●モーターボート教習
エキシビションレースを直前に控え、三国競艇場のプールでは早朝からモーターボートの教習が行われていた。
通常はテストに合格した者が一年かけて訓練を積み、レーサーとしての第一歩を歩き始めるのだが、撃退士であれば直前練習で事足りるだろうと思われていた。
「ふはは、さすが俺だ! 今日のレースは完全にいただいたぜ!」
右手にハンドルを、左手にスロットルレバーを握り締め、二人乗りのペアボートを巧みに操る男性、アルファ(
ja8010)もそう確信していた。
直線状のラインを細かな弧を描いで進むアルファの動きは素人目には無意味である。しかしプロとして多くの実績を残した指導教官によれば、あれほど小さなターンを連続して行うことはプロでも不可能だという。
その意味でアルファは卓越した技量の持ち主であった。唯一の問題はその技術を生かせる場がココにはないという事実である。
「ま、待てアルファ。一度ボートを止めろ。こんなものはレースでもなんでもない!」
ペアボートの後部座席で三下 神(
jb8350)が悲鳴にも似た叫び声をあげる。
神の座席にもハンドルとスロットルは存在するが、もちろんブレーキはない。仮にあったとしても複雑怪奇な動きを見せるボートに余計な操作を加えればどんな不幸が訪れるかわからない。
神にできるのはただ身を固めて無事を祈ることのみであった。
「どうした神、震えてるのか? だったら」
ハンドルから手を放し、ポケットに手を入れる。
「お、おい、離すならスロットルを離せよ!」
「アメをやろう。こいつで気持ちを落ち着けるんだ」
「アメとかそういう問題じゃねぇっての!」
アルファとは逆にハンドルを切ってボートの進行方向を真っ直ぐに安定させる。
「なるほど神、お前なかなかのKYOUTEIじゃねーの!」
「わかんねええええぇぇぇ!」
拾う神のない、神の悲痛な叫びが競艇場内にこだまする。
笑うアルファともだえる神。不可思議な動きを続ける二人をもう一艇のモーターボートが大回りに見送っていった。
あっさりと二人を抜き去ったのは浪風 悠人(
ja3452)であった。手漕ぎボートの経験が豊富な悠人は早い段階でコツを掴み、多くの一般人が期待した通りの操縦技術を見せている。
「そしてこの、ターンマークで」
目印のブイに差し掛かる直前でボートの角度を変え、危な気のないターンを行う。
十分な出来だったが本人は納得しておらず、ブイとボートが離れすぎていることに課題を見出していた。
「やはり差がつくのはターンですね。もう少し小さく回れればいいのですが」
「十分じゃねーの? 俺はもっとふくらんじまうぜ」
後部座席の花菱 彪臥(
ja4610)が素直な言葉で称賛する。
「プロの方の様に上手くできるとは思っていません。ですが少しでも撃退士らしいレースを行いたいですからね」
「小回りを利かせるならアレだ、アルファたちみたいにスピードを落とすことだろうな。速いのが面白いからあんまりやりたくねぇが。ああそうだ、ちょっと試したいことがあるんだが、いいか」
ボートの上で前後を交代し、スロットルを握り締める。
彪臥の加速に加減はなく、ターンマーク目前でも速度を維持している。
「試したいこととは、これですか」
強烈な向かい風に耐えながら悠人がつぶやく。
「こんくらいのスピードで曲がったらどうなるか、一度は試してみねぇとな!」
ブイに接触しないよう十分に離れた位置からスロットル全開のターンを始める。
ボートが向きを変えた瞬間、船底が水面から持ち上がる。再びプールに降り立った時には安定したバランスを保てず、船体が横倒しになった。
「ふっひゃー! 冷てぇー!」
「これは確かに。本番での落水は避けたいものですね」
落水した彪臥と悠人は顔を見合わせ、どちらともなく笑みを浮かべる。
転覆から多くを学んだ二人とは違い、もう一台のボートでは悲劇が起きていた。
ようやく交代した神がターンマークを曲がったところで転覆したボートにぶつかり、アルファと共にプールに投げ出されてしまった。
「ば、馬鹿な! 俺様はこんなところで終わる人間ではッ!」
水中でもがきながらこの世の不条理を訴える神は皆に助けられ、救助艇で本来の調子を取り戻した。
「な、なんだその目は! これはアレだ、河童の川流れってやつだ! 運悪く足をつったりしなければ今頃は水泳選手のようなアレをアレしてたんだ!」
必死に弁解する神の様子からすべてを察した撃退士たちは何も言わず、震える肩をそっと叩いてやった。
「あ、ぶつかった」
二つの艇が接触し、アルファと神が落水する決定的瞬間を、夏木 夕乃(
ja9092)はピットから遠巻きに目撃した。
赭々 燈戴(
jc0703)とペアボートに乗り、皆と同じように教習を受けた夕乃は、一通りの訓練を行ったところで早々に船を降りた。
目的は本番で自分が乗るボートのデコレーションである。青い艇旗のついたボートには白いバラのステッカーと色とりどりのクリスタルガラスが飾られ、いかにもファンシーな雰囲気に仕上がっている。
ポイントは目立つように張られたケセランのイラストである。いつも夕乃がかぶっているような魔法使いを思わせる三角帽子を乗せ、持ち手がぐるぐるに巻かれた杖を持った姿は、テレビアニメに出てくる魔法少女の使い魔のような愛らしさを持っていた。
「お、できたみたいだな」
出来上がりに満足してうなずく夕乃に、練習を終えてピットに戻ってきた燈戴が声をかける。
「なかなかいい出来だな。イメージは魔法少女だったか」
「ちょっと恥ずかしいですけどね。最近はそういうのにも寛容になってきたって聞きますし」
夕乃は猫耳帽子に触れ、照れ笑いを浮かべる。
「俺はいいと思うぜ。魔法少女って言ったらあれだろ、闇堕ちとかするんだろ。盛り上がるぜそれは」
「いや、闇堕ちするタイプの魔法少女じゃないんですケド……」
「お嬢ちゃんには期待してるぜ。眼鏡の坊主とワンツー決めてくれよ」
一方的に言い放った燈戴は次の準備があると立ち去って行った。
「眼鏡のって、悠人さん?」
一人残された夕乃には、燈戴が二人の勝利に何かを賭けていることなど知る由もなかった。
●久遠ヶ原杯スタート
晴天の三国競艇場は午前中にもかかわらず多くの観客で賑わっている。
レースへの興味はもちろん、現在進行形で観客を喜ばせている出来事が二つある。そのうちの一つは、観客席を練り歩くアルファの存在である。
「今日はよく俺の活躍を見に集まってくれた。まだアメを貰ってない人はいないか。アメを舐めながら楽しい一日を過ごしていってくれ」
レースの開始時間までもう幾ばくもない。他の四人が入念にボートのチェックを行っている中、アルファは売り子の様にアメを配り歩いていた。
「盛り上げて行こうぜお前らァー! 大穴はそうッ、俺様だァー!」
二つ目の出来事はいつの間にやら解説役として実況席に居座っている燈戴である。持ち前の口八丁で選手一人一人を面白おかしく紹介し、観客の期待感を煽り立てている。
一通り満足すると、燈戴とアルファは揃ってピットへと走る。二人がボートに乗り込むと同時に、久遠ヶ原杯開催の宣言がなされた。
実況から改めて六人の紹介が行われる。中でも4号艇、夕乃の名前が上がった時には、ひときわ大きな歓声が湧いた。
「ど、どーも。ありがとうございまーす」
想像以上の歓迎ぶりに気圧されながらも、夕乃は大きく手を振って見せる。
浮かべた笑顔は続く言葉によって凍り付くこととなった。
「いやもう、ずぇっっったいに闇堕ちとかしませんから!」
声高に宣言しようとも、マイクをつけていない夕乃の声は観客席には届かない。諸悪の根源である燈戴も口笛を吹いて誤魔化す始末であった。
ファンファーレが鳴り、ピットを出た六人がスタートラインに向かう。満席の中でのレースは練習とはまるで違う。開始前から神は気後れしていた。
「ふ、ふふふふふん。こんなもの、無難にこなせばいいのだ。俺様ならやれる。いつも通りにやれば、そう、いつも通りに」
ぶつぶつと自分に言い聞かせる神のボートが衝撃で揺れる。
情けない声を上げながら振り返ると、燈戴のボートが軽く、そっと触れる程度に当たっていただけだった。
「おっと悪いな。手元が狂っちまってよ」
「き、きき、気を付けたまえよ。競艇の、そう、ボートはデリケートだからな。頑強な俺様とは違って、ひ弱なのだ」
強がりながらも視線は救助艇を追う。練習をひと通り見ていた救助艇もまた、神から目を離さないよう務めていた。
他には特に目立ったトラブルもなく、全艇がおおよそスタートラインに停止する。緊張感が漂う中、観客に向けて待機行動やフライングスタート法などの細かなルールは除外される旨が伝えられた。
実況のカウントダウンが終わると同時に、選手たちから見て右手にある大時計がゼロ秒を示す。全員がスロットルを握り締め、ボートが走りだすと、大きな歓声が上がった。
「さあ、頼むぜ相棒っ!」
スタートと同時に急加速したのは赤の艇旗をつけた3号艇、彪臥だった。
その横を同じ速度で走るのは緑の6号艇、燈戴である。6枠から徐々に3枠へと近づき、彪臥のボートと隣り合う。
「元気だなァ坊主。だが最初のターンだけは俺がいただくぜ!」
「へっへー、負けないぜっ!」
先頭を争う二人の後ろにつけているのは1号艇、白の悠人である。タイムではなく周回ルールであることに目をつけ、スタートではあえて速度を抑えている。スクリューが起こす引き波に苦戦しながらも、一定の距離をうまい具合に保っていた。
その後ろに4号艇の夕乃がつける。ドレスが強風に吹かれてはためく中、ステッカーのイラストと同じ格好のケセランがその風に乗ってぷかぷかと浮かんでいる。五十センチに満たないふわモコの生き物は、しかし召喚主である夕乃以上に目立っていた。
さらに黄色い艇旗をつけた5号艇の神、黒い2号艇のアルファと続く。慎重操舵の神はまだしも、アルファはもはやレースとしての体をなしていない。練習のときにも見せた回転妙技を繰り返し、観客の笑いを誘っていた。
「ふっ、早くも俺の美技に酔いしれているようだな。このレースは完璧に俺が支配した」
アルファが存分に撃退士の精神的強さを見せつけている中、先頭では最初のターンマークに差し掛かっていた。
「よしここだ! 全速ッ、小天使!」
速度を緩めず、むしろより強く握り締めて全速ターンを試みる。
身体が耐え切れずに浮かび上がる中、彪臥の背中から神々しい天使の翼が現れる。逆立ちのような姿勢になった彪臥はしかしハンドルとレバーからは手を離さず、不安定な姿勢のまま強引にボートを旋回させた。
常人には不可能なターンに大きな拍手が巻き起こる。暴れる船を抑えるために速度を落としはしたものの、思い通りの動きができたことに恍惚の表情を浮かべた。
「なかなかやるな。坊主に賭けときゃよかったか?」
背後では、ちょうど悠人が安定したターンで後を追ってきているところだった。
「おい眼鏡の坊主! チンタラしてたら負けちまうぞ!」
「そのようですね。そろそろ感覚にも慣れてきたところです」
言うが早いか、スロットルを握り締めて加速を行う。
先を行ってはいるものの、彪臥の船はまだ十分に追いつける位置にある。なにより彪臥はスピードを第一にしているため付け入る隙は十分にあった。
二度目のターンでは同じやり方が上手くいかず、転覆を防ぐために大回りになる。その間隙を縫って悠人が先頭に躍り出た。
「すっげー! いつの間にそんな技を!」
「彪臥さんに触発されたからですよ。ここからが本当の勝負です」
限界で競い合う二人は少しずつ後続を引き離していく。
先頭争いから離脱した燈戴はわずかに速度を緩め、夕乃が追い付いてくるのを待った。そのあいだに神が抜き去り、三番手につける。
「よし、いいぞ。極めて順調だ。さすが俺様、やればできるじゃないか」
スタート時の動揺はどこへやら、極めて無難な走りで後を追う。リスク回避優先のため大きく躍進することはないが、目立った失敗もない。先頭の二艇が小さなミスをするたびに少しずつ距離を詰めていった。
レースも後半戦を迎えようとしている。それぞれの位置取りが確定しつつある中で、見せ場をつくれはしないかと神は絶好の機会を伺った。
そんな中、前の二人が1枠2枠のラインを離れてセンターコースに動く。最も有利なインコースが空いたこのタイミングを好機と見た神はスロットルを全開にして2人に追い迫った。
「さあ刮目せよ! ここが本日最高の見せ場だ!」
全身全霊をかけた神のターンは悠人や彪臥ですら不可能なほど小回りにブイを見送った。
達成感に大きく拳を掲げる神だったが、高揚はすぐに絶望へと変わった。
視界の先には、天を貫くかのように船体を縦にしてスピンし続けるアルファのボートがあった。
「な、なんだそりゃあああぁぁ!」
二艇のボートは激しく衝突し、互いに転覆する。
即座に駆け付けた救助艇が2人を引き上げる。その一部始終を、並んで走行する夕乃と燈戴が見送った。
「だ、大丈夫ですよね、アレ」
「男はたぶん大丈夫だ。それよりお嬢ちゃん、追いかけねぇのか。勝ちを狙うならもう最期のチャンスだぜ」
半ば諦めながらも燈戴が発破をかける。
「そのつもりなら最初から飛ばしてますよ。ほら、今のままでもみんな喜んでくれてますし」
夕乃は初めから勝利よりも魔法少女的演出にこだわっていた。水柱を立て、光球を浮かべ、ケセランに杖を掲げさせるたびに、観客から声援が湧く。特に子どもたちが喜んでおり、何度も魔法使いのお姉ちゃんと声が上がっていた。
夕乃は夕陽色に輝く魔女の紋章を浮かび上がらせ、ボートの後ろに雷を発する。そのまま加速していく4号艇を見送りながら、燈戴は苦笑を浮かべた。
「ま、思い通りにならないのが賭けってやつだよな」
自虐的につぶやいた燈戴の横を、デットヒートを繰り広げる二艇が通り過ぎて行く。
決着の場は最後のターンだった。これまで全速でのターンを繰り返していた彪臥だったが、ついに限界が訪れた。わずかな操縦ミスによりボートが転覆し、数秒を残して落水することとなった。
こうして、三国競艇場では初めてとなる撃退士たちのレースは悠人の優勝により幕を閉じた。
様々な方向性で全力を出した撃退士たちには観客から割れんばかりの拍手が送られた。
「だがしかしッ! 第二回では俺の予想が的中するッ!」
宣言された第二回が催されるのかどうか。それは関係者のあいだでも白紙であった。