●
その悲鳴は、吹き抜けを通じて社長室にまで届いただろう。
蜘蛛から這うようにして逃げる女性社員の声は、それほどまでに大きく、甲高く、恐怖に満ちていたからだ。
しかし幾ら泣き叫んだところで、知能の低いサーバントである蜘蛛が理解するはずもない。女性社員が抜けた腰を奮い起こそうとした寸前、蜘蛛は、彼女を組み伏してしまう。
シュル、シュル。
不気味な、金属を擦り合わせるような鳴き声。女性社員の顔には耐えがたい程の生臭さと熱気のある吐息が吹きかけられる。彼女は命を乞おうと口を開けど、絶望に引き攣った喉は何も声を生み出してはくれなかった。
そして――
悪魔が舞い降りる。
●
「――……邪魔。目障りですの」
紅 鬼姫(
ja0444)は着地の姿勢のまま、列光丸を鞘に収める。
途端。
滑り落ちるように蜘蛛の頭部が床に転がり、緑色の体液が噴き出した。
死体となり果てた蜘蛛の、下敷きになっている女性社員は急展開に唖然としているようだった。その身が体液でベトベトになったのが気にならないくらいには、驚いているらしい。
しかし、女性社員のリアクションなど鬼姫には知ったことじゃない。助けた、という事実と結果のみが重要なのである。名前と同じく紅い瞳で女性社員を見やり、その体に怪我がないことを確認した。
「怪我はなさそうですのね。では、エレベーターまで自力で行ってくださいの」
とだけ言い残し、次なる生存者を探すべく女性社員に背を向ける。
「も、もう! 紅さん!」
抗議の声を上げたのは、女性社員ではない。
お尻をさすりながらよたよたと駆け寄ってくる、グラサージュ・ブリゼ(
jb9587)だった。先ほど紅に抱かれて一緒に吹き抜けを飛び降りてきたのだが、鬼姫が攻撃の寸前にグラサージュを放り出したのである。もちろん、致命的なダメージを受けない高度で、ではあるが。
実際、グラサージュもそれは分かっているらしい。鬼姫を見る目に非難の色は無い。お尻は痛そうだが。
抗議の声は、女性社員に対する扱いについてのようだ。
「助けるなら、ちゃんと助けないとダメじゃないですかー。よいしょ、っと……」
グラサージュは女性社員の上から蜘蛛の死体をどかせ、しかし、ベトベトに汚れてる姿にたらりと汗を一筋流した。
「あ、あはは……。脱出できたら、お風呂とクリーニングに行った方がいいかもしれませんね」
しかし女性社員は、まったく別の事を聞き返してくる。曰く、あなた達は誰?、と。
「久遠ヶ原の撃退士ですの」
簡潔に鬼姫が答えた、途端。
女性社員はくしゃりと表情を歪めた。そしてグラサージュの腕を強く掴み、涙をポロポロ流しながら訴える。
私の息子が、どこにもいない。見つけて欲しい、お願いします。と。
グラサージュはハッとしたように表情を強ばらせた。しかしすぐに穏やかな笑顔を浮かべると、女性社員の手に自らの手を重ねた。
「わかりました。絶対に助けますから、安心してください。――幼い子に、この事件をトラウマになんてさせたくありませんから」
なんとか落ち着かせることに成功し、女性社員はエレベーターの方へと駆けていった。その背を見送り、グラサージュは小さく呟く。
「絶対全員助けるから……。全員見つけるまで諦めないもん」
それは自分に言い聞かせるようであり、彼女の決意でもあるのだろう。
「なら、先を急ぎますの」
鬼姫は淡々と言いつつも、グラサージュの肩を軽く叩く。
二人は、生存者捜索の為に駆け出した。
●
『こちら救助2! 40F探索完了! 救助者4名退避完了!』
無線越しにグラサージュの報告を聞き、北辰 一鷹(
jb9920)は安堵の吐息をついた。
「あちらは順調のようですね。このまま全員救出できれば良いのですが……」
漏らした声には、多分な緊張が含まれてしまう。なにせ一鷹にとってはこれが初任務なのだ。初任務で多くの人命が左右されるとなれば、つい、不安な思いも渦巻いてしまう。
「……それで、何やってるんですか? 黒神さん」
47階に到着して早々、同行者である黒神 未来(
jb9907)が跪き、床に耳をつけてる光景もまた別の意味で不安を誘ってくる。
しかし未来は至って大真面目な表情で、「シッ」、と人差し指を立ててきた。
元々、女性と接することに慣れていない一鷹である。追求することもできず、ただ、見守っておくしかない。
――待つことおよそ30秒。未来は立ち上がると、額を手の甲で拭いながら口を開いた。
「このフロアには生存者がおるね。しかも一人やないで」
「えっ」
あまりにも自信満々な言葉に、一鷹は不審に思うより先に驚いた。
「な、なんでわかるんですか?」
「ふっふーん、ギター演奏家の耳を舐めたらあかんで。どや、凄いやろ!」
言葉通り、渾身のドヤァ顔である。一鷹はリアクションに困った。
しかし……なんと本当に、生存者を見つけることができた。
「……本当にいた」
「信じてなかったんかいな……」
なんて漫才めいたやり取りをしたが、状況は笑えない。
そのオフィスの入り口から一鷹らは様子を伺い、その部屋の反対側に生存者達は身を潜めている。が、部屋の中には数匹の蜘蛛が蠢いていた。蜘蛛を無視して救助することは、まず不可能だろう。
一鷹と未来は、視線を交錯させる。既にこういう事態に対しての行動は、決めてあるのだ。
「行きます」
一鷹は、室内へと突撃する。そして蜘蛛達が反応する前に、抜刀・祓魔を抜き放つ。そこから生じたアウルの斬撃波は蜘蛛の一体を半ば以上断ちきり、おぞましい体液と断末魔を発生させた。
続く二匹目も同じように仕留めたが、三匹目は既に肉迫してきていた。しかし一鷹は冷静さを欠かない。得物を納刀状態へと戻すと同時に身を翻し、繰り出された爪を回避しながらカウンターで鞘先を突き上げる。
点の強打を受けた蜘蛛は大きくよろめき、続く薙ぎ払いの打撃によって吹き飛ばされた。
その開いた間合いを一鷹は見逃さない。
「ッ……」
鋭く呼気を漏らし、一歩、踏み出す。再び閃いた刀身は必殺の斬撃波を生み、蜘蛛を真っ二つに切り裂いた。
大立ち回りの一鷹だが、しかし、意図は他にある。
「オッケーやで! 一鷹クン!」
未来の声が聞こえた。しかし、未来の姿は無い。ハイドアンドシークで潜行状態に入っているのだろう。一鷹は囮であり、未来が救助を行っていたのだ。それがちゃんと結果を伴っているのは、いつの間にかオフィス入り口に移動している生存者を見るだけでわかる。
一鷹はすぐさま蜘蛛らに背を向けて、オフィスの入り口へと走る。しかし残っていた蜘蛛は、一鷹の背に追い縋ってきた。
が、
「おっと、こっからはうちの演奏を聴いてから行きーや!」
どこからともなく掻き鳴らされるゲリラライブが、蜘蛛の行く手を阻む。そしてそれが、奴らにとってのレクイエムとなった。
「炎のぉぉぉ、ロッケンローッ!!」
強く印象付くリフッ! それと共に巻き起こる爆発ッ!
蜘蛛たちは総じて吹っ飛ばされ、燃えかすになるか、或いは体の一部を欠損して動けない状態となった。
「――ふぅ、今日も絶好調や」
演奏を終わった未来の表情は、実に晴れ晴れとしていた。
「よし、このフロアも何とかなりそうですね」
一鷹はもう一度安堵の吐息をついたが、まだ任務が完遂されたわけじゃない。
他のフロアは――特に、本来の救助対象が居るであろう、社長室は今どうなっているのか。
●
一鷹の連絡を受けた際、南條 侑(
jb9620)はちょうど社長室に集まっている者達の人数を数え終えたところだった。
「ここにいるのは25人だな。差し引いて、12人が下層フロアに取り残されてることになる。救助隊は、そちらを頼んだぞ」
『わかりました』
『了解!』
一鷹とグラサージュの返事を聞いた後、侑は無線機から意識を離す。
「さて……」
今現在の状況ゆえか、社長室の空気は暗く重い。こちらを見つめてくる25人の顔の殆どは、不安の影が落ちていた。取り敢えず何か話さなければ、と。侑は、咳払いを一つ。
「それじゃあまず――」
「みんな! 助けにきたよ!」
侑の同行者である犬乃 さんぽ(
ja1272)が、ばっ、と腕を突き上げながら高らかに言った。
そして重い空気を打破しようとするかのように、ビシッ、とカッコいい忍者っぽいポージングを決めて、笑顔を見せる。キラキラした良い笑顔だ。
「ニンジャの力を駆使して、皆を救出するよ! 父様の国の平和は、ボクが守る!」
あいえー、にんじゃなんで! ……とか言う人はさすがにいなかったが、その自信に満ち溢れた姿は頼もしく映ったようだ。張り詰めていた緊張の糸が緩んだようで、全員の表情に明るい光が差し込んでくる。
にかっと笑ってブイサインを向けてくるさんぽに、侑は感心する。生真面目な性分である自身では、こういった芸当で場を和ませるのは難しかった。
何にせよ、これでだいぶ話やすくなった。侑は改めて、口を開く。
「今から皆にはこの施設から脱出してもらうが、全員が一斉に動くのは無謀だ。よって、二回に分けようと思う。俺達の計画ではエレベーターに乗ってもらうつもりなんだが……そもそもは、こういった事態が起こった場合は、どう動くはずだったんだ?」
曰く。
実は一定階層ごとに緊急脱出用の設備は用意されていた。詳細はセキュリティ面を考え社外秘扱いだが、外部から撃ちこまれる《コロニー》によって、上階層用の設備が破壊されてしまったのである。そして設備が使用不可になった際は、バラバラに逃げるのは危険が伴う為、規定の部屋に集まるようになっていた。上層階で言えば、この社長室である。
「うーん。ってことはやっぱり、エレベーターを使って降りるしかないんだね」
「だな。それじゃあ、まずは子供と怪我人からだ。それと――」
改めて侑は全員を見渡し、隅っこで縮まっている子供達に目を留める。ひとりの少年が「お母さんがどこにもいない」と泣きじゃくっており、他の少年少女も喚くほどではなかったものの、落ち込んでいる。――しかし、ひとりだけ。ひとりの少女だけが毅然としており、他の子たちを一生懸命なだめていた。
侑はさんぽの顔を見やると、彼もまた侑を見ている。そして頷き合った。どうやら二人は同じ予想をしており、そしてその予想は的中したようだ。
「そこの少女――社長も、脱出の一班目に加わってもらう」
●
しかし。
侑とさんぽのそんな説得も虚しく、社長は頑なに残ると主張した。結局、侑の提案で「絶対に俺から離れない」という条件で、留まる事になった。
その後、第一班が無事に脱出し、下層救助班からも差し引き数全員の救助が確認できた。
あとは社長を含めた、社長室に残る第二班だけである。社長と、どうしても泣きじゃくって社長に抱きついたままだった子供は別として、後は全員成人だけだ。
後は降りるだけ――だったが。
突然の轟音と、震動。エレベーターが止まる。
「な、なんだ?」
侑はエレベーター内の全員に身をかがめるように指示し、得物を取り出す。
その異常事態の原因に最も早く気づいたのは、さんぽだった。
「南條先輩! 皆をエレベーターから逃がしてください!」
言うや否や、さんぽはエレベーター上部へと躍り上がる。そして見た。
外壁を突き破り、エレベーターシャフト内に《コロニー》が入り込んでいる。ワイヤーはそれに圧迫されて、ギシ、ギシ、と嫌な音を立てて軋んでいた。
更に《コロニー》が開くと、そこからゾワゾワと出てくるのは大量の大蜘蛛である。さんぽは素早く、両手で印を組みあげた。
「幻光雷鳴レッド☆ライトニング! ……蜘蛛を纏めて! パラライーズ!」
かざした指先より放たれるのは、魔砲忍法ッ! 一直線に放たれた真紅の雷光は蜘蛛を麻痺させ、その身から力を奪い去る。ボトボトと落ちてくる蜘蛛は正直気味悪かったが、これで無力化はできた。
しかし、まだ、脱出はできていない。
侑はさんぽに言われたとおり、全員をエレベーターから出す事には成功した。しかし既に、屋内に残っている生存者は彼らのみ。一箇所に集中した獲物を目的として、施設中の大蜘蛛が殺到してくる。
「まずいな……」
侑は冷静に、しかし焦りを込めて呟く。彼の投げる胡蝶扇、そして戻ってきたさんぽの忍法は確実に敵を屠っているが、現われる数が尋常ではない。数が多すぎるのだ。
そして――それは起こる。
社長は歳相応以上に落ち着いており、青ざめながらもしっかりと侑にくっついている。
しかし、もう一人の少年はそうもいかなかった。あまりの恐怖に半狂乱となり、駆け出したのだ。誰かが止める間もない。
蜘蛛の脚が、少年を捉え――
●
そこへ、天使は舞い降りた。
「大丈夫、怖くないよ」
グラサージュは抱きしめた少年に、優しい笑顔を向けてあげた。
「お姉さんが、悪いヤツ全部――」
彼女の声は、僅かに震えている。激痛のせいだ。身を挺して少年を庇い、背中からは血が流れ落ちている。
それでも、
「――やっつけちゃうからね!」
彼女は振り返り、蜘蛛に武器を突き出した。
「うじゃうじゃうじゃうじゃ……もう蜘蛛キライっ!」
至近距離でのサンダーブレードは蜘蛛の肉体を捉え、その身を蒸発させる。
凄まじい騒音と眩い閃光。それが収まる前に、黒影が駆け抜けた。
「零しはしませんの」
その攻撃、なんと鮮やかで、無駄の無い事か。鬼姫が蜘蛛の傍らを駆け抜けるたびにその首が刎ね飛ばされ、天井や壁を緑の体液で彩らせていく。
彼女達二人は、自らの務めを終えた後、仲間達の元に駆けつけたのである。
そして仲間は、彼女ら二人だけではない。
「よっしゃー、アンコール行くでー!」
「子供もいるんですから、ほどほどな音でお願いしますよ!」
未来と、一鷹だ。
敵の出現数よりも、倒される数の方が多くなる。少なくとも、脱出は不可能でなくなった。
「行くぞ、離れるな」
侑は社長の腕を引き、そして生存者達を伴い、一気に戦場を駆け抜ける。仲間達もその周囲を固め、露払いを行う。
一丸となった撃退士たちに、有象無象が幾ら寄り付こうと、敵う筈はなかった。
●
後日。撃退士たちのもとに、社長自らがお礼にやってきた。深々と頭を下げて丁重な物腰ではあるものの、不安そうで、オドオドしている。緊急時の毅然とした態度とは大違いだ。
「今回の件で、如何に当社が安全面に配慮できていないかを痛感いたしました。その……あ、あ、それに、せっかく助けていただいていたのに、わたくしもわがまま言ってしまって……すみません」
しょぼん、と社長は肩を落とす。
そして、これまた申し訳無さそうに、上目遣いで撃退士らを見つめてきた。
「また、何か頼む事があるとは思いますが……。その折は、どうか、どうか、よろしくお願い致します……」