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夜天を覆う鴉の群れは審判の時を待つかのように北秋田市の頭上を覆っている。高度を落とし爛々と眼を輝かせるのは、殺意故だろうか。
――否。
彼ら自身知ってか知らずか、八咫烏がそこに居るのは殉教者としてだった。彼らが殉じるのは単に彼らの主がそこに居て、そう命令を下すからに他ならないのだが。
だとしたら。この戦いのなんと虚しい事だろう。
撃退者の眼前に敵は無く、ただ暗中に塗り込められた真実に振り回されているだけなのだから。
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無論、撃退士達とてその事に気づいていないわけではなかった。
サングラスを弄る命図 泣留男(
jb4611)にしたってそうだ。
「俺を突き抜けていくブラックの衝撃が告げるぜ…」
――俺たちに悪魔をヤラせようというこいつの魂胆!
視線の先には、大天使ミロスファ。
「こいつらが高度を下げてきたのも、俺たち撃退士に出ざるをさせない状態にするためか…ちっ、伊達ワルの理想もわからねえ奴が!」
概ね正しいことを言っているのだが、言葉は全て独り言だった。もう少しだけ平坦な語彙力と、周りに伝えようという意欲さえあればいいのだが…。
「周りくどい手を使う天使も居たものだ」
さらりとメンナクを無視した蘇芳 更紗(
ja8374)の呟きに、クレール・ボージェ(
jb2756)は笑みを返した。この女悪魔は状況を愉しむ事に大いに長けている。面倒な背景も胡散臭い現状も、彼女にとっては興味の対象に他ならないのだろう。
「あら、こういうのは嫌い?」
「…好きではない。唯々諾々従うのは甚だ遺憾だ」
「そうねえ…」
クレールは少し離れた所に立つミロスファに目をやり、声を落とした。
「まぁ、天使さんも認めてるんだし、張り切って狩りをさせて貰いましょ」
「…癪に触るが仕方ないな」
――あのシュトラッサーが現れるかもしれない。
蘇芳は言って口の端を釣り上げた。姿の見えない使徒は、悪魔を狩るために動いているのだろう、と。想像すればするほど、更紗の胸の奥底から、衝動が湧き立ってくる。
童顔に似合わぬ嗜虐的な笑みを抱いた更紗を、見て。
――ほんと、みんな企み事が好きねぇ。
そう息を零したクレールの横顔にも、微かな笑みがあった。
手元の地図に視線を落とす、雫(
ja1894)。いざという時の逃走経路を選定するために調達してきた地図に、少女は脳裏で線を描く。
――何が目的で私達を利用しているのでしょうね。
描きながら、つとそう思って、傍らに立つ大天使ミロスファを見上げる。大天使は少女が手にした地図に興味を抱いたか、「私も見せて頂いても?」と一つ言い、隣に立って地図を覗きこんでいたのだが…120cm程の少女の身長では肩口までしか見えず、その表情までは伺えない。
「……」
見れば見るほど――肩口までしか見えていないのだが、雫の胸中に不信が募る。
同じように、ミロスファを見つめる女性が一人いた。嵯峨野 楓(
ja8257)だ。地図を覗きこむ大天使の頭頂部を見つめる彼女は、忸怩たる思いを抱いていたのだった。
微笑の絶えぬ柔和な顔、良し。意外と筋肉質な身体、凄く良し。服のセンスは、まぁ、置いておく。
「頭がなぁ」
つるりと光る禿頭に、ぽつり。形は良いのだが――じゃなくて。
「…何か?」
「え?」
気づけば、気配を感じたか、大天使が楓を見返していた。
「あ、いや」
楓は言い淀んだ。が、本能が黙っていなかった。
「ミロスファさんは何で坊さんスタイルなんです…?」
「…え?」
沈黙。雫が何言ってんだコイツ、みたいな目で見つめるのが楓には少しだけ気恥ずかしかった。少しだけだが。
楓が見守る中。ミロスファは暫し真顔で考え込み、漸く質問の意図を理解したか。
「…宗教上の理由です」
と、微笑を返し、そう言った。
――ジョークのセンスは今ひとつ。
楓は胸の内でそう評した。
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さて。
撃退士達の方針を簡潔に述べれば「鴉は撃退する。悪魔を天使よりも先に確保する」となる。
光坂 るりか(
jb5577)は、それに賛同できないままにここに居る。
件の悪魔は、人を傷つけた。実際に相対した彼女にとっては尚の事、あの悪魔は人類の敵でしかないからだ。
「避難ができていない人がいるかもしれない、と」
「えぇ。だから、貴方には余り動かないで欲しいのです。住民が脅えてしまいます」
るりかの視線の先で、雫が大天使に交渉していた。
「ふむ。しかし、急な戦闘というわけでもない。既に『避難は完了している』のでは?」
「その予定でしたが、実際に先ほど一人、保護したみたいです。他にいないとも限りませんから」
悪魔を先に確保する。その為に撃退士は手勢を分けて、悪魔の捜索にあたる予定だ。だからこそ大天使には留まっていて欲しい。
「…そうですか。配慮しましょう」
大天使が同意をすると同時、撃退士達の方針も定まった。
E地点での八咫烏への対応は楓、クレール、るりか。残る雫、更紗、メンナクは夫々に悪魔を捜索しながら烏を討つ。
打ち合わせを終え、るりかは空を見た。
あの使徒もこの夜の下にいるのだろうかと。そんなことを思う中。
戦闘が、始まった。
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クレールは両の翼で大気を叩くと、細身が柔らかく空へと持ち上げられた。風が重石となってのしかかる感覚を払うように、声を張る。
「さぁ、貴方たちの命を貰う悪魔がやってきたわよっ!」
眼下で大天使が頷くのを感じたのと、同時。烏が一斉に雪崩れ込んできた。鳴き声が連なり、共鳴。爆音となって耳朶を打つ。
「素直な烏たちね…!」
明らかに手に余る勢いに、クレールは後退し、高度を下げていく。楓、るりかが待機している地上へと、惹きつけるように。
楓と視線が絡んだ。あっち、と。霊符を掲げた楓が片手で方向を示すのを見て、クレールは笑んで更に加速。烏達は楓とるりかを無視して、地面を舐めるようにクレールを追走した。
数多の羽ばたき、鳴き声が落ちると、大地には蕭々と風。ローブの裾を抑えながら頃合いを見て楓は声を張った。
「クレールさん!」
距離は十分。合図に、クレールは反転。構えたハルバートには、黒光が満ちている。
「さようなら、律儀な子たち。命を散らしなさい…予定通りに」
クレールは言って、優雅に得物を薙いだ。刃先から、衝撃が湧くや否や、黒々とした光が瞬く間に大勢の烏たちを呑み込んだ。
零れる苦鳴は長くは続かない。それすらも呑み込む雹嵐がその後方から湧いて立ったからだ。
雹白狐。楓のアウルが暴威となって顕現していた。鈴音の如き遠吠えが遅れて響く。
黒光、氷雪が解けると、烏の影など微塵も残っていなかった。
「御狐様に敵うと思うなよー」
「いや、お見事」
霊符をヒラヒラと揺らしながら言う楓に、大天使が小さく拍手を返した。
「まだ来ます…!」
るりかは散り散りになった生き残りの烏を散弾銃で撃ち落としていた。頭上にはまだまだ烏の残党がいる、が。先ほどより勢いは乏しい。
「さて、二回目いくわね」
ふわり、と。クレールが高度を上げ、言った。
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他方、捜索組は難航していた。
クレールの提案で他の迎撃地点に要請し、A地点のみ撃退を進め、残るB〜D地点では程々の攻勢に仕掛けるような手筈になっていた。
つまり、A地点に於いてのみ、烏の監視の目が薄れていく形だ。
更紗はそこに目を付け、A地点周囲の捜索を行っていた。
――誘いとしてはあからさまだが。
苦笑する。自分なら、この状況を不審に思って近づかないだろう、とは思う。一方で、かつて相対したあの悪魔を思えば。
あの悪魔は、如何せん頭が緩い。
「他に、悪魔が得られる情報も、根拠も無いだろう…禿天使にただ踊らされるのも癪。此方で抑えさせてもらう」
呟き、視線を巡らせる。
心の内では、悪魔を狙っているであろう使徒を希求して。
メンナクは、夜天を舞う。その横顔はどこか怒気を孕み、空から『サーヴァント以外の存在』を求めて地上を見下ろしていた。烏達は不思議とメンナクを狙わずに、迎撃地点に定められた場所に群がっていく。その光景に『利用されている』事実を突きつけられ、メンナクの白く輝く歯が、軋む。多勢に無勢なこの現状を、ただ苦く思った。根底には、不要な殺戮は避けたい、という思いがある。
メンナクは存外、優しい伊達男なのだった。
「む」
つと。人影を見つけた。見た事がある姿だ。確か――C班の女性撃退士だ。メンナクは、駆け足で路地を行くその頭上へと滑空し声を掛けた。
「どうかしたのか、艶女」
「…え?」
頭上から突如湧いた声に驚いたか、女性撃退士は目を剥いたようだった。
「い、いやー、一般人を見つけてさ。保護したから避難所に連れて行った帰り。アンタは?」
「悪魔を探している。見つけたらこのレイヤード騎士まで連絡をくれ。くれぐれも、天使には見つからないように」
携帯の連絡先を書いたメモを手渡して、再度、空へ舞った。
「……」
その背をじっと見つめる女性の視線には、気づかぬままに。
雫は忍術「響鳴鼠」を用いて悪魔を捜索していた。銀髪の悪魔で、角が生えているのだという。
該当する情報を小動物達に求めたがそれらしい情報は得られなかった。散り散りになる動物達を見やりながら、半ば焦りを覚えて、空を見やった。天使には動きは無いように見える、が…。
悪魔を、先に確保する。方針は間違いではないのだろう。ただ…その為の方策を、十分に練って居なかったのではと。無明のただ中で足掻いている感覚が後悔を呼び、少女の背筋を這っていた。
「八咫烏が居て…『撃退士』がいる」
ぽつり、と言う。
共闘したとはいえ、良好な関係とはいえなかった。つまり悪魔は今、『敵』に囲まれているのだ。
そんな中、一切の情報がない悪魔が、どうするか?
「…そもそも目立つ外見の悪魔が、これだけの『目』がある中、どうやって逃げ延びていたんでしょう…?」
焦りが生む思考は、まとまりかけては、解けてしまう。せめて烏でも襲ってくれれば、気も紛れたろうに。烏達は雫に目もくれなかった。
●
烏の声も、圧力も随分乏しくなってくると楓はそそくさと何処にか消え、クレールとるりか、そしてミロスファだけが残された。
ともすれば沈黙が落ちようとする中。
「…悪魔一体に随分と手を掛けるのですね。なぜそうまでして悪魔の身柄が欲しいのですか?」
るりかがミロスファに問うと、大天使は微笑みを返した。
「それを知ったら、貴女も追われるかもしれませんよ?」
応えるつもりはない、のだろう。るりかにとっても、織り込み済みのことだ。単に――そう、話題の切欠を、欲しただけだったのだ。
だから。
「…六万秀人に、お礼を言いたいのですが」
そう言った。
使徒の名に大天使は興味を覚えたか。微笑のまま、小首を傾げた。
「六万が、何か?」
「ご存じないかも知れませんが、先日、彼は人間の若い男性を助けてくれたのですよ」
「ああ…」
驚愕も、落胆もその顔には浮かばないまま。むしろ、るりかにこそ興味を示すように、目を細め、続きを促す。
恐らく、知っていたのだろう。
そして恐らく、解っているのだろう。るりかが何故、この話を切り出したのかも。
「――ずっと気になっています。彼は望んで使徒となる道を選んだでしょうか?」
「…ほう」
「あの人のことを、教えてくれませんか。…あの人は、答えてくれそうにないので」
挟み込んだ私情に、気まずさを覚えないでもなかった。
少し離れた場所から、クレールも興味深げに此方を見ている。ミロスファと同じ笑みで。
出歯亀感、満載。
横たわった沈黙に、帰ろうかなぁ、とるりかの心が折れそうになった頃に。
「…そうですね。では、少しだけ」
と、ミロスファが口を開いた。
そうして、一人の男が使徒になるまでの物語が、語られたが…それはまた、別の機会に記される事となる。
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――やはり、悪魔は見当たらない。
刻一刻と、時間だけが過ぎていく。討伐の手をゆるめていた他の地点でも烏の討伐は果たされようとしている中、撃退士達の焦りも刻々と募っていた。悪魔一人で現状を打開して逃げるのは難しく、彼女を罠に掛けようと仕掛けているのは他ならぬ天使達だ。悪魔が動いた、その後の手を考えていないとは思えない。
そうして、忍術「響鳴鼠」を使い終えた楓は苦い顔をしていた。念の為にと家々の中を見ながら進むが――もぬけの空だ。
「…うーむ。む、む。避難は終わってる、のね…うーん」
「楓さん、何か手がかりは…?」
楓の姿を見かけて、雫が寄ってきた。楓は少女の目に自分が抱くものと同じものを見て、つい視線を逸らした。
「……何も」
「…そうですか」
もし、発見が叶ったら。悪魔が持っていると思われる情報が今後に活かせた筈だ。悪魔自身の身も、学園で保護することが出来たかもしれない。
どこから間違ってしまったのかすら、解らない。ただ…全ては仮定のままに、終わってしまう。
メンナクからも、更紗からも発見の報は無い。無いままに、時間は流れ――そして、声を聞いた。
『ミロスファが、消えました』
るりかの声色で告げられたそれは。
『――悪魔が、網に掛かったと』
終焉を告げていた。
●
忽然と、というに相応しい。翼を広げた大天使は突如として夜天に現れた。
るりかの呼びかけに空を見上げていた撃退士達は、その姿を目にする。
烏の多くが死に絶え、月の光がその背へと深々と降り注ぐ。大天使の両の手には、煌々と輝く白光。
――その手が、振り下ろされた。
瞬後。二条の光の槍が、山中、そして地中深くに打ち込まれた。
怨、と。彼方まで、音が響く。
収束した光、その先に何があったかは――解らない。
…悲鳴は、聞こえなかった。
●
その光を前に、撃退士達は何を思ったか。
更紗は「機を逃した」と、歯噛みしたことだろう。
クレールは、面白みがなくなったと嘆息しているだろう。
雫は、失われた未来を思っただろう。
るりかは、恐らく安堵を抱いた筈だ。
楓は、結果が出た以上は何も思わなかったかもしれない。ありのままに、受け入れて、それで終わり。
メンナクは――やはり、憎悪に満ちた眼差しで。
『お騒がせしました』
市内に響く声の主を強く、睨みつけていた。
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「お騒がせしました」
市内に届くように魔力を載せて言った後…ミロスファは興味深げに見下ろした。
「…なるほど。存外に、聡く、周到だ。六万が仕留め切れなかったのも無理はない」
声には疲労が満ちている。転移、あるいは、悪魔に放った魔術故、だろう。
「此処で仕留められたら良かったのですが…まぁ、良い」
大天使である彼にできるのは、残る後始末を使徒がより達成しやすいように場を整える事だけだ。
――あとは頼みましたよ、六万。
夜闇に落ちた声を拾うものは居らず…この物語もまだ、終わらない。
ただ。最後の一夜は――濃厚な血の香りと共に、幕を開ける事となる。