎの温かさ。
「楽しみ。サンタさん、いるんだ……ね」
酒守の言葉に、志塚は贈り物を用意しておいた自分を褒めた。
後で渡そう、と心に決める。
撮影の為とはいえ見事な貸し切り。
僅か数十人の為だけに運営された水族館とは豪華なことだ、と穂原多門(
ja0895)は思った。傍らの巫 桜華(
jb1163)は頼まれた撮影が終わって、アクアケイヴで自由時間を満喫中だ。
「青がいっぱい! ここのお散歩楽しいデス! ロマンチックですネ、多門サン!」
ひらん、と巫のケープが揺れる。下は袖無しのチャイナ風チュニックで膝下丈のティアードスカートだった。
「まさしく海底散歩だな」
穂原も毎度変わらぬ地味な黒スーツとみせかけて、おろしたてのスーツを着ていた。
「桜華。好きな魚は何かな」
海の中を意識して、解説パネルが全くない透明なアクアケイヴ。
分厚い硝子越しには美しい魚や海の生き物が見える。上機嫌の巫は、天井に止まった生き物を指さした。
「ウチは、エイとか好きでスよ」
エイが通路の上に止まって休んでいる。泳ぎ疲れたのだろうか。
「海の中を羽ばたくみたイに泳ぐ姿、優雅なのでス。けれど、こうして周りを青の世界に囲まれテいるト、足元がフワフワと……何だか覚束なくテ」
どちらが上で、どちらが下か。
アクアケイヴの真ん中に来ると分からなくなる。
『桜華の言うとおりだな。まるで海の底に沈んだような……』
穂原は高揚していた気持ちが急激に冷めるような錯覚に見舞われた。
例えば船旅に出ていて、煌めく甲板から蒼く暗い海の底へと落ちていったとしたら……同じ様な景色なのではないだろうか。羽根をもがれた鳥のように、呼吸できない水底へ落とされた時に巫と一緒だったとしたら……
「例えそうなったとしても……桜華とつないだこの手は、離さないぞ」
意識を失うその寸前まで。
この華奢な躯を守り抜く。
「多門サン?」
巫の声が穂原の意識を急激に引き戻す。
傍らの乙女は、きょとりと穂原を見上げていた。
「え、あ」
口に出ていた?
ぼ、と頬が赤くなる穂原の腕に寄り添う巫が、吐息の分かる位置に顔を寄せる。
「……もう一度、言っテくれまセンか?」
あなたは、何を恐れたの?
「な、ん、でも……な、あ! 食事! そうだ食事、空腹なのではないか。職員からおすすめを聞いてある。混み合う前にいこうか、桜華」
不自然なごまかしに目が点になった巫は『多門サンらしいですネ』と内心呟き、その不器用な提案に誤魔化されてあげる事にした。確かめたかったけれど、確かめなくてもいい。
だってちゃんと、聞こえていたから。
坂本と川知は誰もいなくなったアクアケイヴの中を歩いていく。
「綺麗……歌っちゃおうかな」
川知は頭上を泳ぐ魚たちと揺らめく光に魅せられて賛美歌を歌った。
坂本は静かに耳を傾ける。
『相変わらず大したもんだ。人魚ってやつがいるなら、きっとこうなんだろう』
坂本が唯一解せないのは、突然歌い出す川知の予測のつかなさだった。きっと周りに大勢の人間が居たら逃げたくなったかも知れないが、アクアケイヴの中はふたりっきりで、そして川知は坂本だけに微笑みかける。
「ありがとね。一緒に来てくれて」
「お前さんが楽しそうでなによりだよ。そのうち、依頼抜きでまた来るか」
そう言って笑った。
美しい透明度を誇る洞窟の中で、アクアマリンの空を指さす末摘が瞳を輝かせた。
「わぁ! 蜃ちゃん! おさかな、とんでるの!」
ひょーん、と軽く飛ぶと、おろしたての慣れないブーツ故か重心が傾く。
楼蜃が慌てて支えた。
「こらこらっ、透明なんだから怪我するよ」
めっ、と怒られて意気消沈する末摘。
楼蜃が足下を指さす。
「おー、みてみて篝ちゃん! ここ、すごい海底がみえるよー、赤珊瑚、海の宝石って言うんだって」
巨大水槽の海底に彩りを添える珊瑚の間に、小さな魚たちが隠れている。
「綺麗だね」
「うん。そうだ、ここから売店近いし、混雑前にお土産選びに行こう。なにがいいかな」
アクアケイヴを抜けた末摘は、売店でお魚型のクッキーを発見し、それが妙に友人に似ていた。
「蜃ちゃん、これ、たべちゃうの?」
話の種にはなりそうだが、とても微妙な空気になりそうだ。
色々なお菓子を選んで発送を頼んだ後、二人はラグーンレストランに向かう。
その道中で末摘が楼蜃の頬にキスした。
「きょうはありがとう、なの、蜃ちゃん!」
「俺の方こそ、ありがとう」
前髪にキスを贈った。
右を見ても、左を見てもカップルでいっぱい。
見事にデートスポットと化していた館内に悟りを開いた黒百合(
ja0422)とエイルズレトラ マステリオ(
ja2224)は、少し早い昼食を取ることにした。
混雑前に望む物を食べるには、レストラン一番乗りが望ましい。
「きゃはァ、この魚って美味しそうねェ……塩焼きにして食べてみたいなァ」
「黒百合さん、注文は向こうです」
床のミニ水槽を指さして美味しそうだと宣う黒百合は「そうねェ」といいつつメニュー一覧を見る。
普通なら何を食べるか悩むものだ。
現にマステリオはシーフードカレーやシチューなどの好物を次々に注文し、箸休めにチョコレートを買っていた。
しかし黒百合は違う。
『きゃはァ、珍しい所に来たのだから珍しい食事でもいっぱい頂きましょうかねェ』
「じゃあ、ここの縦一列でェ」
「はい?」
目指すは全メニュー制覇。
ついでに珍味は欠かさない。
トランプを模した財布入れと、ジャック・オ・ランタン風の小銭入れをしまったマステリオが「黒百合さん、食べますね」と少しばかり驚嘆の声をあげた。
机に並ぶ、品目の数々。
これらの多くが、胃袋で血となり肉となる。
「自分でも結構食べる方だと思っていたのですが……」
気のせいだったようです、と。
思わず告げてしまうマステリオ。
「あらァ、そんなことないわァ。だってお皿が多いだけですものォ……」
黒百合が、ばきょ、と音を立てて伊勢エビの頭と尻尾を割った時、静寂のラグーンレストランに新たな客が現れた。
黒百合は見覚えのある顔を見つけて、伊勢エビをひらひら動かす。
「一緒に食事しないかしらァ?」
下一結衣香は「おいしそー」と声を返し、一緒にいた真珠・ホワイトオデットは「えびさんですにゃーん!」と黒百合達の所へ走り出した。
ラグーンレストランの中でも尤も見晴らしの良い場所に腰掛けていた礼野 智美(
ja3600)の所へ、美森あやかがやってきた。緑と青と黒チェックのタイトスカートがひらりと揺れる。
「智ちゃん、おまたせ。ごめんね遅くなって……というか」
そもそもの約束が反故になっている。
「別にいいさ」
黒のロングコートを椅子の背にかける。あやかもアイボリー色のコートを椅子に置いた。
「ここへ来る前に決めていた事だし、こっちはこっちで、冬休みにちび達をつれてくるのもいいかと思って、館内を頭に叩き込んでいたところ。食事にしようか」
心の広い親友に、あやかは心底感謝した。
元々此処の水族館へは、礼野とあやか、女二人だけで来るはずだった。
ところがあやかの夫、美森仁也が駄々をこねた。
『ではあやか、俺も一緒にいきたいな。外の機会は少ないし』
『えー、親友の智ちゃんと先約があるの。だから駄目』
と妻に却下された。
次に「頼む!」と拝んだ先は同伴相手の礼野だった。
『……いいですよ、レストランで合流許可してくれるなら。じゃあ水族館は二人で楽しんで下さい』
理解ある隣人で助かる、とは仁也談。
ちなみにシャツやセーター、コートも含めて全身黒ずくめの噂の夫こと美森仁也は昼食時まで女子会の時間を邪魔せぬよう、売店に土産物の下見に行っている。持って帰るのは難しいので、発送作業で暫く時間を食うだろう。
「随分変わった館内だけど、楽しかった?」
トレイに海鮮フリッターや蛸の唐揚げなど単品料理の皿を乗せていく礼野が、かかとでコツコツと足下を示す。小さい水槽の中に、ふよふよとクラゲが浮いていた。
「うん。ちゃんとしたデートになったよ。まず入り口で……」
半ばのろけから始まった会話は食事と共に流れていき。
デザートに手を出す頃には日頃の話題へうつり、華やかな笑い声が響いていた。
撮影に協力したクリスマスの日。
水族館では、皆が穏やかな一日を過ごしたようだ。