●
一人と、二人と、七人。
それぞれの吐息が白く染め上げられ、空に舞い上がって、消えた。夜空からはそれらを迎えるようにゆらゆらと雪が落ちる。耳が痛くなるほどの緊迫の中で上がる音は少なかった。例えば、女悪魔ユー・インの荒い呼吸。例えば、六万に対峙する少女が震える音。
「な、ッ……」
例えば――赤坂 白秋(
ja7030)が絶句した、音。
傷ついた悪魔ユーの姿に溢れそうになる激情を堪えるために、白秋は軋むほどにきつく、歯を噛み締めた。
代償だ、と。男は思った。仕方ないことだ、とも。
激情に解けた理性を無理矢理に締め直しながら、こんな形での再会を呪う。
「赤坂さん…」
「解ってる」
その様子を横目に見ていた鈴代 征治(
ja1305)が白秋の肩に手を置いて言った。依頼に望む際、写真で眼にした事のある悪魔が、死にかけている。それが白秋に縁のある女であることも知っていた。
ただ。ここは戦場で、天使と悪魔は相反する存在だ。故に、この結果はある意味で必然で。
「自分を責めないでくださいね…」
「……」
この場において征治と赤坂にも浅からぬ縁がある。慮るようにいう征治に、しかし、白秋は応える余裕がなかった。間下 慈(
jb2391)は、二人のそんなやり取りを好ましく思いながら、視線を転じた。六万と相対する少女。今回の経緯の中で唐突に現れた特異点。
「…貴女は、後ろの悪魔さんの『何』です?」
慈はそう言葉を投げた。もし、悪魔の眷属だというのならば、六万に斬られているはずだろう。こちらに視線を転じた六万は、少女――ともすれば悪魔にも、注意を払っているようには見えない。そして、緊張に震える少女も、答える余裕はなさそうだった。
――まあ、僕がやる事は変わらない、か。
助けて、と言われたのだから。それで十分だった。
「漸く出てきたか。屍人が」
蘇芳 更紗(
ja8374)は早くも獲物の布槍を抜き臨戦態勢だ。憎悪に染め上げられた視線は、いつもと様子が異なる六万を前にしても怖じずにいる。いつだってそうだ。彼女は必殺の意と共に使徒と相対している。クレール・ボージェ(
jb2756)はそんな彼女を見つめて、艶然と笑った。激情の類は嫌いじゃない。そうやって魂は磨かれ、輝く。
「あらあら、やっと見つけたと思ったら…ねぇ、まだ生きてるのかしら? 」
笑みながらクレールは悪魔と六万を観察する。悪魔は見るまでもなく虫の息。だが、生きているのならば問題は無い。他方、六万の傍らには揺蕩うように浮かぶ二つの水晶。
「…こっちの方が問題、ね」
六万の弱みはその脆弱さにある、と理解していた。もし、その弱みを補うためのものだとしたら立ち回りに支障を来し得る。
ふと。六万の視線が泳いだ。Viena・S・Tola(
jb2720)が小さく会釈したのと、同時で。
「あら…」
彼女が預かり知らない所でも、縁は転がっているようだった。
狗月 暁良(
ja8545)は手元の銃を手持ち無沙汰げに触りながら、さてどうしたもんかネ、とひとりごちた。何やら、因縁が有る様子。普段のチャラけた様子とは全く異なる白秋も、わずかに眉根を寄せるVienaにも。
六万自身の様子も、以前とは違う。こちらの喉元に喰らいつこうという、強い意思を感じた。
――とはいエ、俺、六万の過去にもあの悪魔にも興味はあンまないンだよなァ…。
しかし、それを口に出せる雰囲気でもなかった。
だから。手元の無機質な感触を味わいながら、暁良はこう結んだ。
「…今日こそ、ケリをつけてやるゼ」
●
戦闘は拍子抜けするほどに軽い音から始まった。先手は六万。最前に立っていた征治を目掛けての、踏み込みだった。
「…ッ!」
鋭さよりも、その滑らかさに征治は舌を巻いた。惑う暇はない。刃が迫っている。
殷、と。高音。征治は槍で往なすようにして受けたが、光輝を纏う刃の重さに手が痺れた。
「…でも、まだ耐えられる!」
少年が挑むように言い切るその後背で、Vienaが動いた。走り、女悪魔達と六万の間に入る。左手の指輪たちに付けられた鎖が涼やかな音を立てる中、中空に五芒の印が刻まれていく。
「……」
印を描く彼女の胸の裡には徹さんとする意思があった。
――それは、ともすれば現状と解離しかねない、のに。
迷いなく、印が刻まれた。ドーマンセーマン。魔除けの印。六万を悪魔たちの元には行かせまいとする、Vienaの意思表示。
一瞬だ。一瞬だけ、彼女と六万の視線が交差し…解けた。
征治が槍を振るっていた。深く腰を落とし上段から薙ぐようにして一打。その時、六万の眼中に、揺らめく影――憎悪を、真っ向から見た。
「……ッ」
引き出されるように、相対している男の過去に思いが巡り――情が、動いた。共感無しに人は同情し得ない。征治にとっても最愛があるからこそ、その欠落が痛い程に沁みたのだろう。
振るう槍は、悉くが体捌きだけで躱される。圧倒的に、武術の格が違っていた。
――もっとだ、もっと、見なければ、と。征治はともすれば零れそうになる涙を堪える。
「泣いてしまえば視界が霞んでしまう」
「…」
だから、少年は決意を吐き出した。その青さを、青さと知らないままに。
「…だからそれは貴方を倒してからにします」
「好きにしろ、未熟者」
戦場で、彼の情を動かしたものが怯懦ではないことに六万は気づいているのだろうか。征治には分からない。だが、拒絶の意思は感じなかった。
そこに。
「――ッ!」
更紗の気勢が、響いた。
六万も認識してはいたのだろう。民家の屋根上を疾走する更紗が、布槍を手に跳躍。空中で体を捻りながら、大きく横薙ぎに槍を振るう。見え見えの一打だ。容易く六万に回避されるが、彼女の意図する所はそこではなく。
「行け!」
更紗が降り立った先は、魔除けの五芒を展開したVienaの眼前。そこで更紗は槍を構え、声を張る。
それが、合図だった。
まず、暁良が駆けた。暁良は征治と更紗の間に位置取ると、ガルムSPから銃弾を放つ。
六万自身を狙ったものではなく、浮かぶ水晶そのものを狙った射撃だった。硬質な音を立てて、銃弾が跳弾する。硬いが、それ以外の反応は無い。ただ、わずかに六万の足が鈍った。
「サンキュー…ッ」
「此処は頼みますね…!」
白秋と慈が、更紗の声を受けて疾走を開始した。女悪魔と少女の救出のために、撃退士達は戦力を割いた形だ。
六万の視線が、動いた。男の視線は救助に向かう二人にではなく――『後方』へ。
――元より、乱戦に活を見出すような男だ。敵を『七人』と定めた以上、その動向は把握している。
更紗、征治と相対する六万は自然、民家を背にする形になる。
故に。
それは屋根の上へと、届いた。
「……そこか」
言の葉の先には、豊かな赤髪を風に揺らすはぐれ悪魔、クレール・ヴォージェ。
六万の声は呟きに似ていた。開いた距離ゆえに、声は届かなかっただろう。ただ、粘質な殺気を帯びた視線が届くのみ。
後方から、叶うならば前衛を利用しようとした隙をついてというクレールが意図していた形とは違う、が。
――これ以上は見込めない、わね。
この場にいる六万は、話に聞く六万とは大きく、違う。
刃然り、水晶然り。伏せられた札を曝すことを、今は優先すべきと決めた。
思考するや否や、黒光が湧く。
「見せてちょうだい…!」
陰鬱な光を身丈程のハルバートの穂先に纏わせ――大上段から、振り落とした。
封砲が、放たれる。
六万は動かない。視線は、決して逸らされる事無く、交差したまま。
視線ごと六万を呑み込むように、黒光の線状が放たれる、が。
甲高い音を曳いて、程なく。六万の姿が黒光を弾くようにして、現れる。
六万自身は無傷だった。ただ、先ほどと違うのは――二つの水晶が、六万を守護するように、その前面を覆っていた。
「やっぱりね…」
予想通りだと、クレールは笑みを深める。
あの水晶は守護のためのもの。それにしたって厄介ではあるが、種さえ分かれば必要以上に恐れる必要は無い。
「畳み掛けるしかないってこと…ね…?」
紡ごうとした言葉が、止まった。
水晶の、その向こう。男の双眸に、殺気を見たからだ。
●
全力疾走だった。
五人に戦闘を任せ、白秋は一直線にユー・インの元へ至る。六万の圧力から開放された少女が、震えながらユーに縋りついていた。降る雪を荒々しく散らしながら、白秋はその傍らに跪いて急停止。脇目も振らずに叫んだ。
「ユー…! ユー・イン! 分かるか! 聞こえるか!」
「…あ、ンタ…」
「…もう大丈夫だ、じっとしてろ!」
安堵の中、ユーの状態を確認する。左肩から右の腰にかけて袈裟懸けの切創。創は深いが、溢れる血で全容は分からない。かつて見た、自己再生の異能の成果が全く見られない事だけは確かだった。
大珠の汗をいくつも浮かべたユー・インの顔は、染め上げられたかのように青白い。
汗で額に張り付いた銀の髪。茫と焦点の定まらない眼。荒く、浅い、呼吸。
美しかった。
だがそれは、紛れも無く、死相だった。
「……っ」
堪らず、白秋は銀光を手に宿し、開いた傷口を無理やり塞ぐようにして意思を込めた。
応急手当だ。現状を思えば、余りにか細い癒やしの光。
――焼け石に水かもしれねェが…!
傷の深さを前に、そう思わずに居られなかった、が。とにかく出来うる最善を為すべく、動く。
「怪我はないようですが、走れますか?」
漸く追いついた慈が、ユーに縋りつく少女に声をかける。
「は、はい…でも…!」
「大丈夫。助けてと言われた以上、助けるに決まってます。最善は尽くしますから…そのために、ね?」
「……」
慈は震える少女の背を撫でながら、意図して柔らかい声で言う。僅かな逡巡の後、少女は頷いて立ちあがった。慈が軽く背中を押すと、そちらへと向かって壁伝いに進む。
その背を見届けて、必死の様相の白秋に声をかけた。
「赤坂さん、一度移動しましょう。此処はまだ戦場に近い」
「……ああ、分かった」
白秋は頷くと、ロングコートをユーにかけ、その身を抱え上げた。軽いが、力の入らぬ体は重さ以上に運びにくく感じ、難渋した。
そうこうしているうちに、白いコートがじくじくと染まる。
「早く!」
「ちっ…だっせェな俺…」
アカイロと慈の声に急かされるように、走った。瞬く間に白秋は少女を追い抜く。一刻が惜しい。
「、ぁ…」
振動が傷に触るのだろう。吐息が、白秋の首筋を撫でる。
「もう少しだ! 我慢しろ!」
声を聞きながら、慈は後方――六万達の方へと視線を巡らせた。慈達と六万との間にはVienaの展開する五芒星。六万はこちらに目もくれないままだ。Vienaの配慮が活きているのだろうか。だが…。
「六万さんは、こちらを狙う気がない…?」
そう見えた。
――それは好都合ではありますが…何故でしょう。
慈は後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、踵を返した。向かう先で、白秋はユーに呼びかけながら、治療を再開しようとしている。平素と違う白秋の焦りようを見るまでもない。悪魔は未だ死の淵に立ち、白秋だけでは治療の手が足りない。
だから。
二人は、その瞬間を、目にすることはなかった。
●
独り、後背から封砲を放ったクレール。つまりそれは、彼女だけが孤立しているという事に他ならない。だから、六万がクレールへと目掛けて疾走を開始したとき、それを留められる者は居なかった。
「クレールさん…!」
「…ッ!」
「力無き正義が悪だとは言わない、が。下策だったな。それでは討つべきものは討てず、守るべきは守れん」」
睨み合い、呼気すら届くほどの距離で、クレールはそれを聞いた。
「だから、死ね」
「…そう。でもね」
その距離は、既に致死的だった。いつ切り捨てられるかも分からない。
それでもクレールは、挑むように、言った。
「私は、悪魔だもの。きみ達とは違う」
守るべきもの。救うべきもの。理解できないでもない。そういう人間を、見てきた事はあるのだから。ただ、その概念はクレールには希薄に過ぎた。だから、クレールは眼前の男を人間として一括りにして言った。
「沈鬱で、綺麗な魂ね。きっと、救われる事はないのに――」
返答は、とてもとても、力強い太刀筋で。
強くなりたいと。そう願って人界に降りたクレールは、その力を、在り方を否定しない。
「――――」
女は。
その太刀筋。その表情を、両の眼に焼き付けるように柔らかく、笑んで。
斬撃。続いて、アカイロが舞った。断ち切られた赤毛。吹き上がる血液。
クレールの命の証が、雪の中で鮮やかに映えた。
――結局、あの悪魔が、なんで追われていたか…わからなかったわね…。
薄れゆく意識の中、それだけが、心残りだった。
●
六万は踵を返し、屋根上から見下ろすようにして、残る撃退士達に相対した。
「屍人が…!」
声を張る更紗を無視し、六万は柔らかく雪を踏んで着地。
「死を覚悟し戦った敵に懐柔されその手足になった愚者が、偉そうに吠えるな…!」
「……」
六万は暫し、言葉を返さずにいたが。
「…そうだな、俺は屍人だ。生者を食らう害悪であることも否定しない」
光輝を纏う刃が、夜闇の中で口を開いた男の顔を照らしている。その顔を、苦々しげに更紗は睨みつけた。紡がれる言葉すらも憎らしげだ。
「だが、力の使い方を誤るのならば貴様らとて俺と同じ路傍の害悪にすぎん。驕るなよ。そして、覚えておけ、女。貴様のような人間が、得てして道を踏み外す」
「なっ……!」
絶句する更紗をよそに、Vienaは男の言葉に、連想を抱いた。
――そこが、貴方の根源ですか…?
自罰的な男の在り方。それを指摘した時の、六万の反応。
何もそれは、矛盾しているとは限らない。飲み込んで、己を罰しながら、あるものを追い続けているのだとしたら――。
「…貴方の未だ埋まらぬ白之頁…それを知りたく思います…」
言って、思索の裡へと潜っていった。明鏡止水。この女には、深き思索、瞑想こそがこの境地が相応しい。
心が鎮まり、体が潜む。
Vienaの所在を掴めなくなった六万はわずかに眉を潜めた、が。
「女ではない、どこを見てそんな戯言を…!」
更紗が、踏み込んでいた。言動の不自然さにも虚を突かれたか。六万は身を隠したVienaの気配を追うことはせずに、上下に振るわれた布槍を左右への細かな足運びで回避する。
「害悪か! ならば、今の貴様を見て、生前の貴様はなんというだろうな。元想い人とやらもだ!」
槍を振るいながら更紗は堪え切れず、更紗は大笑し、哄笑し、嘲笑した。
「今日こそ元想い人の下に送ってやる、受け入れられるかは知らんがな!」
更紗の心中で、冷静な部分が高らかに叫んでいた。貫くのであれば、ここだと。
だから。
「…貴様に言われるまでもなく、俺は、あいつと同じ所には逝けないさ」
凪のように静かな声色に、虚すら突かれた。
「地獄行きは覚悟の上だ。口先だけで実の無い貴様とは、違う」
「……!」
それだ。六万が相対しているものの中で更紗を蔑ろにしている理由が、そこだった。
彼女の意図は常に布石、防御に寄っており、実が乏しい。それ故に圧に欠け、決定的な機を作るまでには至らず、優先順位が落ちる。
「この……ッ!」
激情に駆られるように、再度、大上段からの振り落とし。六万は、先ほどと同じように体を逸らすだけで回避。
そこに。
「チャンス…ッ」
繰り返された回避行動に慣れた暁良が、その斬撃に合わせて、往った。それこそが更紗の意図した事でもあったのだが。
ボクサースタイルで拳を固めて走る暁良。視線の先。六万は暁良の行動に、『あの時』のことを想起しているのだろう。筋肉達磨の天使、モズエルに庇われた、あの一打。
六万の上半身が、回避のために逸らされようとする。
「……シィッ!」
気勢と共に、右ストレートを『思わせる』右の踏み込みが…転じた。
透き通る程に白い肌は膝丈までロングブーツで覆われ、その先端には鋭く誂えられたレガース。
それは、美しくも鋭い、前蹴りで。
前回の相対に釣られるように体が動いていた六万の鳩尾を、靭やかな爪先が抉る。直撃だ。堪らず数メートル吹き飛んだ六万の、その感触に、暁良は無表情ながらもどこか誇るように右の拳を固め。
「うン、悪ィけど…マジで得意なのは足技の方なンだ」
そう、嘯いた。
「ついでに言えバ? 俺は正々堂々とか言う騎士様よリも、如何なる手を使ってでも勝つ傭兵の方が性に合うンでな」
悪びれる様子もなく、暁良はそう言い放った。
●
「…っ、もう、出来ることはない、か」
最後に応急手当を行った白秋は、空を見上げてそう呟いた。どこか恨めしそうに、雪を睨みつけて。
「ええ…」
慈は改めて、ユー・インの様子を見る。溢れんばかりの流血は、どうにか収まったように見える。だが、以前として状態は悪いままだ。血糊と汗にまみれた体で、体を震わせている現状では、未だ予断を許さない。
「流れた血が、多すぎますね…」
「……」
つと、戦場へと視線を巡らせた。戦況は、決してよくはなさそうだ。
これ以上、彼女に現場で出来ることが無い以上。
――一刻も早く、六万を討たねば、いけない。
「…赤坂さん。行かないと」
「……チッ」
額を濡らす汗を拭っていた白秋は舌打ちをして、立ち上がる。
「なぁ、その子を、温めておいてくれないか」
双銃を構えた白秋はそう言い残して、走った。
「出来るだけ、頭を低くしておいてくださいね…大丈夫、必ず、守りますから」
慈もまたそう言って、歩を進めた。
急ぐ必要がある。となれば――自然、決着はそう遠くないころに着くだろうと知れて。
●
「…っ!」
暁良の前蹴りで吹き飛んだ六万にわずかに遅れて、征治は疾走。
自らの槍の間合いに捉える、その寸前に六万も姿勢を整えていた。構わない。往く。
踏み込み、腰の捻りまで加えての、渾身の刺突。
間合い一杯からまっすぐに六万の顔面へ放たれた穂先は、しかし――至らない。水晶が六万を守護するべく、刺突を阻んだからだ。
「いけない、逃げて!」
卑怯、と。そう思う前に、征治は声を張った。狙われるとしたら、恐らく。
「狗月さん!」
そうしている間に、六万は獲物へと喰らいついていた。
「切り札を切れるのは一度だけだと思え、女」
妨害を良しとしない神速の踏み込みが、追撃しようとしていた暁良へと至り。狙われる事は想定外だったか。縮まった距離に、背筋が凍え、臓腑が締め付けられた。
「――ッ」
「布石は良かった。あの時に貴様は使うべきを、使い切るべきだった」
何故、征治の追撃が間に合わなかったのか。金色の刀から光が溢れるのを暁良は見た。
いや。
――眼前で描かれた剣閃を、そう錯覚していた。
「ち、ィ…ッ」
気づくや否や、その剣閃を、轢き潰されんばかりの重圧を、暁良は後方に跳躍することで逃れようとしたが――叶わない。
――逃げ切れネェ、か…!
「う、ゥゥら、ァァァッ!」
せめて、と。足掻くように強引に身を捩り、剣閃へと挑むように刀の持ち手へと回し蹴りを放つ。いつの間にやら足甲に纏っていた紫光が、金色の光輝の中を掻き分け貫き――拮抗。
「――如何なる手を使ってでも勝つ、か。奇遇だな」
だが、それも、長くは続かなかった。
キシ、と。蹴り足から響く、軋んだ感触を最後に。
「――ッ!」
「俺も、そうだ」
断ち切られた痛みりも。叩き落とされた衝撃の強さに、暁良の意識は削ぎ落とされた。
●
暁良が斃れた、瞬後。
「…昔天魔に襲われた時、俺と姉貴は真っ先に見捨てられた 。そん時、ヒトと天魔、本当に恐ろしいのは何方なのか自問した。俺は一歩間違えば『そっち』側だったよ」
声が、響いた。白秋の声が。
「ただ――護りたい奴がこの背の向こうにいる。だから俺はてめえを否定する――ジャックザリッパ―、いや、六万秀人!」
「…好きにしろ。それが貴様の戦う理由だと言うのならな」
これまで、幾度と無く六万は白秋と戦っていた。だから、この男の打ち筋も、性能も良く知っていた。故に今、六万は白秋へと狙いを定めようとしたのだが――。
「あァ、そうかい…なら、喰らいな…ッ!」
溢れんばかりの銃弾の嵐に、阻まれた。己の身を穿たんとする銃弾を、六万はその刃で払い落とす。その間にも白秋は隠密を成し、他方、水晶はその銃弾で軋む――否。その片割れが、砕けた。暁良の最後の蹴撃を阻んだ水晶が。
そこに。
忽然と、蛇の形を成したアウルが――音もなく残った水晶に忍び寄っていた。Vienaの放った蟲毒だ。
「…砕きなさい…」
彼女の意を受けて、毒蛇は水晶を締め上げると、牙を立てた。そこを中心に、軋むように罅が走り――。
「…これで、後は」
言葉と同時。追撃の銃弾が放たれていた。罅割れた水晶は、今度こそ砕け散った。毒蛇も同時に消え失せていく中、弾丸の主、慈は現状を確認。
戦闘が可能なのは征治、更紗、慈、白秋、Viena。前衛を張っていた征治と更紗の傷は浅くはないが、残る中後衛の三人は無傷。
対する六万は、傷は浅そうだ。だが、防御を担っていた水晶は砕け――ただ独り。
想起するのは、女悪魔の容態だった。急がなくては、命に関わる現状は、変わりない。
――さて、どうしましょうかね。
黙考。
畢竟、これまでも、ここから先も、互いの火力のぶつけ合いに他ならない。
だとすれば――。
●
仲間が斃れ伏す現状に、征治は込み上げる感情を抑えられなかった。恐れじゃない。ただ。もう一人が墜ちたら――自分たちは撤退をせざるを得ない。そう、決めていたからだ。
もし、そうなってしまったら?
――六万さんは、今度こそ、狂うかもしれない。
気づけば、征治は、言葉を紡いでいた。
「貴方の探しているものは地上にはありません。分かっているはずじゃないですか…!」
「…貴様は何もわかってない。俺は、俺が殺すべき撃退士を殺す。それだけだ」
「……!」
最愛の人を失ったとしても、征治には取り得ない選択だったか。絶句する征治に、六万は続けた。
「重ねて言おう。地獄行きは、覚悟の上だ」
言葉に込められた情念に、引き出されたか。
刃から、光が、湧いた。
風が渦巻き、六万のロングコートが強く、鳴る。
「…借りるぞ、ミロスファ」
●
「…散って!」
威風から逃れるように、前衛に立っていた更紗と征治は後退し、散開した。民家を倒壊させたであろう一撃を予感してのことだ。
そこに、隙を見出した白秋は再度銃撃の嵐を見舞おうとするが――想起するものがあり、留めるしか、なかった。あの日も。今日も。六万の一撃を押し留めようとしても、止める事は叶わなかった。
狙うべきは――。
「…耐えてくれよ…!」
男が祈るように呟いた次の瞬間には、六万は既に加速を終えていた。
瞬後。割れんばかりの光を曳いた剣閃が、
「…征治…ッ!」
――少年を、貫いていた。
●
征治と六万を中心に、光と風が爆ぜた。衝撃の煽りを受けながら、慈は目を細め――。
「…此処です!」
言葉の後。慈の構えたリボルバーから、闇色の弾丸が放たれた。
これまでの六万であれば往なせていたはずのものだったろう。しかし、使徒の身に加えて、今まさに振るわれたのは天使に縁を持つ刃。顕現した力もまたそこに連なるもの。
なればこそ。負に寄った一撃こそが、今この時、六万に取っての鬼門。
弾丸は、吸い込まれるように、六万の右の肩口を抉った。
「………ッ!」
衝撃に六万の身が傾ぐ、が。それすらも眼中にないかのように、六万はあるものを見つめていた。眼前。片膝をついた征治が――まだ、戦う意思を、無くしていない様を。
血を吐き。息も絶え絶えな姿。そんなザマで、ただ、意思の力だけで立ち上がった征治は言った。
「…僕達が最愛の人の元へ送ります。それが貴方へのせめてもの餞です…!」
攻機と見た。そうして、白秋がいる今、此処でのみ放つことが出来る、征治にとっての最高の一撃を放つ。
崩れ落ちそうになる身で、それでも、大地を踏みしめるようにして大上段からの袈裟懸け。
「ち、ィィ…ッ!」
六万はまだ動く左腕に刀を持ち替え、袈裟懸けを辛うじて往なす、が。
「人の業、絆、矜持が今、ここで貴方を討つ…!!」
――続く二撃目を、躱しきれなかった。
逆袈裟に大きく刻まれた創。それは、奇しくもユー・インに刻まれたそれと同じ形で。
今度こそ倒れこんだ征治が、声を張る。
「…赤坂さん!」
まだだ。まだ、終わらない。
絆こそが、この連撃を可能とさせる。故に。
「…喰い千切る…ッ!」
跪いた六万の頭部を狙ったその一撃は――この戦場において終わりに足るものだった。
●
気づけば、彼女は走っていた。
追撃をしなかったのは――予感がしたからだ。
『終わってしまう』と。
走りながら彼女は、今まさに征治に斬られた六万に、『己』を重ねていた。
それは、茫洋と残る記憶のカケラ。
彼女がまだ、『悪魔』だった頃の記憶――衝動を。
大切なものから、離れてしまった。
そうして、守る権利すら与えられずに、失った。
――衝動に突き動かされた結果、『わたくし』は『死んだ』。
自らを罰して、復讐の先に光を、終わりを求める六万。
自らを責めて、責め抜いた結果、『忘れて』いく彼女。
彼女を駆り立てたその激情は渾然として、詳らかにすることは難しい、が。
兎角彼女は、その身を六万の盾とした。
放たれた弾丸は、無論。
彼女を――食い千切った。
●
「、は、…ッ!」
六万の頭部を庇うように、強引に間に入った結果だ。肺を貫かれたVienaは大きく血を吐いた。動脈を傷つけたのだろう。傷口からは溢れるように血が零れ、肺からの出血で噎せ返る。それでもVienaは力強く、六万の頭を掻き抱いたままだった。
「…、あなた、も」
血を浴びた六万が茫然する眼前でVienaの容姿が溶けるように転じていく。白磁の肌は、どこか蒼白に。金砂のような髪は、深海のような黒髪に。そして右目を中心に――青黒いアートグラフが浮かび上がる。
六万に劣らぬ程の生命の危機に――擬態が、解けた。
「また、光…なの、です…だから、消え、ない、で…」
それでも、女は紡ぐのだった。
「どう、か…」
祈り手のような清らかさで。
「復讐の、先の、空虚に…」
咎人のような、痛ましさで。
「…行かない、で… 自分を、殺さ…ない、で…」
そう、言った。
そこに。
「……何を、して、いる」
更紗の声が、落ちた。
●
いつの間にか二人の傍らに至っていた更紗は、激情のあまりに言葉を紡げないまま。
「…何を…、して…」
ただ、身を震わせ――布槍にアウルを込めた。
止めを、刺すために。
「…待っ、て…」
震える身で、なおも六万を守ろうと、Vienaは、立ち上がろうとした。
その時だ。
不意に、彼女の体が、傾いだ。
…六万の左手が、彼女の右手を引き寄せていた。
そうして、ほんの、数瞬だけ。
ともすればそれと気づかない程の――束の間の、片手だけの、抱擁を、Vienaは感じた。
それはすぐに解けて……彼女の身体は、押し退けられていた。
「待っ、て…」
重ねられた静止の声は、届かない。
立ち上がった六万の、その胴体を更紗の布槍が、貫き――。今度こそ力を失った六万は立つ為の力を無くし、更紗の身体に、その身を預けた。
「…汚らわしい…ッ!」
「女、今、あいつごと…斬ろうとした、な」
激昂し、振り放そうとする更紗だが、六万の呪詛の如き言葉に加え、万力のような力で、それも適わない。
「そ、そんな訳あるか!」
「…そう、か…まあ、もう、どうでも、良い…」
直後。更紗はずぐ、と鈍い音が自身の身体に響くのを感じた。激痛に立って居られなくなり、二人共々に、斃れ混む。
「う、く……き、さま……!」
――過去に何度も相対を果たした更紗は、その正体を知っていた。
六万の左手には、普段投擲に使っていたナイフが握られていた。
「……殺、……」
急所を抉られた更紗は、伸ばした手で、六万の首を握り込まんと執着を見せた。
意識を失う、寸前まで。
●
重傷を負った者。女悪魔ユー・インも含めて搬送される中、六万はひっそりと、息を引き取ろうとしていた。
「お前が…自分を殺したら、意味が、無い…だろう」
「………」
言って、六万は深く息を吐いた。刻まれた傷はいずれも深い。僅かな所作でも激痛が走るはずなのに――男の表情は、安らかなものだった。仰向けに倒れ、空を見上げた六万の傍らに立つVienaの両目から、はたはたと大粒の涙が零れる。強い情動を孕んだ涙を、征治も、慈も、白秋も――為す術も無く、見守るしかなかった。
もう助かる筈もない事だけは、誰の目にも明らかだったから。
「……撃退士、聞け」
だから、六万が語ろうとしている事は遺言なのだと知れた。聞いてくれと懇願するでもなく、聞け、と六万は言う。
「あの、悪魔…は、あいつ自身が、重要なのでは、ない…」
それは、これまでの夜の真実であり。
「…『この時期』に、あの悪魔が、現れた。それだけが、あいつの、理由だった…」
――この東北の、真実だった。
「俺達は、近く、大攻勢を、かける予定だった…悪魔と、睨み合う、ために。それ、を…事前に、悪魔に悟られる訳には、いかない、と…天使たちは、考え…」
言い切って、六万は小さく笑った。気負うものの無い、朴訥な笑い声で。
「…くだらない、話だ。なぁ。だが…」
緩やかに、六万の呼吸が、浅くなる。
「頼む、今度こそ……逃げないで、くれ…」
「……ああ」
誰ともなく、応じた声に。六万は再び、笑った。
そして。
「確か、に…聞いた、ぞ…」
最後にそう言って、目を閉じた。
――六万 秀人の、終わりの夜だった。
深い安堵と共に。彼が求めた終わりが、訪れたのだった。