●
御堂 龍太(
jb0849)はくらくらする頭を振り、俯せに倒れていた身体を持ち上げた。
「あたし……。なに、してたのかしら」
とにかく、気持ちを落ち着けなければならない。
龍太は大きく深呼吸をして……その空気があまりにも清々しく、心地良いものであることに気付く。
清涼な空気と風が吹き抜ける、森の中にいた。
そしてここに居るのは、自分だけでは無かった。
どーしたのよ? へんな顔しちゃって。
その人物――女性は、くすくす、とおかしそうに笑う。
髪が森の風に揺れて、心地良い石鹸シャンプーの匂いがした。
龍太はその人物を知っていた。知っていたが、ここにいることはあり得ない。
「――……」
掠れる声で、その名を呼ぶ。事実を確かめ否定するために。しかし……、
もう、久しぶりに会ったからって名前まで忘れちゃったの?
彼女は苦笑いを返してきて、龍太と手を繋いだ。
●
「こりゃあ……」
百目鬼 揺籠(
jb8361)は、かつての自分の実家の玄関先で立ち尽くしていた。
そして、トタトタと慌ただしい足音と共に家の奥から出てきたのは――
あぁ、帰ったのかい?
今日も大変だったろう? ほら、早くお上がり。
――母親だった。
家の奥から漂ってくるのは、豚汁の匂い。別に腹が減っているわけではないが、
それでも涎を垂らしてしまいそうな、良い香りだった。
と。母親がこちらの手を掴もうとしてきたのに気付き、揺籠は慌てて身を引く。
「……あぁ、なるほど。これが幻覚って奴ですね。こりゃ手強――」
しかし母親は困惑したように眉根を寄せるのみ。あまりにも自然すぎる表情に、揺籠は動揺してしまった。
幻覚? まったく、だからバイトをお減らしと言ってるのさ。お前いつか身体を壊しちまうよ?
……なんて、もう子供じゃあなかったね。はぁ、いつの間にか、こんなに立派になったんだねぇ。
●
……紫苑!
その女性は、優しくも強い声で名を呼んでくれた。
「おかー……さん?」
紫苑(
jb8416)は、自分の声が揺らいでるのがわかった。
大好きな、大好きなお母さん。
けれどちょっと歪んでいて、壊れた愛情を向けてきたお母さん。
――今はもう、手の届かない場所にいるはずの、お母さん。
「だから、ちがう。おかーさんじゃねぇでさ……」
わかっている。あの人がここに絶対にいないのは、わかってる。
あのね、私……退院できたの。もう完全に良くなったのよ?
だから、あなたの傍に居て良いって、お医者さんが。
――ダメだ、聞いちゃいけない。耳を貸しちゃいけない。
その……また一緒に住もうだなんて言えないけれど……。
こうやって、ときどき会いにきたらダメ……かな?
こちらの背丈に合わせるように屈み、真っ直ぐ目を見つめてくる母親の顔は、
紫苑のよく知っている優しい母親の顔。
欲しくても手に入らないはずだった、愛を与えてくれる人。
あ、えと……お出かけ……。そう、お出かけしましょう。
紫苑の大好きなお菓子、一緒に買いに行きましょう?
●
「――あ……」
黒夜(
jb0668)は我に帰り、膝をついた。
全身を汗で濡らし、荒い呼吸を繰り返す。悪夢を見て飛び起きた直後のような、そんな有様だ。
「やっと気がついたんですね、黒夜さん」
顔を上げると、こちらを冷ややかに見下ろしてくる漆黒の瞳とぶつかった。
「……悪ぃ、助かった」
「いいえ、気になさらずに」
柚島栄斗(
jb6565)は黒い瞳を引っ込めて、黒夜を起こしてくれる。
……ふと、栄斗は振り返った。
黒夜も同じ方向に目を向けてみたが、何もない。ただ不気味で暗い洞窟があるだけだ。
生暖かくも甘ったるい匂いのする風が吹き抜ける、不気味な空間があるだけだ。
しかし……栄斗には何かが見えているらしい。それは決して愉快なものではないようで、口を歪めていた。
「だから、茶番だと言っているッ! こんな悍ましいもの――ただの自己否定だァ!」
栄斗は叫んだ。
途端……風が止んだ。
「……さて、先に進みましょう。皆を探すにしても、奥へ歩き続けないと」
「あ、あぁ。――え?」
黒夜は辺りを見回してみる。自分たち以外誰もいない。
「うちらだけ、なのか? 無事なのは」
「いえ、もう一人だけ……。ああ、戻ってきました」
洞窟の奥から駆けてくる人影。スピネル・クリムゾン(
jb7168)だった。
「はぁ、はぁ……。めきちゃんがいないん、だよ……。無線機にも応答してくれないし……」
「と、いう事は僕たち三人だけ、ですか」
いきなり戦力が半減してしまったものの、三人は先へと進まざるを得なかった。
●
――そして。
開けた場所に、出た。
「た、大変だよ! 子供達なんだよ!」
スピネルの指し示した先には、繭のような肉塊に覆われていた子供達がいた。
洞窟の壁に整然と並べられており、肉繭は生きているように脈動している。
見たところ、気絶している子供達の寝顔は幸せそうではあるものの、かなり衰弱していた。
「起きて? ねぇ、目を開けて?」
スピネルはフレイヤの柄を短く持ち、慎重に伐採を開始する。遅れて、黒夜と栄斗も動こうとしたが……。
お姉ちゃん達、誰?
あどけない声に三人は振り返り、そして、一斉に息を呑む。
《マザー》。
ぶよぶよとした肉の塊が折り重なったような姿。その表面は粘液を纏い鈍色の光沢を放っており、
そこから漂ってくる香りはあまったるい。洞窟に漂ってる香りがアレの体臭だと思うと、吐き気が込み上げてきた。
だからこそ、それに甘えるように抱きついている少年の姿は、非現実的に見えてしまう。
「あの子はうちらが。クリムゾンはそっちを頼む」
スピネルは黒夜に頷き返し、二人の背中を見送った。全員を助けなければならないのだ。
あちらも気になるけれど、役割分担が賢明だろう。
――しかし。
近づかないでよ! お母さんに近づくなぁぁぁぁっ!
まるで少年の絶叫に呼応するかのように、洞窟の至る箇所に大量の触手が出現した。
「ザけんじゃねえぞ! ママのオッパイなしじゃ自己肯定も出来ねえかっ!」
栄斗は叫び、黒夜はそれを援護する。しかし、少年はまるで聞く耳を持たない。
喚き、泣きじゃくりながら、《マザー》に抱きついている。
そして《マザー》の触手は、少年を護るように――いや、盾にするかのように、幾重にも覆い被さっていた。
このままでは、強行手段に出ようにも少年を巻き込んでしまうかもしれない。
どうにか、《マザー》に隙を見出せられれば……。
●
龍太は、足を止めた。
んー? 龍太?
「あ、いや。悪ぃ、何でもねーよ」
しかしすぐに思い直し、肩を竦めて歩みを再開する。ポケットに突っ込んだ腕に縋ってくれるのは、
最愛の彼女だ。
こうやってただ森の中を並んで歩くだけでも、幸せで、満たされる。
ねぇねぇ。
「なんだよ」
幸せー?
「さぁ、そうかもな」
なによー。
じゃあいーわよ。あたしだけ寂しく一人で幸せになってますー。
「何だよその拗ね方は……」
……うふふ。
ねぇ。ずっと一緒よね、あたし達。
「あぁ、そ――」
――っ?
手に痛みを感じて、ポケットから手を抜いた。
そこには画鋲が何本も深く刺さっていて、血が手を染めている。
そういえば、出発するときに入れた気がする。でも、一体何の為に――……
瞬間。
世界が、変わった。
清涼な風は消え去り、生暖かい不愉快な風が頬を撫でる。明るかった森は消失し、薄暗い洞窟へと切り替わる。
……そうだ。思い出した。思い出してしまった。
「あたしったら……っ!」
龍太は仲間達を探すべく走り出そうとした。が。
思わず足を止め、振り返る。
そこには、彼女が――彼女の幻覚だけが、残っていた。
幻覚は、微笑んだ。
鼻白む龍太に向かって、幻覚は歩み寄って来る。手を、伸ばしてくる。
『ずっと一緒にいてくれて、ありがとう』
その手は龍太の頬に触れて――背後を指さす。そこで人形のように崩れ落ちていたのは、揺籠と、紫苑だった。
龍太は幻覚の手が消えゆくのを視界の端で見て、目を閉じた。
「……ずっと一緒にいるわ、これからも」
●
ここには、揺籠のために用意された、暖かい家庭があった。
「――それでその火の祭りで、俺はギターを演奏したんでさぁ。ガキ共の踊りが、こりゃまた元気すぎましてねぇ」
ご飯のお椀を片手に、つい、身を乗り出して軽快に話す揺籠。
しかしその口元に母親の手が触れると、口を噤んだ。どうやらご飯粒がついていたらしい。
はいはい。話してくれるのは嬉しいけれど、今は食事中だよ?
あとでゆっくり聞いてあげるから、落ち着いて食べな。
年齢不相応な説教に、揺籠は頭を掻いて照れ笑いを浮かべてしまう。
そうだ、急ぐ必要なんてないのだ。ここは我が家なのだから。
と……。
玄関の扉がノックされる音が聞こえた。
「あぁ、俺が行きます」
立ち上がろうとした母親を制し、揺籠は「はいはいはい」と玄関先へと向かう。
「今は夕飯どきでさぁ。新聞売り込みなら帰っ――」
そこに立っていたのは、龍太だった。
そして……揺籠は気付いた。
全て、幻だということに。
『あとで』なんて、もう、二度と無いことに。
「――いけすかねぇ、ディアボロでさぁ……」
ほんとに、ほんとに、いけすかない。ぎりり、と歯を食いしばり、岩肌の天井を仰ぐ。
『行っちまうんだね』
背中にかけられる、母親の――幻覚の声。揺籠は、それには応えない。
しかし、幻覚は言葉を重ねた。
『行っといで。身体、壊さないようにするんだよ』
「っ!」
揺籠は、弾かれたように振り返る。
そこにはもう、誰もいなかった。
誰も、何も、いなかった。
「……俺ぁ、とうに――」
心配そうな龍太の胸板を軽く叩き、揺籠は歩き出す。
「とうに、人としての幸せは棄ててまさぁ!」
●
ショッピングカートを押す母親の傍を、紫苑は歩いていた。
一緒にいられることは嬉しいけれど、やっぱりどこか、お互いにぎこちなくなってしまう。
紫苑……?
名を呼ばれて、紫苑は母親を見上げる。
どこか不安げで、けれど優しくて、我が娘の事を大切に思ってるような。そんな顔があった。
やっぱり……お母さんのこと、嫌い?
酷いこと、いっぱいしたものね……。
「……そんなことねー」
紫苑は躊躇うことなく、首を横に振った。
そして可愛らしい左反面で、にこりと、母親へ微笑み返す。
「おかーさんのこと、きらいになったことねーでさ。だいすき――」
言葉は、抱きしめられて、尻すぼみとなった。
何度も何度も名を呼んでくれて、ぎゅぅ、っと抱きしめてくれる。
心が、揺れた。
けれど、けれど。
母親の向こう側に立つ揺籠が、首を横に振った。
「気を確り持ちなせぇ、俺らは助けに来たんでしょうよ」
周囲の景色が、薄暗い洞窟へと変わる。
夢が終わる。
わかっていた。
大好きだからこそ、わかっていた。
こんな優しすぎる世界は、偽物でしかありえないのだ。
でも――
「俺の……紫苑の名前つけたの、お母さんでさ。 意味は――」
『忘れない』
ハッと、顔を上げる。
果てしない暗闇の向こう側に、幻覚が立っていた。
『ずっと、忘れない』
幻覚は悲しげに微笑み、紫苑に背を向けると、暗闇へと消えていった。
●
突如、《マザー》は苦しげな奇声を上げた。
統率的に振り回されていた触手は無規則に暴れ始め、洞窟全体を震動が襲う。
栄斗は忌ま忌ましさに舌打ちを鳴らしたが、
その最中でも、少年に覆い被さる触手に緩みが生じているのを見逃さなかった。
「クリムゾンさんは子供を! 黒夜さんは援護してください!」
マライカMK-7を構え、栄斗は身を低くして地を蹴った。
狙いは、《マザー》本体。
暴走しても尚行く手を遮ってくる触手を撃ち散らかし、しかし、一人ではその全てを排除することは難しい。
側面や上方からも触手は迫ってくる。
が、それら触手もまた、栄斗に到達する前に切り刻まれる。
黒夜が操るクリアワイヤーは栄斗を中心に鋭利なトラップを張り巡らせ、触手の接近を許さない。
相対距離はあと僅か。《マザー》の手前には、盾にされている少年。
この後に及んでも《マザー》は少年を盾にしようとしたが、瞬間、触手ごと少年の姿が掻き消えた。
「辛い事はいっぱいかもだけど……そばに居るから」
閃滅にて瞬時に触手を散らかし、少年を救出したのはスピネルだ。
これで、《マザー》を守る者はなくなった。栄斗は至近距離から、醜悪な肉塊へと銃口を向ける。
が、
おねがい、やめてええええっ!
少年の絶叫が、聞こえた。
しかし、無視した。
引き金に指を掛け、そこでつい、口角を吊り上げてしまう。
この手は汚れている。今もまた少年の母を奪うために手を汚し、これからも汚れていくのだろう。
小学生のあの日に汚れて以来、決して綺麗になることはない。
ならば、汚して汚して、せめてあの日の汚れが見えないくらい汚していくしかない。
幻覚ですら家族の幸せを求められない、そんな穢れきった自分だからこそ――語れる言葉もあるのだから。
「超えろ、母親の重力を! 掴め、お前自身の愛、欲望を! 世界は――お前のモノだァ!」
●
洞窟は崩壊を始めていた。
「ど、どうしよう!」
スピネルは、焦る。
自分達だけならまだ良い。少年ひとりならばなんとでもなる。
しかし、あと11人の子供達が残っている。
彼らを肉繭から脱出させることには成功しているものの、たった3人で彼ら全員を運ぶのは難しい。
土埃が舞い、《マザー》の亡骸が放つ匂いが鼻につく。思考を乱す。
どうすればいい、どうすればいい、どうすれば――
『スピネル。落ち着け、大丈夫だ』
聞き慣れた声に振り向き、スピネルは目を見開いた。
『落ち着けば、あなたにもわかるはずです』
――幻覚を作るのは、自分自身。自分自身の強い願望。それらは結局全て、自分の心でしか無い。
しかし、こうやって投影しないと気づけないものもある。
スピネルは深呼吸をして、耳を澄ませる。
聞こえる。遠くから駆けつけてくれる足跡。そして、はぐれた仲間達の声が。
「……ありがとう、だよ。お兄、お姉。行ってきます!」
●
「……よう」
町の病院の、待合室。
そこで一人残されていた少年に、黒夜は声を掛ける。特に返事は無かったが、気にせずにその隣に座った。
「……家族なんてろくでもねーよな。子供の命も利用して、幸せも生も奪ってく」
果たして、少年は結局何を求めていたのか。それは黒夜にはわからないし、
もしかしたら少年自身もわかっていないのかも知れない。
ただ、わかってるのは。このままでは、少年の居場所がどこにもないことだ。
「うち、考えてみたんだ。なんでおたくだけ、化けモンは眠らさなかったんだろうな」
もし――
眠らさなかったんじゃなく、眠らせられなかったんだとしたら?
撃退士を完全に眠らせられなかったように。
「……ちょっとうちの学園に来てみねーか?」
終