ヒトとはこんなにも無力なものだったろうか。
撃退士はこんなにも非力なものだっただろうか。
●
「大変な事態……ですわね」
最前線に立つロジー・ビィ(
jb6232)は歯を食いしばり、声を絞り出した。
《黒い川》が――ディアボロの軍勢が押し寄せてくる。
遠くから、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
その行軍で地面は揺らぎ、低く響く足音は踏みにじられた大地の嘆きそのもののようだ。
ディアボロらの目的はひとつ。ロジーがその背に庇う町になだれ込むことだろう。
彼ら一体一体が凶悪な殺戮者だ。南から吹き付けてくる風は禍々しくも純粋な殺意で濁り、
ロジーと、ロジーが率いる20人の撃退士達はまともに浴びることになる。
一般人なら既に卒倒しているであろう。撃退士達であっても、密度の濃い絶望感に呼吸ができなくなる。
寒気を覚えるほどだというのに全身から汗が噴き出し、体が動かない。
気持ちや覚悟の問題ではない。生きている、という最低限条件さえ満たせば誰もが抱える本能的な危機感。
『今すぐここから逃げろ』と、心ではなく肉体が、全身の細胞が訴えているのだ。
「っっ……。それでも。皆さんの為に……出来ることを!」
それでも、ロジーは踏みとどまった。握り込んだ指の爪が手の平を裂き、ぽたり、ぽたりと血の雫が滴り落ちる。
その血を振り払い、ロジーは鉈を顕現して空に突き上げた。
浮き足立っていた仲間達に聞かせるように、負の感情が出てしまわないようねじ伏せて、声を張り上げた。
「敵を押し上げ、街の皆さんが避難する時間を作ります!
あたし達が一体止めれば一人の人が、十体止めれば十人以上の人が助かるのです!
皆さまの大切なご友人が、家族が、無事に逃げられるのです! ――頑張りますわよっ!」
鬨の声がそれに続き、恐怖の呪縛を吹き飛ばす。
ロジーを先頭に、撃退士の最前線部隊は《黒い川》を迎え討った。
●
始まった。
町の南側にある五階建てビルの屋上。橋場・R・アトリアーナ(
ja1403)は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
黒い濁流がロジーの部隊を呑み込もうとしたときには気が気では無かったが、
彼女は部隊をふたつに分けて波状攻撃を繰り返し、上手いこと敵を翻弄している。少なくともすぐに壊走することはなさそうだ。
「……死なせない、死なない為に。みんなの力をあわせるのですの」
アトリアーナは自らの頬をぺちぺちと叩き、表情を引き締めて振り返る。
「戦いが始まりましたの。状況の変化を逐一みんなと本営に連絡して、情報の共有をお願い。
それと、ジェラルドに『準備』の進捗状況も確認してくださいの。前線の時間稼ぎにも限界がありますの」
無言で片手を上げて了解の意を示したのは、さっそく通信機を口に当てて指示を実践しているギーナだった。
イヤな顔ひとつ見せず、淡々とアトリアーナの指示に従っている。
「……連絡係とか指揮を請け負ってくれて、とても助かる。ありがとうですの」
申し訳なさに眉を下げるアトリアーナだが、これまたギーナは無言で、肩を竦めるのみだ。
不満の声は、別の場所から上がる。
「ちょっと! ギーナさんを雑用係とかあり得ませんよ! 彼女はヒーローですよ、ヒーロー!
もっと活躍できる場所があるはずです!」
須藤セリカだった。アトリアーナは彼女のことをよく知らないし、彼女が言ってることもよくわからない。
ただ、ギーナがここで初めて忌々しげな顔をしていることはわかった。
しかし当のセリカはアトリアーナらの気持ちなど微塵も汲み取らず、持っていた剣を遠くの前線に向ける。
「こんなところでビクビクしててもダメです! 皆で突撃して敵を蹴散らしましょう!」
「あのね……」
アトリアーナは軽い頭痛を覚えて、眉間を指先でほぐした。それからセリカの両肩に手を置いて、
じっくり、言い聞かせるように言葉を選ぶ。
「必要以上、前に出ないの。敵を倒すより、前に進ませないことのが大事。良い?」
「けどっ」
セリカは視線をずらす。その先にいるのはギーナだが、彼女はもはやこちらを一顧だにしていない。
結局、セリカは子供のように口を尖らせてその場に座り込んだ。無関心で居たくなる態度だが、
下手にひとりで突っ込まれるよりマシだろう。
と、そこでギーナが声を上げる。前線の戦況が動いたようで、アトリアーナも視線を戻した。
●
ヒトとディアボロが争う最前線。
視界を満たす、敵、敵、敵。
暴力と暴力がぶつかり合い、命が食い散らかされるこの場所。
血と暴力と悲鳴と断末魔が支配する現実の悪夢。
「A班はとにかく攻撃を! 怯んだところにB班が追撃を行ってください!」
それでも、ロジーは冷静さを保てていた。上半身を生傷と返り血で穢しながらも、的確に指示を飛ばしていく。
そしてロジーはその背に翼を広げ、飛び立った。
戦場を俯瞰で見下ろせる高度。
自分達の三倍以上はあるであろう黒い蠕動の、その中心を探して視線を巡らせ――急降下を開始した。
そのヒト型に近いディアボロは寸前で上空からの接近に気付いたようだが、もう遅い。
その時には既にロジーは鉈を振り抜いており、頭部の上半分を斬り飛ばしていた。
順調、だが。
『ロジー! 後退しろ!』
弾かれたように振り返ると、自部隊が劣勢に陥っているところだった。
どうやら最初から飛ばしすぎたようで、疲労がピークに達しているようだ。
そこに横合いからフォローに入っているのは、ジョン・ドゥ(
jb9083)が率いる遠距離攻撃部隊だ。
「この戦い、生き残ることが勝利と心得ろ! 行くぞ!」
ジョンの声に併せ、火炎の弾丸が一斉に空へ放たれる。
それらは高い軌道を描いてから重力に引かれ、死の雨となってディアボロらに降り注いだ。
数多の炎柱が戦場に起立し、悲鳴は爆音によって掻き消されていく。
それらはひとつとして味方を傷つけてはいない。
ロジー自身を含めた彼女の部隊は互いの身を支え合うようにして、町へと後退していく。
ジョンの部隊はすぐさま味方とディアボロの間に割って入るように移動し、続けざまの火球を叩き込む。
平原には巨大な炎の壁がのたうち、ディアボロ達の行く手を遮った。
『……さて、ここだな』
通信機越しのぼんやりとした声に合わせるように、炎に包まれ足が止まったディアボロの群れに幾つもの小柄な影が襲いかかる。
そのシルエットは人間のそれではない。
炎に紛れて姿を現し、群れを引っ掻き回しているのは、召喚獣のヒリュウだ。
ディアボロらは視界を高熱で塞がれたままに無我夢中で攻撃を振るうも、それは外れるか、
あるいは同士討ちを生み出すだけだった。
――しかし。幾ら策を弄しようと、群れの全て捌けるほどではない。
ジョンと召喚獣を繰り出した詠代 涼介(
jb5343)の部隊は引き際を誤らずに、
敵がパニックに陥っている内に後退を開始した。
その最中、ジョンは隣を駆ける涼介へと、気楽な笑みをニヤリと見せる。
「アレの前に立った感想は?」
親指で背後の敵群を示すと、涼介はどこか気怠げに肩を竦めた。
「この先は生半可なことでは動揺せずに済みそうだ」
「ははっ、違いねぇ」
しかし、軽いやり取りはここまでだ。どちらともなく口を閉ざし、前を向いた。
敵の数はまったく減らず、足止め程度しかできていない。そして人々の避難も終わっていない。
最悪の事態が訪れるのを遅らせているだけで、何も、解決してはいない。
●
「さぁってと。準備に時間が掛かっちゃった分、僕も働かないとね☆ レッツ労働の時間だ☆」
この期においてもジェラルド&ブラックパレード(
ja9284)はヘラヘラとした態度を崩さず、
どこか演技めいた仕草で両腕を左右に広げる。
町の南から北を貫く一本の大きな道路。
大小様々な建物の並ぶこの四車線道路は、この町においても主要な道路のひとつなのだろう。
ジェラルドがひとり立っているのはそんな道路のど真ん中で、逃げも隠れもせずに堂々としている。
そして彼が目の先には――ついに町中へと侵入したディアボロ達が押し寄せてきていた。
先ほどまんまと獲物に逃げられたばかりの彼らは、ジェラルドの姿を見つけると嬉々として速度を上げる。
ディアボロの群れはどんどん接近してくる。道路の果てしない向こう側まで黒く塗りつぶされ渋滞している。
その中でもフットワークの軽い一体が、真っ先にジェラルドへと肉迫した。子鬼のような外見のソレは、無骨な棍棒を振り上げて――
「はい、どーん☆」
ジェラルドの鼻先。左右から突っ込んできた阻霊符つき重量トラックに阻まれ、弾き飛ばされた。
ジェラルドはひらりとそのコンテナに飛び上がる。
この四車線道路だけではなく、脇道へと至る左右への道の前にもどんどんトラックが急停車して、バリケードを構築していく。
ディアボロは気付いただろうか。開けた広い道が、いつの間にか袋小路と化していることに。
「数が多くても、面と向かって戦えるのが同数なら……そんなに不利じゃない☆」
これまた演技めいた仕草で、ジェラルドは指が鳴らす。
すると左右に立ち並ぶ建物の屋上から、幾つもの人影が立ち上がる。
「ま、ちょっぴり疲れちゃうけどね♪」
『撃てぇ!』
飄々とした言葉にアトリアーナの声が重なり、続けざまに轟く銃声がそれすらも掻き消した。
袋小路に追い込まれたディアボロは、上から降り注ぐ攻撃に対して全くの無力だった。
罠に気付いたディアボロが慌てて足を止めようとしても、
それに気付いていない更に後方のディアボロに押しやられて同じ末路を辿る。
しかし、ふと。
ジェラルドは顔を上げて、「あらら」なんて呟き、目を細めた。そして通信機へ言葉を送る。
「そろそろ、撤退した方が良いかもしれないね☆」
仲間達から返ってくる反応は、訝しげなものが殆どだ。
現時点では策が功を奏しているのだから、当たり前の反応とも言える。
しかしジェラルドはそれらに動じることもなく、ただ、声に剣呑な色を含ませた。
「早くしないと、『呑み込まれ』ちゃうよ♪」
●
次にソレに気付いたのは、高台にいたアトリアーナ達だった。
気付いてしまった、と言うべきか。銃を持っていた腕を下ろし、ソレに視線が釘付けとなる。
今相手にしているディアボロらで全てだとは、さすがに思っていなかった。
あくまで氷山の一角であり、本番はこれからであろう、と。
だが、それは誤りだった。
氷山の一角と呼ぶにもおこがましい、こいし程度だったことに、気付いてしまった。
それはまるで《黒い海》。
町そのものを呑み込むのに十分過ぎる程に巨大な、広大な、『黒い海』。
その海の濁流に、町が呑み込まれていく。
奇襲で足止めだとか、バリケードだとか、そういう次元の問題じゃない。
町そのものが、赤子が腕の一振りで積み木を薙ぎ倒すが如く、崩れ去っていくのだ。
絶望感を通り越して滑稽ですらあった。
ヒトとはこんなにも無力なものだったろうか。
撃退士はこんなにも非力なものだっただろうか。
アトリアーナは意識を奮い立たせ、ギーナへと振り返る。
「避難状況はどうなってますの?」
何とか冷静に声を出すことはできたが、そこには切望が多分に含まれている。
しかし、ギーナは首を横に振った。住民の避難はまだ完了していない。
ギーナは続けて口を開く。が、その体が大きく揺らいだことで妨げられた。
攻撃を受けた……わけではない。
「ぎ、ギーナさん! なんとかしてください! あなたなら何とかできるでしょう!?」
セリカだった。先ほどまでの威勢は完全に消え失せ、非現実的な光景に完全に心がへし折れている。
ギーナにしがみつくその顔は涙とぐしゃぐしゃとなっており、言葉も必死だった。
「私、私まだ死にたくありません! お願いします、助けて、助けて下さい!
ヒーローなんでしょう!? どうにかしてください!」
明らかに苛立っているギーナ。しかしそれ以上の言葉は口にせず、ただ、歯を食いしばった苦々しい顔で目を背ける。
その反応にセリカは愕然としたのか、更に取り乱し始めた。
辛うじて冷静さを保っていた他の撃退士達も、明らかに動揺が伝染し始めていた。
さすがに、アトリアーナは抑えようと動く。
が、その前に。
「ふはは、なんだこの数! 笑ってしまうな!」
豪快な笑い声が、割って入ってきた。
いつの間にか傍に立っていたUnknown(
jb7615)は楽しそうに《黒い海》を眺めた後に、
セリカの方へと顔を向けた。
「この数相手だと犠牲の一人や二人はしょうがない。
もしかしたら少し腹がくちくなれば、時間が稼げるかもしれん。さぁて?」
突然、その黒い太腕でセリカの襟首を掴んで持ち上げる。
そして他の者が止める間もなく、セリカの小さな体を屋上の手すりから外に突き出した。
宙づり状態にセリカは嗄れた悲鳴を撒き散らし、無我夢中で自らを支える唯一の腕へと縋り付く。
Unknownはそれを振り解くことも助ける事もせず、楽しそうに眺めているだけだ。
「運が良ければ度胸も据わるかもしれんな、臆病を治すにはこれ以上の治療法もあるまい。
我輩ったらあったま良い〜。ま、生き延びられるかは知らんが」
果たしてそれは冗談なのか、本気なのか。
決して立ち止まっていられる状況でないにも関わらず、場の空気は凍り付く。
それでもUnknouwnは不敵に笑んだまま、言葉を続けた。
「自らが望む希望の言葉しか通さん耳など千切ってしまえ。
恐怖を力にし、誰かを救う誰かに成れるかどうかは――貴様次第だ」
――と、その時。
通信機から、住民の撤退完了の知らせが届いた。
ただ、その時には既に、《黒い海》は撃退士達を呑み込む寸前で――
○
――――
結果報告
避難民と住民票を照らし合わせたところ、ほぼ100パーセントの避難が完了。
死者は確認されていない。
久遠ヶ原学園のジョン・ドゥと詠代 涼介が殿を務めて奮戦したことで、撃退士達の損害も軽微である。
両名ともに重傷ではあるものの、死者は確認されていない。
……追加報告。
ギーナ、須藤セリカの両名が帰還せず。
通信機は機能しており、両者の存命は確認済み。
住民票未登録の一般人を保護し、町内に潜んでいる模様。
町奪還の前に、救出作戦が必要 也。
――――
本社の自室にて報告書に目を通したエメラは、伏せた目を潤ませ、唇を噛んで震えていた。
しかし大きく深呼吸をすると、目元を拭って立ち上がる。泣いてる場合ではない。
エメラは顔を洗うべく洗面台の前に立ち……、
「幸せですか? 人間さま」
突如として背後からかけられた声に、エメラは勢いよく振り返る。
――しかしエメラと同じ色の瞳を持つその女性は敵意を見せる事もなく、
それどころか子供のように無邪気に、心から嬉しそうに、微笑みかけてきた。
「ようやく、ようやくお会い出来た……。
――私は、あなたです。親愛なるエメラ・プレシデント」
つづく